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これでも青春だ! 知らんけど ~前編~

「これでも青春だ! 知らんけど」  ~前編~

                     

                      右京之介


竜巻高校の校長・教頭室。

草野校長が幅百八十センチもあるダークブラウンの高級机に踏ん反り返って座っている。腕を組んで天井を見上げているが、その目は閉じられていて、眠っているのか、考え事をしているのか分からない。小柄な校長には似つかわしくない大型の机である。

遠くから見ると、頭だけが見えていて、机の上に何かのマスコットが乗せてあるようだ。校長は威厳を見せつけたいのか、似合わない口髭を生やしている。机の裏にあるボタンを押すと、黒ひげ危機一発のように、頭だけがすっ飛んで行きそうだ。

大型机はわざわざ校長のための特注品で、オーク材で作られたという両袖デスクである。両袖にはキャスターが付いた高さ六十センチほどの四角いワゴンが収納されていて、ワゴンを含めた机の値段は六十万円を越えていた。

 超豪華な草野校長の机の隣には、森教頭の机が並んでいる。

校長と教頭の格差を見せつけるようなみすぼらしい机だ。それもそのはず。生徒が使ってる物と同じ五千円ほどのスチール机である。あまりの落差に、机を新調してもらおうと、森教頭は学校に予算の申請をするのだが、他にお金をかける所があるからと校長に反対されて、毎回鼻歌交じりで稟議書をシュレッダーにかけられている。教頭は校長のうれしそうな鼻歌を聞くたびに殺意を抱いていた。

しかし、予算がないのも事実だ。そもそも、この学校自体が貧乏で、校長室と教頭室が兼用なのも予算がないからであり、二人専用の部屋があるだけでも、ありがたいと思わなくてはいけない。他の先生たちはみんなで一つの古い職員室を使っているからだ。

 それにしても、校長と教頭の机の格差は大きすぎる。他の教師や、ときどきやって来る生徒やPTA関係者にも示しがつかない。豪華な部屋には似つかわしくないスチール机を見られるたびに、森教頭は恥ずかしい思いをしていた。

ならば、自費で高級机を買えば、誰も文句を言わないだろうと、森教頭は冬のボーナスを全額注ぎ込んで、幅二百センチの天然のナラを使った一枚板の高級机を特注した。

校長の机が幅百八十センチだったから、こっちは幅二百センチだ。

校長と違って大柄な教頭にピッタリの大型机だと、ほくそ笑んでいたのだが、あまりにも大きすぎて、校長・教頭室の入口のドアが通れず、仕方なく断念した。注文する前に入口を計測するのを忘れていたのだ。

結局、レンタカー会社から借りてきた軽トラに乗せて、家に持ち帰ったのだが、やはり家のドアからも窓からも中に入れることができず、泣く泣く諦めた教頭は斧とノコギリを使って、親のカタキのように特注高級机を庭先でバラバラに解体して、真夏だというのに汗だくになって焚火をし、苦い思い出を焼却した。

森教頭の黒歴史であった。


 ノックの音がした。

「まいど! ウマイ寿司です!」角刈りの男性が顔をのぞかせた。

「おお、もうこんな時間か!」寝ていたのか、瞑想をしていたのか分からない校長は、学校の近所にある寿司屋の出前の声で我に返った。お昼時間である。

「あーあ、よっこいしょ!」立ち上がって、伸びをする。

小柄な校長は伸びをしても小さい。伸びではなく縮みである。

「失礼します!」

 出前に来た寿司屋の大将は勝手知ったる校長・教頭室にズカズカと入って来た。何度も昼食の出前をしているため、豪華な部屋といえども、気押されることはなく、毛先の長い絨毯にも慣れたもので、遠慮なく白い長靴でフカフカと踏みつけて行く。

そして、いつも食事をするための大きなテーブルの上に岡持ちをドカッと置いた。

「特上寿司はどちらでしょうか?」二人の顔を見る。

「はい。私です!」教頭が手を挙げて、うれしそうな顔で歩み寄る。

「では、梅寿司は校長先生ですね」

「ああ。もう一人はワシしかおらんからな」不機嫌そうに校長もやって来る。

 テーブルの上に大きな特上寿司と小さな梅寿司が置かれた。

「教頭先生、キミは特上寿司かね?」

 二つの寿司を見下ろしながら校長が訊く。

「校長も特上寿司ではなかったのですか?」

「ワシは特上なんぞ、頼んだことはないぞ」

「はあ、そうでしたか。それは気づきませんでしたねえ」教頭はとぼける。

「なんで、教頭が特上寿司で、校長のワシは松竹梅の一番下の梅寿司なんだね」校長は陰険でしつこい。

「それは校長が頼まれたからでしょう」教頭はさらっと答える。

「キミはワシが梅の寿司を頼んだのを聞いて、わざと特上を頼んだのではないのかね?」

「いえ。そんなことはしませんよ」と言いつつ、教頭はヤバい、バレたかと思った。

だが、断じて認めるわけにはいかない。

「なぜ、そんなことをする必要があるのですか?」と、わざとらしく校長に訊きながらも、教頭の頭の中では高級机のリベンジに決まってるじゃないですかと叫んでいた。

 教頭と校長では収入が違う。しかし、独身の教頭は自由になるお金がたくさんあった。一方、校長の一か月の小遣いは二万九千八百円である。なぜ、そんな売れ残ったバーゲン品のような中途半端な値段設定がなされているのか、教頭にも分からなかった。その理由を訊くこともしなかった。あえて校長の家庭の闇に踏み込む勇気がなかったし、興味もなかったからである。

「キミの特上寿司にウニは入っているのかね?」校長がヨダレを垂らしそうな口で訊いてくる。

「どうでしょうね。待ってください。フタを開けてみますから」

「ふん。フタね……」校長は吐き捨てるように言う。

 それもそのはず。梅寿司は上からラップがかけてあるだけなので、中身は丸見えなのである。そして、そこに高級ネタであるウニは入ってない。一方、特上寿司は寿司桶に入っていて、ちゃんとフタも付いている。

フタを開けてみると、ウニの軍艦巻きが二つも入っていた。

「あっ、入ってますね」

「キミはそれを二つとも食べるのかね?」

「もちろんです。ウニは大好物ですからねえ」

「他にも、大トロやイクラなどがあるだろう。中年以降は体のことを考えて、腹八分目の方がいいのではないかね?」

「いいえ。出されたものは残さず食べる主義ですから」

「たかが、昼食の寿司に主義主張を持ち込まなくてもいいだろう」

 ウニを分けてもらえなくて、僻む校長先生。

だが、寿司桶から目を離さない。

「おお、教頭先生。アワビも入っとるようだね」

「アワビも大好物で、特別に入れてもらったのですよ」

「何! キミは寿司にオプションまで付けたのかね?」

「はい。アワビだけではありません」教頭が寿司桶の中を指差す。「これがノドグロで……」

「何! ノドグロ!?」「これがクエで……」「クエ!?」「これはホシガレイです」「何! あの幻のカレイであるホシガレイかね!」

校長は声を裏返らせて驚く。

「はい」教頭は勝ち誇ったように、校長に笑顔を向けた。

 ホシガレイなんぞ、生まれて五十九年間、食べたこともないぞ。

 心中悔しがる校長だが、ここで表情に出してはこちらの負けだ。なるべく平静を装ってテーブルにつく。一方、勝利を確信した教頭はニヤニヤした顔を見られないようにして席につく。

「さあ、寿司を食べようじゃないか」

 校長はおもむろにカバンから箸を取り出した。桐箱に入っている高級夫婦箸である。値段は二万円を越えるらしい。つまり、一膳は一万円を越える。一本では五千円を越える計算だ。なぜ、夫婦箸の一つをわざわざ学校に持って来ているのかというと、独身の教頭に対する嫌がらせである。

彼女の一人もいない教頭は、高級夫婦箸を横目で見ながら、これまた高級箸をカバンから取り出した。校長の夫婦箸に対抗して買った輪島塗の高級箸、しかも名前入りである。値段は三万円を越える。当然、校長の二万円を上回る三万円のものを買ったのだ。

なぜ自分の名前が彫ってあるかというと、校長に盗まれないためである。もちろん、校長に盗み癖はないが、間違っても盗まないようにと、あえて警告を発しているのである。これも嫌がらせの一貫である。

お互いに嫌がらせを仕掛けているが、お互いに気づかないフリをしているのである。高度な心理戦とも言えるが、いい年した大人とは思えない幼稚な戦いである。

寿司に高級箸を伸ばそうとした校長は、ふと視線を感じて、入り口のドアを見た。

寿司屋の大将がまだ立っていた。

「キミはそこで何をしとるんだね?」校長が箸で大将を指す。

「ああ、あのう。教頭先生、寿司桶は廊下に出しておいてもらえば、夕方にでも取りに来ますから。それと、校長先生は発泡スチロールのトレイですから、そのままゴミ箱に捨てておいてください」

「そんなことは分かっておるわ。用事が済んだら、さっさと帰ってくれ」

「へい、分かりました。校長先生、次は特上でお願いしますよ」

「うるさいわ!」

 二人の先生は黙々と出前の寿司を食べ始めた。

「その大トロはうまそうだね」校長が教頭の寿司桶を覗き込む。

「そりゃ、もう。うまいです」と言いながら、校長にはあげない。「校長のかっぱ巻きもおいしそうじゃないですか」トレイに乗ったかっぱ巻きを指差す。

「ああ、きゅうりが新鮮だ」

「きゅうりの九十五%以上は水分らしいですね」 

まるで水を喰ってるようだと言いたいのか? 

トロと違って、栄養が少ないと言いたいのか? 

 教頭が挑発して来るが、校長はグッと我慢して、かっぱ巻きを二貫同時に口の中へと放り込み、恨みを込めて、ポリポリと部屋中に咀嚼音をまき散らす。教頭を見るが何事もなかったかのようにボタン海老を口に運んでいるが、海老ゆえに、当然ポリポリ音はしない。

校長は海老の尻尾まで完全完食する大柄な教頭を見て思う。

二人の間にはかなりの身長差があるというのに、なぜ座高が同じなのか? 教頭が立ち上がったら、こちらからは見上げて話すというのに、座ってみると目線の高さが同じだ。足が短いのか、座高が高すぎるのか、校長はかっぱ巻きを口に含んだまま、笑いそうになる。

そう言えば、身体検査で座高測定がなくなったのはいつ頃だったか。たしか、二〇一四年だったか。あのまま座高測定があれば、教頭は身体検査のたびに恥をかきつづけたのだが、残念なことだ。

座高測定を復活するように学内で署名活動を始めようか? 

始めたとして、集まった署名は教育委員会に提出すべきなのか、それとも厚生労働省に提出すべきなのか。

校長はそんなことを考えながら、黙々と食事を続ける。 

一方、教頭は寿司桶に顔を突っ込むようにして、高級寿司をむさぼり喰っている。

そして、教頭はふと顔を上げた。天井近くには歴代校長の写真や肖像画がずらりと並んで飾られていて、ちょうど食事中の二人を見下ろすような形になっている。

一番新しい写真は、目の前で安物の梅寿司を食べている草野校長のものだ。小さな体を大きく見せたいのか、無理に胸を張っている。本人はこの写真がお気に入りのようだが、教頭は見るたびに吹き出しそうになる。胸を張るのに力を入れすぎたせいか、口がへの字に曲がっているからである。

それに、あの口髭はなんだ。まったく似合ってない。威厳の備わった顔に見せたいのか分からないが、最初に見たときは、ドン・キホーテのパーティグッズコーナーで買って来た、付けヒゲかと思ったものだ。まさか、本物のヒゲだったとは……。

そういえば、あの付けヒゲグッズには丸眼鏡と付け鼻も付いておったな。いや、おもしろいわ。

教頭は近い将来、あの隣に自分の写真が飾られることを夢見ている。写真を撮るときには、ちゃんと顔を洗って、ヒゲも剃り、あの校長のように気取ることなく、自然体で望もうと思っている。平常心は大切な心構えだ。カメラのレンズに怖気づいてはいけない。しかしあんなに口を曲げるとみっともない。口角を上げるようにすれば、微笑んでいるように見えて、感じもよくなるというのに。

教頭はそう思いながら、何度か、口角を上げる練習をしてみる。

――うむ。

物を食べながら、口角を上げるものではないな。

そう悟ると、通常の口元に戻して、残りの寿司を食べだした。

校長はそんな教頭を盗み見しながら思った。

慣れない高級寿司なんか食べるものだから、口からご飯粒がポロポロこぼれ落ちとるわ。こんな奴が次期校長とは呆れ返る。体がデカいだけが取り柄の教頭だが、年齢順からすると、奴になってしまう。困ったものだ。どこか他に適任者はいないものか。

この後、校長・教頭室内には咀嚼音が響くだけで、何の会話もなく、昼食は終わった。

教頭は寿司桶を丁寧に洗って、廊下に出し、校長は発泡スチロールのトレイをゴミ箱に投げ入れた。いつも投げ入れているので、それはうまく入った。

校長はいつか特上寿司を頼もうと心に決めていた。もちろん、オプションはてんこ盛りだ。

頭の中でアワビ、ノドグロ、クエ、ホシガレイが竜宮城のように舞い踊る。あー、こりゃこりゃ。


 見た目だけは仲良く一つのテーブルで食事を終えた二人は、それぞれの席に戻って、食後のお茶をすすり出した。校長が使っている湯呑は高級桐箱に入っていた夫婦湯呑である。セットで三万円を越える高級湯呑だ。なぜ夫婦湯呑の一つを学校に持って来ているのかというと、これも箸に続いて、独身の教頭に対する当てつけである。

一方、教頭の湯呑は回転寿司でもらった景品の湯呑である。寿司屋でよく見かける、魚の漢字がたくさん書いてあるものだ。ふりがなも振ってあるので漢字の勉強になる。お陰で、魚偏の漢字には滅法強くなった。おそらく五百円くらいの物だろう。

高級湯呑であろうと、景品の湯呑であろうと、中のお茶は同じだ。味に違いはない。寿司の場合は、木製桶と発泡スチールトレイの差があり、中のネタも違うのだから、お茶とは価値が違うのである。嫌がらせで夫婦湯呑を見せつけられているが、寿司とお茶の差を考えると、教頭の顔にまた笑みがこぼれるのであった。

 寿司とお茶の組み合わせは最高だと教頭は思う。やはり日本人は寿司とお茶だ。それに、あの店は屋号がウマイ寿司というだけあって、本当にうまい寿司を食べさせてくれる。明日も奮発して特上寿司にするかな。小遣いが少ない校長と違って、使えるお金はまだ十分にあるからなと考えたところで、校長が話しかけてきた。

「教頭先生、二宮金次郎像をどうするかね?」


 竜巻高校における最近の懸念材料は二宮金次郎であった。長らく校庭の隅に置かれている二宮金次郎像を撤去しようという話が父兄の間から上がっていたのだ。

理由は、あの像を見ると“歩きスマホ”を連想し、子供たちがマネをするから危険というものだった。

「あの像を見て、“歩きスマホ”を連想するかね?」校長が訊いてくる。

「しかし、父兄からの突き上げが激しいです」教頭は親からの要望を伝える。

「ちゃんと説明すればいいではないか。あれは歩きスマホを奨励しているものではないから、生徒のみんなは勘違いしちゃいかん。あの時代、歩きはあってもスマホはないと言って聞かせればいい」

「父兄は撤去しろと言って来てます」

「それは乱暴すぎる。撤去するにも何十万と金がかかるだろう。取っ払った跡に、木を植えたりする整備も必要だろうし」

「若い教師の中には二宮金次郎を知らない連中もおりまして、価値が分からんようです」

「そんなもの、ウィキペディアで調べさせればよい。ほんの数分のことだろう」

「最近では座った二宮金次郎も作られてますが」

「無理だ。撤去する金もないのだから、新たに像を買う金なんかない」校長はきっぱりと断言する。「そもそも、あの姿が歩きスマホを連想するというがな、うちは小学校ではない。れっきとした高校だ。そんなことは人に言われなくても分かりそうなものだ。確かにうちの高校のレベルは低いが、小学生とドッコイドッコイではなかろう。少しくらい、うちの生徒の方が勝っとるわ」

「では、二宮金次郎像はそのまま残すということで話を進めますか?」

「キミはいったい、ワシの味方か父兄の味方なのか、いったいどっちだね?」

「いや、そういう問題ではなくてですねえ。撤去という意見の方が多いものですから」

「キミねえ……」

 そのとき、入口付近から声がした。

「やっぱり撤去しないで残した方がいいんじゃないですかね。二宮さんは立派なお方ですからね」

「おい、ウマイ寿司の大将! なんで、まだそこにいるんだ?」

「寿司桶の回収に来まして」

「夕方じゃなかったのか?」

「いや、ちょっと近所を通りかかったもので」

「夕方の下校時間になる前に、うちのかわいい女子生徒を見物しに来たのだろう」

「いえ、滅相もない!」大将は両手をこちらに向けて否定する。

「滅相もないというのは、うちの女子生徒がかわいくないという意味かね? うちは不細工な女子の巣窟だと言うのかね?」

「いえいえ、何を言うのですか、校長先生。それよりも二宮金次郎像ですよ」

「おお、そうだったな。大将の意見を聞かせてもらおうかな」

 校長と教頭はそれぞれの机に座ったまま、目の前で寿司桶を脇に抱えて立っている大将の話を聞くことにした。

「二宮さんですけど、私が思うに……」

「待て待て」校長が止める。「二宮さんなどと、馴れ馴れしく話しておるが、キミは二宮金次郎と面識があるのかね?」

「とんでもないです! 江戸時代の人ですよ」

「特別な利害関係はないという認識でいいかね?」

「へえ、もちろんです。二宮さんからは、びた一文いただいておりません。――その二宮さんですが、元は農民だったのですが、幼い頃に両親を亡くしまして、持っていた田畑も洪水で流されて、苦労したわけですな。しかし、学問に励んで、家を再興して、地主になったのですな。その後、小田原藩の服部家を再建して、小田原城主から表彰されて、さらに、六百くらいの農村を再建したのですな。あの像は寸暇を惜しんで学問をしておる姿を表しておるのですな」

「ほう、大将はやけに詳しいじゃないですか」教頭が感心する。

「小学生の夏休みの自由研究で調べたことがありまして、いまだに覚えておるのですよ」

「大将!」校長が立ち上がる。「二宮金次郎研究の第一人者を見込んで、ワシからお願いがある。今の話を今度の父兄会でしてくれるかね。二宮金次郎が、いかに現代の教育に必要で、あの像が生徒にとって必要不可欠なものだと、一つ演説をぶちかましてくれるかね」

「ちょっと、何を言い出すのですか。人前でなんか、話せませんよ」

「いつも店の若いもんに、寿司の握り方なんかを話しておるだろう」

「話すといっても少しの時間だけですよ。あまり長いとネタも干からびてしまいますから」

「では、ネタが干からびない十分間くらいでどうだ?」

「ですが、父兄会と違って、うちの職人は三人しかいませんよ」

「三人も三千人も変わらんだろ」

「三千人!? こちらの生徒さんは全部で千人ほどじゃないですか。なんで父兄会に三千人も押し寄せて来るのですか。別れた夫とか、出て行った妻とか、不倫相手なんかも呼んでるのですか?」

「三千人の中に生徒も入っておるのだよ。生徒が千人、父親が千人、母親が千人、合計三千人だ」

「しかし、忙しい方もいるでしょうから、全員が出席されることはないでしょう。いくらなんでも三千人なんて」大将はピクピク動く校長の口ヒゲを見つめる。

「足りない分はワシら教職員で埋めるし、学食や売店のおばちゃん、用務員のおっちゃんも総動員して、必ずや出席者数を三千人にしてみせる。どうしても来ないようなら、参加者には紅白饅頭を差し上げるとでも言えば来るだろう。日本人は饅頭に目がないからな。――だから頼むわ、大将。なんとか二宮金次郎像を守ってくれ」

「何で、めでたくもないのに紅白饅頭なんですか。いきなりの大役じゃないですか。教頭先生、何とか言ってくださいよ」すがるように教頭を見る。

「私は父兄の意見に従おうと思ってます」教頭はクールに答える。「今のところは撤去という意見が多数を占めてますが、大将の頑張りしだいで、撤去という意見が撤去されるかもしれません」

だが、教頭はできれば父兄と校長の間で揉めてほしいと願っている。校長を蹴落として、後釜に座ろうという魂胆だ。

校長・教頭室に飾る写真はどんなポーズで決めようかなあ。

「校長先生も教頭先生もムチャ振りはやめてくださいよ。私の責任で撤去という意見が撤去という状況が撤去されたらどうするのですか?」

教頭にまで見離された大将は、今にも泣きそうだ。

「ムチャ振りとはどういう意味かね?」校長が真面目に訊く。

「強引にお願いをするという意味の若者言葉でして……」

「ほう、大将はそのように難解な若者言葉まで習得しておるのかね。それは頼もしい。きっと若い生徒たちの心も打つに違いない。全国の二宮金次郎像の存亡は、たった一人の寿司屋の大将にかかっておる。――では、頼みましたぞ!」

“ムチャ振り” なんて言葉は誰でも知ってるだろうと大将は思ったが、二人に睨みつけられて、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。脇に挟んでいる寿司桶はすっかり脇汗にまみれ、足もガタガタ震えてくる。

とりあえず店に戻って、じっくり考えることにしよう。

「その父兄会ですが、いつ頃開催されますか?」

「明日だ。時間は午後二時。ちょうど店の休憩時間でよかったな」

「――明日!? 時間がないじゃないですか」

 大将はしょんぼりと帰って行く。背中が寿司桶よりも小さく見える。

その背中に校長が声をかけた。

「大将! こういうときのためにキミの店から、いつも出前を頼んでいたのだよ」

 大将は無理なこじつけだと思ったので、返事もしないでドアを閉めて出て行った。

ふん、一番安い梅寿司のくせに……。


 校長・教頭室に静寂が戻った。

「校長。像に関して、もう一つ懸念があります」教頭が困った顔をする。「生徒の間で語られている学校の怪談なのですが、夜中に二宮金次郎像が校庭を走ってるというウワサがあるのですよ」

「ほう。たくさんの薪をかついだまま走れるとは、日頃から相当足腰を鍛えておるのう」

「いや、そうではなく、銅像が走るのが変だと申しておるのです」

「おお、そっちか。――考えてみれば怖いな。よしっ、オカルト事は用務員さんに頼もう。あの人の顔はどう見てもオカルトだからな。走ってる銅像に出会っても、仲間同士で話も弾むだろう」


木造平屋建ての用務員室に一人の生徒がやって来た。入り口で立ったまま、ノックをしようかどうか迷ってるらしい。すりガラスを通して、制服姿が見える。そして、坊主頭だ。

「鍵は開いてるから、入って来ていいよ」

 岡戸用務員のしわがれた声が聞こえた。

「失礼します!」横引きの戸がガラガラ開いて、男子生徒が顔をのぞかせた。

「おお、その坊主頭は生徒会副会長の金森君じゃないか」迫力のある顔で言った。

「はい、そうです!」

「体育会系のクラブに入ってないのに坊主にしているのは、全校生徒でキミだけだな」

「ええ、まあ。この方が洗うのも乾かすのも楽ですし、リンスも不要ですから」

「――で、私に何の用だね?」

「校長先生から手紙を預かって来ました」ポケットから手紙を差し出す。

メールを送ればいいのだが、校長はそういった類のものが苦手で、いまだに要件を手紙で伝えてくる。しかも、かなりの達筆だ。達筆を見せたくて手紙を書いているのかもしれない。

手紙を受け取った用務員の岡戸は、苗字も“オカルト”に似ているのだが、オカルトっぽい不気味な人物ではなく、校長が言ったようなオカルトっぽい顔をしているわけでもない。背が低くて、体はがっちりしているのだが、目と鼻と口と耳、それぞれのパーツが大きく、迫力のある顔をしているだけである。それと、背中まで届く白髪を後ろで結んでいるだけである。特異と言えば特異だが、これくらいの風貌でオカルト呼ばわりされたら、かわいそうだとも言える。

このタイプの年配者ならときどき街を歩いているし、香港映画ではカンフーの達人として登場してくる。会社を定年退職して、この学校に用務員として再就職したらしいが、その迫力ある顔から警備員も兼任しているのである。

ここに赴任して五年ほど経つ。つまり、年齢は六十代の半ばだ。最近は物騒であり、学校内での事件も全国で少なからず起きている。もし、校内に入り込もうとしている不届き者が、岡戸と顔を合わせたら、たちまち逃げて行くだろう。そんな顔である。もちろん本人に悪気はない。性格はとても優しいのだが、生まれつき、そんな顔なのである。わざと怖い顔に整形したわけではない。

警備員も兼ねているためか、用務員室にはヘルメットや警棒、盾、網、刺股、ロープなどが常備されていて、壁には吹き矢や弓矢まで掛けてある。悪者には容赦ない。

金森が手紙を持って用務員室に来るのは五回目である。

最初に入ったときは驚いた。秘密の武器庫みたいだったからだ。刺股なんか、どうやって手に入れたのだろうと思って訊いてみると、ネットで買ったと言われた。後で調べてみたら本当に売っていた。だが、さすがに買わなかった。使い道がなかったからである。

「吹き矢と弓矢が置いてありますけど、こんな都会のど真ん中に、イノシシとかクマとかサルが出没するのですか?」金森は岡戸さんに訊いてみた。

「誰かがペットとして飼っていて、逃げ出すかもしれん」岡戸は待ってましたとばかりに話し出す。「何らかの動物が校内に入り込んだときのために、置いてあるのだよ。以前、横浜で大きなヘビが逃げ出しただろう。備えあれば憂いなしだよ」

「でも、吹き矢を使って麻酔薬とかを飛ばせませんよね?」

「それは獣医さんとかの仕事だろうな。資格がいるのではないかな。私はせいぜい、吹き矢を見せて、獣たちをビビらせるくらいだね」

「見て、ビビりますか?」

「ビビるんじゃないかね。尻尾を巻いて逃げ出すぞ」

「大きなヘビもですか?」

「そうさ。あいつは頭以外、みんな尻尾だからね」

 だったらヘビの胴体はないのか? と思ったが黙っていた。

金森は何かと忙しい。他にも手紙を預かっていたからだ。

「金森君は校長先生のメッセンジャーボーイかい? 生徒会副会長とはいえ、手紙の配達まで引き受けなくてもいいのではないか?」  

岡戸がいかつい顔で訊いて来た。

「でも、一通運ぶと五十円もらえるんです。昨日は十通運んだので五百円になりました」

「――何! 五百円とな!」岡戸は大きな目をひんむいて驚く。

土日祝日は休みだから、一ヶ月を二十日として、一日五百円×二十日で、月に一万円か。

塵も積もれば山となるとはこのことだな。

岡戸がいかつい顔を近づけて来て、耳元で囁く。

「金森君は受験勉強が忙しいだろうし、生徒会活動もあるだろう。私が校長の手紙の配達を半分手伝ってあげようか? ――どうだい?」

「いいえ」金森は半歩離れて答える。「僕はまだ二年生ですから大丈夫です。生徒会もそんなに忙しくありませんから」

 岡戸は諦めずに、また半歩近づいて来て、耳元で囁く。

「二年生からしっかり勉強をしておかないと、将来、私のようになってしまうよ」

 金森はそれを聞いて、一応愛想笑いをしたが、岡戸が一流大学を出て、一流企業で働いていたことを知っている。おそらく全校生徒が知っているのだが、岡戸本人だけはバレてないと思ってるようだ。知らぬが仏だ。だが、なぜ定年後に高校の用務員をしているのかは分からない。クラスメートによれば、上級国民が下級国民の気分を味わいたくて、身を粉にして働いているのではないかということだ。――案外当たってるのかもしれない。

「いいえ、一人でがんばって配達します!」金森はきっぱりと宣言した。

そうか。取り逃がした魚は大きいな。

 諦めたのか、岡戸は校長からの手紙を広げた。


“用務員岡戸殿へ。今日から十日間、午後十一時から翌日の午前二時まで、校庭を見回り、走っている二宮金次郎を見つけたら、生きたまま捕獲することを命ず。――校長草野より”


「はあ?」岡戸は何が書いてあるのかさえ理解できない。「金森君。うちの学校に二宮金次郎という名前の生徒はいるかい?」

「いいえ。銅像なら建ってますが」

「そうだろうね」

「どうしたのですか?」金森が手紙を覗き込んでくる。

「草野校長が二宮君を捕まえろと言っている。これはどういう意味だろうな」

 金森はしばらく考えていたが、ハッとして岡戸に向き合った。

「岡戸さん、うちの高校の七不思議の一つなんですけど、夜中になると、二宮金次郎像が校庭を走ってるという言い伝えがあります」

「ああ、それか。その奇妙な言い伝えの真偽を明らかにせよということか。奇妙な私に奇妙な仕事を押し付けてくるなあ」岡戸は自分が奇妙な存在だと自覚している。「今、七不思議と言ったが、それは用務員の私も聞いたことがないねえ。残りの六不思議とは何だい?」

「聞きたいですか?」

「怖いもの見たさということで聞かせてくれるかい」

「では、覚悟して聞いてください。怖いですよ。――まず、うちの高校にはサッカー部がありません」

「確かにな。――それが七不思議かね」

「はい。怖いでしょう」

「まあ、不思議と言えば不思議だが」

「次に音楽室のピアノが勝手に鳴るそうです。同じく飾ってある肖像画の目玉が動くそうです」

「ベートーベンとかバッハだね」

「はい。それとプールで泳いでいたら足を引っ張られるそうです。最後に、校内にあるどこかの木が女性に変わるそうです。木娘と呼ばれてます。――以上です」

「木娘? 校内の樹木はすべて私が世話をしておるぞ。あの中に木娘がいるのかね」

「どの木かは分かってないみたいですが」

「しかし、金森君は今、五つしか言ってないから、二宮君と合わせて六つだぞ」

「そうです。七つを全部人に言うと、言った側も聞いた側も呪われるのですよ」

「そりゃ、怖いわ。金森君も呪われなくて済んだということか。いや良かった。――しかし、問題は校長の頼みをどうするかだね。私が警備員も兼ねてるとはいえ、こんな用事まで聞いてられないから、断るとしようか。年寄りは夜中の二時まで起きてられないからね」

 明日にでも校長に断りの返事をしようと思って、もう一度手紙を見たところ、

“追記。一日につき三千円の特別手当を支給する”と最後に書いてあった。

――何! 十日間で三万円じゃないか!

 金森君の手紙の配達の手伝いをしなくてよかった。

 一通運んで五十円とはショボすぎる。

こっちの方が断然儲かる。

――よしっ、やろう!

「岡戸さん、やっぱり断りますよね」金森君は言うが、この追記に金森君は気づいてない。

岡戸は見られないように、そっと手紙を半分に折って、さらに半部に折り、ズボンのポケットに突っ込んだ。

「いや、金森君。私はやるぞ! この学校の安全を守るのは私の仕事なのだよ。たとえ夜中であろうと、たとえ相手がお化けであろうと、木娘であろうと、目玉グルグルのベートーベンであろうと、躊躇なく立ち向かって行く。決して引き下がらない。決して背中を見せない。それが男というものじゃないか!」

「岡戸さん、カッコイイ!」パチパチパチ。

金森君から拍手をもらった岡戸はうれしくて仕方がない。いかつい顔もほころぶというものだ。なんといっても十日で三万円だ。 

岡戸は傘立てに立ててあった虫取り網を手に取った。

「これで捕獲することにしよう! 私は竜巻高校のゴーストバスターズだ! どうだい、金森君も我がゴーストバスターズに加入しないかね? 私一人なのに複数形の“ズ”が付くのはおかしいだろう」

「いえ、間にあってますので、失礼します」金森は逃げるように帰って行く。

「今後、ノックは無用だから、遠慮なく入って来ていいよ。――ご苦労さん」

岡戸は去って行く金森の背中にやさしく声をかけた。

その後、白髪のポニーテールを揺らしながら、虫取り網をビュンビュン振り回して、腕が疲れるまで、二宮金次郎を捕獲する練習をした。

たとえどんな事柄であっても、練習は裏切らないからね。


 体育教師の中村は雷電高校から竜巻高校へと転校になった。理由は雷電高校の理事長と気が合わなかったからだ。教師はおろか、校長先生まで下に見るような理事長の態度に我慢がならず、ある日、面と向かって、彼の乱暴な言葉遣いや下品なしぐさ、乱れまくっている生活態度に至るまで、さんざん文句を言ったところ、予想通り、強烈な怒りを買い、同じ系列の竜巻高校に異動することになったのである。早い話が飛ばされたのである。

と言っても、まったく後悔はしていない。クビになったわけではないし、何よりも何人もの教師仲間から、よく言ってくれたと、逆に感謝されたからである。校長先生に至っては、中村が理事長をやり込めたことで、よほど清々したのか、餞別に五万円も包んでくれた。教師たちから集めたお金ではなく、長年、家族に内緒で貯めていた個人的なヘソクリらしい。

そこまで教師やPTAなどの学校中の関係者が理事長の態度を腹に据えかねていたのだが、中村が代表して苦言を呈する形になったのである。

――これで理事長が少しでも反省してくれればと思う。

 しかし、一人の体育教師に過ぎない中村を他校に飛ばすことくらい、理事長にとっては簡単なことであった。中村の捨て身とも言える勇気ある行動は転校という犠牲を伴っていた。

 しかし中村は腐ることなく、仲間の教師や校長先生から受け取った熱い思いを胸に抱いて、竜巻高校へ赴任することにした。教える科目は同じ保健体育なのだから、何ら不安はない。ここで文句を言ったり、落ち込んだりしたら、こっちの負けだ。

パワハラだとして、訴えることもできただろう。だが、いつか理事長を見返す機会が訪れるはずだ。そのときを信じて、燃え上がる闘志は胸の奥深くに仕舞っておこうと思った。

自宅のアパートから学校までは少し遠くなるが、あの理事長の顔を見なくても済むのだから、大したことではない。

今日はいつもより三十分早く目覚ましをセットしていたが、それよりもさらに三十分早く目が覚めた。初日から遅刻をするわけにはいかない。何事もけじめが大切である。簡単に朝食を済ませた。生徒には朝食を摂る必要性を説いているのに、自分が抜くわけにはいかない。プロテインも忘れずに飲んだ。スーツに着替えを済ませて、スリックタイヤに変えた通勤仕様のマウンテンバイクにまたがった。ちゃんとしたスーツは今日だけだ。何事も最初が肝心だ。明日からは体育教師らしく、ジャージの上下で登校する予定だ。

竜巻高校への長い通学路をひた走る。途中で自転車通学の生徒を何人か追い抜く。

こんなに早い時間だ。おそらく体育系の部活の朝練に向かうに違いない。野球部か? バスケ部か? 卓球部か? 

だとすると、何をタラタラと走っているのか!

何部でもかまわんが、それではトレーニングにならないではない!

体育会系クラブに属している生徒は学校に行く途中も、当然トレーニングだ。朝練へ行く途中から、練習はすでに始まっているのだ。貴重な時間を無駄にしてどうする。

目の前を一人の男子高生が自転車で走っていた。俺は愛車のマウンテンバイクをすぐ横に付けて、並走した。

「そこの学生! もっと力を入れてペダルを漕がんかー!」 

 男子は大きな声に驚いて急ブレーキをかけた。

「いいか! 俺は中村だ!」

 彼の表情は固まっていたが、放っておいて先を急ぐ。さらに前を、女子生徒が赤い自転車で走っていたからだ。前かごにラケットを入れている。テニス部のようだ。

「そこの女子! ダラダラ走るんじゃない! 俺を、この中村を見習って走るんだ!」

 いきなりスーツ姿の男に怒鳴られて、彼女も自転車を止めた。中村はその横を猛スピードで追い抜いて行く。

 俺は背中に、女子生徒と、先ほどの男子生徒の視線を感じながら、全力で漕いで行く。

坂道が何だ! 急カーブが何だ! 赤信号が何だ! ――いや、信号は守ろう。

信号が青になった。さっきの二人の生徒が追いつく前にロケットスタートだ!

 やがて、並んで走る二人の女子生徒が見えてきた。ラケットを持っている。――またテニス部か?

 俺は強引に二人の間へ割り込んだ。三台の自転車が並行して走る形になった。

「おはよう、女子アスリートたち!」俺は左右交互に顔を向けて叫んだ。「俺は見ての通り、中村だ! もっと気合を入れて漕がないと、足腰の鍛錬にはならんぞ! 分かったか、テニス部!」

 驚いた二人はブレーキをかけて止まった。

お互い顔を見合わせている。

「今のうるさい奴は誰?」「うちら、バドミントン部なんだけど」

俺はかまわず突き進む。竜巻高校の校門まであとわずかだ。その間に、何人の生徒に発破をかけることができるだろうか。一人でも多くの生徒に元気と勇気を与え、一人でも多くの生徒を覚醒させてあげたい。時間との勝負だ。

スポーツの基本は足腰だ。下半身の強化を怠ってどうするのか。そんなことでは、あらゆる種目のあらゆる試合に勝てんぞ。そして、何よりも自分自身に勝てんぞ。

 その後、通学途中の数十人の生徒に次々と励ましの声をかけて、ようやく学校にたどり着いた。中には教師らしき人物も交じっていたが、かまうもんか。俺の熱き思いを、きっとみんなは分かってくれたに違いない。

――そう俺は信じている。

「おお、ここが竜巻高校か!」俺は校舎を見上げた。何度か前を通りかかったことはあるが、立ち止まって見るのは初めてだ。「そうか。ここが俺の城か……」

 雷電高校より少し小さめの校舎を見て、ウンウンと満足そうに頷いた。

その横を生徒たちが通り過ぎて行くが、俺は今、俺の世界にいる。誰にも邪魔させない。

だが、いきなり重要なことを思い出した。

そういえば、電話で草野校長が言ってたな。

「中村先生は引越ししたばかりだから、荷物の整理をしたり、住民票を移したり、電気やガスや水道などの契約もあるだろう。明日は午後一時からの出勤でいいぞ」

――ああ、すっかり忘れていた。

六時間も前に着いてしまった。近くの喫茶店で時間を潰すにしては長すぎる。モーニングセットで午後まで粘るわけにはいかない。おそらく、途中で追い出されて、以降は出禁になるだろう。

俺はふたたび校舎を見上げた。名残惜しいが、また午後に来よう。

自宅に引き返すことにして、マウンテンバイクを漕ぎ出した。やがて、先ほど発破をかけた連中と次々にすれ違う。また何かを言いに来たと勘違いした生徒たちは、俺と目を合わさないようにと、さっきより懸命に自転車を漕いで去って行く。俺もまさか時間を間違えたなどと言えるはずもなく、帰り道も発破をかけながら、愛車のマウンテンバイクで疾走する。 

俺は早朝に自宅と学校を往復した。道も覚えたし、いい運動になった。生徒たちにも気合を入れた。だがよく考えてみると、彼らには自分の苗字を言っただけで、教師だと言うのを忘れていた。

変な奴だと思われてないだろうか? 通報されてないだろうか? まあ、今さら悩んでも仕方がない。往路と復路の楽しかった思い出を胸に抱いて、俺は二度寝することにした。

そして昼になると、昼食を摂り、牛乳に溶いたプロテインを飲み干し、愛車のマウンテンバイクで、再び竜巻高校へ向かった。


竜巻高校の校長・教頭室のドアを俺は三回ノックした。どうぞと返事が聞こえたので入ってみると、部屋の真ん中で三人の男が立ち話をしていた。すらりとした背の高い男と、風采の上がらないような小さな男と、職人のようながっしりした男だ。

まずは校長に挨拶をしよう。――おそらく、この人だ。

俺は背の高い男の前に歩いて行った。

「校長先生ですか?」

「いいえ、私は教頭です」

 あっ、間違えた! 

ならば、この人だろう。俺は隣のがっしりした男の方を向いた。

「校長先生ですか?」

「いえ、私はウマイ寿司の大将です!」

 わっ、また間違えた! 

確かによく見ると、大小二人の男はスーツ姿なのだが、この男だけは、店名が刺繍された白い上っ張りを着て、ゴム長靴を履き、岡持ちを持って、頭にねじり鉢巻きをしている。おまけに、声がよく通り、愛想が良く、手もお酢でスベスベだ。――どう見ても寿司屋の大将だ。

就業中にこんな格好をしている校長先生はいない。今日はハロウィンではない。おそらく出前をした寿司の器の回収にでも来たのだろう。

ということは……? 

後はチョビヒゲのちんちくりんの男しかいない。まさか、この人が……?

「あのう、校長先生……ですよね」

「ああ、残りはワシしかおらんからな」ブスッと答える。

「これは失礼しました! 本日から竜巻高校に赴任することになりました体育教師の中村正敏、二十八歳。B型、乙女座、四緑木星。ラッキーフードは茶碗蒸しであります!」

「中村先生、待っていたよ。住民票はもうこちらに移したのかね?」

校長は中村の大きな声に顔をしかめながら訊く。

「それはもうバッチリです!」と言って、実はまだだ。

市役所は明日の土曜日でもやってるのだろうか?

「ガスはどうかね。ガス栓を開くにはプロの立ち合いが必要だぞ」

「それもバッチリです!」と言って、これもまだだ。ガス会社なら土曜日もやってるだろう。

「そうかね。では、まずそこに座ってくれるかね」ソファーを指差す。

 中村に続いて、校長、教頭も応接セットに腰かける。

「ウマイ寿司の大将、何でアンタも座るのかね?」

「こりゃどうも! 勢い余って座ってしまいました」大将は慌て立ち上がり、岡持ちを持って帰って行く。「またお願いします!」

 寿司屋の大将がバタバタと出て行ったところで、教頭が中村に訊いた。

「さっそくですが、中村先生。うちの高校でやりたいことはありますか?」

 なんだ、お茶も出ないのかと思ってた中村は慌てて答える。

「そうですね。失礼ながら、事前にネットで検索してみたのですが、竜巻高校の七不思議というものがあるそうですね」

「そういう怪談話はどこの学校にもありますよ。気にしなくてもいいですよ」

教頭はクールに答えるが、

「怪談話なんぞ、聞いとらんぞ」校長は文句を言う。「ワシはこの学校に赴任して三年も経つというのに、教頭先生が隠しておったのかね?」

「いいえ、隠し事はしてません。うちの生徒ならみんな知ってるでしょうし、ネットにも記載されているようですから」

「ワシだけ知らんというのか? ワシは裸の王様か? ワシは村八分にされとるんか?」

「そんなことはありませんよ」校長の幼稚さに呆れた教頭は中村に話を戻す。「――で、中村先生、その七不思議がどうかされましたか?」

「七不思議の一つに、この学校にはサッカー部がないと記されてました」

「確かに、昔からサッカー部はありませんし、その理由も分かりません。七不思議の一つに数えられてもしょうがないでしょうね」

「サッカー部がないことが七不思議に入っておるのかね」知らなかった校長は驚く。「残りの六不思議とは何かね?」

「それを全部話すと呪われるのですよ」教頭は怖そうに話す。

「キミは呪いとやらが怖いのかね?」校長は軽蔑の目を向ける。

「しかし、七不思議を全部聞いた側も呪われるのですよ」

「そ、そうかね」校長の顔も恐怖で歪む。「ならば、聞かないでおこうか。――で、中村先生。うちにサッカー部がない件がどうしたのかね?」

 話が脱線しては、また中村に戻って行く。

「はい。私がサッカー部を作ろうと思ってます。教頭先生が、うちの高校でやりたいことはあるかと訊かれましたが、これが私の答えです」

「ほう、それは頼もしい」校長の目が輝く。「今まで誰もやろうとしなかったことにチャレンジするとは素晴らしい。学校を挙げて、協力をしようじゃないか!」

「私からもぜひお願いします」教頭も続く。「正月にテレビで全国高校サッカー選手権を見るたびに、寂しい思いをしていたのですよ。ぜひやりましょう」

 応接セットに座ってる三人は大いに盛り上がる。

「しかし」中村は申し訳なさそうに言う。「私は確かに体育教師です。しかし、野球の経験はあるのですが、サッカーの経験がありません。どなたか他にいらっしゃいませんか? 私はサッカー部の部長に就きますから、生徒たちに直接指導できる方を探していただきたいのです」

「そうだな」校長は腕を組む。「今まで教える先生がいなかったことも、サッカー部がない要因の一つだろうな」

「他の体育系クラブを担当している先生に、兼任してもらうしかないでしょうかねえ」教頭も困っている。

そのとき……。

「お茶が入りました。どうぞ」

 応接テーブルの上に三つの湯呑が置かれた。

「ああ、悪いね。――おい、ウマイ寿司の大将! なんで、まだここにいるんだ?」

「いや、あたしもサッカーが大好きでして。廊下に出たとたん、サッカーという単語が聞こえたものですから、恥ずかしながら帰って参りました!」と言って、敬礼をする。

「そんなに好きなのかね」

校長はセットで三万円を越える高級湯呑からお茶をすする。長い付き合いから、大将はこれが校長の湯呑だと知っていたのだ。

「はい。夫婦ともにサッカーが大好きなんですよ。試合が始まると、仕事に手が付かないくらい大好きなんですよ」

「だったら、大将が監督をやりなさい。女将さんはコーチだ」

「ちょっと、校長先生!」あわてて、頭のねじり鉢巻がずり落ちそうになる。「あたしは学校の関係者じゃありませんよ。出入りの寿司屋のオヤジですよ」

「外部から監督やコーチを招聘してもかまわないのだよ」校長は平然と答える。

 驚いた大将は教頭に目を向ける。

「教頭先生からも何とか言ってくださいよ!」

「それよりも、大将。もうすぐ二時ですよ。父兄会が始まりますよ」教頭は常にクールだ。魚の漢字がたくさん書いてある湯呑を持って、静かに教えてあげる。

「えっ? もうそんな時間ですか。ですが、演説のための原稿はちゃんとここに……」大将はズボンのポケットをさぐる。「あれっ? 昨夜、遅くまでかかって、二宮君のために仕上げた原稿がない! ああ、そうだ。さっき、ズボンを履き替えてきたんだ。――すぐ取りに帰って来ますから!」

 大将は駆け出すが、校長が声をかける。

「大将、あと十五分しかないぞ。走らないと間に合わんぞ。店に戻ってるヒマはない。このまま原稿を見ないでやろうや。大将の頭の中にある知識で充分だ」

 立ち止まった大将。岡持ちを持つ右手がプルプルと震えている。

「――そんな。いや、無理ですって!」

「誰も二宮君には会ったことがないのだから、くわしくは知らないだろう。大将なりの二宮君を話せばいいのだよ。そして、あの像は生徒にとって必要不可欠な銅像であり、像の撤去は、まかり成らぬと主張してくれればいいのだよ。それくらい、原稿なんか見なくてもいけるだろう」

「しかし、そう言われましても……」

「カラオケがなくてもアカペラでゴスペルを歌う人がいるだろう。彼らと同じだ」

「あたしがゴスペルですか? 頭にねじり鉢巻きをして歌うのですか?」

 成り行きを見ていた中村先生が口を挟んできた。

「二宮君というのは、サロンパスのCMの二宮君ですか?」

「薪を背負ってる二宮君だ」

「ああ、そっちの二宮君ですか。でしたら、私も門外漢です。失礼しました」 

 そのとき、放送が聞こえてきた。

“ウマイ寿司の大将、父兄の皆様がお待ちです。至急、体育館の壇上までお越しください”

 大将はどういう運命でこんなことになるのか、さっぱり分からないまま、校長・教頭室を出て、体育館に向かって駆け出した。後ろから「こら、廊下を走っちゃいかんぞ」と校長の声が聞こえてきた。

いや、走らないと間に合わないと言ったのはアンタじゃないですか!

なんで、あたしが父兄の前で演説? なんで、あたしがサッカー部の監督? なんで、女房がコーチ? 神様、あたしが何か悪いことをしましたか? 

なんだか走りづらいと思ったら、手に岡持ちを持っていた。

「置いて来ればよかったか……」

 廊下には、大将が履いている下駄の音が響き渡っていた。


体育館には本当に三千人の人々が詰めかけていた。父兄と生徒と関係者だ。見覚えのある売店のおばちゃんや、用務員の岡戸のド派手な顔も見える。校長は約束通り、参加人数をピッタリ三千人に揃えてくれたようだ。――あの校長はどうでもいい約束を律儀に守る。

参加者は手に紅白饅頭を持っている。みんな、これに釣られてやってきたのだろう。日本人は和菓子が大好きだ。こういうお土産は家に持って帰って食べるものだが、すでにムシャムシャ食べている人も多い。この日のために老舗和菓子店で特別に作ってもらった饅頭らしく、普通の紅白饅頭よりかなり大きい。どれくらい大きいかというと、ポンと口に放り込むと窒息するくらい大きいのである。

 いったい、饅頭を食べに来たのか。あたしの話を聞きに来たのか。大将は大衆を前にして立ちすくむ。いずれにせよ、参加費はタダだ。ヒマつぶしには持って来いだ。生徒たちは授業がサボれて万々歳だ。だが、今から話す身にもなってほしい。三千人を前にして、膝がガクガク震えて止まらない。三人の寿司職人見習いの前で、魚のさばき方を話すのとは違うのだが、校長は分かってくれない。いつの世にも、大人は分かってくれないものだ。

舞台の袖で待機するようにと、司会の女先生に言われたため、大将は直立不動で立っている。知らない人が見たら、悪いことをして、立たされているようだ。手には岡持ちを持ったままなのだが、これがまた、罰として持たされているように見えるのだ。

司会はどこの学校にも一人はいるキレイな先生、通称マドンナ先生である。長い黒髪で、清楚が服を着て生きているような、英語の小久保百合先生である。あまり人前に出て司会をするようなことは、似合わないように思えるのだが、生徒に人気があるし、何と言っても、父兄の評判もいい。鼻の下を伸ばしたオヤジたちの、まさにマドンナなのある。今日の父兄会も荒れることなく、穏便に事が運ぶようにと、校長直々のご指名だったのである。

小久保“マドンナ”先生はマイクを持ち、壇上から父兄に語りかけた。

「二宮金次郎像をどのように取り扱うかで、今までさまざまな意見が出ておりましたが……」

 父兄会は一時間前から始まっていたのである。大将の出番が午後二時ということであった。

「皆様、大変長らくお待たせいたしました。ここで本日の特別ゲストのご登場です!」

 大将は左右を見渡した。舞台の袖には自分しか立ってない。どうやら、特別ゲストというのは自分のことらしい。

一方、生徒たちは特別ゲストと聞いてどよめく。

「特別ゲストって、誰?」「芸能人?」「キンプリ?」「ウソ!?」「三代目?」「マジ?」「乃木坂?」「ドッキリ?」「モニタリング?」「なんで?」「分からん」「とりあえず拍手しろ!」

 大将は盛大な拍手を受けながら、壇上に上がり、岡持ちを横に置いた。やはり、近くに岡持ちがあると落ち着く。守られているように感じる。まるで神社を守って、参道の脇にいる狛犬のようだ。

さて、これから二宮金次郎像の是非について、十分間の演説を始めなければならない。大将は自分を落ち着かせようと、目の前の卓上マイクに手を伸ばし、高さを調整しようとしたが、誰かが大将の身長に合わせてくれていたようで、動かす必要はなかった。

「あー、あー」一応、マイクテストをする。「只今、ご紹介に預かりました……」

 ここまで言ったところで、生徒たちの間から、

「なんだ、あのオジサン」「芸能人は?」「乃木坂は?」「期待した俺がバカだった」「がっかり」

 クレームの嵐が壇上にまで押し寄せてくる。そんな中で……、

「ウマイ寿司の大将じゃない?」「そうだ、あの寿司屋だ」「校長が出前を取ってる寿司屋だ」

 そして、ひときわ大きな声で、

「よっ、大将! いつも行ってるよ!」掛け声がかかった。

 声の主を見てみると、よく家族で来てくれている男子生徒だ。

「ああ、キミはいつも松寿司を頼んでくれる中島君だね。毎度ありがとうございます!」

 大将は演説を忘れて、思わずお客様にお礼を言って、深々と頭を下げてしまう。飲食業に携わる者の悲しき性だ。

会場はドッと沸く。周りの生徒が中島を小突いて笑っている。今日から中島君のあだ名は“松寿司”になるだろう。

つづけて、お得意さんの中島君から質問が飛んだ。

「大将! 今の時期、おすすめのネタは何ですか?」

 おすすめのネタと聞いて、大将の顔が思わず、ほころぶ。寿司屋の当然の性だ。

「春と言えば初ガツオだね。秋のカツオよりもさっぱりしてうまいよ。それと、サヨリなんかどうだい。ちょっと値は張るけど、脂が乗っててうまいよ。鯛もいいし、ホタルイカなんて最高だよ。他には貝類だね。ハマグリに赤貝だね。まだまだあるよ。たとえば……」

 寿司の話になったら止まらない大将は、たちまち、持ち時間の十分間を使い切ってしまった。仕方なく、最後は強引にまとめる。

「――というわけで、季節ごとの旬なネタで、お寿司のおいしさが決まるということです。ところが、ネタの好みは人それぞれですから、中にはトロが嫌いという人もいまして、まあ、いろいろな意見があると思いますが、つまり、二宮金次郎像は撤去せずに残した方がいいと、あたしは考えます。どうも、ご清聴ありがとうございました!」

 会場はざわめいた。特別ゲストと言いながら、出てきたのは近所の寿司屋の大将で、おすすめ寿司を紹介するだけで終わってしまったからだ。これでは店の宣伝に来たのと変わらない。当の大将は困惑した表情を浮かべて、壇上で立ったままだし、司会の小久保“マドンナ”先生もマイクを持ったまま動かない。父兄の間からも不穏な空気が漂ってくる。 

すると、中島君が立ち上がり、会場にあったマイクを手に取った。

「みんな、聞いてくれ!」大きな声で叫ぶ。

「よっ、松寿司!」さっそく、新しく名付けられたあだ名のヤジが飛び、会場に笑いが広がるが、松寿司・中島は顔を赤らめたものの、挫けずに話し出す。

「頼む、みんな聞いてくれ。僕は大将の店に家族でよく行くんだ。僕が生まれる前から、両親は通っているんだ。だから、僕はここにいる人達の誰よりも大将のことを知っている。もちろん、寿司職人としての腕もいいけど、人間としても、義理と人情に溢れたとてもいい人なんだ。今も寿司の話を一生懸命にしてくれたじゃないか。そんないい人が間違った意見を言うはずがない。そんな大将を信じたい。信じるべきだと思う。だから、僕は二宮金次郎像を撤去せずに残した方がいいと思います!」

 また、強引にまとめてしまった。いい人かどうかという人間の本質と、銅像の保存か撤去という問題には、何の関係があるのかと誰もが思ったところで、会場内の雰囲気はさらに悪化し、あちこちから私語が聞こえてきた。

その内容と言えば、早く終わらないかなあ、寿司の話を聞いて腹が減ったなあといった議題とは関係のない話であった。

さらにざわつく会場に松寿司・中島も座らないで、困惑して立ち尽くす。顔は赤面したままだ。

すると今度は隣に座っていた生徒会長が立ち上がって、マイクを受け取った。

「みなさん、生徒会長の平井一郎です! 松寿司・中島くんの話を聞いたと思います。彼は普段とても大人しくて、人前であまり話すような生徒ではありません。それが、いきなり発言をされて、僕も驚きました。みなさん、どうでしょうか。彼のこの勇気に答えていただけませんか。彼の覚悟を受け取ってあげませんか。つまり、二宮金次郎像を残してくれませんか。そもそも、撤去の理由は、あの薪を背負った像のポーズが、歩きスマホを連想するというものです。そんな連想をしますか? あれは寸暇を惜しんで勉学に励むという意味の像です。そんなことは言われなくても分かることですよね。あくまでも、象徴なのです。あの時代にスマホなんかありませんよ。あの像を見て、僕も、私も、歩きスマホをやろうなんて、思いますか? それとも、薪を背負って通学しようなんて、考えますか? うちの高校にそんなアホな生徒は一人もいませんよ!」

 会場から盛大な拍手が沸く。ここで拍手をしないと、アホな生徒だと思われてしまうからだ。撤去を提案していた父兄からも拍手が起きる。ここで拍手をしないと、自分の子供がアホな生徒だと思われてしまうからだ。

「それと、撤去するために費用もかかります。そんなことにお金をかけるのだったら、生徒全員に松寿司の出前を頼んでもらいたい!」

 さらに大きな拍手に包まれ、会場に松寿司コールが起きる。

“松寿司! 松寿司! 松寿司! 松寿司!”

 みんながこぶしを突き上げて叫び出す。

 ウマイ寿司の大将も、どうせなら特上寿司を頼んでほしいなと思いつつ、一緒になって壇上でこぶしを突き上げる。ついでに、岡持ちも振り回す。中は空の器だけだから大丈夫だ。

隣に座っていた生徒会副会長の金森も立ち上がった。生徒会長の平井がマイクを手渡す。

「生徒会副会長の金森太陽です。――みんな、ありがとう!」

お礼を言った金森は会場を見渡す。会場内に響く歓声からして、どうやら生徒たちは二宮像を残そうという意見に傾いているようだ。像があってもなくても、自分たちの生活には何ら影響がないというのが本音だろうけど。

ならば、あとは父兄を説得すればいい。

「父兄のみなさん、二宮金次郎像の撤去の話はみなさんから出されたと聞いてます。われわれ生徒は現状維持、つまりこのまま撤去をしないことを願ってます。――そうだよね、みんな!」

「うおおおぉー!」

生徒の同意を意味する叫びで体育館が揺れる。金森はそれに気をよくして、さらに力強く、意見を述べる。

「生徒会長が言ったように、うちの生徒はあの像に影響されて歩きスマホをするほどアホではありません! ちゃんと、マナーをわきまえてます。父兄のみなさん、どうか、僕たち生徒を信じてください! ご自分のお子さんを信じてください! もし、生徒が一人でも歩きスマホをしていたら、僕が責任を取ります! 責任を取って、肩までのロン毛になります!」

「うおおおぉー!」

 この発言を受けて、会場はこの日一番の盛り上がりを見せた。

責任を取って坊主になることはしばしばあるが、金森は体育会系ではないのに、普段から坊主頭である。これ以上短くしても平気である。逆に髪を伸ばすことが罰となるのである。昭和ならいざ知らず、令和の男子で肩までのロン毛は珍しい。少なくとも、竜巻高校の男子生徒の中にはいない。数か月かけて伸ばした男子のロン毛はよく目立つことだろう。

父兄席を見ると、金森副会長の捨て身の約束を聞いて、みんな納得したような顔をしている。

ダメ押しに、金森君と仲良しになった用務員の岡戸も立ち上がる。

「みなさん、こんにちは。用務員の岡戸恭四郎です」会場のあちこちでオカルトという声が上がる。「私は用務員の仕事の一つとして、日頃から二宮金次郎像の清掃をしております。神々しいお顔はおろか、背負っている薪の一本ずつまで丁寧に拭いております」

「いつもありがとー!」「用務員さーん!」「オカルトさーん!」

感謝の声が会場のあちこちから飛んで来る。岡戸は手のひらを下げて、まあまあと静まるように促す。

「像の足元の草むしりもしております。生徒の皆さんが、二宮金次郎を見習って、立派な大人になってくれるように願いながら、むしっております。雨の日も風の日も、せっせとむしっておるのです。勉学奨励のシンボルである像を、ぜひとも残していただきたいと思います。もし、残していただければ、私は毎日、今まで以上に、心を込めてきれいに清掃を続けることを、ここに誓います!――用務員岡戸!」大きな声で言い、右手を挙げて、宣誓した。

 会場から割れんばかりの拍手が起きる。

当然、岡戸は二宮金次郎像の撤去に反対である。勉学のシンボルだとか偉そうなことを言ったが、像がなくなってしまえば、ゴーストバスターズの仕事がなくなるからである。

なんといっても十日間で三万円だ。夜中の三時間だけ、校庭を見

回るだけで三万円だ。そんなに楽をして稼げる三万円をドブに捨ててたまるか! ――岡戸は心の中で吠えた。

つづいて、父兄席にいるPTA会長が挙手をした。すぐに、司会の小久保先生が指名をする。

「はい。桃の木会長さん、どうぞ」

 桃の木が立ち上がったとたん、会場から笑いが漏れた。PTA会長なのだが、本業はお笑いのピン芸人であり、普段は劇場でウクレレ漫談をしていて、ときどきテレビのバラエティー番組にも出ている。仕事の帰りなのか、金ぴかの衣装を着て、ウクレレを持っている。右手にマイク。左手にウクレレを持っているのである。これでは笑いが起きるだろう。せめて、ウクレレは席に置いておけばいいと思うのだが、これも職業病である。本人にとってはお守りのような物だろう。つまり、寿司屋の大将の岡持ちと同じ力を持っているのである。

「えー、みなさん。体育館にようこそ。やる気、元気、驚き、桃の木です!」

 挨拶をして、ポロンとウクレレを一つ鳴らす。漫談の出だしで使う言い回しだ。生で見られて喜んだ父兄と生徒の両方から、大きな拍手が起きる。もちろん、見物料はタダだ。

「♪~ポロン。全国の学校で二宮金次郎像を撤去する運動が起きてるようです。♪~ポロン。しかし、うちの高校はうちの高校であり、他に合わすことはありません。♪~ポロン。二宮金次郎は幼い頃に親を亡くし、苦労をして、ついには幕府に取り立てられたのです。♪~ポロン。なんと、あの渋沢栄一が尊敬していたのが二宮金次郎なのですよ。♪~ポロン。♪はぁ~、そんな立派な人の像を~、なんで撤去なんかできようか~。♪~ポロン。生徒諸君~、令和の二宮金次郎を目指してがんばるのじゃよ~。偉人となって教科書に載るのじゃよ~。ノーベル賞をもらうのじゃよ~。♪~ポロン。♪~ポロン。♪~ポロン」

 会場の拍手は三分間ほど止まなかった。二宮金次郎像はこのまま無くさないということで、生徒も交えた父兄会での話し合いは終わった。

校長はうまく決着できて、うれしそうだ。一方、教頭は浮かない顔をしている。できれば父兄と校長が揉めてほしいと願っていたからだ。当然、校長を蹴落として、自分が校長になるためだ。ところが、寿司屋の大将はともかく、生徒会長と副会長がうまくアピールし、用務員岡戸の熱意と、PTA会長桃の木の変な歌でまとまってしまった。なぜ、父兄も生徒もそんなことで納得したのか分からない。おそらく、雰囲気だけで賛成したのだろう。

大きな紅白饅頭をタダでもらったという弱みもあったからなあ。今回は残念だったが、チャンスはこれからいくらでも訪れるだろう。

教頭の目がきらりと光った。自分の写真が校長の歴代写真に並ぶ日を夢見ている目であった。

これで閉会かと思われたが、司会の小久保先生がふたたびマイクを手に取った。

「みなさん、もう少しだけ時間をください。この場をお借りして、新しく竜巻高校に赴任して来られた先生を紹介したいと思います。――先生、壇上にお上がりください!」

 紺色のスーツ姿の男性教師が進み出た。

すぐに生徒から声が上がる。

「あっ、中村じゃん!」「ホントだ。今朝会ったウルサイ奴だ」「あいつ、教師だったのか」

 中村が教師だと気づいて驚くのも無理はない。中村は通学途中、自分の名前を名乗った上で、自転車を漕いでいる生徒に次々と声援を送っていたのだが、身分を紹介するのを忘れていたからだ。

「あいつ、ウザいんだよ」一人の女子が隣の女子に大きな声で説明している。「もっと力を入れてペダルを漕げとか言うんだよ。めんどくさいし、早朝からすげえ迷惑だったわ」

 あの女子生徒はテニス部だと中村は思ったようだが、実はバドミントン部であった。ラケットバッグにはYONEXと書かれていたのだが、ヨネックスはテニスラケットもバドミントンラケットも作っていて、ラケットのケースをパッと見ただけでは、野球しか知らない中村先生には区別が付かなかったのである。

まあ、そんなことはどうでもいい。中村の挨拶が始まる。

「本日、竜巻高校に赴任いたしました体育教師の中村正敏、二十八歳です」

生徒の席を見渡す。朝、気合を入れてやった自転車通学の連中を何人か見つける。こちらを睨みつけてくるが、かわまず話を続ける。

「諸君! 最近は努力とか根性とか情熱などと言うとダサいとか時代遅れとかカッコ悪いとか言われるらしい。しかし、俺は少しもそんなことは思わない! むしろ、カッコいいと思っている!」

ここで拍手が起きると思ったが、何も起きない。挫けずに話す。

「みんなの夢は何だ!? その夢に向かってどんな努力をして、どのくらいの汗を流しているのか!?」

見渡す限り、ポカンとした顔だ。

「俺にはこの学校でやりたいことがある!」

さらに大きな声を出す。会場内が父兄の席も含めて静寂に包まれる。あまりにもうるさいからだ。これを、みんなが聞き耳を立てていると勘違いした中村が、さらに大きな声で叫ぶ。

「我が竜巻高校にサッカー部を作ろうと思う!」

 今度こそ、大きな拍手が巻き起こる。と中村は思っていたが、静まり返ったままだ。

「うちにサッカー部がないのは、竜巻高校七不思議の一つらしいが、これからは六不思議になる。それが嫌なら、適当に一つ増やして、七つに戻せばいい。屋上で話し声が聞こえるとかいうオカルト話をでっち上げて七番目に足しておけばいい」

 中村は熱弁するが、生徒も父兄も相変わらず、沈黙したままだ。マイクの電源が入ってないのか? いや、そんなことはないはず

だ。さっきから自分のデカい声が体育館に反響して、頭がガンガン

するくらいだ。ばっちり、マイクは生きている。ならば、まだ説明

が足らないのだろう。

先ほど、司会の小久保先生が、もう少しだけ時間をくださいと言ったが、まだ中村の話は終わらず、もはや、少しどころではない。かと言って、まだヤジは飛んで来ないし、帰れコールは巻き起こらない。よって、中村はさらに続ける。

「サッカー部の設立にあたっては、校長先生からも教頭先生からも、学校を挙げての協力を約束してもらっている。俺がサッカー部の部長に就任する。ところが、俺にはサッカー経験がない。そこでだ……」

ここであえて間を開ける。生徒が注目してきたことが分かったからだ。いくつもの興味深そうな目が中村を捉える。

「監督は外部から招くことにする! それは、ここにいる三千人の誰もが知っている有名人である!」

 監督は有名人と聞いて、生徒たちが騒ぎ出す。

「三浦知良じゃねえ?」「マジで!? キングカズがうちの高校に?」「本田圭佑じゃね?」「ケースケホンダが?」「待て。二人とも現役だろ。来るわけないだろ」「だったら、中田だよ」「すげえ、世界の中田ヒデかよ!」「本並健治じゃない?」「丸山桂里奈のダンナかよ」「待てよ。海外から来るかもしれないよ。サッカーの神様ジーコとか」「メッシとかネイマールとか」「クリスティアーノ・ロナウドとか……」「ポルトガル代表のロナウドか! すげえ!」「俺、ロナウド大好きだもん」「俺も好きだぜ!」「ありがとう、ロナウド!」「オブリガード、ロナウド!」「ウェルカムジャパーン、ミスターロナウド!」

 生徒の意見が“ロナウド監督”でまとまる。

「俺たちの高校はすげえ」「サッカー日本代表の監督より、うちの監督の方が有名だ」

 会場中がざわめく。きっと監督に対する期待によるざわめきに違いないと中村は思った。しかし、その監督とはウマイ寿司の大将であり、今は舞台の袖で岡持ちを持って立っている。先ほど、ここで十分間に渡って寿司ネタの解説をしたばかりだから、三千人の誰もが知っている有名人であることは間違いない。

中村は思い浮かべたロナウドの精悍な顔と、大将の不安げな顔を比較する。そして、世界のロナウドと近所の大将のあまりの落差に愕然とする。 

今、発表したらダメだ。誰も入部なんかしてくれない。やって来る監督はクリスティアーノ・ロナウドだと思い込ませておこう。俺はロナウドだなんて一言も言ってない。勝手に勘違いした生徒と父兄が悪い。そもそも、ロナウドが新設された地方の高校サッカー部に監督として赴任するわけない。ドッキリ番組でもこんな不自然な設定はない。

袖で待機しているウマイ寿司“ロナウド”大将と目が合った。その目が中村に語りかけてくる。

“ちょっと、期待され過ぎですよ~。これじゃ、出るに出れませんよ~”

中村もそう思った。大将が持ってる岡持ちがやけに小さく見えた。そこでしばらく隠れていてほしいと思った。

ただ、夢を語っただけなのに、なぜこんな展開になってしまったのだろう。サッカー部の監督は寿司屋の大将で、コーチは嫁である女将だと、どんな顔で生徒たちに言えばいいのか。大将と女将はどんな顔で登場すればいいのか。紅白饅頭を四個に増やせば許してくれるだろうか。情熱の固まりの中村も今から気が重かった。


今日の授業も生徒たちは話を聞いてくれない。英語の酒井愛子先生はクラスを見渡したまま、途方に暮れていた。

「みんな、しっかりど授業を受げようよ! ほら、ごっちを向いでよ!」訛った声が教室に響く。

隣の生徒としゃべってる者。完全に後ろを向いてしまっている者。窓から外を見ている者。何もない天井を見上げている者。うつむいてスマホを操作している者。

まっすぐ前を向いている生徒を見つける方が難しい。三人の男子生徒は立ち上がって、酒井に対する嫌がらせのように、教室内を訳もなくニヤニヤしながらウロウロしている。

「そご、立ってないで、席に座っでくれるがな」

学級崩壊寸前のこのクラスの担当になって二か月。東北地方から来た訛りが抜けない若くて大人しい女性教師ということで、生徒は酒井を舐めきっていた。小久保“マドンナ”先生に次いで美しいということも、女子生徒の嫉妬心を煽っているのかもしれない。もちろん、酒井本人にはそんなつもりはなく、自分がそんなにキレイだとは思っていない。

「今日勉強ずるのは、英語で読む不思議の国のアリスです。英文読解の基礎を学ぶには絶好の題材ですよ。長文問題の得点は大学受験の合否に大ぎぐ影響しますよ。――分がっでるの、みんな?」

「先生! なまってて何を言ってるのか分かりません!」

 一人の生徒にからかわれる。他の生徒からも笑いが起きる。上京するにあたり、訛りを消そうと、テレビを見たり、映画を見たりして、ある程度標準語の勉強はしてきた。確かに今も所々、訛りは出るが、分からないレベルではないはずだ。

「先生! 通訳を雇ってください!」

 違う生徒もヤジを飛ばして来る。

「プロジェクターを使って黒板に字幕を映してください!」

 みんなは爆笑するが、そんなことができるわけはない。

こうやって、からかわれるのはいつものことだ。座ってる生徒にはからかわれ、うろついている生徒は目障りだ。せめて授業中は席について教科書を広げるように言うも、聞いてはくれない。そのうち、ウロウロしていた三人の男子のうちの一人、安藤が踊りながら、前に出てきた。

「サッコラ、チョイワヤッセー!」

東北地方の祭、盛岡さんさ踊りらしい。掛け声は合っているが、手が伸びてなく、様になってない。だが、数人が手拍手を送る。それに気をよくしたのか、安藤は踊りを変更してきた。

「ヤッショ、マカショ!」の掛け声とともに始まったのは山形花笠まつりのダイナミックな踊りだった。これは声も出ていて、まあまあだ。拍手はさらに大きくなる。教室の誰もが、安藤の踊りに注目していた。

安藤はよく教室で踊っている。授業中も歌いながら踊っている。ラップというやつだ。将来はラッパーになりたいらしい。今日は酒井が東北出身ということで、東北の祭の踊りを、ユーチューブか何かを見て、仕込んできたのだろう。もちろん、酒井に故郷を思い出して、喜んでもらうためでなく、ただ、からかうためだけに。

最後は青森ねぶた祭りだ。「ラッセラー、ラッセラー!」と掛け声を上げながら、安藤はピョンピョン跳ねている。ねぶた祭りを盛り上げる跳人はねとと呼ばれている踊り手のマネ事だ。これは躍動感もあり、合格点をあげたい。教室内の雰囲気は最高潮に達し、手拍手と歓声が止まない。

しかし、酒井は授業そっちのけで、安藤による東北地方の三つの祭――盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、青森ねぶた祭りの踊りと掛け声のパフォーマンスを評価している場合ではない。今は英語の授業中だ。音楽やダンスの授業ではない。

安藤は東北の祭シリーズの踊りを止めると、いつものラップに戻した。右手にマイクを持ってる格好をしているが、持っているのは黒い筆箱だ。軽快にリズムを取りながら、前に出てくる。

やがて、教壇と窓の間に位置を決めると、有名ラッパー気取りで歌い出した。


♪イエーイ。酒井先生は~、日本の北からやって来た~。北から南に下って来た~。東北から都会へやって来た~。すがる男を振って来た~。夢を抱いて飛んで来た~。ここまでチャリでやって来た~。来た所は汚くないけど北校舎。冬は寒いぜ、北風で。期待していた生徒は希代のバカで、奇態な踊りをするこの俺さ。ありきたりの生き方はなーし。俺の歌は気体のように舞い上がり、期待外れで落下する。キタキツネにも笑われて、窓から見える飛行機の機体。行先、もちろん、北上盆地~。


こうやって、しばしば授業を妨害されてきた。それを酒井は東北人特有の粘り強さで耐えてきた。赴任して以来ずっと黙って忍んできた。こんなはずではなかった。自分が教える生徒たちには、将来立派な社会人になって、日本を支えてもらいたいという大きな夢を持っていた。この学校に来て、ちょうど二か月が過ぎた。東北人の忍耐力にも限界がある。

東北人をバカにしたラップとやらの歌を聞かされた。全身の血液が頭部に上がって凝縮してきたことが分かった。血管がブチブチと音を立てて、切れていく。頭がカッとなった。 

――そうか。これがキレるということか。

 酒井は生まれて初めてキレた。英語の教科書を教卓の上に置くと、ドアに向けてゆっくりと歩き出した。生徒全員が黙って、酒井の行く先を見る。

安藤のラップも止まった。教室に静寂が戻った。

「おい、先生がついに怒ったぞ」誰かが小さくつぶやいた。

 おそらく怒って教室を出て行くのだろう。誰もがそう思った。

酒井はドアに手をかけた瞬間、振り向いた。温厚そうな顔は一変していた。鬼の形相をしていた。窓際に立つラッパーの安藤を睨みつけると、大声で吠えた。

「てめえ、私の授業中にヘタなラップなんか歌いやがってー!」

 助走を付けた酒井は大股で駆け出すと、床を蹴り、宙に浮くと、全体重をかけて教卓にドロップキックを喰らわせた。

蹴られて、押された教卓は、上に乗っていた教科書と閻魔帳を吹き飛ばし、呆然と立ち尽くす安藤に向かって、猛スピードで滑って行く。

――ドゴッ!

教室内に鈍い音が響いた。逃げられなかった安藤が教卓と窓に挟まれていた。ヒビの入った窓ガラスがバリバリと砕け落ちた。安藤の体もズルズルと崩れていくと、ガラスの破片が散らばる床に倒れ込んだ。その目は閉じられて、完全に気を失っていた。

しかし、その右手はVサインを示していた。自称ラッパーの意地のようだった。

クラスメイトに犠牲者が出て、教室内は静まり返る。酒井は床に落ちていた閻魔帳を拾い上がると、黒板をバシッと殴り付けて、

「おい、玉本と足立!」二人の男子生徒の名前を呼んだ。

「は、はい」「な、何でしょうか?」

いつもは君付けなのに、いきなり呼び捨てで指名された二人はビビっている。 

「お前ら二人はラグビー部だったな!」

――バシッ! 

閻魔帳でまた黒板を殴る。

「だったら、部室に担架があるわな」

「あ、ありますが……」

「すぐに持って来て、あそこで伸びてる安藤を保健室に運べ!」

――バシッ!

「分かりました!」

 二人は目を合わせると、脱兎のごとく、教室を出て行く。さすが、ラグビー部だ。体はデカいが身のこなしは早い。

安藤は窓際で意識をなくして倒れたままだ。残された生徒の中から声が上がる。酒井先生のあまりの変わりように、恐る恐る質問をする。

「あのう、先生。保健室じゃなくて、救急車を呼んだ方がよくないですか?」

「はあ? 足の骨に二、三本ヒビが入って、全身にガラス片が20個ほど刺さったくらいだろう。救急車が必要か? 救急隊員はそんなにヒマか? ガソリン代の無駄だろ。タイヤがすり減るだろ。保健室で湿布薬と絆創膏を貼ってもらったら、明日にでも治るわ! 保健室で充分だろ。――違うか?」 

――バシッ!

 また閻魔帳で黒板を殴るが、誰も返事をしない。

「違うかと訊いてるんだ!」 

――バシッ!

「は、はい。先生のおっしゃる通りでございます。保健室サイコー!」

先ほど質問した男子がこぶしを突き上げて答えた。

やがて、ラグビー部の玉本と足立が担架を持って帰って来た。

「よしっ、運べ!」

 二人は、ガラス片にまみれて伸びている安藤の元に駆け寄る。

「いや、待て。その前に、脈を取ってみろ」

 足立がしゃがんで、安藤の右手首に指を当てる。

「脈は動いてます」

「だろうな。手加減したから生きてるだろう。――いいか、みんな。次はないぞ。手加減はしないぞ。確実にお前らを仕留めるぞ。脈を永遠に止めるぞ。先生は二人目の犠牲者を出したくないぞ!」

――バシッ!

 閻魔帳で黒板を殴り付けると、酒井は鬼の形相のまま生徒を睨みつけて、

「お前ら、みちのくを舐めンじゃねーぞ!」

 床に落ちていた教科書を蹴り上げた。

――バシッ!

 英語の教科書は天井に激突して製本が崩れ、バラバラになって、桜の花ビラが散るように、ヒラヒラと落ちてきた。

 舞い落ちる教科書の花ビラを体に浴びて、酒井はニタリと笑う。

いつの間にか、酒井の訛りは消えていた。


中村はサッカー部の構想を練りながら廊下を歩いていた。

俺が部長をやって、大将が監督をする。女将さんがコーチだ。いわゆる、トロイカ体制だな。問題は部員だ。サッカーをやるには、少なくとも十一人が必要なのだが、まだゼロだ。俺が率先して、部員を集めるしかない。何かのクラブに入ってない生徒よりも、体育会系のクラブに所属していて、サッカー部にもときどき顔を出してくれるような生徒を探す方が手っ取り早い。最初は寄せ集めだが、部員が増えて、サッカー部専属の生徒も出てくるだろう。強くなれば、何も言わなくても、生徒たちから入部して来るだろう。軌道に乗るまでの辛抱だ。何事も初めはしんどいものだ。

教頭先生に教えてもらったクラスを通りかかる。ここに玉本と足立というラグビー部員がいるらしい。彼らを勧誘しようとやって来たのだ。二人して体はデカいが、足は速いと聞いている。足が速ければ、サッカー部には持って来いだ。少しくらい手伝ってもらえるかもしれない。試合のときだけでも参加してくれればありがたい。今は授業中だが、顔と体格を見るくらいはいいだろう。

ポケットから二人の写真を取り出す。これも教頭が用意してくれたものだ。学校を挙げての協力はありがたい。

そのとき、ちょうど目当ての二人が教室から出てきた。玉本と足立だ。生徒を乗せた担架を担いでいる。担架の生徒は目を閉じながらも、なぜか右手でVサインをしている。

まさか死後硬直か!?

「どうした?」中村が尋ねたとき、二人の後ろから酒井が出てきた。「あっ、酒井先生。これはどうされましたか?」

「あら、新任の中村先生。――なんだか、安藤君が蚊に刺されたようなのです」

いつものおっとりとした口調で言われるが、なぜか、いつもの訛りがない。

「蚊に刺されて、担架ですか?」中村が不思議がる。

「はい。アナフィラキシーショックというやつです」

「あれは蚊でも起きるのですか?」

「このバカ、いや、この生徒は特別なようです」

「このVサインは何ですか?」

「二本の指で蚊を捕まえようとしたらしいです」

「しかし、救急車を呼ばなくてもいいですか?」

「いいえ。保健室で十分です。本人のたっての希望ですので。――では、お二人さん、ちゃんと連れて行ってあげてね」満面の笑顔で玉本と足立を促す。

 二人は担架で運ぶことが安藤の希望ではないことを知っていた。教卓で挟まれた瞬間、気を失って、今も意識が戻らないのだから。そして、酒井先生の満面の笑顔も本物ではなく、作り笑顔だと知っていた。先ほど、恐ろしい正体を見たからだ。しかし、先生が怖くて逆らえなかった。あの教卓を吹っ飛ばしたドロップキックが、また飛んで来るかもしれないからだ。

そう思うと、体のデカい二人も従うしかなかった。あのキックは、二人のラグビー部員を同時に吹き飛ばすだけのパワーを秘めているに違いない。

二人は酒井先生の目をこっそり伺いながら、

「じゃあ、玉本君。保健室に運ぼうか」

「そうだね、足立君。落とさないように持とうね」

 エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ。

 お猿のカゴ屋のように、安藤を運んで行く。

そんな二人に中村が後ろから声をかけた。

「おーい、玉本と足立。後で話がある。職員室まで来てくれるかー」


深夜午前一時。校庭のど真ん中で、用務員の岡戸は刺股と虫取り網を抱えて、椅子に座りながら、カップラーメンをすすっていた。夜間照明は点いておらず、弱い月の光だけで、あたりは暗い。

校長に頼まれた、走る二宮金次郎像を捕まえるというゴーストバスターズ初日の仕事の最中であった。

あと一時間だから、このままがんばろうと思ったが、どうにも腹が減ってたまらない。用務員室に戻ってお湯を沸かすと、カップラーメンに注いで、校庭の真ん中までこぼさずに持って来た。

まさか、麺をすすってる間に二宮金次郎君は走って来ないだろうが、左右を見渡しながら、急いでラーメンを流し込む。

一応、数年前に神社で買った古い悪霊退散のお守りは持って来てある。二宮金次郎を悪霊呼ばわりして申し訳ないが、家にあるお守りを探してみたら、これと四十年前に買った妻の安産のお守りしかなかったのである。お守りのお陰で妻は安産だったのだが、走る二宮金次郎に効果はないだろう。

カップラーメンを食べ終えた頃、バックネットの裏で何かが動いた気がした。

「まさか、出やがったか!?」

 岡戸はスープも最後まで飲み干して空になったカップを椅子の上に置くと、右手に刺股を持ち、左手で虫取り網を掴んで、立ち上がった。これぞ、二刀流だ。

薄暗い中で懸命に目を凝らすが、怪しいものは見当たらない。神仏のご加護の元、岡戸はカマキリが鎌で威嚇するように、両手を大きく広げて、バックネット裏へゆっくりと歩いて行く。

「おい! そこに隠れているのは分かっておるぞ!」

 適当なことを言ってみる。当然、返事はない。刺股と虫取り網を大きく頭上に振り上げたまま、一歩ずつ進む。月明かりに浮かぶこの異様な姿は相手から見ると恐ろしいに違いない。

そのとき、右の方でザザッと音がした。

岡戸は驚いて、心臓が飛び出そうになったが、

「右に移動したのはこちらの予想通りだぞ!」

 あえて余裕があるように言ってみるが、また返事はない。暗くてよく見えないが、確かに何かがいる。それがバックネット裏から、右へと移動したように感じた。

本当に二宮金次郎像が走っているのか? 七不思議は伝説ではなかったのか? 

岡戸は薄暗い中、左右に視線を走らせながら、今度は音がした右の方へと歩いて行く。そのとき、今度は後ろで音がした。

ウソだろ……。

岡戸はうろたえて、立ち止まる。続けて、左方面からも何かが歩く音がした。――いつしか、岡戸は四方を囲まれていた。

二宮金次郎像は一体しかないはずだ。いつも清掃をしているから知っている。ならば、分身の術を使っているのか? 

二宮君が忍術を使えるなんて、校長の手紙に書いてなかったぞ。

岡戸は刺股と虫取り網を大きく振り回して叫ぶ。

「四方から取り囲むことくらい、こちらの想定内だぞ!」

負け惜しみにも程があるが、大声を出さないと怖い。

「私が用務員の岡戸だと知っての狼藉か!?」また叫ぶ。

そのとき、いきなりバックネット裏から人影が躍り出た。

「わっ、本当に出た!」

岡戸は虫取り網を投げ捨てて、腰を落とし、刺股のみを前方に向けてかまえる。あわてて逃げようとはしないし、決して背中を見せない。それが男というものじゃないかと、副会長の金森君に見えを切っただけのことはある。実は三万円の特別手当がほしいだけなのだが。

月の光に照らされたその姿は二宮金次郎ではなかった。水色のシャツに紺色のズボン。紺色の帽子をかぶっている。同じ格好をした人物が四方からワラワラと現れて、岡戸はたちまち囲まれた。

「君たちは何だ!?」

 岡戸はそう叫びながら、十人はいる相手の腰の辺りに刺股の狙いを付けて、自分の周りをグルグル回り出した。飛びかかってきたら、刺股で挟んでやろうという魂胆だ。すばやい動きに、白髪のポニーテールが揺れる。

「よしっ!」「どこからでも来い!」「どうだ!」「この野郎!」「怖いだろ!」「参ったか!」

律儀に一人ずつ声をかけながら回る。だが、十人同時に来られたら、勝ち目はない。さてどうしたものかと考えているのだが、相手は輪の中心で回っている岡戸を見ているだけで、何もしてこない。

やがて、岡戸の目が回り、足がもつれてきた。息も切れ切れになっている。弾んでいたポニーテールも元気をなくし、背中にフニャリと垂れ下がった。

一人の年配の男がやっと口を開いた。

「見ての通り、警察です。私は小笠原警部補です」

 暗闇の中でも老人と分かる岡戸が重そうな刺股を振り回しているので、そのうち疲れるだろうと、持久戦に持ち込み、全員で黙って様子を見ていたようだ。

「警官だと? 証拠を見せなさい。ゼエゼエ」

 岡戸は刺股を杖の代わりにして体を支え、肩で息をしながら、一番位が高そうな小笠原警部補に向かって言った。

「この通りです」小笠原は左胸ポケットから取り出したものを岡戸の目の前に突き出す。「警察手帳です」

「ウソつけ。警察手帳は黒いはずだぞ。ゼエゼエ」

「それは昔の話で、今はこのような焦げ茶色をしてます」と言って、縦にパカッと開ける。

上部に顔写真と名前などが記されていた。確かに名前は小笠原であり、階級は警部補と明記されている。他の警官たちも同じようにパカッ、パカッと見せつけて来る。全員の顔と写真は合っているようだし、本物の警官のようだ。

「分かっていただけましたか。――では、あなたはどこの誰で、この校庭で何をしていたのですか?」逆に訊いてくる。

「私はこの学校の用務員岡戸である!――ゼエゼエ」刺股を右手で持って、胸を張る。

「用務員手帳を見せてください」

「えっ? そんなものはない。そもそも用務員手帳なんてあるのか?」

「もしかしたらあるかもしれないと思って、訊いてみただけです。――用務員さんがこんな夜中に刺股と虫取り網とカップラーメンを所持して、何をしてるのですか?」

「二宮君がここに現れるのではないかと思い、捕まえてやろうと、張り込んでいたのだよ。いやあ、夜中の張り込みは辛いね。眠いし、腹も減るし、刑事さんの大変さがよく分かったよ」

「二宮君? 所轄内でそのような人物は指名手配されてませんが、どういった容疑の男ですか?」

「どういった容疑と言われても……。元祖歩きスマホですかな」

「元祖……?」

 一人の警官が小笠原警部補に歩み寄り、耳打ちをする。

「うん、うん、なるほど。間違いないな?――岡戸さん、この警官が岡戸さんのことを知っておるようだ」

 一人の警官の子供がこの学校に通っていて、岡戸の顔を覚えてくれていたようだ。

「ほう、それはありがたい」安堵の表情が月明かりに浮かんだ。

「用務員さんと警備員さんを掛け持ちされてるようですね。それはご苦労さまです」小笠原が敬礼を寄越す。

これで、岡戸の嫌疑は晴れたが、

「ご自分が勤務されている学校ですから、住居侵入罪にはなりませんが、誤解を招くこともあります。最近は何かと物騒ですので、夜間も学校を見回るのも必要でしょうが、もう夜中の一時を過ぎてますよ。仕事熱心なのは分かりましたので、ほどほどにしておいていただきたいのですが」

「そう言われても、あと九日間は続けなければならんのです」

 どうやら、小笠原は岡戸が夜間警備をしていたと勘違いしてくれたようだ。

「それはなぜですか?」しつこく訊いてくる。

確かに人を疑うのは刑事の仕事だと思うのだが、十日間働かないと三万円がもらえないとは言えない。代わりに警察が張り込んであげますからといって、三万円を横取りされるかもしれないからだ。私の給料は安いが、地方公務員の給料も安いと聞いている。三万円は貴重なはずだ。たとえ警察であろうと、簡単に信じてはならない。これが長年生きてきた岡戸の経験からくる信条であった。

「それよりも、小笠原さんの警部補さんよ、なぜこんな夜中に、こんなたくさんの警官がやって来たのかね?」話題を変えてごまかす。

「通報があったのですよ。校庭の真ん中で椅子に座り、刺股と虫取り網を持って、カップラーメンをすすってる怪しい男がいるとね」

「まあ、確かに私は怪しいですがね」

 岡戸は腕を組んで何かを考えている。

そして、そろそろ警官たちが引き上げようかと緊張を解いた頃、

「それよりも奇妙なことがあるぞ、小笠原さんの警部補さんよ。こんな夜中の、こんな人通りがほとんどない場所を、偶然誰かが通りかかって、校庭にいる私を見つけて、通報しますかね?」

「――と言いますと?」

「あくまでも私の推理なのだが、一人の泥棒がいたとしよう。夜中に職員室を物色しようとしたら、校庭で私の姿を見つけた。しばらく待っても去ろうとしない。日を改めようかと思ったが、泥棒の決行は今日でなければならなかった。占いによると、今日はラッキーデーで、金運も最高の日だったからだ。そこで、私を校庭から追い出すにはどうすればいいか。泥棒は考えた。そして、ひらめいた。警察を呼んで、あいつを連行してもらったらいい。その間に職員室から貴重品を盗み出そう。そこで、泥棒はおもむろにスマホを取り出して、怪しい男がいると警察に通報したというわけだ」

「――なるほど。つまり……、全員、職員室に急げ!」

 十人の警官が駆け出した。岡戸もその後を追う。職員室の場所を教えるためと、自分の推理が正しいのか確かめるためだ。

「職員室は北校舎の一階です!」警官たちの背中に叫ぶ。 

 しかし、岡戸はすぐに引き離される。現役の警官に、高齢の用務員が追い付けるわけない。しかも、刺股を持ったままだ。

「置いてくればよかったか」後悔しても始まらない。

 しかし、岡戸は刺股をかついで懸命に走る。

北校舎までもう少しというところで、後ろに気配を感じた。

「私より遅い警官がいたのか?」

振り返ると、二宮金次郎像が追いかけて来ていた。

「ウソだろ、おい!」

突然、頭部に衝撃を感じた。そして、意識がなくなった。


岡戸が目を覚ますと、ベッドの上だった。周りはカーテンで区切られていて、外は見えない。あたりを見るが、誰も付き添ってくれてないらしい。

やはり、ブサイクな用務員のおやじには誰も付き添ってくれないか……。

岡戸はがっかりする。頭を触ってみると包帯でグルグル巻きにされていた。コブができていて、押さえると、痛みも感じる。そういえば、何かに激突したような気がするが、その後は記憶がなくて思い出せない。

上半身を起こして、枕元にあるはずのナースコールのスイッチを探すが見当たらない。

何だ、ここの病院は。ナースコールも備えてないのか。

ベッドに取り付けてある名札が見えた。

“安藤陸”――誰だ、この人は? 

岡戸は頭を捻る。まさか、頭を打ったショックで、私は何者かと体が入れ替わったのか? 目を覚ますと、安藤陸という人物になっていたというのか? いや、待てよ。陸というのは今どきの名前だ。だが、私の体を見るとオヤジ体型だ。やはり、入れ替わってないのか。それとも、安藤陸という人物が、私のようなジジイに変わっていて、どこかで泣いとるんじゃないのか? 体の中身が入れ替わるのは、タイムスリップとともに、最近の小説やドラマのトレンドだからなあ。だが、そんなことが現実に起きるのか? まだ、私は夢の中か? 

そのうち、どこからか、いい香りが漂って来た。

岡戸はカーテンをさっと開けた。見覚えのある光景だった。

――なんだ、保健室か。

ナースコールがなくて、当然だった。

髪の長い女性が向こうを向いて、右手を激しく振っている。

ガチャン、ガチャン、ガチャン……。

 女性が中華鍋を持ったまま振り向いた。

「あら、岡戸ちゃん、目が覚めた?」

 保健室の主、アラフィフの美魔女、佐藤恵子がキッチンスペースでチャーハンを作っていた。その香りは保健室内に充満していた。できあがったらしいチャーハンを、お玉を使って、慣れた手つきで皿にパカンと盛り付けると、美魔女の恵子は手拭いで、手を拭きながら、こちらにやって来た。

保健室の先生だけあって、白衣を着ているが、縫製し直したらしく、体にぴったりだ。ボディ・コンシャス、略してボディコン白衣である。バブルの申し子のような恵子先生は、令和の時代になっても、ワンレン、ボディコンであり、自分のことを美魔女と称している。自分で“美”というのだから、ずうずうしいにも程があると、岡戸は学内で彼女とすれ違ったときに漂って来る香水を嗅ぐたびに思う。実際には美女というわけではなく、かといってブサイクでもなく、その辺にいる普通のオバサンだと、自分のブサイク加減を棚に上げて、岡戸は思うのである。

「恵子先生。私はなぜ、ここにいるのかね?」上半身を起こしたまま、美魔女に訊く。

「あらら、岡戸ちゃん、覚えてないの? 夜中に走ってて、木にぶつかったと聞いてるわよ」

 ――そうだ。

あいつに追いかけられて、いつも自分が剪定などの手入れをしているケヤキに頭からぶつかったんだ。

そのときできたコブがこれか。

岡戸はもう一度、額に手をやる。

「あっ、そうそう。小笠原警部補さんから伝言があるわよ。聞きたい?」

「そりゃ、聞きたいわな」

「じゃあ、耳元で囁いてあげるわよ」美魔女が体をくねらせながら近づいて来る。

「いや、その位置からでいい」岡戸はきっぱり断る。美魔女の餌食になりたくない。

「あら、残念」美魔女の恵子がピタリと足を止める。「じゃあ、ここから言うわよ。職員室は無事。――これだけ。岡戸ちゃんに言えば分かると言われたけど、分かったかしら?」

「ああ、よく分かった」

 職員室に泥棒はいなかったということだ。つまり、私の推理は丸ハズレということだ。

「その小笠原警部補さんだけどさあ、あたしに紹介してくれない?」また体をくねらす。

「それは無理だ。私も初めて会った人で、以前から面識があるわけではない。年齢も住まいも知らないし、独身かどうかも知らんから」

「あら、残念。既婚者でもあたしはかまわないのだけどね」

 いや、アンタはかまわなくても、向こうは迷惑だろうと思ったが、黙っておく。

「ところで、二宮金次郎のことは何も言ってなかったかね?」

「二宮金次郎がどうかしたの?」美魔女は不思議そうに言う。

 やはり、あれを見たのは自分だけなのか。十人も警官がいて誰も見てないとなると、幻だったのかもしれない。校庭から職員室に通じる道に防犯カメラは設置されてないから、目撃者もいないだろう。

だが、一瞬見ただけだが、あれは恐ろしかった。二宮金次郎像が恐ろしい顔をして追いかけて来たのだから。

それでも、あれは幻なのか。あるいは、七不思議が本当だったのか。

「岡戸ちゃん、ケガは大したことないから、もう寝てなくても大丈夫よ。だから、また明日来てちょうだいよ。あたしが全身全霊を傾けて、包帯の交換をしてあげるから」

「包帯くらい自分でやるから」

「そんな冷たいことを……」

「それよりも、早くチャーハンを食べないと冷めるぞ」

「あらら、忘れてたわ。岡戸ちゃん、半分食べる? アーンしてあげるわよ」

「いや、けっこう」

 保健室にはひっきりなしに生徒が訪れる。ゆっくり昼食を食べに外へ出てるヒマはないため、ここで自炊をしてるらしい。格好と言動は変わっているが、美魔女はちゃんと仕事をしているのである。特に女子生徒には人気があり、お母さん代わりに、いろいろな相談に乗ってあげているという。なかなかできることではない。立派なものだ。

岡戸はベッドから立ち上がり、外に出ようとしたが、隣のカーテンに手が触れてしまった。揺れたカーテンの隙間から、一人の男子生徒が寝ているのが見えた。なぜか、右手でVサインをしている。

「恵子先生、この子はどうしたのかね?」

「安藤陸くんのこと?」

「ああ、この子が安藤陸くんか」体の入れ替わりじゃなかったのか。「私のベッドにこの子の名札が付いておるぞ」

「あらら、間違えたわ。――なんでも、この子はラップの最中、窓ガラスに当たってケガをしたらしいのよ」

 料理を保存するためのラップと窓ガラスの関係性が分からず、岡戸は天を仰ぐ。

「かれこれ二十四時間意識不明だから、そろそろ目を覚ますと思うのよね」

「おいおい、病院に連れて行かなくても大丈夫なのかね。家の人は何と言っておるのかね?」

「先生におまかせしますって」

「恵子先生は何と答えたのかね?」

「おまかせくださいって」

 二人は安藤陸が眠るベッドの脇で、顔を見合わせたまま黙り込む。

「あたし、何か変なことを言ったかしら? これでも、養護教諭の資格を取って、かれこれ三十年の大ベテランよ。その辺の若い医者より、よっぽど仕事ができるわよ。――それよりも、チャーハンを食べなくてはね!」

アラフィフの美魔女恵子は腰をくねらせながら、チャーハンの皿へ向かって行った。意識不明の生徒よりチャーハンが大事なようだった。

岡戸用務員はベッドの脇に立ててあった刺股を手に保健室を後にした。

「はて、虫取り網はどこへ行ったのやら」


 定年間近の野呂三四郎先生による美術の授業。

いつものグレーのスーツを着た先生はゆっくりとした口調で生徒に話しかける。

「君たちは夏目漱石の坊ちゃんを知ってるかな?」

 生徒たちは美術の時間なのに小説の名前が出てきて戸惑ったが、元気に返事をした。

「知ってまーす!」「読みましたー!」「明日から読みまーす!」「ウソつけー!」「ちょうどアマゾンで注文しましたー」「それもウソだろー!」

「はいはい、お静かに。みんな知ってるようだね。読んだ人もたくさんいるようだね。では、今から先生が坊ちゃんを描きます」

 描きます? 読むんじゃなくて? 確かに美術の授業だから、読むのではなく、描くが正しいのだが、生徒は何を言われたのか分からず、野呂先生のゆったりとした動きを黙って見つめる。

先生は生徒の視線を背中に受けつつ、白いチョークを使って黒板に“坊ちゃん”の絵を描き始めた。黒板を上から下まで大きく使って描かれる大作だ。

「わっ、ホントに描いてる……」生徒たちは驚きの声をあげる。

 クラス全員が無言のまま、黒板を見つめる。

やがて、黒板に、着物を着て、腕を組んで、下駄を履き、両足を大きく広げて立つ“坊ちゃん”の絵が現れた。まさに、小説から飛び出して来たような坊ちゃんの絵である。

「はい。これが坊ちゃんですよ」しだいにチョーク絵は完成に近づいていく。「はい。ここで君たちに坊ちゃんクイズです。坊ちゃんの本名は何というでしょうか?」

 坊ちゃんの本名?

「夏目漱石じゃね?」「それは作者だろ」「御坊茶魔だよ」「それはおぼっちゃまくんの方だよ」「ともだちんこ!」「真面目に答えろよ」「すいま千円」「坊ちゃんを読んだけど分からないなあ」「俺は読んでもいないけど分からないなあ」

 一通り意見が出尽くしたところで、野呂先生は黒板を向いて、坊ちゃんの絵を完成させながら、一人の女子を指名した。

「姫宮さんは坊ちゃんの本名を知ってますか?」

姫宮瑠伽は学級委員長である。そして、マドンナでもあった。どこの学校にも一人はいるキレイな先生は英語の小久保“マドンナ”先生である。一方、どこの学校にも一人はいるキレイな生徒は姫宮“マドンナ”生徒である。姫宮は小久保先生と同じくらいの長い黒髪をふわっとさせて、立ち上がった。

「作品の中に名前は書かれてなかったと記憶しております」

 野呂先生は向こうを向いたまま、答える。

「正解です。坊ちゃんに名前はありません。はい、君たち、これは坊ちゃんあるあるですよ」

 年配の教師から“あるある”という言葉が飛び出してきて、また生徒は驚く。姫宮は何事もなかったかのように、また髪をふわっとさせて着席した。

姫宮はいいところのお嬢さんである。姫宮に憧れている何人かの男子は、髪をふわっとさせる特別なシャンプーがどこかに売ってるのではないかと睨んでいる。そのどこかとは、下々の人間が行くような安いドラッグストアではなく、セレブ御用達のシャンプー専門店である。

「はい。これで坊ちゃんの絵の完成です」

 先生は黒板に向かったまま言うと、体を半歩左にずらして、その絵を見せてくれた。今にも黒板から飛び出てきそうな躍動感のある絵だった。

そして、先生は続ける。

「次は赤シャツを描きます」

「まだ、続けるのかよ」という小さな声が、あちこちから上がるが、先生はかまわず、赤のチョークを手に取って、坊ちゃんの左側に赤シャツを描き始める。

赤シャツとは、坊ちゃんが勤務する学校の教頭先生のことで、赤色は体の薬になるという変な理由で、いつも赤いシャツを着ているため、このあだ名が付いている。

窓際に座っている結菜は、先生の絵にも飽きて、校庭を眺めていた。いつもは先生の目を盗んで、チラチラと見ているのだが、今は先生がずっと黒板に向き合ったままなので、堂々と体を横に向けて、外が見られる。今の時間は体育の授業がないようで、珍しく、だだっ広い校庭には、走ってる生徒もボールを追いかけている生徒もいない。

誰もいない校庭は寂しいなと結菜は思う。夜になると、あそこを二宮金次郎像が走ってるんだよなあ。誰も見たことがない七不思議の一つだけど、気味悪いなあ。

学校の近所に住んでる武本が言ってたけど、この前の夜中、数台のパトカーが学校に横付けされていたらしい。トイレの窓から見えたという。きっと、二宮金次郎が校庭に現れたんだと唾を飛ばして主張していたが、他の生徒は誰も見てないし、先生たちは何も言わないし、ネットニュースにもなってない。結局、武本が寝ぼけていたということで話の決着はついた。

結菜は校庭を見下ろしながら思う。

二宮金次郎が走りたくなる気持ちも分かるんだよなあ。ずっと薪を背負ったまま、立ちっぱなしだもんなあ。あれじゃ、ストレスがたまる。わっーと走りたくもなるよなあ。きっと奇声をあげて、両手をブンブン振り回しながら走ってるに違いない。もちろん、走るときは、薪を下して、着物の裾はたくし上げているだろうな。

そんな妄想をしていたとき、校庭の隅で何かが動いているのが見えた。

昼間なのに血迷って現れたのか、金次郎ちゃん!

だが、目を凝らしてよく見てみると、白い中型犬だった。地面の匂いをかぎながら、早足で歩き回っている。リードは付いてないようだが、首輪をしているかどうかは、遠くて見えない。周りに飼い主らしき人影は見えないので、校庭に紛れ込んで来たに違いない。 

昔は野良犬が街のあちこちで歩いていたと、お母さんが言っていた。学校の帰りに追いかけられたり、追いかけたりして、犬とはよく遊んだらしい。でも、野良犬は狂犬病も持っていて危険だからと、保健所が野犬狩りを行って、街からいなくなってしまったという。

野犬狩りなんか本当にやってたの? と訊いてみると、お母さんは捕まえている現場を見たことないけど、ウワサで聞いたという。そして、野良犬は少しずつ消えて行ったらしい。

確かに、この街で野良犬なんかに出会ったことはない。だから、校庭をうろついている犬は飼い犬で、何らかの事情で家を抜け出して、学校にやって来たに違いない。ここから見る限り、手入れがされていて、毛並みはきれいそうだ。それに、丸々と太っている。ちゃんと、ご飯を食べてるんだ。だから、野良じゃないだろうと思う。私が抱く野良犬のイメージは凶暴でやせっぽちだからだ。白い犬は束縛から解放されて自由になったうれしさから、この広い校庭を走り回っているのだ。きっとそうに違いない。

結菜は前に座っている芽衣の肩をトントンと叩いた。だが、芽衣はすぐに振り向いたりしない。黒板に向かっている先生が、いつ振り返るか分らないからだ。だから、先生に見つからないように、体を後ろに傾けてきて、前を向いたまま口だけを少し動かす。芽衣とはいつもこのスタイルで話す。――まるで忍者だ。

「何?」「外を見て」「どこ?」「斜め前方」

最小限の言葉で会話をする。これも忍者だ。

「白い犬だ!」「犬だよ」「かわいい!」「かわいいよ」「どこの犬?」「分からん」「見てくる!」「待ってよ」

芽衣の家族は揃っての犬好きだ。自宅で三匹の犬を飼っている。トイプードルとチワワとミックス犬だ。つまり、人気犬種ランキングの上位ベスト三を網羅している。そんな芽衣だから、あの白い犬を見に行くと言い出すのも無理はない。だが、友人として止めなきゃならない。今は授業中だからだ。

「後にしなよ」「後じゃ、犬がいなくなるかもしれん」 

芽衣は黒板に向かう先生を見ながら、そっと腰を浮かせる。

「先生に見つかるよ」「今は大丈夫」「なんで?」「結菜は坊ちゃんを読んでないでしょ」「読んでない」「先生は今、赤シャツを描いている」「知ってる」「他に、野だいこ、うらなり、山嵐、マドンナといった登場人物がいる」「だから?」「黒板にはまだスペースがある」「だから?」「全部描き終えるまで振り向かないはず」「だから?」「それまでに戻って来る」「つまり?」「バレない」「絶対?」「絶対」「私も行く」「なんでよ!」「連帯責任」「じゃあ、一緒に行こう!」

結菜と芽衣が中腰になって、忍者のように忍び足で教室の後方へ向かう。

途中で第三の女、葵と合流する。この子も犬好きだ。

結菜、芽衣、葵。――三人のくノ一が机の間をすり抜けて行く。

「トイレ?」「具合悪いの?」「サボり?」クラスメートが声をかけてくる。

結菜と芽衣と葵は黙って校庭を指差す。

犬を見つけたクラスメートが迷わず、三人の後に続く。

ぞろぞろ、ぞろそろ、ぞろぞろ。――少年少女忍者集団が行く。

クラス全員が犬好きというわけではない。野呂先生が黒板に向き合ったまま、黙々と絵を描いていることに、すっかり飽きていたところへ、ちょっとした冒険心が芽生えただけである。高校生はいろいろなものが芽生える年頃だ。中腰で生徒が次々に外へと出て行く。

そして、最後に遠藤君が申し訳なさそうな顔をしながらも出て行った。優秀であるため、飛び級でこのクラスに来ている生徒だった。


野呂先生が“坊ちゃん”の主要登場人物六人を黒板に描き終えて、生徒の方を振り向いた。その人物絵は、みんな生き生きとしていて、坊ちゃんを読んだ人には懐かしいだろうし、読んでない人は読みたくなるほど、魅力的に描かれていた。チョークで描かれたとは思えないほど、大きくて、迫力もある。これらは下書きもされず、何も見ないで描かれたものだから、大したものである。さすが美術教師である。

先生は手に付いたチョークの粉をパンパンと払いながら、学級委員長の姫宮“マドンナ”生徒を指名した。

「姫宮さん、このクラスは何人いたかな?」

「はい」姫宮は黒髪をふわっとさせて、立ち上がった。「男子が十九人、女子も十九人。合計三十八人です」

「なぜ、君しかいないのかな?」

「みんなはあそこにいます」校庭を指差す。

 三十八人-姫宮=三十七人の生徒が歓声をあげて、白い犬を追いかけ回していた。

「今週は動物愛護週間です」マドンナはとっさに適当なことを言い出す。「偶然学校に迷い込んできた犬も大切に保護しようというのが、犬を見つけたときの、クラス全員の総意でした。生き物を大切にするという我が竜巻高校の校風に沿った結論でした。“生き物を愛そう、自分のことのように”という今年の学内スローガンにもピッタリです。そこで、自分があの犬を救うんだという大志を抱いた生徒が、我先にと出て行ったため、私も止めるヒマがありませんでした。しかし、全員いなくなると、授業が成り立ちませんので、学級委員長である私が責任を感じ、代表して残りました」

 みんなは授業をサボるためのいい機会だとして、何も話し合うこともせず、黙ってゾロゾロと出て行ったのだが、何とか、仲間であるクラスメートを庇おうと、姫宮はがんばって感動話をでっちあげる。

見た目はマドンナ生徒なのだが、姫宮は少し抜けていた。だが、愛情や友情を大切にする純粋な子だった。そんな性格が、みんなに好かれているのだが、野呂先生も仕方ないなあと思いながら、姫宮のデタラメ丸出しの話を聞いてあげている。

校庭からは楽しそうな声が聞こえてくる。三十七人の生徒は犬を捕まえようと追いかけているのだが、犬はたくさんの人が遊んでくれていると思って、捕まらないように全力で走っている。いくら人数が多くても、校庭は広く、犬はその広さを目一杯利用して、縦横無尽に走り回っていて、誰も追い付けない。

教室の窓際に先生と姫宮が並んで立ち、校庭を見下ろしている。

「捕まえられるのかな?」先生が訊く。

「はい。遠藤君がいます」

「ああ、飛び級の遠藤君か。彼なら大丈夫だろう」

 飛び級というのは、頭脳明晰で優秀な成績により、例外的に上のクラスへ飛び越して進級するケースがほとんどなのだが、遠藤の頭脳はごく普通であった。だが、足が異常に速かった。つまり、スポーツ飛び級なのであった。


生徒がヘトヘトになり、もう誰も捕まえられないのではと諦めかけたとき、ウワサの遠藤がふらりとやって来た。手に大型虫取り網を持っている。さすがに犬を手で捕まえるのは難しいと思い、用務員室へ行って、岡戸から網を借りてきたのである。事情を聞いた岡戸は、私も行こうと言って付いて来た。手に刺股を持っている。

「岡戸さん、刺股は危ないですよ。動物虐待と勘違いされますよ」遠藤に諫められたが、

「犬を追い立てるのに使うだけで、傷付けたりはしない。決して、これを使って犬を押さえつけるのではないよ。これで押さえつけるのは二宮君だけだよ」

「二宮君て、誰ですか?」

「いや、こっちの話。――さあ、行こうか」

 校庭に着くと、ウワサの遠藤は軽く足をほぐし、網を脇に抱えると、いきなり走り出した。ウワサのロケットスタートである。

そのスピードに白い犬は驚いた。他の生徒とは次元が違う。たちまち距離を縮められる。犬は今までの最高スピードで逃げる。少しでも前方からの風圧を和らげようと、両耳をペタンと倒して、歯を食いしばって頑張る。

「遠藤君、がんばれー」「遠藤君、頼むぞー」

みんなが遠藤と呼び捨てにしないで、遠藤君と言っているのには理由がある。飛び級により、同じクラスにいるが、みんなより二つ年下だからである。小柄で足が速い遠藤に付けられたニックネームは“走る遠藤豆”あった。

遠藤はたちまち犬のすぐ後ろに付いた。犬はその気配に気づき、一瞬振り向いた。意外と遠藤がすぐそばに来ていたので、目を大きく見開いて驚く。諦めてスピードを落とそうとしたところ、遠藤は犬を追い越して、前に躍り出ると、大型虫取り網を大きく広げて構えた。勢いが付いていた犬はそのまま網の中に突っ込んで行った。走る遠藤豆は走る白い犬の捕獲に成功した。

生徒たちは飛び上がって喜んだ。岡戸も刺股を振り回して喜んだ。教室から見ていた姫宮と先生もホッとした。犬はこれも遊びの一環だと思って、網に絡まれながらもキャンキャンと喜んでいた。犬は首輪をしてなかった。しかし、人に慣れているため、どこかで飼われていたと思われた。

そこで、学校の近所に尋ね犬の貼り紙をしたり、ネット上で呼びかけたりしたが、飼い主は現れなかった。結局、誰かが飼えなくなって捨てたのだろうと結論付けられた。そして、白い犬は“ポチ”と名付けられて、学校犬として飼育することになった。令和の時代、犬に“ポチ”と名付けるのも珍しいが、逆に新鮮じゃねえ? ということになり、“ポチ”が採用された。以前、ウサギを飼っていた野外のケージを犬小屋代わりにして、ポチは飼われることになった。ケージといっても二メートル四方もあり、檻と呼んだ方がしっくりいった。犬の家にしては大きく、人間社会に例えると、セレブが住む豪邸であった。


 犬井と鳥谷、二人の生徒が薄暗い廊下を歩いている。学内の照明はしだいにLEDに変わっているが、ここは古くからの蛍光灯がぼんやり灯っている。左右に並んでいるのは体育会系の部室だ。

二人は新任教師の中村に一番奥の部室まで来るように言われ、何の用か分からないまま、やってきたのだ。中村は担任ではないし、授業を受けてるわけではないのだが、先生の命令だから従わなければならない。

「一番奥って、何部だっけ?」犬井が訊く。

「奥の方は空いてたんじゃなかった?」鳥谷も知らないらしい。

 バスケ部、バレー部、体操部などを通り過ぎ、やがて突き当りの部屋に着いた。ドアに汚い字で“サッカー部”と書かれた画用紙が貼ってあった。下の方に小さく赤い字で、“部員募集中”と書いてある。

「今どき手書きなんかしないで、パソコンで作れよ」犬井が小さな声で文句を言う。

「それよりも、うちの高校にサッカー部はないはずだけど」鳥谷がドアを見つめて言う。

「そうだよな。サッカー部がないことは、うちの学校の七不思議の一つだ。――そう言えば、新しく来た中村先生がサッカー部を作るとか言ってたな」

「なんか、熱く語ってたな」

「――ってことは、もう作ったのか? すごい行動力だ」

「――ってことは、僕たちを勧誘するというのか?」

犬井は鳥谷を見る。背が低い。サッカーができるとは思えない。

鳥谷は犬井を見る。太ってる。サッカーができるとは思えない。

お互いの体型を見て結論付けた。 

「これは勧誘じゃない」

二人の意見が一致したところで、いきなりドアが開いて、中村が顔を出した。

「おお、犬井君に鳥谷君、待ってたぞ」

 薄いドアの前に立って、ボソボソしゃべってたら、気付かれもする。

「まあ、入ってくれ」

 二人は新設サッカー部の部室に入った。

「俺がここに新しくサッカー部を作った!」

中村先生が八畳ほどの部室内を案内するかのように両手を広げた。だが、見渡してみると、サッカーボールはないし、スパイクやユニホームも見当たらない。ロッカーもないし、戦術を確認したり、検討したり、練習のスケジュールを書いたりするためのホワイトボードもない。あるのはパイプ椅子だけだった。

五つの椅子が円形に並べてある。残りの椅子は折り畳んで壁に立てかけられている。おそらく、サッカーの人数と同じ十一ある。

五つの椅子のうちの二つに、ラグビー部の玉本と足立が座っていた。隣のクラスの連中だ。先日、安藤陸くんが授業中にラップを歌っている最中、窓ガラスに激突したといって、ラグビー部の担架で運んでいた二人だ。なぜ、安藤が窓ガラスにぶつかるのか分からないが、その後、奇妙なウワサが流れた。英語の酒井先生がキレて、ラッパー安藤をブチのめしたという。もちろん、他のクラスの生徒たちは誰も信じなかった。あの美人で温厚でやさしそうな酒井先生がキレるはずがないだろう。

だが、玉本も足立も知っていた。酒井先生がブチキレて、安藤を意識不明にさせたことを。しかし、そのことは他のクラスには言わなかった。酒井先生が閻魔帳で黒板を殴り付けながら、「誰にも言うんじゃねーぞ! チクッたらどうなるか分かってるな!」と叫んだからだった。生徒たちは、どうなるかを想像した。おそらく酒井先生によって、半殺しにされる。今度担架に乗せられるのは自分だ。

身の危険を感じた生徒たちは、この事件をクラス内に留めておくことに決めた。だが、恐れを知らない勇気のある誰かが、酒井先生の正体を外部に漏洩したようだった。

「犬井君と鳥谷君、ご苦労さん。ここに座ってくれるかな」

中村が二つの椅子を示したが、二人は立ったままお互い目配せした。ラグビー部の連中を見て、勧誘されたに違いないと思った。そして、やっぱり自分たちも勧誘されるのだろうかと不安になったからだ。しかし、運動部に入部するつもりはない。あの二人と僕たち二人の体型を見比べれば、先生も分かりそうなものだが。

まあ、誘われたら、そのときは二人で断ればいいか。一瞬のアイコンタクトで、これだけの意思確認を終えた二人は、しぶしぶパイプ椅子に座った。そして、ドアを背にして、中村が五番目の椅子にゆっくりと座った。

「今日、お前たちにここへ来てもらったのは他でもない。――まず、玉本と足立。頼む、サッカー部に入ってくれ!」

 いきなり、中村が頭を下げてきた。真向勝負を挑んできたのだ。

「先生、頭を上げてください!」驚いた玉本が思わず腰を浮かせて言う。

「あのう、いや、僕たちはラグビー部ですので」足立はあたふたする。

 そのまま頭を下げていた中村のスマホが鳴った。仕方なく頭を上げて電話に出る。

「はい、中村です。これはどうも、秘書の大河内さん、お世話になります。ああ、そうですか。ありがとうございました。お手数をおかけいたしました。失礼いたします。――というわけで、頼む、そこの二人、サッカー部に入ってくれ!」

「先生」玉本が浮かせていた腰を下ろした。「できたばかりのクラブだから部員がいないのは分かります。でも、ラグビー部とサッカー部の掛け持ちなんて、聞いたことがありませんし、やったとしても相当キツいです」

「玉本!」中村は立ち上がる。玉本はその迫力にまた腰を浮かせる。「そんなしょぼい根性でどうする。それでは天下は取れんぞ! 英雄になれんぞ! 信長を見習え! 誰もやってないからやってみる! それが人生というものだろう、違うか!?」

「なんか、違うような気が……」玉本は遠慮がちに抵抗する。

「先生」足立も負けずに発言する。「僕たちは毎日、ラグビーの練習だけでヘトヘトなんですよ」

 中村は立ったまま、二人を睨みつける。

「お前たち、ラグビーとサッカーとでは、どちらが好きなんだ!?」

「ラグビーです!」と玉本。「ラグビーです!」と足立。

「だろうな」と中村。「しかし、そこを何とか頼む!」また、頭を下げる。

「でも、僕たちはサッカーの経験もありませんし」玉本は小さな声で言う。

「そんなことは気にするな!」中村がまた顔を上げる。頭が揺れる赤べこのように忙しい。「実は俺もない。野球一筋だったから経験はないんだ。だがな、サッカーはラグビーとか野球みたいにルールは複雑ではない。簡単なもんだ。ボールを足で蹴飛ばして、頭で突っつく。それだけだ。違うか!?」

「なんだか、違うような気が……」

「お前たちには、その高校生離れしたガタイを活かして、フォワードを任せたい。相手を蹴散らせて、シュートを決めるんだ。花形のポジションだぞ」

確かに二人の体は、パイプ椅子が壊れるんじゃないかと心配するくらい大きかった。

「先生」足立が発言する。「ラグビー部員はみんなで四十八人います」

「ほう、ちょうど討ち入りもできるな」中村がつぶやくが、足立は無視して続ける。

「僕たちより体の大きな部員も、足の速い部員もたくさんいます。中学でサッカーをやっていた部員もいます。なぜ、僕たち二人が選ばれたのでしょうか?」

「おお、いい質問だ! お前たち二人が、なぜ、選ばれし勇者なのかということだな。それはな、足立。お前の名前には足という文字が入っているな。それに玉本。お前の名前には玉と言う文字が入っている。どうだ、名前に足。名前に玉。サッカーにぴったりの苗字ではないか。ご先祖に感謝すべきではないかな。おそらく、二人はサッカーをするため、この世に生を受けてきたのだよ」

中村は自分の言ったことに感動しているらしく、ウンウン頷きながら部室内を歩き回る。

「でも、先生!」

「なんだ、勇者足立!」

「ラグビーも足と玉を使いますけど」

「足はしょうがないとして、玉はおかしいだろ。ラグビーボールは玉と呼べるか? まん丸いのが玉だ。楕円形は純粋で正式な玉ではなかろう。邪道の玉だ。ゆえに、玉本の玉はサッカーの玉なのだよ。――分かるか!?」

 おそらく、二人とも分からない。

「毎日、顔を出さなくてもいいんだ。試合のときだけ参加してくれんか? 知っての通り、野球はわずか九人でいいのだが、サッカーはなんと、十一人も必要なんだ。二人も多いんだ。十一人揃えないと、試合ができないんだ」

 二人は中村の情熱に押されつつある。二人は諦めの境地に支配されつつある。玉本が先生に聞こえないほどの小さな声で足立に話しかけた。

「サッカーの試合はせいぜい週二だよな」

「そんなものだろな。――やってあげようか?」

「僕もそう思ってたんだ。ここで断ったら中村先生に何をされるか分からんぞ」

「だよな。家に火をつけに来そうだよな」

 仕方なく、玉本が切り札を出した。

「顧問の山下先生が何と言うか……」

「それは心配するな! お前たち二人のたっての希望で、サッカー部を手伝ってもらうことになったと言っておこう」

「待ってください!」玉本が久しぶりに腰を浮かせる。「それでは僕たちが悪者になってしまいます!」

「そうか?」

「そうです」と玉本。「そうです」と足立。二人はハモる。

「ラグビーをないがしろにしたように思われます!」

「二つのクラブを片手間にやってるように思われます!」

「分かった。二人とも、そう熱くなるな。なぜ二人がサッカー部を兼ねることになったのか、その経緯を山下先生には、俺が責任を持って、誠心誠意、正々堂々、簡潔明瞭、懇切丁寧に説明しておこうじゃないか!」生徒に熱くなるなと言いながら、中村はより熱く語る。「俺を信じるんだ!」

 だが、二人はそれを信じなかった。中村に懇切丁寧な説明なんてできるわけない。きっと、大きな声を張り上げて、山下先生を勢いで押してしまうだろう。そして、ラグビー経験者でスクラムの神と呼ばれていた山下先生でも、簡単に押されてしまうだろうと思った。

中村はさっき会ったばかりの生徒に、すっかり性格を見抜かれていたのだ。二人が黙り込んだところで、中村は二人の入部を一方的に確信したようで、安堵の表情を浮かべる。興奮して赤かった顔も薄いオレンジ色へと変化していく。

「大事なことを言っておく。今のところ、サッカー部は誰もいない。だがな、お前たち二人は決して数合わせではない。大いに期待をして入部をお願いしたのだ。十分に働いてもらいたい。そして、このことを知っておいてもらいたい」中村は自分の言葉に酔って、また熱くなってきた。「まず、我がサッカー部が目指すのは日本一だ! いいか、地区優勝や西日本を制覇などというセコいものじゃないぞ。日本一だ! 今はボール一つないサッカー部だが、日本一になるんだ! そのための莫大な予算の確保も校長先生に進言している。そして、日本一になったら海外のクラブからも注目されるだろう。そうだ。最終目標は世界だ。日本一を踏み台にして世界一を目指すんだ!」

 日本一が踏み台? 玉本と足立は、中村の話のあまりの大きさに驚く。まだ部員もボールも揃ってないのに日本一とは……。

しかし、残念ながら入部は決まってしまったようだと、二人して諦めた。

「先生」玉本が訊く。「先生がサッカー部の部長だとして、監督とコーチは誰ですか? 生徒の間ではポルトガル代表のロナウドだと言ってますけど」

「ああ、そのことか」中村は遠くを見る。

 監督はウマイ寿司の大将で、女将さんがコーチとは、このタイミングで言えない。せっかく苦労して入部を決意させたのに、心変りされたら大変だからだ。

「まあ、それはサプライズということにしておこう」と言ってごまかす。

 確かにサプライズに違いない。ロナウドと大将のギャップに腰を抜かすだろう。そのときはそのときだ。デカ目の紅白饅頭を用意しておこう。

今、始まったばかりじゃないか! 何事も前向きに行こう! 

いつの間にか、勢いで入部が決まって、これから大変だなあと思った玉本は、とりあえず訊いてみた。

「僕たち以外にも、誰かに声をかけてるのですか?」

「ああ、ラグビー部以外にも何人かに当たってる。しかし、なぜか片端から断られている」

 なぜ断られているのか、本当に先生は分からないのかと玉本は疑問に思う。

「ただし、中には保留中の生徒もいる。たとえば、遠藤だ」

「飛び級の遠藤君ですか!」足立は驚く。

まさか、遠藤君にまで声をかけていたとは。確かに、足が速くて飛び級になったと聞いているし、先日は犬よりも速く走ったとして、学級新聞の号外に速報記事が写真入りで載っていた。

“白い迷い犬を網で捕獲して、ニコニコ笑う遠藤君”

「だがな、遠藤はお前らよりも二歳年下なんだ。つまり、まだ中学生だ。中学生が名門高校サッカー部に入って、世界を目指してもいいものかと、俺は疑問を感じたわけだ」

 部員もいないのに、名門サッカー部になっている。

「そこで、日本サッカー協会の崖縁チェアマンに電話をして訊いてみた」

――なんで? 

全員がポカンとする。

「さっきの秘書の大河内さんというのが?」足立が訊く。

「崖縁チェアマンの第三秘書だ」

「すげえ。チェアマンとなると三人も秘書がいるんですね」

「いや、七人いる。最初に俺が電話をしたとき、第七秘書が出た。しばらく話をしたが、埒が明かないので、上の者を出せといったら、第三秘書が出てきやがった」

 訳の分からない電話だったから、埒が明かなくて当然だろう。第七秘書さんが可哀想だなと全員が思った。

「だが、それより上の秘書は出てこない。第二秘書の壁が世界の壁のように厚かったんだな。まあ、そう言うわけで、日本サッカー協会の了承も得た。遠藤の件で、どこかから何かのクレームを入れられても、日本サッカー界のトップがいいと言ってるのだから、誰にも文句は言えまい。――後は遠藤の気持ち次第というわけだな」

日本一を踏み台にして世界一を目指すとか、日本サッカー協会のチェアマンに直談判するとか、中村先生はスケールがデカいと全員が感心した。

「玉本と足立、今日からお前たちは、俺が部長を務める竜巻高校サッカー部の一期生だ。つまり、この後に入部してくる生徒はみんな、お前たちの後輩だ。思う存分、ジュースを買いに行かせればいいぞ」

 世界一とチェアマンとジュースのパシリの落差に全員が愕然とする。

最後に玉本が質問をした。

「僕たち二人が入部するとして、あと何人必要ですか?」

「九人だ」

 中村の後ろのドアが静かに開いた。

「どうやら、八人のようですよ」足立が言った。

 一人の生徒が顔をのぞかせた。

「おお、遠藤。来てくれるのか!」

振り向いた中村が立ち上がり、遠藤に歩み寄った。

遠藤が連れていたポチに吠えられた。 


中村が遠藤のために椅子を出し、六人が輪になって座った。ポチは部屋の隅で寝そべっている。

「さて、犬井君に鳥谷君、待たせたな」

二人は今までの成り行きを見守るだけで、ずっと黙っていた。口を挟むと、ドサクサに紛れて、入部させられるのではと心配していたからだ。しかし、中村は二人が座っていることも気づかないかのように、ひたすらラグビー部の玉本と足立を口説いていた。

そして今、二人は名前を呼ばれ、やはり存在に気づいていたのかと思うとともに、あらためて、なぜ呼ばれたのだろうと不安になった。

「二人には」中村が部屋の隅を指差す。「ポチの世話を頼みたい」

赴任以来、サッカー部員を探していた中村は、偶然遠藤が犬を捕獲するところに出くわし、その足の速さに注目して、飛び級遠藤と白い犬ポチを同時にスカウトしたのであった。なぜ、犬までスカウトしたかというと、飼い主が見つからず、学校犬として飼われることになったのだが、中村が新任教師としていい所を見せようと張り切ったからである。ウサギを飼っていた野外のケージで、ポチは飼われることになったのだが、その管理責任者は中村がすることにして、直接の世話を誰にするか、教頭に相談してみた。

「この学校に生物部はありますか?」

 生物部に飼ってもらおうと思ったのである。

「生物部はありませんが、生き物係ならあります。わずか二人の生徒で活動しているので、部ではなく係なのです。これが五人以上になると、部に昇格できます。校内にある池で何匹かの鯉を飼育しています。活動はそれだけです」

 そんな事情で、中村はポチの飼育を担当する生徒を生き物係の二人――犬井と鳥谷に決めて、校長に報告しておいた。当然、本人たちへは事後報告であり、了解は今から取るのである。

「犬井君に鳥谷君。お前らは生き物係に所属していて、校内で鯉を飼育してるらしいが、何匹くらいいるんだ?」

「はい。十二匹です」犬井が返事をする。

「十二匹も十三匹も変わらんだろ」

「鯉が一匹増えるんですか?」

「だから、ポチだ。鯉十二匹の他に犬一匹飼う余裕くらいあるだろう」

「先生、鯉と犬は大きく違いますよ」鳥谷が抗議をする。

「大きさが違うだけで、同じ生き物だろう。だから、生き物係に頼みたいんだ。犬井がポチの飼育主任ということで頼む!」

中村はまた頭を下げる。ずうずうしいのか謙虚なのか分からない。

「僕が主任ですか?」犬井が訊く。

「そうだ。そして、鳥谷が副主任だ」

「その違いは何ですか?」

「犬井は名前に犬という文字が入ってる。鳥谷には入ってないからだ」

「それだけですか?」

「もちろんだ。犬の世話をする献身的な鳥なんて聞いたことがないだろう。だから犬井、頼む!」

また頭を下げる。「エサ代などの経費は校長と交渉して、分捕ってやる。便宜上、主任、副主任となっているが、二人で力を合わせればなんとかなるだろう。二人は文化祭で、いきものがかりの“ありがとう”を歌った仲じゃないか。やればできるぞ! 俺たちのポチを頼む! ポチに素敵な未来をプレゼントしてくれ! いい夢を見させてやってくれ!」

よく分からない理由で説得された犬井と鳥谷は少し話し合ってから、引き受けることにした。無理やりサッカー部に入れられるよりも、ずっとマシだと思ったからだ。それに二人とも生き物係に入ってるだけあって、犬も大好きだったからだ。

最後に鳥谷が中村に言った。

「令和の時代にポチという名前はないですよ。誰が付けたのか、センス悪すぎですよ」

「俺が名付け親だ。子供の頃に飼って犬の名前だ。悪いか?」

「ビューティフル・ネームです!」鳥谷はあわてて褒めた。

「ポチなんて、あの子にお似合いの名前ですよ!」犬井がすかさずフォローしてくれた。生き物係は人にもやさしかった。


~中編~につづく。


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