推しの花嫁はお断りします!貧乏男爵令嬢は婚約者の騎士様に嫌われたい
それは突然の知らせだった。
「た、大変なことになった……!リザナに縁談がきた……!」
王宮勤めの父が、帰ってくるなりそう言った。
やや青褪めているし足元はふらついていて、おもいきり動揺しているのが見てわかる。
「あなた、お相手はどこのご老人ですか!?それとも爵位目当ての婿希望者ですか!?」
母、ひどい。
でも母がそう心配するのも無理はなかった。
私、リザナが生まれたフロンタール男爵家はとても貧乏で、父は王宮に文官として勤め、母は平民のお金持ちのお嬢様にマナーを教える講師をしている。
一人娘の私も、二年前から王立図書館で名簿や本の管理の仕事をさせてもらっている。
18歳になる今まで一度たりとも婚約者はおらず、私に寄せられる縁談といえばお金持ちの後妻になる話か、爵位が欲しい平民のちょっと裕福な人たちか……。
だいたい、このどちらかだった。
しかも、私の容姿は特に秀でていることもなく、普通中の普通。空気に紛れることができる地味な娘だ。何か特技があるわけでもない。
「お父様、もしかして断れないお相手からの縁談ですか?せめて15歳以内の年の差だとありがたいんですが」
お金がないと、夢見る心は消えていく。
「美しい容姿の人と結婚したい」とか「自分を一途に愛してくれる人がいい!」とか、年頃の乙女らしい理想は抱いていなかった。
「もうそろそろ選り好みしている場合でもないですし、嫁ぎたくないだなんてわがままは言いません。それに、生き甲斐があるので平気です!」
私の生き甲斐。
それは、王宮騎士であるルーヴィス・クライアス様をひたすら崇めることである。
ルーヴィス様は、22歳という若さでありながら王宮騎士隊の副官を務めるエリート騎士で、王都の貴族令嬢の間で知らぬ者はいないというほど有名人だ。
さらりとした金髪に、歌劇場の俳優かと思うほどの端正な顔立ち、そして紫色の瞳は穏やかで気品を感じる。
私みたいに、どこにでもいるダークブラウンの髪と碧色の瞳という地味さとはまるで違う。
勤務先の王立図書館からときおり見える、ルーヴィス様の華麗な騎乗姿を日々の励みにしていた。
「ルーヴィス様が元気で長生きしてくだされば、私はそれで幸せです。お噂はどこにいても耳に入るでしょうし、あの方が騎士人生を力強く生き抜いているということがもう私へのご褒美で……!」
とにかく大丈夫だから、と父に言うつもりがその寸前でかき消された。
「お相手が!その!ルーヴィス・クライアス様なのだ!」
「は?」
「え?」
母と私の声が重なる。
父は一体何を言っているのだろう?働きすぎて頭がおかしくなってしまった?
「ルーヴィス・クライアス様が?あり得ません」
婚約者がいないのは知っている。
それどころか彼の身長、体重、日課のトレーニングメニューなども多くのご令嬢が知っていることだ。
「え?え?冗談ですよね?」
「本当だ」
父は大きなため息をつき、玄関に座り込んでしまった。
膝から崩れ落ちたようにも見える。
「今日、上役の管理官から声を掛けられて……。初めて入る王宮人事室の部屋へ連れて行かれたんだ。そこに騎士団長とその補佐まで揃っていて、リザナとクライアス様との結婚を薦められた」
あまりに立場の違う人たちに囲まれ、父は恐縮しっぱなしで、緊張からほとんど記憶がないという。ただ、今持って帰ってきた【婚約の申込状】は本物で、そこにはばっちり【リザナ・フロンタール】【ルーヴィス・クライアス】という名前が書いてある。
しかも────
「もうサインしてあるじゃありませんか!あなたのサイン!」
母が悲鳴を上げるように指摘した。
父は意識朦朧としながらも、サインはしてしまったらしい。
断れないことは私にだってわかる。
どれだけ悪名高い人物がお相手だったとしても、父の立場と気弱さでは絶対に断れない。
「ルーヴィス・クライアス様と結婚?私が?」
いやいやいや、ないないない。
あるはずがない。
あっていいわけがない!
憧れの騎士様ですよ!?
その微笑みだけで世界が浄化されると言われるルーヴィス様ですよ!?
「私と結婚させられるなんて、天罰ですか?」
可哀そうすぎる。
ルーヴィス様が悪いことをするわけもないけれど、こんなに地味で貧乏な私と結婚しなきゃいけないなんて、なんという罰なんだと思ってしまう。
もしかして、誰かに陥れられた……!?
許せない!誰がこんなひどいことを!?
ほかに素敵なご令嬢はたくさんいるのによりによって私なんて……!!
「どうしましょう……!もう決まってしまったのよね」
母は動揺し、父と同じように床にぺたんと座り込む。
「私と婚約だなんて、ルーヴィス様が可哀そう……!」
涙が滲んできた。
私も床に座り込む。
親子三人、玄関で向き合って床に座り込むという状況にも誰も突っ込めないくらい混乱していた。
「壮大な詐欺では?」
「うちを騙しても取れるものはない」
「じゃあ何なんですか?天変地異の前触れですか?こんな良縁が来るなんて……」
母の気持ちは痛いほど理解できた。
こんな異常なことがあっていいわけがない。
父は随分と長い沈黙の後、私を見て言った。
「リザナ」
「はい」
「もしも、お相手にとんでもない趣味や暴力癖なんかがあったら帰ってきていいからな?」
「は?ルーヴィス様はそんな人じゃないですけど!?」
私はもう二年もずっと彼の姿を見てきたんだ。
部下に対する厳しさも愛情の裏返しだとわかるし(多分)、仲間への気配りも目線で伝わってきたし、愛馬への配慮も欠かさない素晴らしい人ですよ!?
「人は完璧ではないんだ。どんなに紳士で優しそうに見えても、妻にはきつく当たる男もいる!確かに断れない縁談だが、娘がつらい思いをするくらいなら一家で路頭に迷う方がマシだ!」
「お父様……」
ちょっと感動してしまった。
「爵位も返上してやる!」
「元からそうするおつもりでしたよね?」
「…………」
領地を手放した我が家は、今やぎりぎり貴族という状態で、税金もほとんど払えていない。
先々代が作った借金が膨らみ領地を売った後、残ったのは砂糖工場の運営権のみ。その利益と父の給金を合わせても利息だけで消えている。
両親は、私さえ結婚すれば爵位も返上して王都の邸も売って、平民の住む小さな借家に移る予定だった。
「もう訳が分からない。とにかく一家全滅の覚悟で婚約に挑もうな?」
「全滅は嫌ですよ」
母はぽつりと呟いた。
私は「全部夢だったらいいのに」と心の中で思う。
冷たい床が現実だと教えてくるけれど、かなり長い時間そのまま呆然としていた。
◆◆◆
「お嬢様、ようこそいらっしゃいました」
クライアス伯爵家の持つ別邸に着いたのは、美しい青空の広がる暖かい日だった。
なんてすばらしい引越し日和。きっと素晴らしい日々が……なんて喜びの感情はまったくない!
ずらりと並んだ使用人たちは、私を笑顔で歓迎してくれているのも違和感がある。
「リザナ・フロンタールです。これからお世話になります」
今ちゃんと笑えているだろうか?
頬がひくひくと引き攣っている気がする。
中へ案内されると、どこもピカピカに磨かれていて王宮かと思うくらい美しい。爽やかな白のクロスに上質な木で作られた調度品、どこも軋まない廊下、シミ一つない絨毯はトントンという靴音まで上品に聞こえる。
執事に案内されてやってきたのは、ルーヴィス様の私室だった。
応接室じゃないんだ、ということにまずびっくりする。
「リザナ嬢、はじめまして」
とびらを開けると、そこには騎士団の隊服ではなく青い盛装にアイボリーのタイという姿の、爽やかさを具現化したようなルーヴィス様がいらっしゃった。
「私がルーヴィス・クライアスだ。よく来てくれたね」
「…………はっ」
一瞬、息が止まっていた。
瞬きするのも忘れていたので目がじわりと痛む。
私は慌てて挨拶をする。
「初めまして。リザナ・フロンタールです。このたびは貴重なお時間をいただきまして、恐悦至極、森羅万象に感謝しております」
「??」
まさか、ご本人と言葉を交わせる日が来るとは思わなかった。
これはもう一生の思い出として、噛み締めて生きていきたい。
「えっと、そんなに硬くならず、ゆったりと過ごしてくれないか?婚約者として今日からここで暮らすのだから」
ルーヴィス様のありがたいお言葉。
優しさの塊が包み込んでくる……!
うっかり泣きそうになるのを堪え、私は言った。
「ありがとうございます。どうか婚約者として、今しばらくよろしくお願いいたします」
「……あぁ、こちらこそよろしく」
予定では、結婚は半年後。
その間は婚約期間ということで、私はこのお邸で行儀見習いをすることになっている。
でも私は、何としてもルーヴィス様から婚約を解消してもらわなければいけない。
こんな女がルーヴィス様の婚約者であっていいわけがないのだから!
目標は、三カ月以内の婚約解消!
この国の法律では、三カ月以内に婚約解消すれば「婚約していました」という記録自体がなくなる。つまり、ルーヴィス様の経歴に傷をつけずに婚約を取りやめることができるのだ。
「今しばらくか……。結婚まで半年は長いと思ったんだけれど、君の言う通り半年なんてしばらくの間かもしれない」
ルーヴィス様はそう言うと、私の前までやってきてにこりと微笑んだ。
「リザナと呼んでもいいかな?」
ひゃぁぁぁ!笑顔が麗しい!!
憧れの人の視界に私が入ってるー!
この状態で冷静でいられる人はいるの!?
お願いだから遠くから見させて!
私はササッと一歩下がり、「はい」と返事をした。
いけない。3カ月以内に婚約解消しないと……。こんなことで動揺しているようじゃ、ルーヴィス様の幸せは守れない!
気合いを入れ直さなければ、と自分で自分を叱りつけるのだった。
◆◆◆
ルーヴィス様のお邸へ来た日の夜。
私はドキドキしすぎて、食事なんて喉を通らなかった。
「魚は好き?鹿肉もおすすめだよ」
「ははははははい、とてもおいしいです……!」
ルーヴィス様が食事をなさっている!
なんていう優雅なお姿、そして私への気遣いまで完璧すぎる。
カタカタと小刻みに震える私は、さっきから何を口に入れているのかよくわかっていない。
あぁ、そんなに見ないでください。
憧れの人のことは隠れて見ていたいけれど、じっと見られるのは困る。
この方に見せられるところなんて、私には何一つ……!
緊張しすぎて、「私はなぜここにいるんだっけ?」と混乱し始めた。
「食事が終わったら、書庫を案内するよ」
ルーヴィス様のその言葉で、私は気づいた。
そうだ。婚約解消してもらうために、「この女と結婚するの嫌だな」って思ってもらわなきゃいけないんだって。
しっかりするのよ!思い出して、考えてきたことを!
私はナイフとフォークをそっと置き、ルーヴィス様に向かって勢いよく話しかける。
「書庫で思い出しましたが、グランドールの『永遠の愛はあなた次第』という恋愛小説をご存じですか?私はあの作品が大好きで、シリーズは全部読んでおります。愛情と復讐のはざまで揺れ動く主人公が必死に生きていく様は心を打たれますわ。幸せになってもらいたいという気持ちとまだ続いてほしいという気持ちがせめぎ合っていますが、幸いにもまだ続いておりまして最新の五巻はせっかく想い合った二人が引き裂かれそうで夢中で読みましたっ……!はぁはぁ……」
一気にしゃべりすぎて、呼吸が乱れてしまった。
息が苦しくて死にそうだわ……!
でもこれで、ルーヴィス様は私のことが嫌になるはず!
喋りすぎる人は嫌われるもの。
男女問わず、一方的に話す人と結婚して毎日長話を聞くのは嫌だなって思うに決まってる!(図書館の室長への印象を参考にした)
ルーヴィス様はしばらく驚いた顔をしていた。
こんなにもよく話す女に出会ったことはないのかもしれない。私もない。
ところがその後すぐ、ルーヴィス様もナイフとフォークを置いて口を開いた。
「私も読んだよ」
「え?」
「グランドールの『永遠の愛はあなた次第』は現在五巻まで出ているね。大丈夫、私も読んでいるから君の感動を分かち合えるよ。あの作品はとても人気が高く、舞台化もされているから今度観に行こう。『永遠の愛はあなた次第』は作者が初めて書いた作品で、二版目が初版部数を超えるという驚異的な人気の作品だから舞台も人気だね。君のためにチケットは何としても手に入れよう、任せてくれ。伝手があるから」
かぶせてきたーーーーーー!!!!
嘘でしょう!?
しかも呼吸も乱れてない!なんで!?肺活量がすごい!
え?騎士だから?騎士ってすごいというかルーヴィス様すごい!
剣の腕が立つだけじゃなくて、身体も健全で神に与えられし逸材さすがルーヴィス様……
って違う!
しっかり会話がかみ合ってしまったのも予定外だ。
ルーヴィス様は、なぜか少し安心したような笑みを見せる。
「ルーヴィス様は読書がご趣味なんですか?」
「うん、君と同じ趣味を持ちたいと思って」
「??」
「君の父上に、ここに住むにあたり何か必要なものはあるかと尋ねたら、真っ先に上がったのが本だと。君の愛読書だと聞き、それで夜通し読んだだけだが」
お父様ぁぁぁ!なんで正直に答えてるんですか!?
ルーヴィス様は誠実な方だから、婚約者のためにそんな努力を……!
恋愛小説を読んでいなくても、誰にも責められないし、むしろ騎士団でこれを読んでいる人はほとんどいないはずで。
貴重な時間を使わせてしまったと思うと、もういっそ飛び降りて償いたいと思った。
「私のためにそんな……」
「同じ話題で盛り上がれるのは思った以上に楽しいな」
奇跡の好感触!
違う違う、私は嫌われて婚約解消してもらいたいのに!
嫌われるにはどうしたらいいかと色々と考えてきたのに、ルーヴィス様の笑顔があまりにも素敵すぎて何もかも忘れてしまった。
◆◆◆
不本意な婚約者生活。
ルーヴィス様はいつも忙しいのに、夜に邸に戻ると必ず私の部屋に来てくれて、一緒にお茶を飲んでくれた。ファンサービスがマメですごい。
私のためにドレスも装飾品も贈ってくれて、しかも「私のために着てくれたら嬉しい」だなんて全女子が気絶するような言葉までくださる。
実際にしばらく気絶した。
使用人は優しいし、私のことを気遣ってくれるし、荒れた髪も指先も次第にツヤツヤになっていき……、私は生まれて初めて貴族令嬢らしい暮らしを経験していた。
「ここは夢の国みたいね」
憧れの人の笑顔がすぐそこにある。
正真正銘の本物だ。
王立図書館の窓越しではなく、ほぼゼロ距離で本物が動いてしゃべっている。
私が息をするのを忘れれば、「リザナ!?大丈夫か!?」と心配までしてくれる。彼に心配をかけるのは心苦しいので、息だけは最優先でしていきたい。
「優しすぎて困る……!」
あのときもそうだった。
私がまだ王立図書館で働き始めてすぐのとき、借りたい本が見つからないと怒る文官の男性の対応で困っていたら、ルーヴィス様が助けてくれた。
常連のややこしい人だったらしく、誰も助けてくれず、皆が「そのうち帰るだろう」って見過ごす中でルーヴィス様だけが私と彼との間に入ってくれたのだ。
一人できちんと対処できずにすみません、と謝る私に対しルーヴィス様は
『君は誠実に対応しようとしていた。悪くない』
と言ってくれた。
あの日から、私はルーヴィス様の存在を崇め、幸せになってほしいって思い続けてきた。
「ルーヴィス様には幸せになってもらわなきゃ」
近づきすぎたら、きっと離れられなくなる。
そんな気がして怖くなった。
「よし、嫌われる作戦に全力を尽くそう」
そう決意し、部屋から出る。
ルーヴィス様は来客中で、夕方頃に話は終わると聞いている。私は婚約解消する身だから、一緒にお出迎えするのは辞退した。
まだもう少し時間に余裕があるはず。書庫へ行こうと思った私が階段を下りていくと、帰り支度をした来客の男性とルーヴィス様が立ち話をしているのが見えた。
隠れなきゃ。
慌てて隠れ場所を捜そうとしたら、二人の会話が否が応でも耳に入ってしまう。
「次は婚約者に会わせてくれよ。仲良くしているようなら安心だけれど」
そのからかうような言い方に、親しさを感じる。
「仲良くするしかないでしょう。私は別にリザナと結婚したかったわけではないのに、こういうことになって……」
その言葉を聞いた瞬間、頭を殴られたように大きなショックを受けた。
当然、わかりきっていたことだ。
私だって、彼が私と婚約した理由は罰か誰かにはめられたんだと思ったもの。
わかっていた。
何か理由があったんだってことくらい……。
あぁ、でもこれはけっこう堪える。
私はすごく勝手だ。
二人とも仕方なく婚約しただけで、ルーヴィス様はそれでもがんばって私と仲良くしようとしてくれて。
涙を堪えきれず、私は走って自分の部屋に逃げ込んだ。
「嫌われようとしてたのに、こんなに苦しいなんて」
ごめんなさい。
何度もそう呟いて蹲る。
「ううっ……うぁぁぁ……」
本当は会いたくなかった。
彼に、私のことを知ってほしくなかった。
ときおり姿を見られたらそれで満足だった。結婚したいなんて思ったことは一度もない。
憧れは憧れのままで、近づくものじゃない。私はそう思い知った。
無理に仲良くなんてしてくれなくてよかったのに。私のことなんて、追い返してくれてよかったのに。
部屋の外に聞こえないように、手で口を塞ぎながら声を殺して泣いた。
◆◆◆
散々に泣いたら、ひどい顔になっていた。
地味な私の顔が、とてもインパクトのある腫れぼったい目になっている。
これでは、泣いたことがバレバレだ。
夕食の時間にルーヴィス様に会うのに、こんなひどい顔は見せられない。
こっそりメイドを呼ぶと私の顔を見るなりかなり驚かれたが、まずは冷たいタオルを持ってきてくれた。これでしばらく冷やし、そのあとで温かいタオルと交互にすると腫れが早く引くらしい。
「お湯を持ってまいります」
「ありがとう……。それから、ルーヴィス様には夕食をご一緒できないと伝えて。体調を崩したからお茶もできないって」
「かしこまりました」
メイドはすぐに部屋を出て、お湯を取りに行ってくれた。
濡らしたタオルが冷たくて気持ちいい。
「はぁ……」
ため息をついたとき、ちょっとだけ思った。
私が泣いてばかりいる女だったら、ルーヴィス様は嫌いになるかもしれないと。
しばらく目を冷やしていると、扉をノックする音が聞こえてくる。
メイドがお湯を持ってきてくれたのだと思った私は、返事をしながら扉を開けた。
「はい」
「リザナ、体調はど……」
「っ!?」
メイドじゃなくて、ルーヴィス様だった。
私は驚いてタオルを床に落とす。
そして、慌てて手で目のあたりを隠そうとした。
完全に目が合ってしまった後なのに、まだ隠せると思うくらいには動揺していた。
「リザナ、誰かに泣かされたのか!?」
「え?」
ルーヴィス様の顔に怒りが滲んでいる。
訓練中の気迫溢れる雰囲気とも違い、こんなに怖い表情を見るのは初めてだった。
「これは……!本を読んであまりに感動して、心が浄化されて涙が滝になってそれで!」
「何があった?本当のことを話してくれ」
なんでバレてるの!?
私は沈黙する。
「本が好きな君なら、ハンカチを手に読むだろう。濡らしてはいけないと対策を取るはずだ」
ごもっとも!
私は言葉に詰まり、じりじりと下がる。
でも、彼は中に入ってきて扉を閉めた。
「リザナ」
「…………」
「私は君の婚約者だ。君が泣いた理由を聞かせてくれ」
まるで縋るような声。
どうしてそんなに私のことを気にかけるのか?
やはり、私と結婚しなくてはいけない理由があるんだ。
誰が一体何のために、ルーヴィス様に私との結婚を強制したの?
ルーヴィス様を解放してあげたい。
望んでもいない結婚をさせたくない。
私は深呼吸をして、ルーヴィス様に尋ねた。
「さきほど、お話を立ち聞きしてしまいました」
「え?」
「この婚約は、仕方なく受け入れたのでしょう?ルーヴィス様は、私と結婚したかったわけではないのにこういうことになったと……。何か事情があるのですか?誰かに脅されたとか」
「そんなことはない!」
即座に否定され、私はびくっと肩を揺らす。
それを見たルーヴィス様は、途端に申し訳なさそうな顔をする。
「すまない、声が大きかった」
「いえ……」
よほど隠したい何かがあるのか、と思っていると、ルーヴィス様がそっと私の手を取った。
「私は君が好きだった」
「──は?」
まっすぐに目を見てそう告げられ、私は目を丸くする。
幻聴かな?と思いつつも心臓がドキドキと鳴り始める。
「君が働く姿をいつも見ていた。一人一人の要望に応えようとするまじめな姿勢や、本を大切そうに運ぶ姿、愛おしそうに本を見つめる目に惹かれて……。気づいたら好きになっていた」
「そんな」
え?え?
私はときおり仕事の合間にルーヴィス様を見ていたけれど、ルーヴィス様も私のことを見ていたってこと!?
全然気づかなかった……。
「だが、結婚したいとは思っていなかったんだ。私の妻になれば、今までのように王立図書館で働くことはできなくなる。それに、社交界でめんどうな人付き合いもしなければならなくなる。図書館で見る君は、とても幸せそうだったからそれは邪魔したくないと……。見ているだけで十分だと思っていたんだ」
でも状況が変わった。
ある日、断りにくい縁談が来たという。返事を渋るルーヴィス様に、王太子殿下が理由を尋ねたそうだ。
「気になっている人がいる、と言ってしまった」
そこからはもう、ほとんど一瞬の出来事だったらしい。
すぐに私の素性が調べられ、借金のことも何から何まで王太子殿下とルーヴィス様の知るところになった。
──君じゃない男が、金に物を言わせて彼女の幸せを奪う可能性は大いにあるよ?どうする?
「王太子殿下にそう言われ、私は君との婚約を決めた。どうしても諦めきれなかったから」
ルーヴィス様は、まるで懺悔するようにそう言った。
私はまた涙が出てきて、頬がひりひりと痛み始める。
「さっき邸に来ていたのが王太子殿下だ。からかいに来たと言うものだから、私はついあんな風に言い訳がましいことを……」
本当にすまない、と落ち込む彼は私の知るルーヴィス様の中で一番可愛らしかった。
しゅんと落ち込んだ姿が堪らなく抱きしめたくなる。
可愛い。好き。祀りたい。
泣き笑いのようになっていると、ルーヴィス様は突然に言った。
「でもそれを聞いて泣いたと言うことは、リザナも私に好意を持ってくれていると思っていいだろうか?」
「っ!?」
一瞬で涙が引っ込んだ。
私が、好意を持っている!?ルーヴィス様に!?
世界を統べる神が降り立った……みたいな神々しいこの方に好意を!?
「そんな!とてもそんな好意だなんて」
顔が真っ赤になっているのがわかる。
それでも、憧れの人に恋愛感情を抱くなんて恐れ多くて認められなかった。
ルーヴィス様は私の手を握る力をさらに強め、ぐいっと顔を近づけて言った。
「私の半分でも、いや、十分の一でもいい。君に好きになってもらえるように努力しよう」
「えっ、ひっ、ええっ?」
「私は君が思っているよりもはるかに君が好きだ。自分でも、まさかここまで執着してしまうとは思っていなかった。何度でも言う、君が好きだ。一緒に暮らし始めたらその笑顔がさらに愛らしく見えて、毎日会えることが嬉しくてどうにかなりそうだった。君がいてくれるだけでいい、君が笑ってくれれば私は幸せになれるからその分をどうか返させてほしい」
「肺活量ぉぉぉ!!」
早口で一気に撒くし立ててくるルーヴィス様に、私は狼狽えることしかできない。
「失礼いたします」
そのときメイドがやってきて、そっとテーブルにお湯の入ったポットやタオルなどを置いていく。私と目が合ったけれど、にこりと微笑まれ、助けてはもらえなかった。
また二人きりになった部屋で、ルーヴィス様は嬉々として私の世話を焼こうとする。
「タオルはこれを使えばいいのか?」
「ひぃぃぃ!やめてください、そんな、私が自分でやりますからどうか!」
ルーヴィス様にこんなことさせられない!
でも彼はとても嬉しそうだった。
「君は椅子に座って。私に任せてくれ」
私は彼に抗うすべを持たない。
どうあがいたって、ルーヴィス様を好きになってしまうのだろう……そんな気がした。
衝動に駆られて、ふらっと書いてしまいました…!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!