遠距離恋愛が始まる前夜の話
「今夜は帰らない」
「朝まで一緒にいたい」
うっかり自分の心の声が漏れたかと思った。でもそれは確かに彼女が発した言葉だった。
俺の転勤によって遠距離恋愛となる俺と彼女は、明日の新任地への出発を前に離れがたい気持ちで終電間際の駅にいた。
終電を告げるアナウンスが鳴り響き、彼女が改札に入っていく。
「じゃ、また明日」
「……うん。また明日な」
そんな短い会話のあと、彼女は小さく笑って改札の奥に消えていった。
その少し後に終電がホームに入り、数秒後に再びホームを離れていく音が聞こえた。
「さて、俺も行くか」と駅に背を向けた途端、彼女の声がした……ような気がして思わず振り向いた。
そこには駅を背にした彼女が泣きながら立っていた。
「今夜は帰らない」
「朝まで一緒にいたい」
そう彼女ははっきりと言い、俺のそばまで走ってきた。
俺は言葉を失って立ち尽くした。
……なんで今言うんだよ?今そんなこと言われたら俺が彼女から離れられなくなる。
そうなる前に、なんとかして彼女を家に帰さなくては。と俺は思った。
本当は、俺だって朝までずっと彼女と一緒にいたい。出発のその時までずっと寄り添っていたい。しばらく会えなくなる分たくさん話もしたい。
でも……一晩中2人だけでいれば俺の理性がもたないだろう。そうなれば、彼女に思いの丈をぶつけて怖い思いをさせてしまうことはわかっていた。
俺は半ば混乱しながら口を開いた。
「なんで……」
と言ったつもりだった。
でも実際には声が出ず、口をパクパクするような間抜けな感じになっていた。
そんな俺の様子を見て、彼女は怪訝な顔をした。
くそ。なんでこんな肝心な時に言葉が出ないんだ。
いや、その理由はわかってる。
俺も彼女を帰したくないんだ。
明日から2人は離れ離れになる。不安にならないわけがない。だからこそ、本当は彼女に俺のすべてを受け入れてほしい。
……ダメだ。この気持ちを彼女に知られたら、彼女は俺の元から去ってしまうだろう。
「俺って最低だな」と思った。
しかし、もう終電は出てしまったし、夜半から降り出した雪がだいぶ積もってきた。何より凍えるほど寒い。ここにいたら2人とも風邪を引いてしまう。
だから、俺が予約しているホテルで彼女も泊まれないかどうか尋ねてみようと思った。
夕方にチェックイン済みだったビジネスホテルのフロントで、シングルからツイン変更できないか?とスタッフに尋ねてみた。
すると「セミダブルなら空き室があるので変更しましょうか?」とスタッフが言ったので、部屋をシングルからセミダブルに変更した。
彼女とはすでに大人の関係になっているが、今夜は完全に理性をなくしそうで怖い。できればそうならないことを祈ろう。
そう思いながら、俺はフロントから部屋の鍵を受け取った。
ホテルの部屋に入ってすぐ、俺たちは交代でシャワーを浴びた。
俺がシャワーを済ませて部屋に戻ると、先にシャワーを済ませていた彼女がぼーっとした表情でベッドの端に座っているのが見えた。
「どした?ぼんやりして」
「あ…」と小さく声を上げた彼女。ホテル備え付けのナイトウェアを着た姿が妙に色っぽい。
……うわ…理性飛びそう…
俺は平静を装って彼女の隣に腰を下ろす。
「今日は引越しの手伝いありがとう。疲れただろ?」
「……少しね」
……限界だ。これ以上そばにいたら彼女を襲ってしまう。
俺は慌ててなけなしの理性を掻き集め、ようやく口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「俺今夜は何もしないから安心して」
「え?」
彼女は一瞬怪訝な顔をしたあと、ハッとした顔で俺を見た。
……まずい。失言だった。
耳まで真っ赤になる彼女をまともに見られないまま、俺は深い自己嫌悪に陥りかけた。
ところが。
彼女は首を激しく横に振り、しがみつくように俺の体に腕を回した。そして、「明日から離れ離れになるのが寂しい」と泣きながらさらに強く俺の体を抱きしめた。
予想外のリアクションに戸惑いながらも、俺はそっと彼女の体に腕を回す。すると彼女は潤んだ瞳で俺を見つめた。
……ヤバい。俺も泣きそう。
そんな俺の思いを知ってか知らずか、彼女が俺の胸に顔を埋めて「大好き」と小さな声で言う。
……俺もお前が死ぬほど好きだよ……
そう小さく呟きながら、俺は彼女を強く抱きしめ返した。
「……このままだと、多分俺理性飛んで何するかわかんないよ?」
「うん」
「怖くない?」
「怖くないよ」
彼女がそう言いながら俺に笑顔を見せた瞬間、わずかに残っていた俺の理性は跡形もなく吹き飛んでしまった。そして一晩中彼女を離さなかった……らしい……翌朝彼女から聞いた話だが。
……実を言えば、その晩自分が何をしたかはあまり覚えていない。
朝横で眠る彼女を見て、初めて自分の理性が完全にぶっ飛んでいたことに気づいたくらいだ。
それでも、彼女はそんな俺を受け入れてくれた…そのことは一生忘れないだろう。
初めて「寂しい」と泣いた彼女を強く抱きしめながら俺は決心した。
1日も早くこの遠距離恋愛を終わらせる。俺の未来は俺が決める……と。
それぞれがそれぞれの場所で築いてきたものを捨てないまま、共に生きる手段はもう見つけている。
この状況でそれを実行できるかどうかは賭けになるから迷っていたが、今はもう迷いなくその方向に進むつもりだ。
その可能性に賭けてやってきた根回しや準備はきっと無駄にはならない。あと少しだ。
……それを知ったら彼女はどんな顔をするだろうか?喜んでくれるだろうか?それとも怒るだろうか?
カーテンの隙間からベッドに朝日が差し込み、眠そうな目をした彼女がこちらを見て微笑む。そのかわいい表情に少しドキドキしながら彼女をそっと抱きしめ、俺は前から温めてきた計画について話し始めた。
ずっと前に書いたものに手を加えてアップしました。
本小説はnoteにも掲載しています。
https://note.com/chitoseshizuoka/n/n810a1bab1109
この小説を書いているうちにキャラクターが勝手に動き出した感じですが、その過程で彼は転職を決心したようです。