ラムネ瓶
裸の女の人が、部屋の中にいた。
マイクを持って、仁王立ちをしていて。突然の侵入者であるあたしに、驚きを隠せないようで。あたしもびっくりはしたけどその女の人ほどじゃない。失礼だと分かっていたけれど、女の人のあんぐりと開けた口から素足まで、まじまじと見てしまった。それに気がついた女の人はハッとした顔になり、そばにあった服を前にあてた。
「……すいません。もうすぐお時間ですよ」
「え、ええ。そうね。もうすぐ出るから、レジで待っててちょうだい」
あたしはおとなしくレジに戻り、伏せていた将棋の本を片手に詰将棋を再開した。紫色の照明の下、パチンパチンと景気のいい将棋盤の音と、防音が施された部屋から聞こえてくるぼやけた音楽が部屋の中で反響していた。あの女の人が来たのは、それから数分後のことだった。今度は裸ではなく、ぴちっとしたスーツを着込んでいるOLの姿。おどおど、といった表現が一番正しいような挙動で、椅子に座るあたしを見下ろす。うつむこうにも、あたしが下にいるのでうつむく意味がないのだ。
「あ、その、お会計を」
「……八百円です」
千円札を差し出す手は、震えていた。あたしは何事もないように受け取り、お釣りを差し出す。と、その手が押し返された。
「あの、これはあげるから」
「……そうですか」
断る理由もないので、スカートのポケットに百円玉を滑り込ませる。そんなあたしに、女の人は言う。
「だから、その、誰にも言わないでね?」
「…………。わかりました」
なにを、なんて無神経なことは言わない。それ言う以上に無粋なことはないって、子供にだってわかる。
返事を聞くと、ほっとしたような、でもまだ疑っているような顔をした。あたしが誰かに話すんじゃないかって、疑っているようだ。そんな疑惑を消すように付け加える。
「大丈夫ですよ。神に誓って話しません」
「そ、そう?」
あたしの言葉に信憑性があったのか、それともこれ以上疑っても仕方がないと思ったのか。女の人はこちらを一度だけ振り向いて、店を出て行った。
「……で、これはその口止め料ってわけなんだ」
「そうゆうこと」
駄菓子屋の前、雨風にさらされてすっかりペンキがはがれたベンチの上に、あたしたちはいた。サンダルをはいた足をぶらぶらさせ、ラムネ瓶をあおる。
目の前を、サッカーボールを蹴りながら男子が通り過ぎていく。この暑い中、よく動けるな。汗をぬぐいながら思っていると、隣のヒロコも同じことを思ったらしい。「この暑い中、よく動けるね」と一字一句まったく同じであたしの脳内を再現した。
後ろに広がる竹藪が、さらさらかさかさと風に揺れる。蝉の音はけたたましく鼓膜を震わせ、黒いワンピースの上に汗を落とす。首にべっとりと張り付いた髪を触りながら、切ろうかな、と考える。少なくとも、ヒロコみたいにポニーテールにしたら涼しそうだ。
そのヒロコが、ポニーテールを揺らしながらこちらを向く。私と同じく、頬を汗が伝っていた。
「わたしに話しちゃっていいわけ? 神に誓って誰にも話さないんじゃなかったの?」
「あたし、神様は信じてないから」
「…………。そっか」
飲み終わったらしく、瓶のふたを開けている。中のビー玉を取り出し、太陽の日に透かした。
「カラオケってさ、そんなに変な人たちばっか来るの?」
「そうゆうわけじゃないけど。うちは特別だと思う」
あたしの家は、小さなカラオケを経営している。店番はほとんどあたし。あたしが学校に行ってる間はあたしの親父が店番をしているんだけど、あたしが店番をしている間はバイトに出かけてる。場所もよくないし、店内が一面紫というおかしなカラオケだから。学生をはじめ、どんな年齢層にも人気がない。それでも常連さんがいて、潰れないでやっていけてる。まあ、その常連さんも昨日一人消えたけど。
それにしても、と昨日の光景を思い出す。あの女の人の裸、きれいだった。肌が白くて、乳房はやわらかそうで、くびれもあった。うちには母親がいないから、女の人の裸というのは珍しく、あまり見たことはない。あたしの母親も、あんな感じだったのかなあ。
どうして、あの女の人が裸で歌っていたのかは知らない。ストレスがたまっていたのか、酔っぱらっていたのか。いつも脱いでいるのか、昨日偶然脱いでいたのか。そんなことは知らないし、知りたくもない。誰もがそれぞれの事情を抱えているもんだ。それを詮索するのは、あまり好きじゃない。
「ねえ、他にはどんな人が来るの?」
「そうだねぇ……あ、そういえばね」
ラムネの最後の一滴を飲み干し、ヒロコの方を向いた。
一人でカラオケに来るのは、真面目な感じの人ばかりだ。スーツを着ていたり、眼鏡をかけていたり。その人は、どちらも持ち合わせていた。
猫っぽい鋭い目に眼鏡をかけて、ぱりっとしたスーツを着た三十代ほどの男性。うちの親父の地球の反対側にいますって感じがした。ただひとつ目を引いたのは、ものすごく大きなスーツケースを持っていたこと。名簿に名前を書いて、あたしもいつも通りに対応して。ごくごく普通のお客さんだった。
「……それ、変でも何でもないじゃん。おもしろくないなー」
「もうちょっと聞いててよ。面白いのはここからなんだから」
指定された時間が近づき、あたしは気がついた。あたし、あのサラリーマンをインターホンが壊れた部屋に通してしまったのだ。あの女の人を見る羽目になった、あの個室に。
仕方なく、直接呼びに行った。番号が書かれた扉の前に行き、ノックをする。……反応がなかったので、もう一度。もう一度。それを五回ほど繰り返し、ついに苛立ったあたしは扉をがちゃっと開けた。「もう時間です!」とか言いながら。そしたら――――。
「そしたら、何?」
「おどろくよ。あのねぇ……」
ヒロコの耳元に、そっとささやく。そのとたん、ヒロコは大笑いし始めた。あたしもそれを見て、くすくすと笑う。腹を抱えながら、思いっきり叫んだ。
「そのひと、カマだったのぉ?」
「そうなんだよね。化粧して、ドレス着て。真面目そうなサラリーマンだよ? それが真っ赤な口紅してて……これがちょっと、美人なの」
「きもいー!」
そう言ってあたしたちはしばらくげらげらと笑っていた。駄菓子屋のおばちゃんが、「うるさい!」と一喝するまで。
「へー。それで、どうしたの?」
「ふふ。ここからが驚くんだけどねぇ……」
あたしはあんぐりと口を開けてしまった。ソファーに座っていたのは、真面目そうなサラリーマンじゃなくて、真っ赤なドレスを着たきれいな女の人だったから。茶色いサラサラの髪はと、ぱっちりとした目は見とれてしまうほどきれいだった。部屋を間違えたのかと思ったけど、インターホンが壊れてるのはこの部屋。間違いない。おずおずと、あたしは訊く。
「……あのー、この部屋には男の人がいたはずなんですけど……」
そこであっと思い出す。この目、あのサラリーマンの鋭い猫目だ。眼鏡をかけていないのですぐにはわからなかったが、間違いない。
「あんた、もしかしてサラリーマン?」
驚きのあまり、お客だということも忘れタメ口をになってしまった。女の人改め、サラリーマンはあわてた。手をぶんぶん振りまわして「いや、その、これは、その」と口をパクパクさせていたが、やがてぐったりとうなだれた。あたしはどうすることもできなくて、そこに突っ立っていた。
「……話を聞いて、もらえませんか……」
弱々しく、顔をあげる。鋭いと思った目は、すっかり力を無くしていた。小五の小娘になにを話すんだ、と思いつつ向かいのソファーに座る。どうせ、客も来ないだろう。一人で詰将棋をしているよりはましだと思ったのだが、思った以上に相談の内容は重かった。
なんでも、サラリーマンには妻と娘がいるらしい。それも、あたしより大きな。その二人はサラリーマンの趣味、つまりは女装のことなど微塵も知らないのだという。一度だけ恋人に話したことがあるが、あっという間に別れ話を持ち出されたとのこと。それ以来家族や同僚、友人にさえも趣味のことが言えないでいると、吐き出すように喋った。
きっと、誰かに相談したかったのだろう。それがたとえ、子供であっても。だからあたしは、きちんとそれに応えてあげることにした。
「……それで、サラリーマンさんは女装を続けていたいんですか?」
力なく、うなずく。その姿は先ほどより、ずいぶん老けた気がした。
「だったら、続ければいいじゃないですか」
「……それでも、ばれてしまうと思うと怖くて……離れていってしまうんじゃないかって……」
そんぐらいで離れていく人たちなんて必要ないよ、と言いたかったのだが、今にも崩れてしまいそうなサラリーマンには言えなかった。きっと、それでもサラリーマンには必要な人たちなのだろう。あまり社会的ではない趣味をみんなが知ったら、きっと会社での立場も悪くなる。大人の事情ってやつかな。
「じゃあ、うちの店を使ってくださいよ」
「え?」
あたしとしては至極当然の提案をしたつもりだったのだが、サラリーマンには予想外の話だったらしい。わけがわからないという顔をしているサラリーマンに、説明をしてやる。
「うちの店、空いてる物置があるんですよ。そこに衣装とか置いといてあげます。そしたらサラリーマンさんが女装したい時に来て、個室で思うぞんぶん女装したらいいじゃないですか。あ、鏡ぐらいだったら住居のスペースの方から持ち出しますよ」
「君……」
戸惑いの残る、それでも嬉しそうなサラリーマンの顔に、あたしはちょっとくすぐったくなった。あたしの手を取り、何度もありがとう、ありがとうと手を握りしめる。その手のあったかさは、決して不快なものではなかった。
「ふぅーん……いいとこあるじゃん」
そういわれ、ちょっと照れた。それを誤魔化すように、そっぽを向く。
「そう? あのあと追加料金とったんだけどね」
「金とったのかよ」
「ついでに、場所代も月々いただくことにしたぜ」
「商業魂たくましいな、おまえ」
呆れたようなヒロコの視線を、あたしは口笛を吹いてかわした。よっ、と言って、ベンチから降りる。
「もう帰るの?」
「まあね。もうそろそろ店番交代しなきゃだし」
「そっか。……いよっと」
かけ声をあげ、ベンチから降りる。空になったラムネ瓶をごみ箱に放り込んだ。ガラスがぶつかりあう音、こすれる音がした。
「そうそう、夏休みの宿題終わった?」
「まだまだ。算数はちょっとやったけど」
「そうか。じゃ、写させて」
「やだね」
「つめたいなー」
「ただでさえ留年の危機なんだから、真面目にやれよ」
「義務教育なんだから、留年なんてしませーん」
あたしの冷たい視線を、今度はヒロコがよける。ヒロコの長いポニーテールが、太陽の光に反射して金色に光った。
「ごちそうさんでした。じゃあね」
「おー」
あたしはそう言うと、くるっと踵を返した。ヒロコも同じだろう。あたしはヒロコと正反対の方向へ、走る。
おかしな人間が来る、小さなカラオケに向かって。
どうも、時計堂です。
これは、図書館グランプリという学校のイベントに出す予定の短編です。某友人から、
「どーみても小学生に無理がある」
とのコメントをいただきました。でも、冷めた小学生って好きなんですよね。個人的に。ついこの前まで小学生だった私が言うか、という感じですけど。
でも、根性無しの私は作品を出すのを人に見られるのが恥ずかしく、なかなか出せないでいます。意気地無しです。出そうと思って、出せないです。ああ、だいぶ前から準備してるのにまだ出せないよ!
締切は今週の金曜日。明日こそ出しますよ!
では、また御縁があったら。