第8話 Y
土曜日、とうとうわたしは、三通目の添削がどうしてもできずに、ちょっと泣きそうになりながら美里さんの家に封筒を届けた。
美里さんは「ぜんぜん大丈夫だって! ごめんね私も無理言って」と笑ってくれたけど、わたしは悔しかった。
きっと、異世界の言葉で書かれたみたいなあの手紙にも、書いた人の心がこもっていたはずなんだ。それをわたしは、受け止めてあげられなかった。
結局、「文学書を読みましょう」なんてありきたりな返事しかできなかった。本当は、「この本を読んでみてください」と書名まで出せればよかったんだけど、どれが一番いいのか迷ってしまって、決められなかった。好きな本はたくさん家に置いてあるのだけれど、それはあくまでわたしの好みだ。あの手紙を書いた人にとってもいい本なのかどうか、不安だった。
きっと、あの手紙の主から、これ以上添削をお願いされることはないと思う。あんな返事をしてしまったのだから、もう頼もうとは思わないだろう。
でもせめて、またあんな感じの手紙が誰かから来たら、そのときはきっと、何か一冊おすすめできるようにしよう。
だから、今日は学校の図書室でそういう本を見つけようと決めていた。小さな図書室に置いてあるような本だったら、たぶん、日本の図書館のどこにでも置いてあるだろう。普段文学に興味がなくて本を買わない人でも、それなら手に入れやすいはず。
そう思いながら、放課後の図書室の扉を開ける。その向こうには、学校といううるさい場所の中で区切られた、神聖な安息所がある。心のなかで、こんにちは、と本たちにあいさつをする。寒い日に焚き火にあたったときの、ほんわりとした気持ちに包まれる。
静かな雰囲気を乱さないように、足音を立てずに文学書の本棚へと歩いていく。入口からは遠い。でも、それでいいんだと思う。入口に近かったら、外の騒音が入ってきて、息を潜めるように本に宿っている物語が壊れてしまうから。
近づいていくと、文学書たちの隙間から、誰かの姿が動くのが見えた。
珍しいな。ほかに誰かいるなんて。
そうして、本棚と壁のすき間をのぞいたわたしは、やけどしたみたいに、ほんの小さく飛び跳ねてしまった。
数野くんが、そこにいた。
片手を眼鏡にかけて、文学書たちの背表紙に視線を走らせている。
わたしはとっさに、胸のあたりを押さえる。そうしないと、どきどきして逃げ出してしまいそうだった。
どうして文学書のところにいるんだろうという疑問と、この前の数学の授業で助けてくれたときの勇姿と、あと、その、わたしがいつも勝手に妄想しているいろんなことが入り混じってごちゃごちゃになる。
そしたら、数野くんがこちらを見た。
ずっと遠くの見えないものを見定めているような、透徹した視線。わたしはいつも教室で、こっそり数野くんの方を振り返っては、彼には何が見えているんだろうと、憧れを膨らませていた。
四、五歩の距離を挟んで、つかの間、わたしたちは見つめ合った。
その一瞬に何があったのか、わたしにもわからない。
でも、きっと、とても大きくて尊くて明るい何かが、私の心に灯ったのだと思う。
わたしはその明るさに耐えきれなくて、彼に向かって頭を下げると、生まれてはじめて、数野くんに言葉を向けた。
「あのっ、……この前は、ありがとう、ございました」
不器用で、たどたどしくて、細切れの言葉。
「…………この前とは」
彼が静かな声で、ぽそりとつぶやく。わたしは顔を上げて答える。
「数学の授業のときです。わたしが答えられなくて困ってたら、助けてくださって」
「……ああ、そうだったね」
抑揚のない声で言う彼。
「それで、よかったら、なにかお礼できないかと思って」
………あれ?
ちょっと待って、わたし、今なんて言ったの?
戸惑いをよそに、言葉が出てくる。
「そんな大したことはできなくて、本のことぐらいしかわからないんですけど」
待って待って。
自分の大胆さに、わたしはびっくりしていた。
「……それならちょうど、お願いしたいことがあるんだが」
「はい?!」
もっとびっくりして、声が上ずってしまった。恥ずかしくて、朝一番にオレンジジュースをのんだときみたいに、頬のあたりがきゅーんとする。
「本を、選んでくれないかな」