第5話 Y
昼食と片付けを終えて、お父さんはまた書斎に戻った。
さて、始めよっかな。
わたしは自分の部屋に戻ると、机のわきの本棚から国語辞典と文法書、さらに類語辞典を取り出す。文章や手紙の添削は、誤字脱字や文法がおかしいところを直すのは当たり前だけど、表現が単調になってしまっているところは、似た意味のもっと豊かな言葉におきかえたりする。そういうとき、類語辞典はとっても役に立つ。こんな言い方があったんだと発見することがたくさんあって楽しい。ときどき、添削そっちのけで類語辞典をめくってしまうので困っている。
そして、筆箱から赤鉛筆を取り出す。
ダーマトグラフという、紙をくるくる巻いて芯を出すタイプの色鉛筆だ。添削を始めたときに美里さんが10本ぐらいプレゼントしてくれた。昔からお父さんが本に線を引くのに使っていて、ちょっと憧れていたんだ。
今日もよろしくね、と心のなかで赤鉛筆に声をかけて、右手に持つ。封筒を開けて、三枚の用紙を取り出す。ざっと目を通す。
一枚目は、中学校の恩師に出す手紙ということだった。文体から温かい人柄と、当時の懐かしい思い出が伝わってくる。同じ言葉の繰り返しが多いから、同義語に置き換えるのがよさそう。
二枚目は、お仕事用の文章らしい。得意先に挨拶の葉書を出すときに、時候の挨拶にちょっとアレンジを加えてオリジナリティを出してみたい。こんな言い方をしても問題ないでしょうか、という質問が書かれている。ほんの少し季節がずれた言葉が入ってるから、直しておこうかな。季語辞典も後で持ってこよう。
三枚目は、気になっている人に出す手紙ということだった。そのコメントを読んだだけで、気が引き締まる。ラブレターって、いちばん大切だと思うから。今まで数枚添削したことがあるけど、本当はあまり人に見られたくないはずの文章を、これでちゃんと伝わるかな、と心配になって添削をお願いしてきたんだと思う。だから、精一杯こたえないと。
コメントに引き続いて、三枚目の本文を読む。
「っぷしゅっ」
びっくりして、大きなくしゃみが出てしまった。
だって、こんなのが書いてあったから。
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君の(σ_1 σ_2^(-1))^mが
僕の視線を 引き寄せる
五次交代群が非可解なように
君も不可解
虚数よりもimaginaryな僕は
存在確率ほとんど0
i と愛は どちらが重いかな
ℵ0よりも濃い僕の思いを書くには
この余白は狭すぎる
だからどうか
僕と 共役になってください
※mは整数です
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UFOが窓を破って部屋に乱入してきて、宇宙人が宇宙語で宇宙の演歌を1曲歌って去っていったみたいな、ぽかーんとした余韻が、頭の中で響いている。
なに、これ。
どうやって添削すればいいの。
なんか、σとかℵとか、見たこともない記号が入ってるし。
美里ちゃんのいたずらっぽい笑顔を思い出す。手強いどころじゃなくて、意味不明だよお。
いくつか、聞いたことのある言葉もある。「確率」とか、「整数」とか。
数学…だよね。
ふと、数野くんの姿が浮かぶ。カカカッというチョークの音が耳に蘇る。かっこよかったなあ。
ちがうちがう、今はそんなことじゃない。ぶんぶんと頭を振って妄想を打ち消す。
これを書いた人は、何か伝えたい思いがあって書いたんだから、ちゃんと添削しなくちゃ。美里ちゃんの期待に応えるためにも。
とりあえず私は、やりやすそうな一枚目と二枚目から、添削を始めることにした。