第4話 Y
本を読むときって、みんな何を飲むんだろう。
わたしは紅茶だ。お母さんが紅茶好きで、昔から家の戸棚には、いつもちょっといい茶葉が入っている。そのうちわたしも飲むようになった。お気に入りはダージリンで、中でもとくに香りが豊かなもの。本を読むときに飲むと、紙の匂いと茶葉の香りが混ざる。まるで、物語の世界からいざなわれているみたいで、おとぎ話の主人公みたいな不思議な気持ちになる。
土曜のお昼前、わたしは家のリビングで、紅茶を片手に文庫本を読んでいた。窓の外には、秋の柔らかい日差しと、緑の小さな庭がある。風が運んできた落ち葉の匂いが、ほんの少し、家の空気にもとけこんでいる。
今日、お母さんはお友達と出かけるとかで一日家にいない。お父さんはいつものように書斎にこもっている。二人分のお昼ごはんをつくるのはわたしの仕事だから、ほんとはそろそろ準備したほうがいいんだけど、本がなかなか離してくれない。
昨日学校でも読んでいた文庫本のお話はいよいよクライマックスだった。ずっと主人公の男の子を避けていた女の子が、星降る海辺で、彼にすべてを話す。一文字も読み落とせないくらい、強く惹きこまれる。
にゃ〜、にゃ〜、にゃ〜、にゃ〜
子猫の鳴き声がした。でも、うちで猫は飼っていない。
怖い話じゃなくて、スマホの着信音だ。もとから設定されている着信音がいやで、お父さんに頼んで変えてもらった。
わたしは物語の世界から飛び出して、あわてて小説にしおりを挟む。本を閉じると、スマホを手に取る。画面には「天野 美里」と名前が出ている。来た来た。まちがえてうっかり切ったりしないようにそおっと受話マークをスライドして、耳に当てる。
「やっほ〜、とわのん!」
いつもどおりの、水が笑ってるみたいにすきとおっていて元気な声がした。
「こんにちは。美里さん」
「もう、カタイなあ。昔みたいに『おねえちゃん』でいいのに」
「いつの話ですか」わたしは笑って答える。
美里さんは近所に住んでいるお姉さんで、わたしが小学校に上がる前から家族ぐるみで付き合いがある。今は大学の二年生だ。文学部に通っていて、わたしに負けないくらい本が好き。でも、姉御肌というか、ちょっと豪快なところがあって、内気な一人っ子のわたしは、そんな美里さんを「おねえちゃん」と呼んで慕っていた。中学生になってから、なんだか恥ずかしくて名前呼びに変わってしまったけど。
「ごめんね急に電話しちゃって。本読んでた?」
「大丈夫ですよ。美里さんのお電話ならいつでもうれしいです」
「くっ、そんなん言われたら惚れてまうやろ……」
こんな、なんでもないやり取りが楽しい。学校ではこんなふうにおしゃべりできる相手はいないから。
「え〜と、本題なんだけどさ、今週もまたお願いしていいかな。添削が三枚あるんだけど」
「ええ、お引き受けできます」
「そんじゃ、今から行くね。三分間待つのだぞ〜」
そう言って、美里さんは通話を切った。
美里さんが個人で作っているホームページがあって、そこで文章や手紙の添削を無料でやっているらしい。誰かの文章を磨いて光らせていくのが好きなんだよねと、いつか語ってくれたことがある。将来は出版社に勤めて編集者になりたいとも言っていたから、その練習でもあるのかもしれない。
ボランティアで添削という手間のかかることをやっているのも偉いし、何より、自分でホームページを作って運営するなんてこと、パソコンが苦手なわたしからしたら、神さまのわざみたいでくらくらする。
ホームページからは一日に十件前後の依頼が来て、それを全部一人で添削しているらしい。でも週末だけ、わたしがちょっとお手伝いさせてもらっている。高校生になったとき、入学祝いにほしいものはないか美里さんに聞かれて、わたしにも添削をやらせてくださいとお願いした。興味があったし、忙しそうな美里さんの負担をちょっとでも軽くできるならうれしかった。
初めのうちは教えてもらうことばかりだったけど、最近はそれなりに添削できるようになってきた。文を整理したり、より伝わる表現を選んだりしたのが美里さんにほめてもらえると、うれしくてきゅんとなる。
ピンポーン。
あ、来た来た。
玄関に行ってドアを開けると、封筒を持った美里さんが立っていた。
「これ、僕の気持ちです!」
芝居がかった調子でそんなことをいいながら、封筒をこちらに差し出す。
「はいはい、確かに受け取りましたよ」
笑いながら言って、わたしは封筒を受け取る。
「美里さん、今日もジャージですか」
「だって楽なんだも〜ん。服選ぶのとかめんどいし」
「せっかく美人なんですから、もっとかわいい服とか着ましょうよ」
「なっ」
わかりやすく顔を赤くしてあわてる。この反応が楽しくて、ときどきからかってしまう。
と思っていたら。
「かわいいのはお前だっ!」
なんて言いながら、わたしをぎゅっと胸に抱き寄せる。柔らかくて温かい感触に包まれる。体がほわっと熱くなる。
「わ、や、やめてくださいってば。封筒折れちゃいます」
「あ〜も〜、黒髪清楚文学少女JKなんてほんと最高だわ〜。こんな愛らしい生き物を乗せて回ってるなんて、地球は幸せものだね〜」わたしの頭をなでなでしながら、美里さんが言う。この人はときどき、比喩が大げさだ。
わたしを拘束する両腕からもぞもぞと抜け出して、ドアの前に戻る。
「それじゃ、今日か明日ぐらいには添削して届けますね」
「うん、ありがと〜」
美里さんは、獲物に逃げられたことも気にせずけろっとしたご様子だ。わたしがドアを開けて家に入ろうとすると、美里さんが呼び止める。
「あ、そうそう、今回のやつさ」
「?」
振り返ると、美里さんがいたずらっ子のような目でニヤッと笑っていた。
「手強いのが一つ入ってるから、楽しみにしといて」
「え、それ、わたしがやるんですか?!」
「とわのん、最近腕上がってきたからさ、チャレンジチャレンジ。がんばれ〜」
そう言って、美里さんはジョギングするように走って去っていった。
上達したと言われたのがうれしくて、ちょっと頬がゆるんでしまう。まあ、やってみるか。
半開きのままだったドアを開けて、今度こそ家に入る。
そしたら、ドアのすぐ内側にお父さんがいた。
「とわちゃーん、父さんお腹へったな…」
元気のない様子でお父さんが言う。
「あ、ごめん! すぐ作る」
昼の献立をささっと頭の中で組み立てながら、私は台所へ向かった。