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第2話 Y

はあ、とため息がこぼれる。

一日の最後の六時間目に数学の授業なんて、いやだなあ。

立てた数学の教科書に隠れて、わたしは机につっぷしていた。肌にひんやりと心地いい。木の匂いにワックス系の匂いがわずかに混じった、合板の匂いがする。

手持ちぶさたで、右の三編みをくるくると手でいじる。ほどけちゃうからやらないほうがいいんだけど。

チョークのカツカツという乾いた音が教室に響いている。子守唄にはなりそうもない、冷たい音だ。さっきから先生はこちらを見もしないでただ板書をしているから、寝ていても大丈夫だろう。おじいさんとおじさんの間くらいの数学の先生は、いかにも内気な感じの人で、あまり生徒に関心がなさそうだ。

どうして、数学なんてやらなくちゃいけないんだろう。教科書を見ても、宇宙人の言葉で書かれてるみたいで、「読む」ことすらできない。頭からぷすぷすと煙が出そうになる。

小説の方が、ずっと面白いのにな。

わたしは、机の中に隠していた文庫本をこっそり取り出す。さっき読んだところでは、女の子が男の子をこっぴどく振っていたんだけど、女の子は辛そうに泣いていた。早く続きが読みたい。

文庫本を開こうとしたところで、

「それじゃあ、ここ、答えてみなさい。静海」

「?! っ……」

びっくりしてくしゃみが出そうになったけど、恥ずかしさでなんとか抑えこんで、慌てて顔を上げる。

先生がこちらを見ていた。

裁判で起立を命じられた被告人みたいに、わたしはおずおずと立ち上がる。椅子と床のこすれるギギギという音のせいで、喉がむずがゆくなる。

黒板を見ると、たくさんの文字と記号と数字が書かれていた。

わかるのはそれだけ。記号の意味とか、数字の理屈とか、なんにもわからない。まるで、記号たちがぎょろっとこちらをにらんでいるみたいでこわい。

頭の中がいきなり吹雪になって、あっという間に白で埋め尽くされる。それなのに暑い。

「わからんかねえ」

どうしよ。どうしよ。

立たされている恥ずかしさと、わからない悔しさと、いろいろな気持ちがまぜこぜになって、体が縮こまる。

そしたら、悪夢を覚ます魔法みたいに、誰かの気だるげな言葉が聞こえた。

「センセ、僕、いいですか」

思わず振り返る。

とくん、と心が鳴る。

数野かぞえのくんだった。

先生の言葉すら待たずに、彼はさっと立ち上がると、黒板へと歩いていく。ほんのちょっと、クラスがざわつく。

そして彼は白いチョークを取り上げ、カカカカッと早業で答えを黒板に書きこんだ。

「あと、ここ、違ってます」

彼はそう言うと、黒板の別のところに先生が書いた文字を斜線で消して、黄色いチョークで訂正した。

ぽかんとしたクラスを残して、彼は小走りで教壇から降り、席に戻る。

「………ああ、そうかそうか。失敬した」

先生は素直にミスを認めると、また何事もなかったかのように授業を再開した。

おずおずと席についたわたしの心臓は、まだうるさい。

数野かぞえの悠久はるひさくん。

名は体を表すということわざがあるけど、彼ならその例として教科書に載ってもいいと思う。数学が得意な、クラスの男の子。

休み時間にそっと遠くから彼の机を除くと、ノートに数式がたくさん書かれていた。

わたしの知らない何かを、知ってる人。

この半年間ずっと、一度お話してみたいなと思っていたけれど、人見知りなわたしにそんなことはできそうにない。それに、いったい何を話せばいいというんだろう。

きっとこの気持ちは、ただの憧れだよね。

そう自分に言い聞かせて、わたしは今度こそ、文庫本の続きを読み始めた。

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