グレイ・ヒューバー
青蘭がオルニワ国へやって来て六日が経った。
エバンの話では、後見人と住所登録の申請は無事通ったという。これで、仮にビンセントと街で遭遇しても連行されることはないということで一安心した。
この世界のこと、オルニワ国のこと、来たばかりで分からないことだらけだが、狭い範囲のことなら分かったこともある。
「青蘭、ちょっとお遣いを頼まれてくれるかな?」
「おう!」
ゲドルクに呼ばれ青蘭が声を弾ませると、彼は布で包んだそれを青蘭に手渡した。
「ある患者の元へこれを届けに行って貰いたい。痛み止めの薬だ」
「分かった」
青蘭は大事に受け取ったそれを、ゲドルクから借りた鞄に仕舞った。
この世界へ来て三日目に知ったことだが、ゲドルクは医者だった。この家で沢山植物を目にしたのも、それがすべて、何かしらの薬に変わる薬草だからだった。
なので、青蘭はゲドルクの仕事を手伝うことにした。『気を遣わなくても良い。気楽に過ごしなさい』とゲドルクはそう言ったが、出会って間もない自分に何から何まで協力してくれる彼に、出来る精一杯で自分も恩を返したいのだ。
「患者の名はグレイ・ヒューバー。グレイは、私の古い友でもある男だ。彼だけはいつもレドが持って行くのだが、散策がてら、青蘭も一度会ってみるといい」
「あ……でも、俺がいきなり会いに行ったら、この姿だし怪しまれたりしないかな……?」
「俺も付いていくから安心しろ」
青蘭の心配を打ち消したのはエバンだった。今日は非番らしく、朝からゲドルクの家を訪れている。
「エバンが?」
「グレイさんとは顔見知りだ。俺が一緒に居れば大丈夫だろう」
「そうか。じゃあ、よろしくな」
「ああ」
青蘭とエバンは直ぐに出発の準備を始めた。
「グレイの家は隣町だ。馬を貸そう」
「え? う、馬? 俺乗ったこと無いけど……っ」
「俺が乗れる」
「そ、そうなのか」
青蘭はさらっと馬が出て来るあたり、言いたくはないが、おとぎ話な雰囲気を感じた。
そして、エバンが馬に乗ったらもう「王子」以外には見えないと思った。
「——先生、青蘭さんをグレイ様のところへ行かせたのには何か理由が?」
レドが2人の背中を見送りながら尋ねると、ゲドルクは目を細めながら応じた。
「青蘭にはきっと〔運命〕があるはずと思ってな」
「あ、では……グレイ様に青蘭さんのことを視てもらうために?」
「ああ。……それに、グレイは青蘭を見て、私が最初に感じたのと同じものを感じる筈だ」
ゲドルクは口元に笑みを浮かべそう告げた。
・・・・・・
「お前、本当に馬乗れるんだな。凄いな」
本当に、エバンの手綱捌きは恐れ入るものだった。馬は大人しく言う事を聞き、ゆったりと歩き進んでいく。
感心する言葉をかけるが、エバンは表情を一切崩すことなく言葉を返した。
「普通だ。騎士だったら皆乗れる。……お前の国では乗らないのか?」
「乗る人間はごく一部だ。俺らは日常的に馬に乗ることはない」
「そうなのか。この国では遠出や遠征には馬か船が必須だぞ」
「馬に船!? ……そりゃ難儀だな。車を知らねーのか」
「車? 馬車のことか」
「ば……っ!? ……まあ、そんなもんだ」
エバンが自分からしたら冗談みたいなことを真面目な顔で言うのを、青蘭は苦笑で受け止めた。この話をちゃんとするにはまだ時間が必要な気がする。
その後は、エバンに簡単に町のことを色々教えてもらいながら隣町へゆるりと移った。
グレイの家があるのは、眼前に青い海が広がる港町だった。
家々が密着して立建ち並ぶなか、グレイの家らしき建物の目に到着すると二人は馬から降りた。
ゲドルクの時と同じように、玄関扉をエバンが一度だけノックする。後から聞いた話では、この国ではノックは一回が礼儀らしい。
「……入れ。鍵は空いている」
暫くすると、しゃがれた声でそう返って来た。
勝手に入れと言われ、ゲドルクといい、この国の老人は何なのか?まさか、またレドみたいな縦獣でも出てくるのではないか?なんて考えていると、家の中に入って十秒もたたず、突然エバンに掴まれ、勢いよく横方向へ何かを避ける様に引っ張られた。
「な、何だ……っ!?」
何が起こったのか良く分らず、尻餅をついたまま見てみれば、先端が鋭く尖った一五センチ程の針のようなものが、玄関扉の直ぐ横の柱に刺さっていた。位置は丁度、青蘭が立っていた時の頭があったくらいの高さだった。
反対を振り向くと、灰色の無造作に伸ばした髪で隠れ気味になっている鋭い目がこちらを見ていた。
「——何だ? ゲドルクが話しとったからどんな奴かと思えば、随分と鈍いなあ」
老人は杖を片手に部屋の奥の椅子にどっしりと座った。良く見ていたら、左の足を引きずるように歩いていた。膝から下が少し変な方へ曲がっている。どうやら痛み止めは足のものだったようだ。
柱に刺さったままの針をじっと見た後、エバンは老人を振り返った。
「グレイさん、何の真似ですか!?」
「本当に来たのがお前らか分らんかったからしょうがないだろう。ワシはこの通りの足で、悪党だったら咄嗟には動けんのだ」
「白々しいにも程があります。万が一当たったらどうするんですか!」
「そん時は……そいつの運が尽きたとしか言えんな」
「グレイさん、俺が騎士だと忘れたわけではありませんよね? 然るべき方法で、その杖を取り上げたって良いんですよ!」
「……まさか今の、この爺さんが?」
会話の流れで状況が呑み込めてきた青蘭の言葉にエバンが苦笑交じりに応じる。
「ああ、グレイさんの毒針だ。あの手にしている杖に細工して仕込まれている」
「どっ……!?」
「安心しろ。万一当たっても、解毒剤はちゃんとある」
「そういう問題じゃ「ないぜ爺さん!!」
「「え?」」
エバンを遮って青蘭が声を張り上げたので、グレイだけでなくエバンも驚いていた。しかし、青蘭は気にせずエバンの前を通り過ぎると、グレイの元へ大股で詰め寄った。
「ゲドルクさんの友達か何だか知らねーが、丸腰の人間相手に、やって良い事と悪いことがあるぜ!! それにな、俺は、元の世界へ帰るまで絶対に死ぬわけにはいかねーんだ!! 冗談でも、もしまたこんな真似したら、爺さんだろうが容赦しねえからな!!」
「がっははははははは!!」
「「は……?」」
青蘭が言い終えた直後何故か豪快に笑い始めたグレイを、2人は揃って呆けて見つめる。すると暫くして、思う存分笑い終えたグレイが言った。
「このワシに啖呵を切るとは大した奴だ。小僧、気に入ったぞ」
「え?」
「良かったな。グレイさんに気に入られて。羨ましいぞ」
「……エバンてめえ、顔が台詞と全く合ってねえんだよ」
エバンの全く羨ましくなそうな顔がハズレの空気を漂わせていて癇に障った。
「小僧、名前は」
「俺? 俺は「ランだ」
不意にグレイから尋ねられたが、名乗ったのはエバンだった。しかも、何やら名前を偽っている。
「エバン……?」
何故か不思議で見返すも、エバンは無言で首を横へ振る。青蘭を心配してくれているのだろうか?
気配に気づきふと見れば、グレイがこちらを探る様に見据えていた。
「お前の名前はランか?」
「……いや、青蘭だ」
「馬鹿、お前……っ!」
「悪いエバン、心配してくれるのは嬉しいけど……俺、嘘吐くのとかやっぱ向かねえ。それに、幾ら物騒な爺さんでもさ、折角ゲドルクさんが会いに行かせてくれた相手だ。俺は信じる」
「いやっ、そうだけど違う! この人は……っ」
エバンが必死に何かを訴えるが、時既に遅かった。
「——よく言った。青蘭」
「え……っ?」
グレイに名前を呼ばれた瞬間、変な感覚に襲われた。まるで、縛られているように、身体の自由が利かない。
すると、横に居たエバンがその様子にやれやれと重く溜息を吐いた。
「馬鹿。だから、言ったのに……」
「どういうことだよ!?」
理由を知っている口振りのエバンを問質せば、彼はグレイを見ながらこう告げた。
「……グレイさんは、名前を知ることで見た者の動きを封じることが可能だ。正確に言うと、見た者の動きを自在に操れるんだ」
「はあ!?」
信じられない話にグレイを振り向けば、本人はしてやったりという顔で歯を見せながら笑っていた。
何だそれ、有り得ない。見た者の行動を操れるだと?……いや、それよりも、先ずだ。
「——それならそうと、早く言えよ!!」
青蘭が攻めた目を向けるとエバンも負けずに睨み返して言った。
「だから、名前を偽った。馬鹿とも言った。少しは勘付け馬鹿者!!」
これが引き金だった。青蘭の頭の中でカーンとゴングの鳴る音が聴こえた。
「はあ? 良く知りもしねーくせに人のこと馬鹿って呼ぶんじゃねーよ!!」
「馬鹿以外に何と言う? 阿呆か? だから、前にも真っ直ぐ過ぎるところを直せと俺は言ったんだ!!」
「今頃!? それに今のお前の言い方じゃ解るわけねーだろうが!!」
「あれで何も感じない方がどうかしている!! 頭のネジを取り換えて来い!!」
「ふっざけんな!! こんなハチャメチャな能力が使える規格外の爺さんだなんて俺が想定できるわけないだろうが!! 俺からしたらお前を含めて、ここの人間皆ネジが飛んでんだよ。ファンタジーなんだっつーの!!」
青蘭はかろうじて動く首から上を最大限使って声を荒げた。そして、動かない身体に全ての怒りのエネルギーを注ぐイメージで一点集中、力を込めた。
「おい、青蘭何をしているんだ?」
「見とけ!!」
集中を途切れさせたくないのでエバンの言葉を雑にあしらってそのまま継続する。ついに、青蘭の頭の中で薬缶のお湯が沸騰した状態になった瞬間、身体が突如軽くなった。それは術が解けたことを意味していた。
「よっしゃあ!!」
「……馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまでとはな」
青蘭が喜びを爆発させ拳を突き出すのを前に、エバンは言葉通りの呆れかえった表情で、術をかけた当人のグレイはというと、堪らないといったように噴出して声を上げて笑った。
「がっはははははは!!」
「爺さん、何を笑ってやがる」
あんたが解かないから無理矢理解いてみせたというのに!と、青蘭が思わず詰め寄ると、グレイは悪びれなく言った。
「当たり前だろう。解除魔法も使わずに力づくで強制解除なんて、こんなバカげたことかつてないのに、これが笑わずにおれるか!!」
「な……っ!?」
「ぶっ」
思わず言葉につまる青蘭を横目に今度はエバンが噴き出す。
そこで漸く青蘭は自分がやったことも規格外なことを自覚した。しかし、恥じるよりも前に青蘭には気になったことがあった。
「おい、爺さん、何であんたあんな真似出来たんだよ!?」
「グレイさんは魔力を持っているからな」
応えたのは笑いが引いて涼しい顔に戻ったエバンだった。
「魔力!?」
「そうだ。さっきのように他人を操れるのもその力のためだ。他にも、グレイさんのように不思議な力を持つ者はこの世界には沢山いる。グレイさんを始め、そういう人間は〔宿り人〕と呼ばれている」
「宿り人……」
「修練で魔力を得る者はいるが、生まれるつき備わっている人間には、古くから精霊が宿っていると言われる。そこから、宿り人と呼ばれるようになったらしい。——因みに、グレイさんにはまだ秘密があって、左目に備わった力で、見た人間の近い将来を予知することが出来るんだ」
「はああ……っ?」
いよいよファンタジー色が濃くなってきたと青蘭が薄ら冷汗をかきながら苦笑していると、先ほどまで口を閉ざしていたグレイがエバンを睨みながら、杖を鳴らし歩み寄ってきた。
「こらエバン、俺の手の内を勝手にペラペラ喋るな!!」
「大丈夫です。こいつは聞いたところで他人に言いふらしたりする男じゃありませんから。それ以前に、この通り鈍感馬鹿な青蘭ですから、少しくらい基礎知識入れさせて学習させないと、この先もいちいち術に引っ掛かられていたら付き添う俺の身がもたないんですよ」
「……この野郎、褒めるか貶すかどちらかにしろや!」
グレイに言ったつもりでエバンの言葉は流れ弾のように青蘭を痛めつけた。悔しさに顔を歪めていると、こちらへ向かっていたグレイが青蘭の前で立ち止まった。
何だろうと思ったとき、グレイが杖を持たない手で目にかかる髪を避けて、先ほど話で聞いた例の左目をこちらへ見せた。その左目は猫の目を思わせる黄金色で、真ん中には黒い複雑な幾何学模様のようなものが一つあった。
不思議で少し恐ろしいくも思うその目は、まるで目の奥の更に奥をみるみたいにじっと青蘭を見つめた。
「ほう……」
「な、何が解るんだよ?」
不適な笑みを浮かべるグレイに怖々問いかけると、彼は笑みを絶やさないまま答えた。
「小僧お前は何かデカい事を成し遂げるぞ」
「デカい事……まさか、俺は無事に元の国へ帰れるのか!?」
そういうことなら変な予知能力も信じてやってもいいと青蘭が表情を輝かせると、一転、グレイは真顔になって頭を掻いた。
「それは知らん」
「なにぃ!?」
「そんなとこは視えんかったし、お前が大勢の人間に称えられる姿が最初に飛び込んできたからそう言ったまで。いうなら、英雄像だ」
「英雄……? 何だそれ。……一番の俺の望みは国へ帰ることなんだぞ!? ぬか喜びさせやがって。魔力ってのも大したことねーんじゃねえか? 爺さんの廃れた格好からしてハズレ空気強いしよ」
「言ってくれおって。……それにしたって、本当に、青蘭お前は正直な奴だ。少しは持ち上げてもいいものだろう」
「グレイさん、無駄です。残念ながらこいつの辞書に世辞という言葉は存在しませんよ」
「あはは。悪い悪い」
エバンが加勢すると青蘭は一応謝ったが、軽い調子は変わらずだった。しかし、グレイは怒るどころか青蘭の調子に合わせて笑った。
「本当に、面白い奴よ。——お前ら、折角だから茶でも飲んで帰れ。大したものじゃないが薬の礼だ」
「おお。あ、大丈夫か? 俺も手伝うぜ!」
「そうか、悪いな」
引きずる片足が目に留まったので、湯を沸かしはじめるグレイの隣で一緒になって準備を手伝った。自分も行こうとしていたエバンが先を越した青蘭を意外そうに見つめるが、青蘭は身体の弱い母親と二人暮らしなのでちょっとしたことならやり慣れていた。
「足、薬が要るほど痛むのか?」
「まあな。死ぬほどじゃないが」
「聞いてもいいか? ……何で?」
遠慮がちに訊ねると、グレイは自分の足に視線を落とし静かに告げた。
「……戦争だ」
「戦争……?」
「今から四〇年ほど前か……、この国は昔、とある他所国と領土を巡って戦争を起こしてな。ワシも、この力を国から買われ、戦士の一人として戦争に参加したんだ。これはその時にな」
「そうだったのか……」
「だが、ワシは別に何も恨みはしないし望みもしない。戦に赴くことは自分が決めたことだからな。この足が引き換えにして何か尊い者を護ったなら、それでいいんだ」
「……俺は自分の国で戦争があった時代にもまだ生まれて無かった人間で、どういうものなのか、どれほどの想いだったか、測り知ることは出来ないけど、それでも言っていいか? ——あんたは、よくやったんだと思うよ」
「な……っ」
青蘭が曲がった方の足をそっと摩ると、グレイはとても驚いた顔になった。
「爺さん、どうかしたか……?」
「……お前が一瞬、ワシが良く知る男に見えた」
「え?」
「真っ直ぐで豪快で、少々危いが、時折今のお前のように包み込むような温かく大きな心を持っている……とても不思議な男だ。——名を、グレンという」
「……グレン。その人は今何処にいるんだ?」
何気なく聞けば、グレイだけでなく、話を側で聞いていたエバンが顔を曇らせながら言った。
「……グレンさんは居なくなった。何処に居るかわからないんだ」
「エバンも知っているのか?」
「ああ。先生が、今のお前と同じように、何年か自分の家で住まわせていたからな。……グレンさんには可愛がってもらった」
「へえ。グレンさんかー……。一度、会ってみてえな」
まだ見ぬその人物の姿を勝手に想像し、青蘭は遠い目をしながら呟いた。
それを聞いて二人が一緒に居るところを想像してしまったエバンは表情をやわらげ笑を浮かべた。
「エバン?」
「いや、賑やかでしょうがないだろうなと思っただけだ」
「え?」
恐らく、グレイも同じことを思ったのだろう。目が合うと笑っており、エバンと何やら可笑しそうにしていた。
この時は誰も、彼との対面があのようなことになるとは想像もしていなかった。