エリーゼと獣人ディラン
モグラの話を全て聞き終えた羽澄達は呆然とする。
精霊の森や転移魔法など、受けいれ難い言葉は多々あれど、彼に起きた【最悪】だけは、見ていなくとも紛れもない真実だと分かる。
「……そんな。お前は、それ以来ずっとこの国に居るのか……? 家族と……ずっと生き別れたまま……っ」
「ああ……。最後に一緒に居た時、たしか娘は十を過ぎたころだった。もう……いい大人だな。……きっと、ワシのことなんて忘れている。そうじゃなかったら、恨んでいるんだろうな。あいつからしたら、たった一度の喧嘩で娘を捨てた、ろくでもないクソ親父だからな……はは」
「モグラ……」
自虐の笑みを浮かべるモグラを、羽澄達は言葉もなく見つめる。
羽澄は思った。――紅蓮だ。ここに、もう一人の紅蓮が居る、と。
今まで自分は、青蘭と紫華、残された者のことばかり考えていた。紅蓮が今どんな想いで過ごしているか、考えていたつもりで、それは本当につもりだった。
モグラを通し、今そのことをまざまざと突きつけられた気がした。
『羽澄! 紫華が妊娠した! 俺に、子供が出来るんだ!! やったぜ!!』
いつかの、嬉しそうにだらしない顔をしながら駆け寄ってくる親友の姿が思い出されて、心臓を一突きされたような、ドスっという重い痛みに襲われる。
心臓が傷口からドクドクと出血するように、体が熱い。
「……許せねえ」
あんなに家族が大好きで、家族馬鹿で、他に何もいらないっていう男が、その唯一の家族と引き離された。……七年だ。小学生だった子供が、高校生になるほどの気が遠くなるような長い時間。孤独という深い闇に放り込まれている。
こんな地獄があってたまるか……!!
紅蓮だけではない、モグラも。とにかく、これ以上、得体のしれない何かに大切な者を奪われる人間を増やしてはならない。
決意を強く、羽澄がギリッと噛みしめた時だった。
「――うわあああ!」
こちらに向かって、モグラが突然声を上げた。何かに驚くような、怯えるような震える声だった。
「……どうし」
た、と最後まで言う前に、羽澄自身ようやく異変に気が付く。
音がしそうな勢いで素早く振り返ると、背後に見知らぬ大柄の男が立っていた。
「……いつの間に」
「だ、誰だ……っ?」
男は、紫がかった黒髪の短髪で、身長は優に二メートル近くある。鍛えぬいた硬い身体を堂々と見せつけ、対照的な体形の二人を悠然と見下ろす。
何だ? この男、軍人か? 気配がなかったぞ……っ!?
羽澄達が警戒の視線を向けるも、男はさほど気に留める様子もなく言う。
「二人か。面倒だ」
「!?」
男は、いきなり羽澄と坂巻を殴りつけた。二人は抵抗することもままならず、衝撃でそのまま意識を手放してしまう。
男は脱力した二人をその場に寝かせると、顔を上げて眼前のモグラを見た。
「よう、久しぶりだな」
「おっ、お前……やっぱり、あの時の!?」
モグラは、男を知っていた。正確には、見覚えがあった。
何故なら、男は、モグラをこちらへ連れてきたうちの一人だったからだ。
「……今度は何だ。ワシをどうするつもりだ……っ!?」
怯えるあまりモグラはへたり込んだ状態で男を見上げる。
そんな彼を男は遠慮なくじりじり壁に追いやり、身動きをとれなくなったモグラに視線を合せると、まるで愉しんでいるようにたっぷり間をとってから低く囁いた。
「心配するな。何もしない。――お前が大人しく付いて来るならな」
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羽澄が目を開けた時、視界はぼやけていた。
夢と現実のはざまで脳が解けたみたいに思考を止め、ただ横たわっている。なんとなくわかるのは、床の硬さと冷たさ。しかし、殴られた箇所にはむしろ心地よく、次第に二度目の眠りを誘う。
意識がなくなりそうになった瞬間、伸びてきた手に強く身体を揺すり起こされた。
「青柳さん!!」
足元に見えたのは革靴だ。それなりに物はいいが、所々汚れている。当初は降ろしたてのように綺麗だったと思うが、恐らく、自分と組んでから一層足で捜査することが増えたからだろうと考える。
そう、その靴の持ち主を、羽澄は嫌と言うほど知っていた。
「……さか……まき……?」
「そうです! 俺です、青柳さん! 起きて……っ!!」
坂巻が羽澄の返答に反応し、更に強く呼びかける。
でも、可笑しい。自分は別に刺されて瀕死なわけじゃない。一発重いパンチを喰らっただけだ。まあ、当たり所は良くなかったが。
眠くはあるが、自分はそんなヤバそうに、今にもお迎えがきそうにみえるのか?
「そんな煩く喚かなくても誰も死なねーよ……」
「いや、そうなんですけど……っ、そうじゃないんですって!!」
てっきり自分が死にかけていると勘違いしているのかと思いきや、そうじゃないらしい。
何をそんな必死か知らないが、羽澄は再び目を閉じる。
「……意味がわからん。勘違いじゃねーなら、もうちょっとそのまま寝かせろ」
「ちょっ、ダメですよ!! 何言っちゃってるんですかこの状況で……っ、早く起きて下さいよ!!」
「……あーっ!! うるせえな!? ちょっとくらい傷心の俺を労われ!! 久しぶりにガチ殴りされて、心身ともに参ってんのがわからねーのか!?」
自分だけ若いからってピンピンけろっとしてやがってよー!と、羽澄は、八つ当たりモードで喚き返しながら身体を起こす。
何かおかしいことに気付いたのはその直後だった。
「……おい、あれは何だ……?」
目に入ったものに驚愕の表情を浮かべながら、羽澄は今度は逆に、隣の坂巻の身体を揺すりながら訊く。その瞬間、坂巻はハッとし、安堵なのかなんなのか分からない表情で捲し立てる。
「良かった……、青柳さんにも見えているんですね!? あれを見たら俺も怖くて、青柳さんに早く起きて欲しかったんすよ……っ!! ねえ!? のんきに寝ている場合じゃないでしょう!?」
「いやいや……、やっぱり俺ら二人して打ち所が悪かったんじゃねーか……っ?」
珍しくパニックを起こしている坂巻には悪いが、そんな言葉しか出なかった。それほど、そこにある光景はあまりにも信じがたいものだったからだ。
「何でワシを連れて来た! ここは一体何処なんだ!?」
『落ち着け。静かにしろ。すぐ説明してやるから』
「ワシは、もう、うんざりだ……っ。こんな生活……! もし、またどこかへ飛ばす気なら、ワシは今ここで死ぬ!!」
羽澄と坂巻の視線の先で、モグラと相手が言い争っている。声だけ訊けば何も不思議も、問題だってないだろう。
――だがもし、争っているのが対人間ではない場合は? 一体どうすればいい……?
『チッ。めんどくせーな。何もしねーって言ってんのによ』
気怠い声のあと、【相手】はひとつ大きな欠伸をした。大口から覗くのは、鋭い犬歯と赤く長い舌。次に立て耳がぴくっと動き、ゆらゆらと黒く長い尻尾が揺れる。姿はイヌやオオカミなどによく似ているが、まるで大人の大熊を見ているようなデカさだ。
ふと、こちらへ顔が動き、金色の満月色した二つの目がこちらを見る。艶やかな黒い毛並みと、気高さを纏う佇まいが凄まじく美しかった。
呑まれそうになるのを堪えるあまり、羽澄は背中にじわりと緊張の汗が広がるのを感じた。
何だこれは? 大型犬……? いやいやデカいが過ぎるだろう! ギネス犬か?
それとも、あれか、外来種? そうじゃなかったら、どこぞのアニマル大特集的な番組から引っ張って来た珍獣か!?
…………にしたって、やっぱ喋んねーだろう!!
どれだけ血が沸騰しそうな勢いで脳を働かせようとも、納得には至らなかった。
羽澄が頭の後ろをガシガシと掻きながら苦々しく見返すと、何を思ったか、黒い生物は向こうからゆっくりと近づいてきた。
『あんたら、オレを見ても驚かないのか。肝が据わってんな』
「いや、充分驚いてるよ。……驚き過ぎて、言葉が出ねーんだっつの」
反射的に言葉を突き返すと、黒い生物の口元が緩む。どうやら笑ったらしい。
『そうか。なら正常だ』
「…………お前はどうなっている? なんで、人の言葉が喋れる?」
羽澄が訊ねると、声が返ってきた。しかし、それは目の前の生き物のものではなかった。
「――彼は、そういう特異体質なんです」
「……あんた、誰だ?」
声の先に立っていた女性に、羽澄は身構えつつ訊いた。
「突然失礼致しました。私は、エリーゼと申します」
エリーゼ、そう申訳なさげに名乗った女性は、とても綺麗ながら全身で愁いと儚さを纏い、薄水色のきれいな長い髪に、紫色の宝石をはめ込んだような瞳の色をしていた。
「……あんた、この黒いのの飼い主か?」
そう言えば、黒い生き物から非難めいた視線を向けられた。おそらく黒いの言うなと言いたいのだろう。そしてそのまま、黒い生き物はエリーゼの傍らに移動した。
そして、彼女は黒い生き物を一度見てこちらに向き直ると、意外にも首を横へ振る。
「いいえ。私と彼、ディランは主従ではなく戦友です」
「戦友……?」
「ええ。志を同じくする者です」
よくわからないが、彼女の目は真剣だった。
直後、ディランと呼ばれる黒い生き物が彼女の背後へ回る。すると、一瞬で黒い生き物は人の姿になって現れた。
「はあ……っ!?」
「え、今……変身した……!?」
羽澄と坂巻は互いに顔を見合わせたあと、目の前を再び見て必死になりながら声を上げた。
「――恨むなら、あんたらを巻き込んだあのジジイに言え。俺は、別にあんたらのことなんてどうでもよかったんだ。ただ、あのジジイに用があったからな」
こちらの反応などお構いなしに話し始めたのは、突如人になった、それも自分たちを殴ったあの男の姿になった元黒いの。
「な……な……え!?」
「あんたがあの黒いやつだったのか……っ? だから、あの時、気配がなかった……? けど、大きさ……え!?」
口をぱくぱくさせ固まる坂巻に代わり羽澄が何とか訊ねると、けろっとした顔とともに声が返ってくる。
「ああ……大きさは変えようと思ったら変えられるぜ?」
「「はあっ!?」」
二人がどんな身体のつくりをしているんだとまじまじ穴が開く勢いで見るのを、ディランは鬱陶し気に見返す。
それを少し可笑しそうに見守りながら、説明をしたのはエリーゼだった。
「すぐにはとても信じてもらえない話だと思うのですが、我々の国には彼のような獣と人間の遺伝子を併せ持ち、言葉を話せ、姿を自在に変えられる者たちが確かに存在するのです。彼らのことを私たちは【縦獣】と呼びます」
「「ジュウジュウ……?」」
羽澄と坂巻は当然困惑した。耳慣れない響きに、到底信じがたい話だ。
それでも、今目の前で生き物から人の姿に転身したディランや、一見コスプレに思える髪の色と目を持つエリーゼ、それから、モグラに起きた転移、謎の事件の数々と仮面の男の存在、そのすべてがいやってほど突き付けてくるのだ。
今身に起こっていることは紛れもなく現実のことなのだと。