追憶
あの日、僕は一生償わなければならない過ちを犯したんだ……。
『鳴、またないているの? ほら、かおをあげて?』
このたった10分前に父から強く叱られ、廊下の隅に体育座りで半ベソをかいていた鳴に声を掛けて来たのは、双子の姉の真莉沙だった。
『真莉沙……っ!』
『あーもうっ。おとこのこでしょう。すぐ、なかないの!』
『だって……』
拭っても拭っても、決壊したダムの様に涙は溢れて来る。
『しょうがないわね~』
見兼ねた真莉沙は一度何処かへ姿を消し、戻ってくるとティッシュ箱を握っていた。
『いくわよ』
『え?』
何が?と聞く間もなく、わしっと掴み取った紙の束を、真莉沙は躊躇うことなく箱から引き抜き、勢いのまま鳴の顔に押し付けた。
まるで、パイを顔に押し付ける、テレビで見るやつのように、豪快に。
それがだんだんぐりぐりと力強くなると、鳴はこらえきれず声を上げた。
『いたいいたい……!!』
『もんくいわない! なきやまない鳴がわるいの!』
『そんな……っ』
きっと、もしあの頃に横暴と言う言葉を知っていたなら、真っ先に彼女に対して使っていたに違いない。
しかしこの時5歳の鳴は知らなかった為に、真莉沙にされるままで大人しく痛みを受け入れ、無理矢理涙を止めた。
この日は、曇天が頭上を覆う嫌な日だった。
『ちょっと、真莉沙ってば、どこいくの……っ?』
気付けば、鳴は真莉沙に手を引かれ外を歩いていた。勿論、親には内緒なので、鳴は気が気じゃなかった。
『ねえ、おしえてよ!』
『ひみつきちよ』
二度訊ねると、真莉沙は漸くこちらを振り返りながら答えた。
『ひみつきち……?』
『そう。あやみちゃんとあそんだときにみつけたの! 鳴にならおしえてあげるから、げんきだして!』
『……ありがとう』
『ふふ。鳴はとくべつよ?』
正直、何で同い年なのに姉はそんな場所を見付けて来られるのか、不思議でしょうがなかったが、少し照れくさそうにお礼を言えば、真莉沙は嬉しそうに微笑んだ。
彼女は、5歳にして、人の心を掴むのがとても上手かったように思う。だからこそ、両親は真莉沙を一番に愛し、周りからも彼女はとても愛されていた。
常に人に囲まれ、輪の中で向日葵の様に朗らかに笑っていた。
自分も、そんな姉がとても自慢で、そんな彼女に特別に思われていることがなにより誇らしく感じていた。
それなのに、あんなことが待っているなんて思わなかった……。
――――――
子供の足にしては結構歩いたと思う。
ふり返っても、もう家の姿が簡単には見えなくなっていた頃、真莉沙が、山の中に入る道の手前の所で立ち止まった。
『鳴、ここにはいろう』
『えぇ!?』
鳴は嘘でしょ!?と訴えるが、真莉沙は意に返さず目の前を指しながらこう言った。
『だって、ひみつきちはこのむこうだもん』
『こわいんだけど……っ』
『こわくないよ。真莉沙はみちわかってるから』
『そういうことじゃないんだけど……っ!』
鳴は得体のしれない場所に足を踏み入れるのが恐ろしくて、真莉沙が手を引く力に反発し後退した。
しかし、真莉沙は男の子並に力があったので、ひょろひょろの鳴はあっさり先を歩く彼女に山の中へ引っ張り込まれた。
『うわあっ』
『みて! おとぎのくにみたいでたのしいでしょ?』
心臓が煩く鳴るのを鎮めようとする鳴を他所に、真莉沙はキラキラと目を輝かせた。
あの頃思い返すと、今でこそ自分もそうだが、真莉沙はファンタジーの世界に強い憧れを抱いていた。
ずんずんと道なき道のようなところを歩き進めていくと、ある広い場所に出て来た。辺りは草花が生い茂っているのに、そこだけ何も生えていない、不思議な空間。
『ここは……?』
『へへっ。ひみつきちでーす』
『え、ここなの……?』
まるでお城にいるかのようなテンションの真莉沙に、鳴は温度差のある返事を返した。
何故だか分からないが、真莉沙とは違って、この場に立っていると変な感じがしたからだ。
『ねえ、真莉……沙』
それが次第に気持ち悪さに変わってきた鳴が振り返ると、いつの間にと言いたいほど、気配もなかったにも関わらず、そこには謎の男が立って真莉沙と向き合っていた。
『ま、真莉沙……っ!』
鳴は慌てて真莉沙に走り寄り、手を取った。そして彼女の後ろにピタリとくっついて、目の前に居る人物を観察した。
背丈や身体つきは鳴達から見るととても大きく、足までかかる長さのマントのような物を羽織った間から覗く手足が、自分達の父親と同じようにがっしり太かったことから、相手の大人を男だと認識する。
男は、何故だか神社のお祭りでも見たこと無いようなおかしな顔の面を付けていて顔は分からなかった。
『あなた……だれ? どして、ここをしってるの?』
『…………』
男は、誰もが目にすれば口を開いてしまう真莉沙の花咲くような笑顔にも動じず、ただじっと二人を見つめていた。
その様子に、多分、この男には温かさが無いのだろうと考えた鳴は、真莉沙の握っていた手を強く引いた。
振り向く真莉沙に男を警戒しながら小声で言う。
『いまのうちにかえろうよ……!』
『う、うん』
真莉沙も男の独特の雰囲気に漸く違和感を抱き始めたようで大人しく頷く。鳴はよしとばかりに、真莉沙と走り出した。
しかし、信じられないことに男はそれに反応し、何故か動き出したのだ。
『おいかけてきてる……っ?』
『真莉沙っ、いいからはしって!』
真莉沙は足が速かったので、真莉沙を先頭に二人は一層足を動かした。
はあはあ……小さい身体で息を切らしながら合間に振り返ってみた時、男の手が直ぐ側にあった。
『うわあああああっ!!』
『鳴!?』
声を聴いて真莉沙が立ち止って振り返ると、鳴が男のがっしりした腕に捕まっていた。
『鳴っ……!!』
真莉沙は悲鳴に近い声を上げて男に向かっていく。
『真莉沙……っ!』
『まってて、いまたすけるから!』
涙声で助けを求める鳴にそう言い、やっと男に辿り着いた真莉沙は、男の太もも辺りを力いっぱい叩いて必死に弟を助け出そうとした。
それでも、がっしりした腕はそう簡単に外れず、鳴を抱えたまま、男は冷たく恐ろしい面の顔で真莉沙を見下ろす。
『鳴をかえせ!!』
見たのを逆にチャンスと思った真莉沙が男を睨み付けた時、男が何やら鳴と真莉沙のことを見比べ始めた。
そして、初めて声を発したのだ。
『——お前のほうだったか』
『え?』
一体何のことを言っているのかは分からなかったが、直後、鳴は無造作にその辺に降ろされ、今度は真莉沙が男の手に捕らえられてしまった。
『真莉沙……っ!!』
起き上がってそれに気づいた鳴が、今度は姉を助けるために男に走り寄って怖々も足に噛み付く。
しかし、男はぶんとたった一振りで鳴を離れたとこに投げてしまった。
『鳴……っ!!』
『うぅ……っ』
近くの木に身体をぶつけ、鳴が動けなくなっているのを見ると、真莉沙に視線を移した男は再び口を開いた。
『やはり、男はお前の方だな』
『『え……?』』
この時、2人は初めて、仮面の男の目的が少しだけ分かった気がした。
(いきなさい)
真莉沙の目がそう訴えた。
鳴は首を名一杯横に振った。
(いやだ……っ。いやだよ、だって……っ)
男は、真莉沙じゃなくて僕なんだから!!
だからこそ、このままじゃいけない。取り返さないと。
気持ちはそう急くのに、身体が怠さと鈍い痛みで思うように動かない。それに、あの一撃で、鳴の心に恐怖心が芽生えてしまった。僕だと言う一言が出せない。
そのまま何も出来ずに悔しくて涙を浮かべていると、次第に男の足元が光に包まれ始めた。
『な……に?』
『お前は一緒に連れて行く。安心しろ、あいつは要らない』
一体何が起きているのかと、きょろきょろとする真莉沙を見て男が言う。
連れて行く?一体、姉を、真莉沙を、何処へ連れて行くというのか……?
鳴は匍匐前進のように最後の力を振り絞って身体を退きずり手を伸ばすが、目の前に見えたのは、既に光に全体を覆われ男と共に消えかけている真莉沙の姿。
『真莉沙っ……!!』
鳴が恐怖を覚えて叫んだとき、山の中にいたらしい若者が声を聴きつけ現れた。
『どうした……っ!?』
『あ……あ……』
助けてそう言いたいのに声が出ない。涙で視界がぼやけていく。
『……おい、お前、その子を離せ!』
鳴に駆け寄りつつ目の前の仮面の男を若者が驚きの表情で見ている。
しかし、目的を果たした仮面の男は何も言葉を返することは無かった。
最後に、もう一度鳴が前を見た時、真莉沙は信じられないほど綺麗に笑っていた。
『鳴、なかないで』
そう言い残して……
自分達の身に起きた全てを語り終えた鳴は本をそっと開いて、中から一枚の写真を取り出した。それは、言わずもがな、あの頃に撮った真莉沙とのものだった。
羽澄達も見せて貰うと、そこに映る2人はとても楽しそうに弾ける笑顔を並べていた。
それが酷く切なかった。
「……僕は、あの日、あれ以上痛い思いするのが嫌で、怖気づいたんです。真莉沙はいつも、何だって力になってくれたのに、あの時も必死で助けようとしてくれていたのに……。もし、自分が男だって言えてたら、真莉沙は連れて行かれなかった。真莉沙は、僕の身代わりになったんです……っ!」
震える拳に、また涙の雫が落ちるのを見ると、羽澄達は居た堪れなかった。
彼らはまだ当時5歳。屈強な男相手に全力を出したとして、何が出来たろう。彼が自分を責めるのは違うと思うが、その表情を見ると簡単に何も知らない赤の他人が、君の所為じゃないなんて口には出せなかった。
何より、問題なのは、その男のことだ。突然音もなく現れたかと思えば、少女を連れて光の中に消え去っただと?ふざけている。どんなイリュージョンだ。
とても素面じゃ受け入れがたい話で、5歳の少年が恐怖の余り作り出してしまった幻想だったらどんなに気が楽か。しかし、幾らファンタジーを地で行く個性強めな不思議少年だろうと、唯一の姉が失踪しているのに、泣きながら妄想話は出来ない筈だ。鳴を見て、そう思いたい自分がいるのだ。
羽澄は、心の中で一体この件とどう向き合うべきか葛藤していた。