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創世の賢者

社畜聖女と黒蛇の誘い

作者: 春風駘蕩

知名度が低すぎて読者数が雀の涙なので、短編に挑戦してみます。

面白ければどうか評価・感想などいただけると幸いです。

 瞼を開けるとそこは、全く見覚えのない異様な雰囲気の建物の中だった。


 もうもうと薄く立ち込める砂埃、眩しく頭上から照らしつけてくる白い光、座り込む自分の足元に散らばる木片などの残骸。

 さらに遠くを見てみれば、何か知らない神話の一部を描いたらしい古びたステンドグラスや大きな女神像が飾られた、聖堂のようなしっかりした造りの建物の内部が見える。ところどころ欠けているが、女神像は非常に精巧に造られていて、まるで本物の女神かそう呼ぶにふさわしい女性を石にして飾っているような、そんな恐ろしい印象までも抱かせるものだ。

 数秒前まで全く見覚えのなかったものが辺りにあって、訳がわからなくて思考がほとんど停止してしまう。


「ーーーお待ちしておりました。我らが神、エルディア様からの御使、聖女様……」


 しかし少女が何よりも困惑していたのは、自分の目の前で跪き、深々と頭を下げて祈りを捧げている数十人の奇妙な服装の人間たちだった。

 顔以外の全身を覆う純白の布を纏い、いたるところを金糸らしき綺麗な刺繍で飾り、しゃらしゃらと音を立てる錫杖を掲げている者もいれば、ボロ布のようなみすぼらしい格好で地面に額を擦り付けている者もいる。

 理解が追いつかず、ただ呆然と座り込んだまま保ける他にない少女ーーー樽久ジャンヌは、母親譲りの金髪と碧眼を頭上から射し込む陽光で輝かせながら、自分に向かって祈る人々を凝視していた。


「邪教の軍勢による侵略に脅かされる我々にもたらされた予言……異世界より降臨されるという、聖女の来訪を我々は首を長くしてお待ちしておりました」


 パチパチと目を瞬かせるジャンヌの前で、最も豪華な格好の老人が口を開いた。烏帽子のような長い被り物の下に、地面に着きそうなほどに長い眉毛と髭を蓄えた妙に鋭い眼光を放つ老人で、己の身の丈を超える大きさの錫杖を立てている。

 錫杖に付けられた輪がしゃらしゃらと音を鳴らし、それによってジャンヌはようやく我に返り、徐々に現実を把握し始めた。


(な…ナニ? ナンなの、このヒトたち……?)


 理由は定かではないが、この白い装束の老人達は自分に対して敬意を払っているようで、ジャンヌが現れることで何かしらの変化が起こることを待ち望んでいるらしい。

 聞こえてくる言葉は何故か日本語であったが、日本に渡ってそれほど日が深くないジャンヌにとっては彼らが何を言っているのか理解しきれない。日常会話でもいまだに苦労している彼女には、老人達の言葉は未知の言語を話しているようにも感じられた。

 しかし例え日本語に慣れた者であったとしても、邪教だの聖女だのと言われれば、理解が追いつかなくなっても仕方がなかったであろう。


「我らの願い、聞き届けてくださった神に深き祈りと忠誠を。そして我らの呼びかけにお答えくださった貴女様に感謝を申し上げます」

「あ……アノ、ワタシはそんな…セイジョ? なんてすごいカンジのニンゲンではなくて……」

「……ご謙遜を。予言の通り貴女様は我らの前に御降臨されました……癖一つない金糸のような髪、深く澄んだ湖のような青き瞳、薔薇の花弁のような艶やかな唇、神々の造形品のような美しきそのお姿……貴女様が神の御使でなくて誰がそうだと云うのでしょうーーーそうでなくてはおかしいのです…!」


 何かとてつもない勘違いをされていると直感したジャンヌが、穏便に誤解を解こうと口を開くものの、どこか恍惚とした様子の老人に食い気味に否定されてしまう。

 過剰に自分の容姿を褒め称えられ、妙な圧を感じて困惑の表情で黙り込んでしまうジャンヌをよそに、老人は深々と頭を下げたままニヤリと笑みを浮かべる。

 何故かジャンヌはその笑みに寒気を覚え、知らぬ内に老人から少しだけ距離を取っていた。


「……?」

「我らの神は仰いました、我らの救世主をお与えになると……我らが神の御言葉は絶対にして唯一。何人たりともこれを疑うことは許されず、ましてや間違っていようはずもありません。我らが神に異を唱えること、それは即ち我ら信者の悉くを敵に回すと同じことなのです」


 長い眉毛の下から覗く目の力が、語り続けるうちに徐々にその強さを増していく。自分の語る言葉に酔い高揚しているのか、彼の語る〝神〟との対話を思い出して興奮しているのか、鼻息も荒く笑みもより深くしていく。

 なんとなく彼が現実離れした存在に見えて、ジャンヌは表情を強張らせ、老人から目を離さないようにしながら息を呑んだ。


「ですので、貴女様が聖女であることは絶対なのですーーーそして貴女様には、忌々しくも我らが世界を踏み荒す邪教徒を討ち果たす旗印に成っていただくのです。…成っていただかなくてはおかしいのです」

「あ…ぅ…?」

「さぁさぁ聖女様。民衆は貴女様のお顔を拝見したくて待ちわびておりますよ。どうぞこちらへお越しください」


 後ずさり、少しずつ離れようとしたジャンヌだったが、左右から近づいてきた老人の部下らしい屈強な男達に半ば無理矢理立たされてしまう。

 走って逃げようかと身構えるが、すぐに退路を塞ぐように背後を囲まれてしまい、前に向かって歩くことを余儀なくされてしまう。

 老人と男たちに促されるまま、恐る恐るといった様子でジャンヌは歩き、女神像のある聖堂から出て長い通路を進まされる。長い歴史を感じさせる、精巧ながら年季の入った装飾の続く通路を黙々と歩いていくと、やがて光が開けた場所に辿り着いた。


「ーーー偉大なる女神エルディアに祝福されし民達よ!」


 そこは、広いバルコニーのような場所だった。

 真っ青な空とどこかの街並みが一望できる高い場所に作られたそこに出ると、真下に広がる広場に集まる無数の人々の姿が目に映る。

 ほとんどの人間が、汚れや傷みの目立つみすぼらしい格好をしており、栄養状態が良くないのか皆総じて顔色の悪さを晒している。それでも誰もが甲高い歓声を上げ、姿を見せた老人やジャンヌを見て歓喜に目を輝かせていた。

 どこかこの世ではないどこか別の場所を見ているような虚ろな目に、ジャンヌの姿のみを映していた。


「この方こそエルディア様が我らにお与えくださった聖女様である! 醜く汚らわしい神敵を打ち破るため遣わされた救世の御使である! 見よ、この神々しいお姿を! このお方こそ我らに勝利をお与えになる救世主である!」

「「「うおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」」」


 もはや雄叫びといっても過言ではない大音量の歓声に、ジャンヌは恐怖を感じて表情を引きつらせる。声という声に取り囲まれ、視姦されているような居心地の悪さに襲われ、すぐにでもこの場から離れたくて仕方がなくなる。

 しかし唯一の出口は先ほど自分に付き添ってきた男達に塞がれてしまっているため、どこにも逃げ場所が見つからない。次第にジャンヌは、何かとてつもない恐ろしいものに捕まってしまったかのような、言いようのない恐怖感に苛まれていった。


「民達よ。喜び、そして讃えるがいい! 聖女様が御降臨された以上、邪教徒共の侵略など恐るるに足らぬということを‼︎ 必ずや神敵の軍勢を滅ぼし、世界をあるべき姿に戻すのだと‼︎ 勝利は、正義は我らにあり‼︎」

「エルディア様万歳! 聖女様万歳! 邪教滅ぶべし!」

「エルディア様万歳! 聖女様万歳! 邪教滅ぶべし!」


 困惑の表情のまま立ち尽くす少女に一切の気を配ることなく、虚ろな目で制動を仰ぐ民衆たちの歓声が、いつまでも木霊し続けていた。




 生まれて初めて見る天蓋付きベッドの上で、ジャンヌは呆然としているような困り果てているような、とにかく戸惑いの表情で座り込んでいた。


「……ワタシがセイジョ…まだ、ユメミてるみたい」


 今でもまだ実感が湧かない。数時間前まで日本でできた友達と一緒に旅行に行く途中だったのに、気がついたらどう見ても外国の人間に、それも聞いたことのない地名の者達に囲まれ、聖女などと崇められ担ぎ上げられているなど。

 まるで友達に借りて読んだファンタジー小説のような展開である。どうしても現実とは思えず、ふと夢が冷めるのではないかと期待してしまう。


「ホントに、ワタシそんな力あるのかな…まだニホンゴムズカしいし。ウンドウはトクイだけど……タタカったり、できるのかな…」


 これが本当に夢なら、主人公のように不思議な力を用いて戦ったり、人々を救ったりできるのかもしれない。

 だが試しに頬をつねってみても、思い切って強目にベッドの支柱に額をぶつけてみても、ジンジンとつねりぶつけた部分が痛くなるだけで眠りから覚める気配など微塵もない。

 いまの状況がどうしようもない現実で、何の力もなく奇跡を起こすことのできない自分が、多くの人々に希望として過剰な期待を寄せられているのだと思い知らされた。


(でも、頑張ったら、帰してもらえるかな……パパとママに、会わせてくれるかな)


 戦えと言われても、希望だと言われても、ジャンヌにはその実感がわかない。元の世界でも戦争とは無縁の場所で生まれ育ち、争った経験などせいぜい友達同士の小突き合い程度しかないジャンヌには、自分が戦う姿など想像もできない。

 それでもジャンヌには、彼らの元で保護を受ける他に道はなかった。叶うかどうかもわからない淡い願いを抱き、不安な気持ちに苛まれたまま俯くばかりであった。


 そんな時だった。

 ある一つの〝声〟が聞こえてきたのは。



「ーーーなんとも面倒な場所に現れたものだな」



 突然すぐ近くから聞こえてきたその声に、ジャンヌはとっさにそばに置かれた毛布を抱き寄せて辺りを見渡す。身を守るものを求めた防衛本能による結果か、それほど丈夫でもない毛布をかぶって怯えた視線を巡らせた。


「⁉︎ だ、ダレ⁉︎」

「お前のすぐ目の前だよ……そっちじゃない、こっちだ」


 キョロキョロと見当違いの方向ばかりを探すジャンヌに、謎の声の主は呆れた調子で呼びかけ続け、少女の視線を自分の方に引きつける。

 何度も間違え、その度に修正されながらようやくジャンヌは声の聞こえる方を特定し、改めて警戒した様子でじっと見据える。

 するとその表情は、途端に気を削がれたようなぽかんとしたものに変わった。


「……クロい、ヘビさん……?」


 窓の一つ、その角から顔を覗かせているのは、夜の闇よりも濃い黒の鱗を持つ、赤く目を光らせる一匹の小さな蛇だった。

 チロチロと下を出しながら自分の方を見つめてくる黒蛇を、ジャンヌはまさかと正気を疑いながらも凝視し続ける。確かに声の聞こえてきた方にいたし、他に声、もしくは音を発せられる存在は見当たらない。

 しかしいくら物語の中のような世界にいるからといって蛇が喋るかと言う常識的な思考が、ジャンヌの思考を停止させていた。


「やれやれ…やっと気づいたか。手間のかかりそうな小娘だ」


 目を丸くして見下ろすジャンヌに、黒蛇が悪態をつきながらため息をこぼすように項垂れたことで、ジャンヌは自分のまさかの考えが当たっていたことに驚愕する。

 しかしすぐに我に返り、急いで毛布を脇に寄せて居住いを正すと、窓際からどこか不遜な態度で見下ろしてくる黒蛇の方に身を乗り出した。


「ア、アナタはダレですか……?」

()の名か…忘れた。もう随分と人に名乗ってこなかったからな、好きに呼ぶがいい」

「えっと……じゃあ、ヘビのおじさんで」

「それで構わん……今度は()の問いに答えてもらおうーーーお前の名は、樽久ジャンヌで相違ないな」


 次から次へと事態が変化し、困惑するばかりのジャンヌに黒蛇がそう問いかけると、ジャンヌは驚愕のあまりぽかんと口を開けたままその場で呆けてしまった。

 自分で名乗らない限り知られないはずの名を知っている事に、ジャンヌの黒蛇に対する疑念が一気に膨れ上がっていった。


「お、おじさん…ナンでワタシのナマエシってるの? ワタシ、あのヒトたちらにもナマエ、キかれなかったのに」

「そんなことはどうでもいい……()が聞きたいのはお前の望みだ」

「…ワタシの、ノゾみ?」


 見るからに怪しい、正体不明の黒蛇から少しでも距離を取ろうと後ずさり始めたジャンヌに構うことなく、黒蛇はどこか気だるげにジャンヌに質問する。

 まるで御伽噺のランプの魔人のようなことを聞くのだなと思わず脱力して目を丸くするジャンヌ。そんな彼女を黒蛇は鋭く冷たい無機質な目で見下ろし、やがて鎌首をもたげてシューッと口から音を鳴らした。


「近いうちにお前は死ぬだろう……そうなる前に、お前が今後どうしたいかを聞いておきたい」


 黒蛇におもむろに告げられた言葉に、ジャンヌは一瞬理解ができなくなり硬直する。死ぬ、と言う平和な日本ではまだまだ先のことと考えることのなかった概念を突きつけられ、ジャンヌの思考がしばらくの間凍り付いてしまっていた。

 そして徐々に意味を理解し始め、それが自分に対して言われたことだと思い出した時、少女は己が顔色を一瞬で真っ青に染め上げた。


「し……シぬって」

「当然の話だ。都合のいい、戦の旗印として担ぎ上げられたただの小娘が、どのようにして生き残ることができようか」


 やや狼狽した様子で尋ね返すジャンヌに、黒蛇は呆れた様子で顔を伏せる。見た目は完全に黒蛇だが動きは明らかに人間のどれで、その違和感にジャンヌは不思議そうな表情を隠せなかった。

 構わず黒蛇は窓際から降り、ジャンヌの座るベッドの上に移りながら、自分の立場を理解できていない哀れな少女に無機質な眼差しとともに語り聞かせた。


「奴らの目を見ただろう……あれはもはや狂って治らなくなった人間の目だ。現実を直視できず、ありもしない幻想を信じて平気で何もかもを犠牲にする、手遅れになった連中だ。戦に勝とうと負けようと、絶対的な権力を有してしまったお前が辿るのは人間に殺される未来だ……そうなったら覚悟しておけ」

「い、イヤ……そんなのイヤ‼︎」

「だからお前に問いにきたのだ……お前は、どうしたい」


 恐ろしい現実を淡々と冷酷に聞かせてくる黒蛇に、ジャンヌはすっかり怯えて頭を抱えてしまう。

 考えなくてもわかる、戦争に参加すれば常に死に瀕する危険性があることを思い出さされ、ジャンヌの胸中に改めて恐怖心が噴き出してしまう。先頭の経験など皆無である少女が戦場に赴けば、そうなる確率はまた数段跳ね上がるだろう。

 しばらくベッドの上で丸くなり、震えていた少女はやがて、怯えた表情のまま黒蛇の方に視線を向けた。


「ナン、で……そんなコトキくの…?」

「単純な話だ……助けて欲しいのかと聞いているだけだ」


 優しさのかけらも感じさせない、しかし真っ直ぐに見つめたまま問いかけてくる黒蛇に、ジャンヌは思わずゴクリと息を呑む。

 嘘偽りや建前、周りの意見に流されるようなことを許さない、本音で語ることを強制するような強い視線を受け、ジャンヌはしばらくの間うつむき悩み続けた。

 警戒されていることを察したのか、黒蛇も苦笑するような小さい音を発し、ベッドの上で寛ぐようにとぐろを巻いた。


「人間がどうなろうと知ったことではない…この国の連中が敗国後、どんな結末を迎えようがどうでもいい。だがお前のような何の関係もない小娘が巻き込まれ、無残に死んでいくのは気分が悪い。あの狂信者共が好き勝手やるのも気に入らん、それだけの話だ」


 吐き捨てるように告げた黒蛇を見下ろし、ジャンヌはなぜか黒蛇が言ったことは本音であると直感する。

 言葉の端々から人間に対する隔意のようなものが感じられ、ジャンヌに対してもそれほど好意的でない感情を、そして城の方にはそれ以上の敵意を向けていることに気づく。黒蛇が何らかの理由から、人間の全てを嫌っていることが、それだけで窺い知れた。

 しかしそれでも、ジャンヌは黒蛇に向かって頷くことはできなかった。


「……信用ならんか?」

「ゴメンナサイ……でもアナタのコトバ、アクマとのケイヤクみたいだから、シンじていいのかわからない」

「ふむ…まぁ、迷わず鵜呑みにする馬鹿よりはまだマシな考えか。ならば仕方があるまい」


 呆れるよりは若干感心した様子で、黒蛇はジャンヌの顔を見上げて頷く。

 それからしばらく、黒蛇は何か考え込むようにその場でじっと動きを止め、舌だけをチロチロと出し入れすることを繰り返した。

 何をしているのか、何を考えているのか気になったジャンヌが書くと蛇の顔を真正面から覗き込んでいると、ふいに黒蛇の瞳孔がキュッと細くなった。


「ならば()がお前に知恵を授けてやろう……いかにすればお前が生き残れるか、具体的な案をいくつか授けてやろう。それならば多少は信用できよう?」


 ジロリ、と黒蛇はジャンヌを鋭く見据え、少女にたった一つの提案を示す。直球的に救い出す選択肢を放棄した、少女自身に何とかさせるという非常に危険で残酷な妥協案であった。

 だがジャンヌにはもはや、その提案を蹴ることなどできない。一度断ってしまった手前、唯一自分の身を案じてくれている(?)相手の妥協案を否定する気にはなれなかった。


「…おネガいします」

「まずはそうだな……民衆を味方につけることから始めようか。大多数に支持される信頼があれば、用無しになったとしても早々手を出せんだろう」


 表情筋などないはずの黒蛇が、どこか邪悪な笑みを浮かべるようにジャンヌに語り始める。

 聖女として祭り上げられた憐れな少女と謎多き小さな黒蛇の授業は、それから数日から数週間も続けられることとなった。


     ◇ ◆ ◇


「聖女様、ご出陣である!」


 分厚く重い鎧を纏った将軍の命により、整列した兵士達が一斉にかかとを鳴らし、一点に注目しながら敬礼する。左胸に右拳を当てる、己の心臓を捧げるという意味を持つこの行為により、兵士達はこの戦いに向ける闘志を高めた。

 それはこれまでも続けられてきた特定動作(ルーティーン)。しかし今日この日より、兵士達はその動作に更なる重い意味を込めて、そしてより強い意思を背負って戦場へと赴くこととなる。

 壇上の将軍の隣に立ち、輝かしく流麗な白金色の甲冑を纏った絶世の美少女が、現実の存在として目の前に佇んでいるからだ。


「長きにわたる戦は、忌々しくも強大な力を持つ邪教徒共によって日々追い詰められている状況にある!だが、最早汝らが恐れる必要などありはしない!」


 現在戦争に参加できる兵士の行動の全てを担っている最高指導者、剣の神に愛されたと国内で謳われている将軍が、かなり重い鎧に表情を硬くしているジャンヌの傍で声をあげる。

 ビリビリと大気を振動させる将軍の声はジャンヌに尋常ではない圧をかけ、少女の顔色をみるみるうちに悪くさせる。それに気づけないのは、ジャンヌの被っている目立つ兜のせいか、それとも鼓舞の声が自身にも影響し状況に酔いしれているためか。


「我らには今、希望がある! 我らが神、エルディア様より授けられし唯一絶対の存在、聖女様がおられるからだ! 悪しき邪教徒共を悉く滅ぼす清らかなる巫女がいる限り、我らの勝利は決して揺るぎはしないのだ‼︎ 進めぇ‼︎」


 神によりもたらされたという聖女を伴った将軍の鼓舞により、奮い立った兵士達がついにそれぞれの武器を手に反転し、足音を揃えて進軍を開始する。

 向かう先は幾度も重なった戦闘により踏み固められ、草木一本も生えなくなった荒野が広がる大地。乾ききった風が粉塵を巻き上げるその場所に、二つの国の軍勢が向かい合って進む。

 荒野の中心を挟んで両軍が整列し、睨み合いを始めて数刻が過ぎた時、それはついに始まった。

 ドン、と大きく太鼓の音が鳴り響き、荒野全体に広がっていく。

 その直後、鎧を着せた黒毛の馬に乗った将軍が大剣を掲げたかと思うと、その切っ先を敵軍のど真ん中に向けて声を張り上げた。


「突撃ぃぃぃぃ‼︎」

「「「おおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」」」


 勝鬨の声をあげ、剣を振り上げた兵士達が一斉に荒野の敵兵に向かって突撃していく。同時に敵軍の兵士も武器を掲げ、同規模の声をあげて相手の兵士達を迎え撃つ。

 両者の距離はみるみるうちに縮まっていき、最初に辿り着いた兵士同士が剣を激突させると、それに続くようにそこかしこで次々に火花が散り始めた。甲高い金属音が辺りで反響し重なり、思わず耳を塞ぎたくなるような騒音へ変わっていく。

 たった数秒のうちに、荒野は怒号と金属の悲鳴が木霊する地獄へと変貌していった。


「聖女様万歳! エルディア様万歳!」

「我らの命を、この戦の勝利に捧げます!」


 兵士達はもはや、ジャンヌを見てなどいない。聖女という希望が自分達の後方の陣にあることのみを考え、その祝福が己にあることを信じて剣を振るい前へと進み続ける。

 戦って敵を討ち、その命を捧げることによって聖女が、そしてそれをもたらした神が加護を与えてくれるのだと思い込んでいる。根拠など何もない、そうなのだと勝手に決めつけて、何の力もない少女を称えながら命を散らしていく。


「せいジョ…さバ、ばんざ……」

「ごの…いのぢ、さざげばずっ…!」


 無論、どれだけ信仰したところで神の加護などあるはずもない。不死の力が手に入るわけもなく、敵の剣をその身に受けて呆気なく大地に伏していく。

 それでも兵士達は止まることなく、倒れた味方や敵の屍を踏み越えて次なる敵を狙う。血反吐を吐き、腕や足が取れかけても取れても剣を握り続け、己の体が壊れ役に立たなくなるまで戦い続ける。

 乾いた大地には夥しい量の血飛沫が撒き散らされ、真っ赤に染まった大地に無数の人の骸が積み上げられていった。


「っ…! こんな、私……」


 何百人何千人という兵士達が互いに殺し合う地獄。これまでは教科書やテレビの特集などの断片的な情報でしか見たことがなく、どこか別の世界のもののように認識していた本物の戦争を前にし、ジャンヌは恐怖のあまり凍りついていた。

 人が剣で貫かれ、斬り裂かれ、血を吐いて倒れていく姿に自分の意識が飛びそうになる。視覚だけではない、戦場から漂ってくるむせ返るような鉄の匂いが嗅覚を刺激し、激しい吐き気を催させる。

 倒れないように気を保つことしかできず、ガタガタと震える体を止める余裕などあるはずもなかった。


「うおおおおおおおお‼︎ 我らが命は創造主バルドラ様のためにぃぃぃ‼︎」」

「一人こっちに来るぞ!」

「何をしている! 早く討ち取れ!」


 目の前の光景に棒立ちになっていた時、陣を守っていた兵士達が慌てた声をあげ出した。

 ハッと我に返ったジャンヌが振り向くと、血塗れになった敵軍の兵士が剣を振り上げて向かってくる姿が目に映る。砕けかけた兜の下から覗く血走った目が、真正面にいるジャンヌに本能的な恐怖を植え付けた。


「あぁ、尊きバルドラ様! 今しばしお待ちを! 聖女の生き血を今、貴女様の捧げまする‼︎」

「ひっ、ひぃい‼︎」


 敵軍の信奉する神らしい名を叫び、悪魔のような笑みを浮かべた兵士の剣がジャンヌに迫る。他の兵士達がすぐさま聖女(ジャンヌ)を守ろうと駆け寄ってくるも、その距離は大きく間に合いそうもない。

 目を見開き、小さく悲鳴をあげたジャンヌは恐怖で固まった体を無理やり動かし、何歩か後ずさると半ば強引に渡された豪奢な装飾のついた剣を掴み出す。

 ずっしりと思い権を引き抜くのに苦心しているうちに、敵兵の剣がジャンヌの脳天を叩き割ろうと迫っていった。


「い、いやあああ‼︎」


 掛け声などとは到底思えない、絶叫のような声とともにジャンヌは鞘を放り捨て、重すぎる剣を無茶苦茶に振り回す。

 偶然にもその剣は振り下ろされた剣を弾き、敵兵の体を大きく浮かせる。狂気の笑みを浮かべたままの兵士が我に返るよりも先に、返すように振り回したジャンヌの剣が兵士の首に食らいつき、血管を容易く切断してみせた。

 一瞬の静寂の後、斬り裂かれた血管から大量の鮮血が噴き出し、硬直したジャンヌの全身を真っ赤に染めていく。


「……バル、ドラ、様…ばん、ざ、い…」


 血に染まり、ずしりと体重が自分の持つ手にかかることで我に返ったジャンヌが、顔色をあっという間に真っ青にさせていく。

 徐々に力が抜け、重くなっていく敵兵が祈りを捧げて倒れこんで行く前で、ジャンヌもズルズルとその場にへたり込んだ。


「お見事です、聖女様!」

「素晴らしき戦いぶり…感服いたしました!」


 味方の兵士達が慌てて駆け寄り、ジャンヌの身を案じながら称賛の声をあげるが、もはやそれはジャンヌには声として伝わってこない。

 自分の意思とは関係なしに、初めて人の命を奪ってしまったという激しい後悔の感情が胸中に渦巻き、ジャンヌはその場に尻餅をついたまま動けなくなってしまった。

 その感覚は、味方の兵が敵将の一人を討ち、その日の戦闘を終了させても、それから何日たっても消えることはなかった。




「…おじさん、いるの?」


 鎧と衣服を脱ぎ、血に濡れた体を拭って新しい衣服に着替えると、ジャンヌは一人与えられた部屋に籠った。

 ベッドの上で膝を抱えてうずくまり、顔を伏せたまましばらく過ごすと、ジャンヌはかすかに感じた気配を頼りにどこへともなく問いかける。すると予想通り、窓際から例の声が聞こえてきた。


「……人を殺めたそうだな」

「シってるんだ…おじさん、スゴイね」


 この謎の蛇が現れ、会話を始めてもはや数日が経過している。その間蛇は毎日、ジャンヌが訓練や勉学を終えた就寝前に現れては、聖女の立場を貫くための知識を授けにやってきた。

 口調こそ面倒臭がった不躾なものでも、ここまで根気強く考えも覚悟も甘い少女の相手をしている面を見るに、かなりのお人好しで面倒見がいいことはわかった。

 ジャンヌはそんな蛇にいつしか根拠のない信頼を抱き、その日に起きた辛いことなどを愚痴るようになっていた。


「まだね、カンカクがノコってるの……ツメたいハがヒトのカラダをキりサいて、たくさんチをアフれさせて、メから、ヒカリがキえていくの」


 ジャンヌが手のひらをあげて、近くの夜灯の光に照らすと、ブルブルと小刻みに震えているのが見える。

 目を閉じれば幾度もその時の光景が蘇り、眠りにつこうとする彼女に殺した相手がにじり寄ってくるため、ジャンヌは睡眠による休息さえ疎うようになっていた。


「どうしよう、おじさん。フルえがトまらないよ……タタカわないとダメなのに、テがフルえてシカタがないよ……もうイヤ。カエりたい…パパとママにアいたい」


 元の世界で平和に暮らしていれば味わうことはまずなかったであろう、他者の命を奪うという残酷な感覚。田舎の農家や山中でならいざ知らず、都会で生まれ育ったジャンヌにはあまりに重く過ぎる責任に、少女の心は押し潰されそうになる。

 青白い顔で俯き、光彩を失いつつある目で虚空を見るジャンヌを、黒い蛇はただじっと無言で見つめるだけであった。


「どうしたらいいの……ワタシはどうしたらいいの……?」

「……残念だがそれを考えるのは()の役目ではない」


 縋り付くように溢れた、ジャンヌの偽らざる本気の問いに、黒い蛇は落胆した様子で目を背け、夜の闇の中へと戻って行こうとする。

 この世界で唯一の味方が、話の途中で姿を消そうとしていることに気づき、ジャンヌは慌てて顔を上げて追いすがる。窓枠にしがみつくようにし、背を向ける黒蛇が出られないように押さえつけると、黒蛇はジャンヌに呆れたような冷たい目を向け、小さくため息をついた。


「これは()の誘いを拒み、あの狂者共に恭順することを選んだお前の結果だ。己の行動と言動には常に覚悟を持つのだな……では、()はこれで」

「⁉︎ マってよ……タスけてくれるんじゃないの⁉︎ ツれダしてくれるってイってくれたんじゃないの⁉︎」

「甘えるなよ、小娘……()は善人ではない」


 話が違う、と思わず激昂するジャンヌに、黒蛇は一切声を荒げることなく切り捨て、少女を絶句させる。

 黒蛇の冷たい目が向けているのは、召喚されたばかりのジャンヌの前で見せていた、この国の聖職者達の方に向けていた時と同じ視線。人間どころかまともな生物とさえ認識していないような、ゴミを排除することに微塵の遠慮も躊躇もしないような氷の眼差しであった。


「お前が本当に聖女として担ぎ上げられることを拒んだのなら、自ら逃亡する覚悟を決めていたはずだ。()の手を迷わず取っていたはずだ……だが、お前はそうしなかった。自分が特別扱いされることに、僅かながらも愉悦を感じていたのだろう?」


 黒蛇の吐き捨てるような言葉を、ジャンヌはすぐさま否定しようとした。無理矢理呼び出されて、異様な状況ksにもかかわらず賞賛される事を望んでいたなどと、考えられたくもなかった。

 だが、現状が黒蛇の言葉の一端を証明していることに気づき、ジャンヌは愕然とする。肉体的にも精神的にも追い詰められているこの状態が、自らの決断の結果であることにとてつもない衝撃を受けていた。

 理解し、硬直してしまったジャンヌを一瞥すると、黒蛇は今度こそ止まることなく闇の中へとその小さな体を溶け込ませていった。


「知識は授けた。やり方は教えた。もはや賽は投げられた。お前がどんな結末を迎えるかなど、お前がこれから自ら選択せねばならんのだ……せいぜい足掻けよ、人間」


 黒蛇はそれ以来、ジャンヌの前に姿を現すことは二度となく、ジャンヌはたった一人城に放置されてしまう。

 そしてそれから、何年もの月日が流れることとなった。


     ◇ ◆ ◇


 数年もの時を費やした戦いは、数多の兵の命を代価に終結した。異なる神を崇める二つの国、種族も肌の色も髪の色もそれほど変わらない、ただ生まれた場所のみが異なる民達の争いがようやく終わったのだ。

 己の信奉する神こそが正しき世界の創造者であり、その信者である自分達こそが世界の中心に君臨すべき民であると盲信した結果、それ以外の人間を排除しようと引き起こされた虚しいだけの戦争だった。互いに国力を削り合い、大地に大きな傷跡を残すだけで何も生み出さない戦いであり、終わりを迎えても何一つ残りはしなかった。


 だがそれでも、剣を握る必要はもうない。人の命を奪うことも、自らが血を流す必要も、誰かが泣く必要も何も無い。

 かつて聖女と呼ばれ、半ば強引に戦場に引き摺り出された娘ーーージャンヌは自分が最初に降り立った場所、天井の抜けた聖堂の奥の女神像の前でぼんやりと佇んでいた。


(ようやく終わった…ようやく解放された。私に課された重荷は、もうどこにもない)


 ずっと苦しんできた。初めて剣を取ってその重さに慄き、初めて人の命を奪ってその感触に激しく嘔吐し、初めて死にかけてその冷たい感覚に恐怖し。

 そして、唯一手を差し伸べてくれた人に見捨てられ、与えられた知識のみで孤独に生き延びなければならなくなって、臆病だった自分は変わらざるを得なくなった。

 流されるままだった弱気な性格は、相手に自分の要求を飲ませる強気なものに。血を見るだけで卒倒しそうだった脆弱な精神は、敵兵に囲まれても一歩も引かない堅固なものに。剣一本持ち上げられなかった貧弱な身体は、騎馬の上で大槍を振り回す剛力のものに。都合のいい旗印として喚ばれた、ただの小娘だった少女はもはや一端の戦士へと変貌を遂げていた。

 しかしもう、そんな力は必要ない。血糊のこびりついた剣も戦うための筋肉も、これまで強要され続けたものは全て無用の長物と化した。


(……そのはずなのに)

「どういうことだ‼︎」


 眉間にしわを寄せ、虚ろな目になるジャンヌの背後から、耳障りな大声が響いてくる。苛立ちと焦りがないまぜになった落ち着きのない声に、ジャンヌは重いため息をつきながら振り向いた。

 そこに立っていたのは、ジャンヌの召喚の際に彼女を誘った聖職者の老人であった。しかしいまの彼の格好は見るも無残なほどに草臥れ、かつての豪奢さは見る影もない。長く蓄えていた髭は乱れ、一見すれば浮浪者のようなみすぼらしさを際立たせていた。


「戦には勝ったというのに……人口は減り続け国力は衰え…! 挙げ句の果てに領土は異常気象に見舞われ続け、みるみるうちに痩せ細っていく…!」

「呪いだ……邪神の呪いだ!」


 老人の背後の聖職者達も同じような有様で、枯れ木のように痩せ細って今にも倒れそうな状態である。

 その理由は今彼らが言った通り、戦争による過剰な消耗のためである。長く続いた戦争は双方の国から資源を搾り尽くし、どちらの国が勝利し国土を得ても補完できないほどに疲弊していた。

 明らかな自業自得であるそれを「呪い」だと断言し、頭を抱えて嘆く彼らをジャンヌは冷めた目で見つめるだけだった。

 おとぎ話ではないのだ。戦いに勝ったからといって、全てが思い通りにいくはずなどないというのに、それを全く理解していないことが信じられなかった。


「何故だ…! なぜ貴様がいながらこんなことになっている、聖女よ‼︎」

「……言っている意味がわからないわ」


 突如理不尽な怒りの矛先を向けられ、ジャンヌは呆れた視線を老人たちに向ける。

 かつての彼女であればただ怯え、怒鳴られるがままに恐怖で体を硬直させ、ひたすらに謝るばかりだったに違いない。

 しかし今の彼女は違う。結果がどうであれ、義務がないにも関わらず自らに無理やり課せられた役目を全うしてみせたのだ。称えられこそすれ、責められる謂れなどない。


「私はあなたたちが求めるままに戦ったわ。恐怖を押し殺して……痛みも苦しみも耐え抜いて。なのにあなた達は、これ以上何を求めるというの?」

「しらばっくれるな! 貴様は我らを勝利に導くために神に遣わされた遣いだっただろう! ならば我らは、常に勝ち続けていなければおかしいのだ! なのに…なのに何故こんなことになっている⁉︎」

「わからないほうがおかしいわ……自然を人間に左右できるはずがない。あなた達は現実と虚構の区別がついていないだけよ」

「そんなはずはない! そんなはずがないのだ! お前は神によって我らに与えられた……神の力を授かった巫女…勝利の証……‼︎」


 唾を吐きながらジャンヌを追求する老人の目は、もはやまともに焦点もあっていない。元々の年齢のせいもあろうが、昨今の周囲の環境の悪化により思考力の低下が加速してしまっているらしい。

 老人だけではない。今や国全体が貧困に苦しみ、全ての民が十分な生活を送ることができなくなり、その影響が人格にまで現れ始めていた。巷では些細なことで口論になり、時に人傷沙汰にまでなるほどに。

 耄碌爺が、とジャンヌが声に出さないように呟いていると、頭を抱えて震えていた老人の動きがピタリと止まる。何が起きたのかと眉を潜めたジャンヌの前で、老人は突然肩を揺らして歪んだ笑みを浮かべ始めた。


「そうか…お前が偽ったのだな……神の啓示を。悍ましい異能の力で!」

「なっ…⁉︎」

「楽しいか……愉しいか貴様…! 我らを騙し、必要のない戦へ駆り立て、挙げ句の果てに我が国をも滅ぼそうとはな! ははははは……‼︎」

「…何を、言って…」


 意味不明な言いがかりを突きつけられ、ジャンヌはついに気でも狂ったのかと警戒気味に老人を凝視する。苛立ちをぶつける手っ取り早い敵が欲しかったのだろうと判断し、そうでもしなければ精神を安定させられないのかと憐れみを覚えてしまう。

 だが次第にジャンヌは、周囲に漂い始める不気味な気配に表情を変えていく。自分に向けられている明確な敵意が、真正面にいる老人一人のものではないことに気づいたからだ。


「貴様のせいだ……そうだ貴様のせいなのだ! 我らが敗北の淵に立たされているのも、こんなにも苦しい思いをしなければならないのも! 全て貴様が仕組んだことなのだな⁉︎」

「許せぬ…決して赦さぬ……!」

「汚らわしい邪教徒共よりも醜悪な……国を滅ぼす悪鬼めが…!」

「最初に見たときから怪しいと思っていた…! お前はきっと何かをやらかすと…!」


 老人とともにジャンヌを囲んでいた聖職者達が、ギラギラと光る異様な目つきでジャンヌを睨み、徐々に距離を詰めてくる。

 虚ろな目で迫ってくる彼らからは、もう正気は一切感じ取れない。状況が解決するわけではない、しかし今感じている鬱憤を取り除くための都合のいい的を求めた結果、目の前の娘ただ一人が目に映ってしまった。

 絶句するジャンヌの前で聖職者達は悪鬼のように顔を歪め、吐き捨てた。


「この…存在することも疎ましい魔女が‼︎」




「ーーー貴様は一ヶ月後、民衆の前で処刑する。精々我らを謀ったことを恥じ、後悔のうちに死ぬのだな」


 ジャンヌは捕らえられ、聖堂の地下深くに作られた牢獄に入れられることとなった。そこは死刑が決まった罪人を餓死するまで拘束するための場所であり、一度入ればもう二度と日の目を拝むことのできない厳重な檻の中だった。

 ジャンヌを連れてきた男はそう吐き捨て、下卑た笑みを浮かべて娘の細腕に太い枷をはめる。まともに持ち上げることも叶わないほど頑丈なそれをさらに壁から伸びる太い鎖で繋ぎ、決して逃げられないようにして、男は檻の前から去っていってしまう。


 独房の中に一人残されたジャンヌは膝を抱え、窓も何もないくらいそこできっと小さくなっていたが、やがてその表情に変化が現れる。

 カタカタと小さく肩を震わせたかと思うと、膝に顔を埋めるように俯く。すると次の瞬間、ジャンヌは虚ろな目で虚空を見つめながら、乾いた笑い声を上げ始めた。


「はは……あははは…おじさん、おじさん。ワタシ……魔女だって。民心を惑わした薄汚くて汚らわしい悪魔の子だって、あははは…!」


 唇を歪めて体を揺らすジャンヌの目からは、ボロボロと幾粒もの雫が流れ落ちる。少女だった頃に散々流し、戦いに明け暮れ疲れ切った日々の中で枯れてしまったと思われていたそれが、後から後からこぼれ出していく。

 ジャンヌはもう、自分が笑っているのか泣いているのか怒っているのか、何もかもがわからなくなっていた。ただただぐちゃぐちゃになった感情を、持て余してしまっていた。


「おかしいよね、おかしいよね? ワタシを呼んだのはあいつらなのに……神の使いと偽った最低最悪の女だって、悪魔に魂を売った極悪人だって。散々人を戦わせておいて、酷いよね、笑っちゃうよね?」


 ケタケタと肩を揺らすジャンヌの体のあちこちには、痛々しい傷跡が刻まれている。

 それは戦いの最中、敵兵から受けた傷跡だけではない。捕らえられた直後、別の部屋に連れていかれた彼女を待っていた、鬱憤晴らしと言う名の苛烈な拷問によってつけられた、屈辱の跡だった。

 しかしそんな傷の痛みも、いまの彼女の心にはなんの影響も及ぼさない。ジャンヌの心はすでに、度重なる苦痛によって跡形もなく壊されてしまっていたからだ。


「……こんなこと言うの、虫がいいってわかってるけどさ。おじさん、ワタシ……あの時おじさんの誘いに答えてればよかった。助けてって言ってればよかった」


 ひとしきり笑った後、ジャンヌは独房の壁に身を預けて隅を見つめる。そこに何か潜んでいて、顔を覗かせてくるのではないかと期待するような、そんな視線だった。

 だがやはり、誰も何もそこから顔を覗かせることはない。ジャンヌは分かっているとばかりに壊れた微笑みを見せ、又してもケタケタと体を揺らし始めた。


「でもね……もう駄目なんだぁ」


 虚ろな目が己の手を、細く華奢だがささくれた傷だらけの手を見つめ、嘲笑する。

 本当に箸より重いものを持ったことがなさそうな弱々しかった手は、今や剣胼胝塗れの歪な形を晒している。自分は本当に樽久ジャンヌという地球の少女だったのか、それすらもわからなくなりそうなほどに変わり果てた自分自身の手を見つめ、ジャンヌは乾いた笑い声を続かせる。


「ワタシの手はね、もう血塗れなの。恨んでも憎んでもなかったのに、敵だからって理由で剣を向けて、たくさんの命を奪った! 家族が待ってるって、死にたくないって言ってた人をね、いっぱいいっぱい殺しちゃった! アイツらと一緒! 勝手で糞みたいなアイツらと一緒! 勝手な理由で、自分が死にたくないって言う理由でいっぱい人を殺してきちゃった!」


 大粒の涙を流しながら、吐き捨てるように叫びながら、ジャンヌはここにいない誰かに向けて必死の形相でまくし立てる。

 しかし不意にその勢いがピタリと止み、ジャンヌはまた膝を抱えて小さくうずくまっていた。


「……ワタシ、もう助けてもらえない。助けてって言えない。おじさんが助けてくれるって言ってくれたのに、その手を振り払った。……だから、ワタシ人殺しになっちゃった」


 初めて人を殺した日から、人の言葉に流されるままに取り返しのつかないことをしてしまったときから、一度も姿を見せなくなってしまった人外の教師。その姿を、存外優しい声を今でも鮮明に思い出しながら、ジャンヌは過去の自分の選択を後悔し続けていた。


 なぜ、彼のいうことど信じてついていかなかったのか。なぜ、自ら逃げるという選択肢を選ばなかったのか。考え始めればキリがないほどに、次から次へと後悔が募って行った。

 答えを出すのは、思っていたよりも簡単だった。あの時点であってもやはり、目に見えていた世界が現実と思えていなかったのだ。漫画か小説の世界を見るように、どこか人ごとで物事を見てしまっていたのだ。

 彼はそんなジャンヌの醜い部分に気づき、見限ってしまったのかもしれない。


「ワタシは明日、おじさんの言ってた通り死ぬ。……それがきっと、ワタシの運命。ワタシが選んだ選択の結末」


 だとすれば、これは天罰なのだろう。

 聖女と呼ばれて無自覚のうちにいい気になって、その栄誉を失うことを恐れた。その栄誉を奪われると無意識のうちに思い、本当に差し伸べられた手を払い除けてしまった。

 傲慢で指定な自分がかつて存在していたことに気づき、ジャンヌはごろりとその場で横になり、はらはらと涙を流し続けていた。


「……どうせ、誰も聞いてないけどね」


 自分自身への情けなさに苦笑し、ふてくされるように目を閉じたジャンヌの意識は、そのままスッと闇の中へと引き摺り込まれていくのだった。


     ◇ ◆ ◇


「これより、魔女を火炙りの刑に処す‼︎」


 街の中心部、かつて初めて姿を現したジャンヌがお披露目されたバルコニーの下の広場で、聖職者達が民衆の前で錫杖を掲げて叫んだ。

 彼らが取り囲んでいるのは、立てられた丸太に縄で何重にも縛り付けられた白装束の娘。一ヶ月もの間暗く湿った独房の中で拘束され続け、衰弱し痩せこけてしまった聖女ジャンヌであった。

 骨が浮いた体には幾つもの痣や傷が目立ち、この時まで彼女がどんな目に遭わされてきたのかを見せつける。しかしジャンヌは、肉体の痛みさえもほとんど感じていないらしく、ただただ虚ろな表情で俯いていた。

 しかし、そんな哀れな娘を凝視する民衆の目に、同情の気配は微塵もない。罪人の格好で縛り上げられている娘に対し、尋常ではない悪意の視線を集めていた。


「この魔女は、己を聖女と偽り、人々を惑わせて悍ましい戦場に送り出し続けた悪女である! さらには王を害さんと中枢に潜り込み、厚顔不遜にも媚び続けた淫売である!」


 血走った目でジャンヌを睨みつけながら、聖職者の老人は用意されたジャンヌの罪状を読み上げる。検証などされたはずもない、純粋な悪意のみで書かれた虚偽ばかりの内容を、さも真実であるかのように告げる。

 その口元に隠しきれない醜い笑みが浮かんでいても、誰も老人を咎めようとはしなかった。何故なら、その場にいるジャンヌを除いた全員が、老人と同じ醜悪な顔を見せていたからだ。


「皆の者! この魔女はこれより裁きを受ける! しかし魔女のもたらした敗戦の呪いは未だ健在である!よって準備が整うまでの間、皆の者にはこの魔女に石を投げる許可を与える! 存分に魔女を痛めつけよ‼︎」

「このクソアマがぁ‼︎」

「俺達を散々騙して楽しかったかよ、売女が‼︎」

「主人を返せ! 息子を返せ!」


 ジャンヌが拘束された一ヶ月の間に流された、聖職者達が作り上げた悪評を民衆はあっさりと信じた。

 神を信じる者達を救うために遣わされた、異世界からやってきた聖なる乙女。悲劇に苛まれる人々を、勇敢なる戦士達を導く希望として現れたはずなのに、それは全て偽りだったという。


 何の縁もゆかりもない、ただのか弱い小娘だったジャンヌに救世主という重荷を背負わせ、酷使し続けてきたことを棚に上げ、民衆は口々に娘を罵倒する。

 かつては聖女様と慕い、勝手な期待をかけてきていた連中が今や手のひらを返すように責めてくる姿は、あまりに悍ましくて人とは思えない。

 ジャンヌは疲れ切った表情で民衆を見下ろし、小さく小馬鹿にした笑みを浮かべて呟いた。


「……呪われちまえ」


 頑張れば、いうことを聞いていればいつかは報われる。気弱く周りに合わせるだけであった自分が、多くの人達の役に立てる、そんな希望を抱いていたのに、あっさりと踏みにじられた。

 もう、民衆を視界に入れることさえ不快なほどに、ジャンヌの心は擦り切れていた。


「皆の者! 準備は整った! これより魔女を、聖なる炎で焼き尽くす‼︎」


 ジャンヌを拘束する丸太の根元に無数の藁が用意される。よく乾燥したそれは少しの火花でもあっという間に燃え上がるようにできていて、運び込まれた松明が継ぎ足される瞬間を今か今かと待ち望んでいる。

 それを代表して老人が受け取り、ゆっくりとジャンヌの目の前に下ろしていく。メラメラと揺れる陽炎を見下ろす哀れな姿の娘に、老人は下卑た笑みを浮かべて小さく告げた。


「……さらばだ、哀れな小娘よ」


 ついに松明の炎が、雑な素振りで藁の束の中に放り込まれる。ゴミ箱に紙屑を捨ててしまうかのような気軽さで、罪悪感のかけらも感じさせない表情のまま、無実の娘を焼き殺す火の種を放り込む。

 あっという間に真っ赤に膨れ上がる火の手を足下に感じ、ジャンヌはつま先に襲いかかる痛みという名の熱に顔をしかめる。逃げることは叶わない、そんなことができる余裕もそうする気もなかったからだ。


(……パパ、ママ)


 遠い遠い空の果て、世界の壁を越えた先にいるであろう、最も愛しい者達の顔を思い浮かべ、ジャンヌは目尻から一筋の涙を流す。

 大勢に讃えられようとも、本気でそれを共に喜んでくれる人はいなかった。偉大な偉業を成し遂げようとも、それよりも先に彼女の身を案じてくれる者もいなかった。誰一人として彼女を〝聖女〟ではなく、ただの樽久ジャンヌとして見てくれる者はいなかった。ただ、一人を除いて。


(……会いたいな、おじさん)


 随分と昔に見限られてしまった人が思い出され、どうしようもないほどの再会欲が強くなっていく。

 教えてくれたことを活かしきれなかったと、ちゃんとした礼も言えなかったことを後悔していると、次から次へと話したいことが溢れてきてしまう。

 一体自分のこの人生に、何の意味があったというのだろうかと自問し、ジャンヌの姿は紅蓮の炎の中に飲み込まれていった。


 その時だった。


「ヒィッ…ぎゃあああああああああああああああ‼︎」


 炎に包まれる娘を満足げに眺めていた聖職者の一人が、絶叫とともにその場に倒れこむ。その体にはいつの間にか燃え移った、ジャンヌを飲み込んだ炎が食らいついていた。

 突然のことに騒然となる広場の民衆、しかし新たに膨れ上がった炎が蛇の姿に変わり、ようやくそれはまだ始まりでしかないことを知った。


「な……何だ⁉︎」

「ひ、火が生きてる⁉︎」


 空中に現れ、とぐろを巻く巨大な炎の蛇が轟々と音を鳴らし、へたり込む聖職者達や悲鳴をあげる民衆を睥睨する。

 最初に炎に呑まれた聖職者がいつの間にか暴れるのをやめ、ゴトンと炭化した腕を落とすと、炎の大蛇は大きく口を開いて民衆達に襲いかかった。


「うわあああ⁉︎」

「ヒィイイ…! たっ、助けっ…ぎゃああああ‼︎」


 慌てて逃げ惑う民衆だが、恐怖で固まった体ではまともに走ることなどできず、あっという間に大蛇に捕まって炎の牙で噛み付かれていく。炎は衣服に燃え移り、民衆達をみるみるうちに黒焦げの骸へと変えさせていった。

 何人かは大蛇に食らいつかれると、必死に殴ったり蹴ったりして炎の拘束から逃れようとするが、形なき炎を捕らえるなどできるはずもない。抵抗むなしく、隅の塊となって次々に黒いかけらの山へと変わった。


「あ……ぁあ…、あ……」


 その悪夢のような光景に、聖職者の老人はズルズルと後ずさりながらガタガタと震え、引きつった呻き声をこぼす。

 その情けない姿を見咎める者など一人もいない。豪華に飲み込まれる街の中を、大蛇に捕まらないように必死に逃げ惑うだけで他のものに目を向ける余裕などあるはずもなかった。

 信じられない、といった様子で首を振っていた老人は、やがてブツブツと虚ろな目でつぶやき始めた。


「こ……これは夢だ……悪夢だ……! は、早く…早く覚めてくれ…‼︎」

「ーーー残念ながら現実だ」


 頭を抱えて現実を否定し始めた老人は、頭上から不意にかけられた声にハッと目を見開き、その表情を凍りつかせる。

 先ほどまで磔にされたジャンヌがいたはずの広場の中心。街だけではなく国そのものにまで燃え移った炎が渦を巻いていたそこから、若者のような老人のような奇妙な声が響いてくる。

 その中から炎を纏いながら現れた、獣の顔を模した漆黒の仮面と分厚く黒い外套を持つ大男を凝視し、老人は虚しくパクパクと口を開閉させるばかりであった。

 夜空をも呑み込みそうなほどの黒さを誇る外套の中からは、同程度の黒さを有する鎧が鈍い光沢を見せている。仮面の左側から除く赤い眼光は血の色のようで、相対する者すべてに本能的な恐怖を植え付ける、まるで氷河のように冷たい眼光であった。

 その相手を、老人は知っていた。いや、この世界に生きるほとんどの人物が、その存在についての多くを知っていた。


「お……おま、貴方は……まさか…!」

「もともと手を出すつもりはなかったんだが、よりにもよってあんな戯言のような予言を鵜呑みにする馬鹿がいるとは思わなかった……当たったことも含めて予想外だったよ、最低の方にな」


 火によるものか、それとも恐怖によるものか、顔中びっしりと脂汗をかく鎧の大男が吐き捨てるように答えると、老人は急いで膝を立てて深々と頭を地面に擦り付ける。

 真正面から相対していれば、いつか圧に押しつぶされる。そんな想像でもしてしまったのか、老人は大男に対していっそ滑稽なほどの礼を尽くし始めた。

 しかしもう、大男にとってそんなものは意味がない。冷たく光る赤い眼光を向けたまま、苛立ちの言葉をこぼし続けた。


「お前達はやり過ぎた…神だの種だのに拘って、迫害を続けたお前達は、とうとう赤の他人さえ巻き込んだ……見ていて実に胸糞が悪くなったぞ」

「お許しください……お許しください…‼︎ 賢者様…‼︎」

「ならぬわ、戯けが」


 肉食獣に狙われる小動物のような構図で、賢者と呼ばれた大男は小さく伏せる老人を見下ろす。顔が見えないため、謝罪し続ける老人の表情が実際はどんなものなのか把握することはできない。

 しかし、長い間老人の所業を監視し続けてきた賢者にとってはどうでもいいことであり、考慮することでさえも腹立たしいことだと即座に切り捨てていた。

 どんなに後で反省の言葉を述べようと、赦しを乞おうと、目の前で置かした罪を裁かない理由にはなり得なかった。


「お前はそうだな……お前がもたらした痛み、その全てを体感してくるというのはどうだ?」


 そしてついに、賢者の手によって老人に向けられる罰が実行される。伏せられていた老人の顔をほぼ無理矢理上げさせ、引きつった顔を片手でがっしりと掴む。

 ガタガタと震えるだけであった老人は、そうされた瞬間尋常ではないほどの激しい痙攣を起こし、全身をバタバタと地面に叩きつけ出した。賢者の手からもたらされた力が、老人の肉体と精神にありったけの苦痛を刻み込んでいるのだ。


「ぎっ…ぎゃああああああああああああああああ‼︎」

「ああ…本当に耳障りだ」


 たまらず絶叫する老人に、賢者は小さく舌打ちすると老人を蹴り飛ばし、その背を全体重をかけて踏み潰していく。一気に潰すのではない、じわじわと徐々に死の感覚が迫ってくるように、賢者は老人を責め続けた。

 ふと賢者の顔がゆっくりと宙を見上げ、辺りの様子を見渡し始める。悲鳴がこだまするあちこちで命が炎に呑まれていく地獄の再現のような風景、自分一人が助かろうと、隣り合うものを押しどかして逃げ惑う人々の姿。

 それはあまりにも醜く、笑えてしまえる酷に哀れな光景だった。


()が手を下すまでもない……とっくの昔に、この国は終わってたんだよ」


 ベキベキと音を立て、足元で肉と骨が潰れていく感覚にうんざりしながら、賢者は気だるげにため息をつくのだった。


     ◇ ◆ ◇


 朝日が昇る数分前の、淡く白んだ空が見える肌寒くも清廉な風が吹くどこかの丘の上。

 大きな異変の起きた国から遠く離れた場所のある箇所で、突然黒い影が渦を巻きながら出現し、大柄な人影を吐き出した。

 ずるりずるりと空間に滲み出るように姿を現した人影、賢者は軽くため息をつき、外套の前を開いて中にいる者にきつい調子で促した。


「おい、さっさと出ろ」


 賢者に突き放されるように言われ、一人の娘がおずおずと言った様子で顔を覗かせる。焼け焦げた白い衣服のまま、賢者の外套の外に誰もいないことを何度も何度も慎重に確認してから、ゆっくりと一歩ずつ外の世界に足を踏み出した。

 途端に娘……ジャンヌの肺の中に清く心地の良い風が入り込み、不安で押しつぶされそうだった彼女の心を癒す。

 生まれて初めて感じる開放感に長い間立ち尽くしていたジャンヌだったが、しばらくすると落ち着いたのか、すぐ後ろに立っている賢者の方に振り向いた。


「……おじさん、だよね? 黒い蛇の」

「ああ、そうだな」

「……人間、だったの?」

「いや、外見がそう見えるだけだ。…()が何者なのかは、()自身よくわからん」


 聞き覚えのある声だったために、半信半疑ではあったものの確認をとってみれば、見事ジャンヌの良堂は当たっていた。

 また言葉を失い、なぜか感嘆の眼差しを送るジャンヌを無言で見下ろしていた賢者は、やがてため息をつくと徐々に明るんでいく空を見やり、赤く光る左目を細めた。


「随分と昔にこの世界に堕とされ、長い時を生きてきた……あらゆる種の民に教えを請われ、色々と手を出してきたがゆえに〝賢者〟と名乗り、そして呼ばれるようになった、ただの愚者だ」


 賢者が一体何を言いたいのかは、ジャンヌには全く見当もつかない。しかしジャンヌには、先ほど賢者が口にした言葉の一端とこれまでの態度から、賢者に対するある確信を抱いていた。


 彼は、自分の先生は、自分と同じ世界の同じ国、同じクラスからこの世界へ紛れ込んでしまった、いわば同胞と呼ぶにふさわしい存在であるのだと。

 口では乗り気ではないようなことを言いつつも、ジャンヌが長く生き延びられるように知恵を授け、教えを説いてくれたお人好し。その根幹にあるのは、きっと同郷の知人に対する同情の念であるのだと。

 本人はきっと、ジャンヌが抱く感謝の思いを拒絶することだろう。わざわざ小さな蛇に姿を変えてまで、ジャンヌの前に話しかけにやってきたのが、その証である。


 それだけ考えると、ようやくジャンヌはつい十数時間前の現実を思い出し、恐怖のあまりブルリと肩を震わせる。

 しかしすぐに表情を改め、少し火傷をしている程度で住んでいる自分の両手を、そして両足を何度も見比べ、やがて呆然と言った様子で賢者に振り向いた。


「ワタシ……死んでないの?」

「何なら頬を抓ってやろうか。それとも足の小指を踏みつけてやろうか」

「そっか…死んでないし、夢でもないんだ」


 地味ながら酷く痛む提案を淡々と口にされ、ジャンヌはやや表情を引きつらせて肩を落とす。

 今だに自分はまだ夢の中、それも走馬灯のように過去の光景が蘇ってくる夢幻の中にあるようで、自分の体ではないように一歩たりとも動くことができずにいた。

 しかし、指先から感じる火傷の痛みを自覚し、夢でも幻でもないことを表していた。


「……何でおじさん、助けてくれたの?」

「以前にも言ったはずだ。狂信者共にお前が好き勝手されるのが気に入らんと」

「…だったらもっと早く来てくれてもよかったんじゃないの」

「仕込みに時間がかかった上に……お前が連れていかれた場所がわからなくなってな。まぁ、よほどの重症じゃなければ向かうつもりもなかったがな」


 咎めるような視線をジャンヌに向けられても、賢者は全く悪びれる様子もなく背を向ける。あと数秒遅れていれば手遅れになっていたとジャンヌは思うが、最早義理もないのに助けてもらった立場ゆえにそれ以上口を出すことも憚られる。

 ジャンヌは小さく息を吐き、雲一つない薄紫色の空を見上げて放心する。夜明け前の一番暗い時間は、すでに過ぎ去っていた。


「……ワタシ、これからどうなるの」

「知らん。好きにすればいい」

「……あの国が何かしてきたりとかは、ないの?」

「あの場に集まっていた主要な面々は片っ端から潰しておいたからな……その余裕もあるまい。いずれ敵軍に踏み潰され、地図の上からも消えるだろうよ」

「……じゃあ」


 地平線の彼方から、白く輝く太陽が昇り始めるのを凝視しながら、ジャンヌは賢者に問いかける。

 いきなり遠い異世界に迷い込み、訳も分からない間に聖女として持ち上げられ、あまりの重すぎる役目と責任を背負わされた日から数年。

 これで本当に役目は終わった。重責を背負わせた国ごと全てが無に消え、彼女を縛り付けていた枷の何もかもが解き放たれた。


「ワタシ……もう辛いことしなくていい…?」


 賢者に問いかけるジャンヌの目には、大粒の涙が零れる。弱さを見せてはいけないよ自ら戒めていた心が解放され、怒涛の勢いで溢れ出す感情を抑えることができなくなる。


「戦ったり、殺したりもしないで……誰かと一緒にご飯食べて、遊んで、お仕事して、笑って……普通の女の子として、生きてもいいの…?」


 ずっと嫌だった、拒絶する前から与えられた役目に縛られ、本当に差し出された手も拒むほどに人を信じられなくなり、逃げ場を失った少女が欲しかったのはそんなありふれた日常。

 何かを高望みするわけではない、ただ人と同じくらいの幸福の中で、平凡な暮らしの中で生き、死んでいけるなんの変哲も無い人生。


「もっと誰かとお話ししたい…友達作って……美味しいもの食べて、買い物とかもして…恋もして、デートして、結婚して、子供作ったりして、お婆ちゃんになるまで……」


 あの日、この世界に誘われるまで約束されていたそんな日々。身に余る幸せなど求めず、平和を享受できる普通の暮らし。

 役目を終えた、終わらされた今、彼女を引き止めるものは何もない。恨む者も憎む者もすべて、身から出た錆のように賢者の手によって粛清され尽くした。


「自由に生きても、いいの……?」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、賢者に振り向いて問いかける聖女と呼ばれた娘の問い。

 賢者は地面の岩の上に腰掛け、気だるげに頬杖をつきながら、深いため息をついて答えた。


「知るか。そんなもの、自分で決めるがいいわ」




 ーーーかつてこの地にて、異なる神を信奉する二つの国が長い間争い続けていた。


 世界にすべての命をもたらしたとされる女神エルディアと、世界を創造したとされる男神バルドラ。二つの信教の矛盾は信者達に対立を生ませ、やがて国を巻き込む大戦へと発展した。

 両者の争いはしばらくの間拮抗したものの、しばらくするとエルディア教派が勢いづき、さらに数年をかけて決着がつく。


 その勝利をもたらしたのは、後に勝利をもたらした聖女、あるいは国を戦へ駆り立てた魔女と称される神の使者・ジャンヌとされる。天から降臨し大聖堂の中心に現れた彼女は自ら剣を取り、先陣に立ち疲弊した戦士達を奮い立たせたという。

 人々を導きエルディア教派を勝者に伸し上げたジャンヌは、終戦ののち忽然と姿を消した。天の国へ帰還したとも、その力を脅威とみなした敗戦国に暗殺されたとも、様々な考察がなされている。


 しかし現代において、その真偽を確かめることは叶わない。彼女が降り立った国はすでに滅亡し、あらゆる資料が消失してしまっているからである。

 神の使いとされるジャンヌにまつわる情報は全くと言っていいほど残されてはいないが、彼女にはあらゆる知識を授けた〝賢者〟と呼ばれる師がいたという説がある。一人の少女が戦況を変えることができたのは、その師の知識によるものだとも云われている。

 その根拠として、唯一残されている聖女ジャンヌの姿絵には何故か、白銀の鎧を纏う彼女の肩に乗る、漆黒の蛇が描かれているーーー。


        ーーーエルディア戦乱記第7節より抜粋

異世界召喚ものの中でもやばい類、中でも熱狂的な宗教徒による奴隷的な聖女召喚の話でした。


すでに察している方もいらっしゃるとは思いますが、主人公の名前の由来は「ジャンヌ・ダルク」です。ダルクを無理やり漢字表記してこうなりました。

母親がフランス人、父親が日本人のハーフで、片言ながら日本語とフランス語の両方が使えるバイリンガルです。


ジャンヌはこの後、ほぼ自力で遠く離れた小さな村にたどり着き、住民の信頼を得て村の優しい青年と結婚し、のんびりスローライフの後に安らかに永眠(享年54)なさいました。

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