天候予測の技術を考えつつ、印刷技術に先回りして特殊印刷技術を独占できたらと夢を見つつ、シエスタを自分で実施する
天候の予測は、漁業を営む人間や、戦争を行う将校など、特定の業種に従事する人間にとっては極めて重要であった。
例えば、嵐ならば船を出すのは困難であるし、地面がぬかるむと騎馬の扱いが変わる。
そうした実利的な側面からか、この世界では、天候予測がある程度できるというだけでも重宝されるのだ。
しかしこの時代の天気の予測は、あくまで原始的なものであり「夕焼けが際立って赤かったならば翌日は晴れ」などの経験則的なものが殆どであった。
空の雲の形がどうか、風の向きと強さはどうか、などの情報を組み合わせて、これから天気はどう変化するかを推測するのだ。
特に今のところは、炭の粉がどれだけ湿り気を吸って重くなるか――空気の湿度から天気を予測する方法が研究されているところである。
その効果のほどだが、これが中々悪くない精度らしい。クーガーも湿度を計ることは天候予測において重要であると感じていた。
だが、更にクーガーは誰も気づいていないところを行くつもりであった。
(気圧計が一般的じゃないからなのか、気圧の変化から天候の変化を予測できることはまだ誰も気付いていないみたいだな……)
気圧計の作成――それが次のクーガーの目標であった。
(低気圧だと天候が崩れやすく雨になりがちで、高気圧だと逆に晴れになりやすい――こんな簡単なことでさえ誰も気付きはしない。何故なら気圧は計測しないと、目に見えないからだ)
気圧計の作り方は簡単である。ガラス瓶と細いガラスの管を作ることが出来たら、あとは色水と粘土を用意するだけである。
強いて言えば、ガラスで管を作るというところだけが技術的に難しいところだが、それ以外は何も難しくはない。
ざっくり説明すると、基準となる空気(と色水)を瓶に詰め、粘土で蓋をし、ストローを指すようにして細いガラス管を色水に差し込むだけである。
周りの気圧が上がったらガラス管の空気がぐぐっと色水を押すので、ガラス管の中の色水の水位が下がる。逆に周りの気圧が上がったら、ガラス瓶の中の空気の大気圧(=色水を押す力)の方が強くなるので、ガラス管の水位が上昇する。
この水位の上下を見ることで、今日は気圧が高い、今日は気圧が低い、ということを見ることが可能なのであった。
(他にも、天気の変わる方向を調べておきたい。このザッケハルト領地が緯度にしてどのあたりに位置するのかは知らないが、偏西風という西に偏った風か、偏東貿易風という東に偏った風か、どちらが吹く領地なのかを知っておけば、天気の変わる方向もわかるはず……)
クーガーの考えは、さらに一歩先まで踏み込んでいた。
偏西風、貿易風の存在は経験的に知られている事実である。が、それを科学的にコリオリの力などから説明できるクーガーと、そうでない人間とでは、予測の信頼度が違う。
すなわち、「西から風が吹きやすいってのは正しいけどあくまで迷信だし、それを前提にした内政をしてお金をたくさん使うのは止めておこう」と思う人間と、「西から風が吹きやすいのは科学的に正しい。だからたくさんお金を使った内政をしても長い目でペイできる」と思う人間との差である。
クーガーは完全に後者であった。
(この簡易な気圧計の方が、温度計よりもずっと簡単だ。そして即効性は高い。だからこそ機密情報として他の領地の貴族にばれないようにせねば……)
海辺に気象予測官を配備することは、クーガーの中でほぼ決定事項だった。問題は、この気象予測技術が漏洩するのではないか、という懸念である。
一瞬考えたクーガーは、(結局、この手の技術は間諜戦になるのか……)と苦笑いし、最悪の場合ガラスを割ってもらおう、と指示することに決めたのだった。
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クーガーの次の課題は、印刷技術を発展させて識字率を上げたい、という点に尽きた。
というのも、印刷技術にはいくつもの明確な利点があるからだ。
例えば、大量の書物を生産することで、産業として資金を稼ぐこともできる。それに新聞を発行するなどすれば、都合のいい情報のみを流すなどして、情報戦でも圧倒的に優位に立てるであろう。
他にも――。
(宗教の影響力を削いでおきたい。文字の読めない人たちにとって、宗教の影響力は大きすぎる。俺の理想は、複数の宗教団体が互いに牽制しあっている今の状況が続くことだ。どこかの宗教団体が圧倒的な権力を握ってしまうまえに印刷技術を発展させておきたい――)
クーガーは黙考した。
印刷がない世界は、情報伝達が圧倒的に遅い世界である。
広場で演説したり、壁新聞を掲げたり、立て札を立てたり、族長会議を開いたり、時には文字を手で書いたり――市政の広い範囲に話を浸透させるのには、恐ろしく時間と手間がかかっていた。
まだまだ、コミカルな風刺画や、標語の印刷されたビラが効果を持つ時代である。統制しやすいと言えば統制しやすいが、逆に例えば、市民に法律を理解させようとするとひどく難しいわけである。
新しくこんな法律ができました、ということをどのようにして伝えればいいのか――識字率を上げる必要性はここにある。
そして、この時代だからこそである。
印刷技術をクーガー主導で握っておくことで、きっとクーガーは複数の宗教団体から利権を得ることができるであろう。彼らは間違いなく、聖書を印刷して広めたいはずである。だからクーガーと少しでも懇意にしようとするはずなのだ。
だからこそ、クーガーは複数の宗教団体との牽制状態を作り出す。どこかが強くなりすぎないように、均衡を作るのだ。そうでないと美味しくない。
(文字が読めない人たちは、宗教の演説を過度に信じたりする傾向がある。だからもっと市民へ情報を触れさせないといけない――)
天動説だとか創造論とかいう珍妙な考えが凝り固まるまえに、地動説と進化論の方がより正確であるということを知らしめないといけない、とクーガーは感じていた。
クーガーの知る限り、宗教は時にろくでもなさすぎることをしでかす。
例えば、食器を使うのは失礼だとして手づかみで物を食べることを推奨したり、水は不潔としてワインを飲むことを推奨したり(ワイン利権を握っている修道院がそれをするのである)、間違った医療を「聖書では正しい」としてごり押ししたり――。
いずれにせよ、強力すぎる権力は不幸を生む。
特にその権力が思想を洗脳するものならばなおさらであった。クーガーは宗教を否定しないが、だからこそ牽制状態こそが必要だと感じている。
「――それに、印刷技術を発展させることで、とっとと紙幣印刷とか証文印刷とかの技術に先回りしておきたい。偽造不可能な書類の印刷は、ザッケハルト家だけが行えます、だから商売用の証文作成は是非我が領地に、ってね。……その辺には是非とも一枚、噛んでおきたいんだよねえ」
にやり、とクーガーは口角を歪めた。
印刷技術が欲しい真の理由は、刷るだけで資産が魔法のように増えるから。――あくまで遠すぎる夢である。今は。
5000兆枚の金貨があるのだから、ゆっくり、コツコツと育てていけばいいのである。
どうせ年に金貨五万枚ずつぐらい使って技術研究をしたとしても、十年もすれば誰もおいそれと真似できないような、偽造困難な印刷を作ることができるはずである。
(分かるかな。紙幣とまで言わなくても、信用手形や債務証券、商業的な契約書とかは、我々ザッケハルト家がほぼ独占的に引き受けておきたいんだよ。何かと口うるさい宗教団体どもには、あれこれ口出しされたくないんだよね――)
微笑を浮かべるクーガーの目には、あまりにも遠大すぎる野望がちらりと映っている。
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「若様、最近働きづめではございませんか。少々お体をお休めになられませんか?」
「ああ、セバスチャンですか。いえ、今のうちにやっておけることはどんどんやっておこうと考えておりまして」
「若様はご立派になられました。しかし、休息も大事なお仕事です。無理をし詰めで、大事な時に病に倒れてしまうことこそが一番よくないのです。そうならないようにも、常に健康を維持できるようご自愛くださいませ」
「確かにその通りかもしれません。ですがセバスチャン、今頑張らないといけないのです。これから待ち受ける運命を変えようと思ったら、それぐらいの覚悟が必要なのです」
「若様。……脱穀用の農具の開発、発酵食品の研究、イモ類の栽培研究、新しい石鹸の製造実験、新しい避妊具の研究、ハーブの栽培実験、輪作農法の実験、お菓子作りの研究、新しい養蜂法の研究、レンゲ農法の実験、新しい養蚕法の研究――そればかりでなく、火薬なるものを調合しようとなさったり、大衆浴場の草案をお考えになったり、食器文化をお広めになろうと標語をお作りになられたり、鍛冶業の者たちに資金援助をなさったり、風車や水車の勉強をなさったり、魔道具について勉強をなさったり、かと思えば神官たちや娼館の支配人たち、商業ギルドの支部長の方々とも懇意になられておりますし、車輪や伝書鳩に興味を持たれたかと思うと、今度はガラス職人と何やら示し合わせてガラス計器のようなものをお作りになったり、今度は鉄に文字を彫る技術をお探しに――」
「分かりました、分かりました、セバスチャンの仰りたいことはよく理解しました」
「なりません。若様。この爺やは諦めませぬぞ。恐ろしいことに若様は、まだまだ計画を考えておいでです。羅針盤の改良とは一体何なのですか」
「……計画段階です。ジンバルという構造があるのですが、綺麗に丸く作れないと、摩擦がかかるからあんまり上手くいかないのです。冶金技術を育てないといけません。でもきっと、波で大いに揺れる船の中で方角を知るには便利なはずです。きっと海洋貿易に改革が起きますよ」
「……若様。なりません。若様がなさろうとしていることは、一つでも十数年をかけて取り組むような、夢のようなことばかりです。若様は聡明でいらっしゃいます。聡明すぎます。だから若様が無理をなさっている。そればかりは、執事長の立場として看過できません。この爺やは諦めませぬぞ」
「どうしてもですか」
「どうしてもです、若様」
「5000兆あります」
「5000兆」
「金貨5000兆枚です」
「金貨5000兆枚」
「なりませんか」
「何それ詳しく」
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クーガーはよく眠った。
せっかくザッケハルト家の屋敷に家庭教師が来ているというにも関わらず、しばらく昼寝をしたり、朝に一仕事入れた後で昼寝をしたり、とにかくこまめに昼寝を取っていた。
真に貴族らしからぬ行為であったが、これぐらいは可愛い我が儘だと、家族に見過ごされてきたのも事実である。
というのも最近働きすぎなのである。夜中に起きては何かを調べたり、今日やり残した訓練として木刀を振ったり、とにかく睡眠時間を削ってまで熱心に何かに打ち込んでいた。
「いえ、私からすると皆さんのほうが睡眠が奇妙なのです。朝も早いですが夜も早すぎます。それに、どうせ夜中に一度起きて礼拝を行うのですから、ついでに起きておくほうがいいですし、昼寝を行ったほうが効率がいいはずです」
とはクーガーの弁である。
事実、この世界の睡眠規則は少し特殊である。明かりがろうそく(もしくは高価な魔道具)しかない世界では、日昇と共に生活が始まり、日没と共に生活が終わる。要するに朝も夜も非常に早いのだ。
更に言えば、宗教的な理由から、この世界の人々は睡眠を二回に分けていた。正確な時計はないのだが、体感で言えば大体朝の一時ぐらいに起きて礼拝し、その後寝て朝の五時にまた起きる、ということをしているのだ。
この二度睡眠は、殆どの宗教団体も同じことを推奨している。
おおかた、酒場にたむろしてついつい夜更かしするような連中の生活リズムをシャキッとさせるため(そういった夜にたむろする連中を放置していると喧嘩やトラブルの種になりがちであった)、わざと夜を二回に分けているのだと思われたが――真相は謎であった。
(でも普通じゃないかな。朝が早くて夜が遅くて、そしてこの世界の人たちからみたら信じられないぐらいバリバリ働いても、それは言わば普通の転生前の生活だったし、それどころか自分の好きなタイミングでお昼寝を取れるんだから結構楽なんだけどな)
昼寝ができると結構すっきりする。それも椅子に座っての昼寝ではなく、きちんとベッドに寝て昼寝ができるのだから、寝起きは最高であった。
かくしてクーガーは、この特殊な睡眠生活を「貴族の特権」として続けることにしていた。
ちょこっと他の人よりろうそくの消費量が多くなるのがデメリットであったが――おいおい明かりを灯す魔術を覚えようとクーガーは思うのであった。