4記憶と誕生の女神《メモリーアンドバース》
歩いて行くと、湖の向こうにある一番大きな木の裏側に、その人は居た。
私の2倍近く大きくて、ゆったりとして、立ち振る舞いが丁寧で、とてつもなく綺麗な人だ。
切り株が、大きな木の片割れがあって切られた後のように、太い幹の後ろから生えている。
それを囲むようにぐるりと木の根が生えていた。
「…ようこそ…よく来ましたね。足がまだ痛むでしょう。こちらに傷口を向けなさい。」
私の顔を見るなり、女神は足を見せろと要求してきた。
恐る恐る擦りむいた膝を突き出すと、女神は目を細めてその傷口に近づいた。
「Egredietur de passione. Nobis, qui ea cura te. Secundum eius enim sententiae spiritum tuum sana.《苦しみから解き放て。我、汝を癒す者なり。この息に従い汝を癒せ》」
ふぅ…と女神が息を吹きかけると、傷は一瞬霧がかかった様に見えなくなり、さぁっと霧が晴れると、傷は跡形もなく無くなっていた。
まるで初めからその場所には傷なんてなかったかのように。
「…すごい…」
感嘆の息を漏らした私に女神は微笑んだ。
この人は本当に女神なんだ…
私はなんだか感心してしまって女神様を見つめた。
「それで…?貴方の名前は…?」
凛と澄んだ声が森に響いて聞こえた。
「名前…名前は、神野瀬 杏奈」
私は少しだけ俯いて答えた。
「アンナ…そう。良い名前。でもここでは使えません…」
女神は微笑んでそう言った。
私は、えっ?と顔を上げる。
「ここに来た者は皆、仮の名前をつけられます。そうですね…」
女神は少し考えた。
「ハヴィ、貴方は何がいいと思いますか…?」
ハヴィと呼ばれた猫はびくっと飛び上がった。
「おっ俺ですか?!…そ、そうですね…」
自分に振られると思っていなかったのだろう。
ぽりぽりと何かを誤魔化すように頬を掻いている。
「ノア。…ノアはどうでしょう」
一度名前を呟き、それからはっきりと、ハヴィはそう言った。
「いい名前です。ハヴィ、ありがとう」
女神は微笑ましそうに笑った。
「クールな君にぴったりさ」
ハヴィはぱちん!とウインクした。
「ありがと」
私はにっこりとハヴィにお礼を言った。
最近の猫はウインクまでするのか…と考えていると、女神の周りが、所々ぽぅ…っと輝きだした。
なんだろう…訝しげにそれを見つめた私に女神がくすりと笑う。
輝く光輪が幾重にも重なって、小さな手足と瞳が見えた。
その正体は、小さな人の形をした妖精たちだった。
「parvus《小さい者》達です。俗に言うフェアリーという者たちのことですね」
震える睫毛と小さな桜色の唇、その指先、足先からはきらきら光る鱗粉が絶え間なく舞い、霧のように漂う。
薄く透明な羽は生まれたての蝉の羽のように緑がかって太陽の光を透過する。
柔らかな羽は優雅に空中を仰ぎ私の側へとやってきた。
「ノア、それが貴方の名前…くすくす…ハヴィにしてはセンスがいいわね」
近寄ってきた妖精が笑いながらハヴィを見た。
「うるさいぞフロス」
ハヴィが喰っちまうぞ!と口を開ける。
「おぉ恐い恐い…」
全く思ってもいない事を呟きながらフロスと呼ばれた妖精は私に向き直った。
「さて…貴方に与える試練は一つ…」
にやにや笑いをやめない妖精達は私の周りをくるくると周り出した。
「迷い子にとっておきの魔法を…」
別の妖精がくるりと宙返りしながら私に言った。
「空から降ってきた女の子…」
また別の妖精がくすくす笑いながら飛び回った。
「己の正体を知らない哀れな子…」
耳元で囁くように妖精が笑った。
なんだか本当に魔法にかかったように頭がぐらぐらしてきた。
「貴方が集めるのは''名前''…」
飛び回る妖精の顔が霞んできた。
「なま…え?」
ぼんやりとした頭で聞き返す。
「そう名前」
フロスがちょんと私の鼻をつついた。
チカチカと星々が睫毛の先で瞬いた。
私は一層夢の中へ引き込まれた様な感覚になってまぶたを閉じかける。
「見つけて…」
「答えを見つけて…」
「The light of the living tree《宿り木の灯火》」
「Dreams are grandly and expensive《夢は煌々と高く》」
「Sky, falling down in the wind《空、自ら落ちて風の中に》」
「Find ... the meaning of your life《見つけよ…己の生きる意味を》」
「Answer ... The future I want to know《答えよ…己の知りたい未来を》」
くすくすと笑う声が反響する。意識が混濁してきた。
鱗粉が舞い踊り私を包む。
「「Do not forget ... just as you are《忘れないで…ただ貴方のあるがままに》」」
妖精達の声が重なり、フロスが私の額を軽く叩いた。
するとカッ!という雷の様な衝撃が音もなく私の心臓を貫き、消えていった。
雷が消える瞬間、フロスが私の額に十字を描くのがわかった。
フロスが引っ掻くように指を動かすのに従い、血の様な赤い線が引かれてゆく。
痛みは感じないが、皮膚を切り裂かれた様な感覚がした。
すると指が離れて、引かれた十字の真ん中に小さな丸が浮かび上がる様に引かれた。
引かれた十字と丸は額の中へ入り込む様にスッと消えていった。
そこでどくん!と心臓の鼓動が高鳴り体が仰け反って意識がハッキリとしてきた。
両目の眼球の奥がちかちかしている。
「貴方に''しるし''をつけた。これで貴方はここの住人…貴方に幸あらんことを…」
「あらんことを…」
「あらんことを…」
こだまの様に繰り返される妖精達の言葉は不思議に耳の奥にこびりついた。
儀式の様なものが終わり、妖精達はいつの間にか姿を消していた。
「…わけがわからないという顔をしていますね…」
くすくすと笑みをこぼしながら女神が私を見た。
「妖精はわけがわからないのが普通なのさ」
私が何か言う前にハヴィがくあ、とあくびをする様に言った。
「……」
額をさすってみるがやっぱりそこに傷はなかった。
私は額の上で行われたものを見たわけではない。
でも、鮮明に脳裏に映し出されるイメージは不思議な現実味を帯びていた。
「ノア…貴方にプレゼントをあげましょう…」
女神に突然そう言われて女神の方に顔を向ける。
「…Et donum vivere in futuro ...《これからを生きる貴方に贈り物を…》」
何事か呟く女神は唇に指先を二本当て、そのままフーッと息を吐き出した。
それは白い鳥のような姿になって私の右手を取り囲み出した。
驚いて右手を反射的に挙げると、白い鳥達は指から指へ入り込み、神経や骨の中を通って何かを残していった。痛みもなく、ただ輝きが右手の中を一周して消えていった。
「alba avis《白い鳥》達よ…どうか彼女の力として…彼女を守り、強く育てるのですよ…」
消えずに最後まで残った鳥たちは了解の意を表すように二、三度女神の周りを回って消えた。
「…あの、女神様?これは…」
私が尋ねると、女神はそっと目尻に優しさを宿して私を見た。
「おまじないです。その鳥達が今後貴方を助ける力になるでしょう…」
ふーん…なんかよくわからないけど右手に何か宿ったことは確からしい。
「名前をつけてやれば?」
ハヴィが面白そうに言った。
「名前?」
聞き返すとハヴィは頷いた。
「じゃあシロ」
「それで言うと俺はクロになるんだが」
ハヴィが困ったような顔をしていた。
「いーじゃんシロ。わかりやすくて。なんならクロって呼んであげようか?」
「そこはハヴィって呼んでくれよ」
痛快なツッコミにぶーっと膨れるとハヴィがけらけら笑った。
久しぶりだ。人じゃないにしても、ここまで喋ってふざけたのは久しぶりな気がする。
この猫は、あったかい奴だ。
そう思ったら、口元がやんわりと、ほころぶのがわかった。
「…ノア、君はそうやって笑うといい」
え、と顔を上げると大きな背の高い黒猫はにこにこ笑っていた。
見られてた…少しだけ顔が熱くなる。
「ふふ…仲がいいようですね…」
女神が笑ってハヴィの方を見た。
そろって私たちは女神の方を向く。
「さて、儀式は終わりました。貴方たちには次の道を教えます」
女神はハヴィと私を指して言う。
「ハヴィはノアに着いて行きなさい。案内役が必要です」
ハヴィはしっかりと頷いた。
「ノア…自分の仕事を忘れないで…」
ノアは少し曖昧に頷いた。
「それでは…また会いましょう!」
一瞬で青く輝く鱗粉を纏った蝶たちが女神を包み、驚いて瞬きした時にはもうその姿はなかった。残されたのは散り散りになった蝶と鱗粉が作る青い風だけだった。