上中下の下
「私が死にたくないと言い出すと思っているのかね?」
「いえ、そういうことではありません」
言っていいことなのか迷ったが、こういう人は正直に言われた方が納得するだろう。
「そういうことでしたら、人魚の方だってよくある話だと思うのですよ。対策は立てているでしょう。
そういうことではなく、今の時代は大資本の研究機関が怖いんです」
「ふむ」
「あなたのような方が人魚の歌声を聞きたがっている。どこからか録音された物が送られてきた。あなたは納得したようだ。では本物か偽物かは置いておいて、少しばかり話を聞かせてもらおうじゃないか、と、こうなるのが怖いんです」
「なるほど…」
老人は黙った。
断った以上、もう私は用済みだろう。
辞去の言葉を言おうとした瞬間、老人が口を開いた。
「君は、人魚がいると思うかね?」
本当のことは言えないが、嘘をつくこともできない。
「いろいろと不思議なことは経験しましたんで、いるだろうなとは思います」
「そうか」
老人は目をつむり、肩の力を抜いた。
それを潮に、立ち上がり、黙礼をし、部屋を出た。
部屋の外では黒服が待っていて、玄関まで案内される。
「お車代です」
と封筒をよこしてきた。
遠慮もせずに受け取り玄関を出たのだが、そういえば金持ちの屋敷から空を見ることはもうないかもな、と気がつき、顔を上げた。
その後、不思議な経験は何度かしたことがあるが、人魚に会うことはなかった。出会った不思議なものから
「お前は山に受け入れられている」
と言われたほどで、海とは縁がないみたいだ。
老人と約束をしないでよかったとは思うが、同時に人魚と「しなかった約束」を考えてしまう。
もし約束を破って老人に話したら、人魚はやって来るだろう。表情を全く浮かべず、冷たい手で私の心臓を引き抜いていく光景を想像する。
しかし約束を守ったら。
私は寝たきりになり、体中に管をつけられ、己を動かすこともできず、空を見ている。
そこに人魚がやってきて…彼女は歌で、私の魂を持ち去っていくのだろうか。