ノアの決意
「————————っ!?」
声にならない悲鳴を上げる。
頭に駆け巡るのは、なぜ、どうして、という疑問ばかり。
なのに、そこにいるレオンはギルと同じように生きた感じが何一つしないほど、白く、どこまでも白く佇んでいる。
「どうした! ノ——」
どさり!
鈍い音が、ノアの背後から聞こえた。
振り向けば、後ろにいた村長が崩れるように倒れていた。
「村長っ!?」
歯が震える、手が震える。
何が起きているのかわからない恐怖が体中を駆け巡る。
見えない蛇が全身をまさぐられているかのように、ノアは硬直したのも束の間、部屋の真ん中に、薄ぼんやりとした光の玉が突如現れた。
「な、なに?」
次第にその光が薄れ、光の中から生き物みたいな姿かたちが浮かび上がってくる。
それは——
「うきゃきゃ! おっとそこ行くお嬢さん! 浮かない顔をしているねぇ〜。どうしたんだいどうしたんだい? うきゃきゃ!」
体躯としては、小柄な子供のそれだ。
しかし、雰囲気があまりにも異様であった。
全身をすっぽりと覆う黒いマントに身を包み、あたかも、死出の道を案内する死神にも見える。さらには、目元を隠す顔半分の仮面をつけているのもまた不気味であった。
「あ、あなた、何なんですか!? そ、村長やレオンさんを……こ、こんなことをしたのはあなたのせいなんですかっ!」
あきらかに、この事態にそぐわない闖入者にノアは驚きを隠せない。
ただ先ほどまでと違って幾分落ち着くことができた。
何故なら、このわけのわからない事態を引き起こしたのは、直感的に目の前の子供が何かをしたからだと察したおかげである種の不安感が消えつつあった。
落ち着いた結果逆に募るのは怒りの感情だ。
「うきゃ? 僕のことを聞いているのかい? 聞いているんだよね? うきゃきゃ。そうだな〜。いよーし! 教えてあげよう! 僕の名前は、ライラライ! 二人のことは そうさ、僕のせいだよ! うきゃ!」
ライラライ——そう名乗った子供は、愉快そうに、挑発するように笑う。
口元はにやけ、行動の一つ一つがノアの注意を引くように大袈裟だ。
「じゃあ、ギルも——《枯渇病》もライラライ、あなたがやったことなんですか?」
「んきゃきゃ! 《枯渇病》ね〜。それは教えてあーげーなーいーよー。ていうかさ。君はまだ気づかないのかい? こんなにわかりやすい状況にしてあげたっていうのに!」
「……あ」
はたと気づいた。
多分であるが、このライラライがこの状況を起こしたのだとすれば、ノアが何をしなくても村長と同じように昏倒させられたはず。
ならば、ライラライが用があるのは——ノアだ。
「わかったようだね〜。僕は君と話したかったんだ!」
「も、目的は何ですか?」
ノアは、その目的を問う。
その言葉にライラライはにんまりと笑う。
「うきゃ! 話が早くて助かるよ〜。目的は、大したことではないよ〜。僕を楽しませてくれないかなっ? きゃきゃ! そうしたら、君が今望んで仕方がないことを叶えてあげるよ!」
芝居がかったように、ライラライはこの家の中を飛び跳ねる。あるいは、跳ね回る。
だが、さっきからノアは違和感とでもいうのか何かが頭の隅にちらつく。
既視感とでもいうのか。
このライラライの一挙手一動に、ひどく見覚えがあった……気がする。
だが、それがわからない。
どこで見たのか。
どこで会ったのか。
そもそも——会ったことがあるのか?
だが、少なくとも今は、もっと情報を得る時間を取らなければいけないとノアは判断した。
「……まるで、私の望みがわかってるような言い方ですね」
「わかりすぎるくらいわかっているよ! 僕は何でも知っているからね!」
そんな、ライラライの悪魔のような提案に、警戒度を増す。
「望みを叶えてくれるなんて、やけに気前がいいんですね」
「もちろん、ただじゃ〜ないよっ! きちんとした対価をもらわないと願いは叶わないからね! うきゃ! 物語でもよくあるだろう〜?」
ほらきた!
そうだ、こんなことはよくある、とノアは内心自分の予想が当たっていたことにほくを笑む。
願いは簡単に叶わないから願いなのだ。
それを叶えるには時間と努力という全うな対価が必要なのだ。
「そうですね。確かに、よくあります。もしかして、賭けるのは私の命ですか?」
「まっさか〜! 僕はそんな物騒なことはしないよ! 君に賭けてもらうのは、これからの人生だよっ!」
「人生——?」
命と人生。
同じようで違う二つ。
そのノアの人生をライラライは賭けろと言われて、ノアはその意図に戸惑いを覚えた。
「その通り! 君の大切な人を助けるために賭けてもらうのは人生だ! だけどね、これには少し問題があってね。君の望みは二つあるんだよね!」
「望みが……二つ?」
「一つは、君の夢である空想士になれる道。一つは、君の大切な人を助ける道。だから、君のこれからの人生の可能性のうち、どれか一つを諦めてもらうよ!」
空想士になれるかわりにギルのことを諦める?
ギルを諦めたら空想士になれる?
クラリと目眩がした。
なぜ今になってそんなことを言うのか。
捨てたはずの夢を、この悪魔みたいな少年が——叶える?
胸が……痛い……。
「さぁ、君はどれを選ぶ? 選ぶ? うきゃきゃ!」
狂おしいほどの苦しみが、濁流のように押し寄せる。
温い汗が額から流れ、呼吸が浅くなり、いくら空気を取り入れても楽にならない。
だけど、こんな時こそ冷静にならなくてはならない。
ノアは、目を閉じて自らの鼓動と呼吸を意識して、落ち着くように導く。
「非常に理不尽で魅力的な提案ですが——あなたにとっての利害と、その言葉の信憑性がどこにあるのでしょうか?」
まずは、そこを聞き出して、ライラライの本意がどこにあるのの探りを入れる。
だけど、ノアはそんなことを聞いても無駄な気がした。
いや、こんな問答は無駄なことだと確信している。
なにやら、頭の底がチカチカと光るみたいに何かが引っかかる。
どうも、さっきからこの少年と以前に会った気がしてならない。
「うきゃ! 賢いね! そうだね! それぐらいの質問はすると予想していたよ! だけどね、君はそれをもう知っているはずだ! この世には、そういったものがあるし、そういったものが存在する! それは、どうしようもないことなんだ! 僕にしてみれば信憑性も利害も何もないよ! ただ、僕はそういった存在なんだよ! うきゃ!」
そういったもので、そういった存在。
この世にある、すでに役割が決定されたもの。
——そして、私は、もうそれを知っている。
次々と頭の中の欠片がつながった気がした。
「なるほど。そういうことですか」
ノアはその場の全てを見渡す。
仮面の少年、白色化したレオン、倒れている村長を次々に視る。
いや、この場合は『観る』が正しいのだろう。
そして、先のライラライのやり取りを反芻し——全てを理解した。
「さぁ、お嬢ちゃん! 夢を叶えるならこの右手の石を! 友を助けるならこの空の左手を手にとってごらん! さぁさぁ、君の叶えたい願いはどっち!?」
ライラライの右手にはガラス玉。左手には何もない。
そのガラス球はどこまでも澄んだ色をしていた。
何もない左手は何らかの暗喩なのだろうかと思っていたが、多分、そこに大した意味などないのだろう。
このライラライが本当に求めているのは——決意だ。
自分の叶えたい願い。
それは、何であるのか。
ノアは胸に手を当てて考える。
いや、考えるまでもなかった。
そして、迷う必要もなかった。
いつだって、大切なものを見失ったことなんてない。
「私の叶えたい願いは——これです」
ノアが手に取ったのはライラライの右手——ガラスの石だった。
それがノアの、決意で夢だ。
「——うきゃ。本当に? それでいいのかい?」
「はい」
ニッコリと笑顔で、ノアはライラライに頷く。
何一つ迷いのない、穏やかな瞳で、目の前にいる少年を見つめる。
「それは、この先辛いことのほうが多い道だよ。傷つき、追われ、なおも前に進まなければならない困難な道だ。それでも、君はこの道を選ぶのかい? そして、その道を選ぶということは、君の友を見捨てるのと同じだよ」
「見捨てません」
きっぱりと。そこだけは否定する。
否定しなければならない。
「今の私は何の力もないただの弱い女です。だけど、空想士になることで、ギルを助けられる力を得られるなら——躊躇いなく私は選ぶことができます」
そう。この空想物語の選択で得られる教訓は、誰かに頼るでなく、自らの力を高めて願いを叶えられるようにという意味だったはずだ。
だって、この空想物語を創ったのは——私なんだから。
「これが、私の決意です——レオンさん」
ノアがレオンとそう言うと人を小馬鹿にしたような雰囲気が一変した。
ライラライ——レオンは小さい子を見守る親のように優しく微笑んだ。
「正解だよ。それが、この空想での正解だよ」
レオンの声で、ライラライは告げる。
パチン! 指を鳴らすと、横たわっていた白色化していたレオンの身体が消えた。
そして、ライラライとなっていたレオンの身体が幾数もの光の玉に包まれ、元の灰色の髪に枯れ草色の旅装束を纏ったレオンへと戻っていく。
幻想のような出来事が起きても、ノアはもう驚かなかった。
「空想士だったんですね」
「あぁ、よくわかったね。いつごろから気づいたんだい?」
「残念ながら途中からです。でも、レオンさんも結構露骨でしたよ? 私が気づきやすいように、小さい頃に書いたキャラクターを取り出してきたり、会話の一つ一つを気をつけていたらわかりました」
レオンはこの家にあったノアの空想物語を全て読んだのだろう。
ノアが忘れてしまっていたような古いものまで。
小さい頃に書いた、登場人物のに至るまでちゃんと——読んでくれたのだ。
それが何だか気恥ずかしくてこそばゆい。
「君の初期作の『嘘つき子供の仮面』だね。嘘をつきすぎたせいで、神様から正直者の仮面を被って誰かの願いを叶えるよう命じられた罪深い子供。まぁ、私なりに大分アレンジを加えて、わかりづらくしたつもりなのだけどね」
あっさりと見破られてしまったと言うレオンは、嬉しそうに笑った。
これを書いたのはどれだけ昔かわからないぐらいだったので、おかげで思い出すのが苦労してしまった。
「それで、レオンさん。この空想劇は一体?」
「……その前に、わかってるとは思うだろうけど、私は空想士だ。それも、《枯渇病》の治し方を知っている——唯一の空想士だ」
《枯渇病》を治すことが……できる?
嘘をついているとは、思わなかった。
そうでなければ、こんな大それた空想を仕掛けるような人間だと思えないから。
いや、例え嘘だとしても、可能性があればノアは、どんなものにも縋らなければならない。
「じゃ、じゃあ、ギルは……私の幼馴染は——」
「あぁ、君の幼馴染は治すことができるよ」
そう、レオンは断言する。
信じるしかない。
いや、そうではない。レオンは信頼できる人だ。
理屈や理論を飛び越えて、ただそう思わせる雰囲気をレオンは持っている。
なら、どうしてこんな回りくどい真似を——?
ノアの空想が膨らむ。思考が激流となって唸り回る。フッと木々の隙間から日の光が差し込むように、ある答えが浮かんだ。いや、最初から答えはそばにあった。
「もしかして、だから……ですか。だから、私を試す空想劇を演じたのですか?」
「……君は本当に頭の良い子だね。その通りだよ。人の意思を試すのならば極限な状況で試すのが最もわかりやすいからね」
「そして、《枯渇病》を治す方法というのが……」
「そうだ。空想士による空想によってのみ——治すことができる」
これがその答えだ。
空想が枯渇したというのならば、枯渇した空想を湧かせるのは何だ?
——そんなの、空想以外あり得ないじゃないですか。
だけど、ある疑問が当然のように浮かぶ。
「な、なら! どうして、それを他の人たちに伝えないんですか!? こうして、ギルみたいになっている人だっているはずなのに!」
ノアは当然なことをレオンに問い詰める。
ギルと同じように、《枯渇病》で苦しんでいる人はいるはずだ。
なのに、世の中にはそんな噂は何一つ出回ってすらいない。
「それはまだ言えない。むしろ、そのために、私はこうして空想劇によって君を試すことしたんだ。君は、その一つを突破したに過ぎない」
まだ言えない。
その一つを突破。
ということは、まだその先があるということだ。
「で、では! レオンさんの出す試練を突破したらギルを治してもらえるんですか?」
「あぁ、いや。誤解をさせてしまったね。君の幼馴染は私が責任を持って治そう。命の恩人の恩を仇で返すような真似はしない。それだけは約束しよう」
そうではなかったらしい。
てっきり、空想でこんな大掛かりなことをしているだけに、ノアがレオンの出す問題を解いて願いを叶えるような物語なのだと予想していたのだが今度は外れてしまった。
「私が試したいのはそれとは別のことなんだ。君が大切な人のために何かができる優しい意志の持ち主なのはわかった。だけどね、今の私の話を聞いた上でなお、空想士になりたいと思えるかい?」
空想士になりたいと、ノアは素直にそう思っている。
今の話を聞いた上で空想士になりたいか。
さっきの、ライラライの二択では、安易な力に頼らず自ら苦しみ努力することで栄光を掴むことができるという教訓を込めていたので、ノアはその選択肢を取った。
でも今は——レオンは、何の代償もなしにギルの病気を治してくれるという。
前提が、すでに違っている。
「君が空想士を諦めれば、大切な人たちと共にこの村にずっといられる。穏やかで楽しい毎日だろう。これまでと変わらず、もしかしたら、これまでよりずっと幸せな日々だ」
あぁ、そうか。
ようやく気づくことができた。
それが、空想士になる本当のリスク。
「でも、空想士になればそれら全てを捨て去ることになる。この村はまだ空想禁止法の効果が薄いようだから、実感がわかないかもしれないが、大都市部になればひどいものだよ。空想士は《枯渇病》を流行らせた悪人として迫害され、国に対して反逆者の汚名さえ受けることになる。私は旅をして——それを見続けてきた」
淡々と語るレオンの口振りが、逆にその凄まじさを物語っていた。
ノアの空想で、その生々しさを想像させるぐらいに。
あるいは、ノアの空想がまるでその生々しさを想像させないぐらいに。
「それでも空想士になる覚悟が——君にあるか?」
この辛い道に、未知に対して一歩を踏み出すことができるか?
そう言われた気がした。
「得るものもなく、失うものばかりが大きい人生になるだろう。空想士という過去の栄光なんて今は微塵もない。未来なんてどうなるかなんて、私にすらわからない。それでも、それでも——君は空想士になりたいか?」
あぁ、そうか。そうだったんだ。
このレオンという旅人が送ってきた旅は、そういうものだったんだ。
それは、決して《枯渇病》から人々を救いたいという、大層な義務感からではなかったのだろう。
それでも、そんな辛さを耐えられたのは、空想があったから。誰かに空想を伝えたかったから。リスクばかりで、未来なんてどうなるかなんてわからないのに、彼はこうやって未知なる道を歩き続けてきたんだ。
空想を奪われたこの世界から、空想を取り戻すために。
そんな、彼の空想と共に歩くことができる——仲間を探す旅だったんだ。
——私は、今それを試されている。
どうすればいいとか、どうしたいとか、もうそんなの関係なかった。
だって、ノアはもう見てしまったから。
心が震えてしまうぐらいの、レオンの空想を。
だから、気づいてしまった。気づかされてしまった。
「私は……私は、何の取り得もない、つまらない娘です。でも、空想士に憧れたのに、なることもできなくて。ほんの慰めで空想物語を書き続けてるだけの女です」
レオンは何も語ってなんかいない。
それは、ノアが空想したレオンの心だ。
それでも、その心に報いるべく、ノアは閉じていた自分の心を、願いを開きだした。
過去に、鍵をかけ、鎖をかけ、蝋を塗りつけて、封印した自らの夢。
「でも、私の大切な人たちは、それを楽しいって言ってくれました」
そう、たとえ、空想士でなくても、ノアの物語を楽しいって言ってくれた。
幼馴染のギル。弟や妹同然に可愛がってきた、アルア、カロ、ミロ。
「なのに……なのに、私の心はどうしても、夢を諦められなくって。ずっと燻っていたんです。私は、ギルや、カロや、アルアや、ミロが喜ぶだけじゃ……足りないんです」
足りなくて足りなくて足りなくて。
もっともっともっと。
いつだって、ノアの心は叫んで、痛みに苦しんでいた。
強欲なのだろうと思う。それとも、傲慢なのだろうか。
そして、不謹慎だったかもしれないけど、ノアの心の奥では、どこか、こういった事態を待っていたのかもしれない。自らの現実を打ち破る空想を。
「空想が大好きなんです」
いつか、憧れた空想士のお姉さんのようになりたいと願ったあの日からずっと、ノアの夢は変わらない。
心が言葉となって叫び出す。
「私は——空想士になりたいっ!」
見るもの全てを幸福に包んであげたい。
そんな、空想士になりたいと、ずっと、ずっと願っていた。
「ならば、共に行こう。空想の枯れた、君の大切な人を取り戻しに」
差し出されたレオンの手を取ることに、ノアの迷いはなかった。