過去との対峙
なるほど。
見ればわかるとはよく言ったものだ。
都市に入る前は、雲行きが怪しく、オークジアは靄が掛かって全容は見えない状態であった。だが、ここまで近くにくれば嫌が上でもわかる。
オークジアの白色化。
雪なんて何一つ降っていないのに、オークジアの幹も枝も葉も全てが、真っ白に染まっていた。いや、染まっていた色が抜かれていた。
木の葉の舞い散る様は、粉雪が舞うようにひらひらと地面を白一色に変えている。それだけ見れば、絵画の世界に迷い込んだかのような美しい光景ですらある。
けれど、これは決して美しい光景ではない。
かつて感じたはずのオークジアの力強さは感じず、儚げに見える。
ノアは、小さい頃だがオークジアに来たことがあった。
戦争で心細かったはずなのに、青々としたオークジアの幹に寄りかかっているだけで安心できたのを覚えている。その圧倒的存在感とでもいうべきものがあったはずなのに、今はそれが何一つ感じられない。
下手をすれば、この世からオークジアが忘れて去られてしまいそうなぐらい、オークジアの安心感が——薄まっている。
わかっている。
というよりも、ノアは、それを経験している。
世界から忘れ去られてしまいそうなこの感じ。
目を凝らせど、耳を凝らせど、鼻を凝らせど、そこにあるかが疑わしくなってしまう、この感覚を経験している。
ギルが、《枯渇病》になっていた時と全く同じだ。
根拠なき確信ではない。直感という根拠ありきの確信だ。
「樹が……オークジアが《枯渇病》になってるなんて……」
オークジアが《枯渇病》にかかっている。
それだけが確信できた。
「《空間の枯渇化》がここまで進んでいるなんて……さすがにまずいな…………」
「レ、レオンさん。これが何なのか知っているんですか!?」
驚いた。
確かにレオンは《枯渇病》に詳しい人物だと思っていたが、オークジアが白色化したことも、その知識の内にあるとは思わなかった。
「知っているどころの話じゃない——経験したからね」
苦渋の表情のもと、奥歯をかみしめながらレオンは告げる。
「便宜上、私はこれを《空間の枯渇化》と呼んでいる。信じられないかもしれないが、《枯渇病》は人だけに対して及ぶものではない。世界の全てのものに対してその効果は及ぶ」
世界の全てのものに——対して?
あまりのスケールの大きさにノアは認識が追いつかない。
「あ、あの。これが進むとどうなるんですか……?」
「……人が《枯渇病》になったものの最後がどうなるか知っているかい?」
突然のレオンの問いかけ。
《枯渇病》になったものの最後——思い出すのは、この間のギルの痛々しいまでの姿だ。
「う、虚ろい人になって、何も考えられなくなります」
「——その先があるんだ。虚ろい人になった人間の最後は世界から消えるんだ。煙のように、そっと消えてしまうんだ」
虚ろい人のその先があって、それも、世界から消えてしまうなんて。
もしも、ギルがあのままの状態が続いたのならば——そう考えただけで、今さらながらに背筋がゾッとしてしまう。
だが、そこでふと思った。
人が消えるのだとしたら、《空間の枯渇化》になっているオークジアは——どうなるのだ?
「世界から消える……って、まさか——!」
「そうだ。空間の枯渇化が進めば、イグドラの全てが消える。無論、そこにいる全ての人たちもだ」
そう、レオンは断定した。
このイグドラの全てが消える。
今日会ったばかりで助言をしてくれた守衛に、おいしい料理を出してくれた女店主。イグドラを訪れる人々の全部が消える。
——嘘ですよね?
そんなこと聞けなかった。レオンの顔を見れば嘘でないことがわかる。
——大丈夫ですよね?
それも聞けなかった。
レオンは既に経験しているといった。
ならば、経験したということは、かつてレオンは空間の枯渇化が進んだ先を見たことがあるということに違いないのだから。
「その様子ならもう気づいたようだね。そうだ。私はかつて空間の枯渇化に対して、何も出来ないまま終わったことがある」
——失望したかい?
ノアを見て自嘲気味にレオンは嗤う。
だけど、ノアは決して失望などしなかった。
恩人ということもあるが、何よりも一緒に空想を使い、たった一人で《枯渇病》に立ち向かったレオンに失望することなどありえない。
むしろ、レオンですら何もできなかった事態に対して、危機感が高まったぐらいだ。
「で、でも!」
だからこそ、ノアは声にする。
声にすることで夢が、空想が、いつか本当に変わることを知っているから。
「今は私がいます!」
そんな悲しいレオンの顔は見たくない。
あの太陽のように優しく導いてくれた恩人には笑顔でいてほしい。
「一人がだめでも二人なら、何とかできるはずです!」
嘘でもいい。
元気付けたかった。
かつて、一人で立ち向かっただろうレオンの心を支えたかった。
今はもう一人じゃないよって。
空想士になることを決めた私がいるんだよって——伝えたい。
そんなノアの気持ちが伝わったのか、レオンは反省するように頭に手を置き、不敵に笑った。
「その通りだ。私たちの空想で、オークジアを助けるんだ!」
「はい!」
良かった。
何であれ、誰かが悲しむ顔をするのは嫌いだ。
嫌いだから、誰かを笑顔にする空想士になりたかった。
ただ、今回の笑顔にする相手は人じゃなくて樹になりそうだけど。
そう考えると、どこかおかしく笑ってしまいそうになった。
大変なことのはずなのに、ノア一人だったら間違いなく尻込んでしまいそうなのに、レオンと一緒ならばなんだってできそうな気がした。
ならば、今考えるべきは、どんな空想を創るかだ。樹に対して行う空想なんて考えたこともなかったが、ザワザワと胸の奥の方が暑くなり、空想が湧き上がるのを感じる。
そんな時——大勢の人間の足音が聞こえた。
「そこで何をしている!」
ハッと振り向くと、そこにいたのはチラホラ見かけていた偵察部隊の面々だ。
ひやりとした汗が、ノアの背中をつたう。
「視察部隊か……まずいな。これだけ大勢だと空想が使えない……」
「……どうしますか?」
ヒソヒソと声が聞こえぬように話す。
空想士であるだけに、万が一、バレたりしたらそれだけで捕まってしまうだろう。イグドラに入る前にも、レオンから気をつけるよう言われたばかりだが、オークジアを治そうとすれば空想を使わなくてはいけない。
どうすればいいのか。経験の浅いノアにはその判断がつかない。
「とりあえず、適当に話を合わせて」
コクリと頷く。
ここは、レオンに預けるのが一番だろうとノアはそう判断した。
「何をコソコソしているか! ここは、我らが預かることになった! 関係のないものはすぐに立ち去るがよい!」
「えぇ、仰るとおりにしますよ。いやいや、それにしてもオークジアがこんな真っ白になるなんて、やはりあれですか。噂に聞いた《枯渇病》がオークジアに起きてるわけですか?」
内心、さすがだなぁと思う。よくもここまでコロコロと対応を変えられるものだと。
そういえば、ライラライを演じた時はもっとすごかった。ヒントがなかったらノアもレオンだとは思わないぐらいだ。
ならば、この程度を演じるのは容易いのだろう。
「物見遊山とは不謹慎な奴らめ。我らはこの異常現象の謎を解くべく任を受けているのだ。お前らのような無責任な連中の相手はしていられんのだ! すぐに去れ!」
一喝の声が響き、ノアたちの他にも何人かオークジアを見に来ていた人たちも、厄介ごとはごめんだというように、去っていく。
「すす、すみません! ほらお兄ちゃん、もう行かないとだめだよっ」
裾をひっぱり、ノアも年の離れた妹を演じる。
「ふぅ、仕方がないね。それじゃ妹もこう言っていることだし、これで失礼するかな」
そして、堂々とオークジアの広場から去ろうとしたら、
「何事だ。騒々しい」
若い——というよりも、凛とした美しくも艶やかな声が聞こえた。
現れたのは若い男だ。
年頃は、はっきりとはわからないが、ノアより少し上ぐらいなのは間違いないだろう。その容姿は、美しく、淡い金色の髪に、強い意志を秘めたかのように、鋭く光るラベンダーの瞳。装いは、視察部隊ということで、簡単な銀色の銀色の胸当てを、碧色をした軍服の上につけているだけだ。腰には、剣を携えている。
「はっ。ただいま一般人の退避をしている最中であります!」
さっきまでとうって変わり、怒鳴り散らしていた兵士が姿勢を正す。
それだけ、この若いながらも青年が高い地位にいることを窺わせる。
「だったら早くやれ。この程度のことでボクの手を煩わせるつもりか?」
「い、いえ。ほら。お前たち、早くどこかへ行け!」
「えぇ、すぐに立ち去——……レ、レオ、お兄ちゃん?」
これ以上ここにいるのはまずいだろうと思い、ノアはレオンの手を引いたが——呆然としたようにレオンがそこを一歩も動かない。何かの意図があるのかと考えたが、どうやらそうではなさそうだ。
演技することすら忘れ、驚き動けない——そんな顔をしている。
「ヨシュア……なの、か?」
レオンがボソリと呟くように話しかけた。
無論その相手はノアじゃない。現れたばかりの金髪の青年に話しかけていた。
——ヨシュア? それがあの人の名前なのでしょうか?
名前を呼ばれた青年が振り返り、レオンの顔を見て驚愕に歪む。
「なっ……。お前、まさか……レオン……か?」
震える声でヨシュアがレオンの名を呼ぶ。
知り合いなのだろうか?
それにしても何やら雰囲気がおかしい。
「え、あの、えっと」
ノアはどうしたらよいのかわからず、しどろもどろな言葉しか出てこない。
とりあえず、事情なり何なりを聞こうと思った矢先——
「レオン=クラストハートォォォォォォォオオオオオオオ————————!!」
怒声が響き渡り、その大声にビクっと身体が萎縮してしまった。
ここまで昂った怒りの感情を目の当たりにしてノアは震えた。
「隊長!?」
それは視察部隊も同じだったようで、突然のヨシュアの豹変ぶりに面を喰らっている。
さらに、ヨシュアは腰に差していた剣を抜き、銀光に輝く剣を持ってレオンに襲い掛かった。今まで納められていた刃物が目の前に現れた。それだけのはずなのに、ノアの背筋が凍りつき、命の危機感が膨れ上がる。
「くっ!」
ガキン!
金属音の重なる音が鳴る。
見れば、レオンの手そのものが刃と化していた。
レオンの空想である空想脱皮だ。イグドラに来る前に使っていた手を鉄にする応用で、襲われた瞬間に剣にしたのだろう。空想を使っては危険だと言っていたレオンが空想を使っている。
その危険をレオンに忘れさせるぐらい、ヨシュアの殺意は本物だった。
「お前がっ! お前が、ここで何をしている!?」
ようやくノアの意識が目の前の出来事に追いつく。
殺し合いだが繰り広げられているのだ。
「レ、レオンさん!?」
だけど、ノアには名前を叫ぶことしかできない。
立ち入ることさえ許されない空気がレオンとヨシュアの間にはある。
「私なら大丈夫だ! 危ないから下がっているんだ!」
「危ないだと……? 危険なのはお前の存在そのものだろうがっ!!」
さらに火花が舞い散る。
ギリリと、力づくでヨシュアが自らの剣をレオンに刺さるよう、いや、命を奪うように力を込めている。
「やめるんだヨシュア!」
「やめろ……やめろだと? お前がボクにそれを言うのか?」
「っつ!」
止めようとするレオン。
止まらぬヨシュア。
その光景をノアは見ていることしか出来ない。
事情は何もわからないのに、胸が締め付けられるように——痛い。二人の必死な形相に、見ているだけで涙が出てきそうなほど、何かが込み上げてくるのに……声が出ない。
「姉さんを殺したお前が! ボクによくそんなことを言えるな!!」
ヨシュアの唇から血が流れる。
憎悪にまみれ、狂気をうながし、噛み締める歯が痛いと思うほど、いや、思わせないほど彼はレオンを憎んでいた。
嘘——だとは到底思えないヨシュアの言葉にノアは困惑した。
「ヨシュア聞くんだ! 今はこんなことをしている場合じゃない!」
レオンは、冷静になおも説得を続けようとする。
「こんなことだとっ!? ボクにとってお前を殺す以外に優先することなどない!!」
瞬間、二人の周りに変化が起きた。
足元までしかなかった草が、背丈ほどまでに高くなって、レオンの手足をがっしりと掴まえた。
「なっ、草がっ! まさか、空想かっ!?」
絡みつき、レオンは抜け出そうと試みるが抜けられない。
草は千切れるどころか、さらに増量し拘束の度合いを強めていった。
「人を殺すのに大層な空想など必要ない。今こそ姉さんの恨みを思い知れ!」
「ぐっ!」
ヨシュアの空想によりレオンの身体が大の字に開かれる。そんな無抵抗な状態になったレオンの心臓に向けてヨシュアは剣を構える。
ドクンとノアの鼓動が跳ねた。
——レオンが死んでしまう。
恩人の命の危機が迫っている状態にノアは全てを投げ打って飛び出していった。
「やめてください! レオンさんはそんなことをする人なんかじゃありません!!」
危ないとか、死ぬとか。一片たりとも頭の片隅にもよぎらなかった。
そんな小さいことよりも、ノアはただレオンを助けたかった。
そして、ヨシュアが言い放ったレオンがヨシュアの姉を殺したということ。
どうしても、それだけは見過ごせなかった。
確かに短い期間であるが、レオンがそんなことをする人間じゃないことぐらいわかる。とすれば、このヨシュアという人は何か誤解しているに違いないと——空想した。
「ノア! だめだ、逃げるんだ!」
「……誰だお前は?」
ノアなど目に入っていなかったのか、今さらのように闖入したノアの存在にヨシュアは気づいたようだ。なのに、動きを止めたはずのヨシュアの眼光は何一つ変わらず鋭いままで、邪魔をしたノアすら殺さんばかりに剣を降ろすことはなかった。
怯みそうになるほど怖いけど、これだけはどうしても引けなかった。
レオンと同じ志を持つ、仲間として。
「わ、私は——空想士ですっ……!」
精一杯の勇気をもって、宣言する。
「空想士?」
その一言に、視察部隊の面々がザワリと騒ぐ。
これでもう後には引けない。
だが、ヨシュアは一人納得がいったかのように頷きながら剣を引く。
「あぁ、そうか。お前もレオンに騙されているのか」
頭に上っていた血が引いてくれたかと思って、ノアはホッと一息つこうとした瞬間——パチン! と、ヨシュアが指を鳴らした。
……気づいた時には、全てが遅かった。
「ボクが助けてやろう」
レオンが拘束されたのと同じ、草の綱がノアの身体をきつく縛り上げていく。足元からゾワゾワと這い上がる草にノアの恐怖が限界に達した。
「キャアアアァァァァァ————————————————!!」
悲鳴をあげたのも柄の間、すぐさま、ノアの喉を草が締め上げて声を出せなくされ、ノアの意識が遠のいた。
「ノアっ!?」
助けるために、草を振りほどこうとするレオン。
だが、そんなレオンを嘲笑うかのように——
「こいつが殺されたくなかったら……わかるな?」
ヨシュアは剣をノアに突きつけた。
弱く細いノアの首元。
たとえ、レオンがどんなに足掻こうとも、ヨシュアがノアを殺すほうが早いのは誰が見てもわかる。
そして、レオンは諦めたように言う。
「——いいだろう、ヨシュア。ただし、その子に傷をつけるな」
「ボクを誰だと思っている? お前とは違うんだ。それにお前が死ぬことには変わらんが、殺す前にいくつか聞きたいこともできたしな」
剣を腰に戻し、ヨシュアは空想を操って二人を拘束していた草を何重にも縛り上げたロープの状態にした。
完全にノアとレオンは身動きの取れぬように封じられてしまった。
「お前たち、こいつらを連れて行け。調査は、明日以降に行う」
そして、ヨシュアは近くにいた視察部隊の兵士に命令する。
「くれぐれも、傷つけるなよ。こいつを殺すのは——ボクなんだからな」
そう言い残して、視察部隊の人垣の真ん中を、ヨシュアは一人通り過ぎていった。




