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常夜灯  作者: 劉之介
9/9

9 微笑

 手紙を書き終え、男は神に手紙を渡した。

「よろしく……お願いします」

 丁寧な口調で彼は言った。

「初めて出会ったときとは口調が大違いだな」

 老人はそう言うと、彼をいじるようににやけて笑った。

 神は彼の書いた手紙を左手に持つと、彼を試すように訊いた。

「では……これから君はどうするのかね?」

 男は困惑した。神が訊いている言葉の意味がよくわからなかった。

「どうって……これからも自分はあの卵を守っていきます」

「それは」神は皺だらけの指を立て、左右に振った。「無理なことだ」

 その言葉に男は怪訝な顔になった。それはまるでどういう意味だと神に理由を問いただす無言の表情だった。

 神は急に悲しそうな目をして彼に告げた。「タイムリミットがあるのだ。この場所に居られる時間が、制限されている。君はこの子の命をずっと守り続けていくことは出来ない」

「どうして?」男は強い口調になった。「僕には父親としてこの子を守る使命がある。もともとそういう理由で僕はここに来たんだろう? なぜ、そんな残酷なことをするんだ?」

 神は首を横に振った。「すでに、これは決まっていることだ。君が過去の後悔を拭いさることが出来れば、ここにいる必要はなくなる。これは私だけで決めたことではない。天が決めたことだ」

「絶対に、守らなきゃいけないのか」

 顎に長い髭を生やした老獪な神は、少しの間歯を食い縛るような仕草を見せた。しかし男には、その一瞬見せた老人の仕草を見つけることは出来なかった。

 ケージに取り付けられた装置が、男の心を代弁するように嘆きの声を上げた。

 鼻に喰いつく祈りの鳴き声。鉄の床と、それを支配する惨憺の空気。

 耄碌した神はいつものように顎ひげを撫でると、本来なら言うはずのなかった言辞を彼に述べた。いつも以上に丁寧さをもって、救済の手を差しのべるように言った。

「一つだけ、方法がある」神は真剣な眼差しで男を見た。

 男はその言葉に、無言のまま反応を示した。神はその反応に対して口角をつり上げると、安らかに言葉を続けた。

「君がこの命と共に居たいというのなら、方法は一つしかない。成功する可能性は低く、加えて大きなリスクも伴う。仮に成功したとしても、君の奥方の状態によっては、完全な成功とはならないかもしれない。何がともあれ、これは非常に危険な方法だ」

「焦らしてないで教えてくれ。一体どんな方法なんだ」

 神はケージの方に体を向けると、全てのことを発した。

「君があのケージの中に入って、君の魂に子どもの命を吹き込む。それだけだ」

「それだけって……」男は瞬きを繰り返した。「そんなことが本当に出来るのか?」

「出来る。上手く魂を入れることが出来れば、産まれてくる子の中に君の記憶が宿り、君は子どもの中で生き続けることができる。一度入った記憶は子どもの命が尽きるまで続き、家族が離れることはなくなる。だが、先程も述べた通り、この方法には大きな危険が伴う。君の魂が崩壊してしまうかもしれないし、君の奥方が中絶の道を選んだら、同じことが起きるやもしれぬ。どちらにしても、これは今決断しなければならないことだ。時間が迫っている。君がここにいられる時は、君が目的を果たした瞬間から減り始めているのだ」

「そんな……」男は運命に罵詈雑言を浴びせたくなった。翻弄されるがままの自分に慚愧ざんきの念が催されて、どうしようもなくなった。

 男は、一気に生気を無くしたかのようにその場でへたりこんだ。煽動と、強い衝撃が彼の背中で渦を作って彼を引きずりこもうとした。男はその渦に対して体を動かさずに振り切り、必死に冷静になろうとした。心を落ち着かせるためには、我が子のことを第一に考える必要があった。


(産まれてくる子が自分の記憶を持っているならば、その子は父親のいない寂しさを感じることはなくなるのではないか)


 彼は膝に力をこめ、力強く立ち上がった。そして、ただその時を待つ神の目をしかと見据えた。

「選択は出来たか」神が低い声で挑戦的に言う。

「いや」彼は首を少し横に振った。「質問がひとつだけある。たとえこの試みが失敗しても、危険を被るのは俺だけなのか。子どもにもしものことはないのか」

「それは…… 大丈夫だと言っておこう。こちらが一方的に行うことに、受動状態にある君の子には関係ない」

 良かった、と彼は自然に安堵した。それならば、それならば……

 彼は口を開いた。

「俺は天空になんか昇りたくない。俺にはまだ『成し遂げなければならないこと』があるんだ。願うことなら、子どもの成長を、満智子と共に見守っていきたい」

「本当に、それでよいのだな」神は一語一語を確認するように言った。「一度決めたら戻ることはできないぞ」

「構わない」と彼は言った。「俺はあの子の父親だ」

                  *

 時が少しだけ過ぎていった。その少しは、時間を遠い目から見たときに思う感覚だった。男――白石浩平と、その妻、白石満智子にとってはとても長く厳しい時間だった。

 正午。鎌倉の小道を歩きながら、満智子はふとあることを思った。もし浩ちゃんが生きていたら、この運命の道をどうやって三人で歩んでいたのだろう、と。あの人ならこうしていたのかもしれない、こっちを選んでいたのかもしれない。様々な想像が浮かんでは消えていく。考えれば苦しくなるが、同時に勇気も得られる。あの人は、会えない存在ではないということ。声が聞こえないだけで、ちゃんと私たちを見守ってくれている。ちゃんと私たちを応援してくれているのだ。

 満智子は空を見上げた。晴天の空にそれは小さく浮かんでいた。あれは私の心の常夜灯。あそこで浩ちゃんは私たちのことを惟みているのだ。

 でも、もしかしたら。満智子は突然何かに駆られた。でも、もしかしたら……

 あの人は私の目の前にいるのかもしれない。浩ちゃんは今も近いところで、私に向かって語りかけているのかもしれない。

(そうだったら、涙がでるほど嬉しいよ)

 満智子は心の中でひっそりと思った。この気持ちが浩ちゃんにも伝わりますように。伝わってくれるだけで、私は明日に向けて顔を上げることができる。もっと軽い足取りで未来へと目指すことができる。

「そうだといいね」

 満智子はこの想いをベビーカーに乗る「彼」にぶつけた。昼の月は薄い光を灯していたが、それはそれでとても強い光だと彼女は思った。晴天の空は、私に癒しの力を与えてくれる。雨の続く日はもうすぐで終わるよ。


 そうだといいね……

 彼は満智子の見えないところで、にこやかに微笑んだ。

 最後までお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。

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