8 常夜灯
御腹の子供を庇いながら家の扉を開けた。
靴を脱ぎ、狭い部屋の中へと入る。部屋のスイッチを指だけで探り、すぐにその場所を押す。部屋の空気は点滅を繰り返し、LEDの人工的な光が彼女に温もりを与えた。
満智子はフローリングを歩くと、和室に繋がる襖を開けた。廊下とは違う明澄ではない部屋の雰囲気が、見事に境界を造っていた。
彼女は和室の電気も点けると、畳の部屋へと入っていった。足を擦る音だけが静かな一室に響いていた。
彼女は置かれている座布団に腰かけた。そして、視線の先にある仏壇を見て唇を噛みしめた。
また、疑問を投げ掛ける。
心のなかであの人に問いかける。しかし口を閉ざしているだけでは沈黙と同じで、何も変わらない。
本当に、この子を産んでも良いのか。
満智子は三ヶ月以上、この問いに対する答えが出せないでいた。自分の中で今も成長を続けている我が子を前にこんなことを思うこと自体が彼女にとって苦しいものであり、子どもにも申し訳ないという気持ちも当然あったが、心の中に潜む迷いを隠すことはどうしても出来なかった。
これまで、様々な喜びと苦難が幾度となく彼女の背中に覆い被さってきた。夫が亡くなったことと、新たな命が生まれたこと、そして深い森に迷いこんだ自分。時々さまよっては彼の命や記憶を探している。週に一度は江ノ電に乗って彼の墓参りに行っている。彼の仏壇に供えるために、横浜で土産を買っている。
この病的とも言える習慣を、一体どのようにして付き合えばいいのか。現実を完全に直視できない人間が、果たしてシングルマザーなどやっていけるのか。自分にそれをする覚悟があるのか。満智子は脳天に釘を打たれたように、激しく責められた気持ちになっていた。血のでない痛みが満智子の体に取りついて離れなかった。
和室を出て、満智子はリビングに入った。仏壇で思い起こした葛藤を、和室に置いていくように。彼女は一時的に負の感情をシャットアウトした。
テレビをつけずに黙ってクリーム色のソファーに座る。そのまま寝る体勢になりたかったが、それをしたらもう二度と起き上がれなくなるような気がしたので、寝そべるのは止めておいた。膝の上で両手を組み、何か暗示をかけるようにじっと眼前のテーブルを見つめる。疲労の一言では片付けられない厭世観が、丸めたボール紙のようになって彼女の手中に転がりこんだ。満智子はそのボール紙をテーブルの先にあるテレビに思い切り投げつけた。抵抗のない軽い音が彼女の耳に伝わり、やがて音と共にボール紙も消えてしまった。
満智子は静かに目を閉じた。
もう、眼に入ってくる光でさえも煩わしく思えるくらいに、彼女の思考は妙な方向へと向かっていた。他人が見たら可笑しいと思う精神も、ここでは常識になってくる。少数派な考えが結果的に堕落の線へと移行していく。どうでもいい。もう、どうでもいい。もう……仕方がない。心にもない言葉が次々と飛び出してくる。
満智子は眼を開けた。
月の光が射し込んでくる。カーテンが閉められているのにどうしてだろう。満智子は怪訝な顔になって光の出所を探した。場所はすぐに見つかった。どうやら黄色の光はテレビ画面の方から射してくるようだった。真っ黒な画面から月の明かりが生まれ、淡い木肌のテーブルに放たれる。満智子は突然の光に対してあまり驚くようなことはしなかった。頭で考えることよりも体で感じることのほうが真実だと彼女は直感で思った。しばらくその光の持つ癒しの力を感じたあと、満智子はテーブルの上に長方形の何かが乗っているのを見つけた。
黄色い封筒。
テーブルに、それは置かれていた。
満智子は目を開いたまま、封筒を手に取った。恐怖心はあったが、封筒の正体を確かめたいという気持ちの方が強かった。
封筒を膝に置き、様々なことを思った。
月の光はいつしか消えていた。あの光が封筒をここまで運んだのだろうと満智子は思案した。
黙って、唾を飲み込む。口の中で生み出されたものが、喉の通路を降りていく……。
満智子は覚悟を決めると、封筒を開けた。糊付けされていないので中身をすぐに確かめることが出来た。ここまで来て疑うのも何だが、得体の知れない物が入っていないとも限らない。上から中を覗き、そこから見える窮屈な空間を黙視した。
空間内には紙が一枚だけ入っているのが分かった。大きさから察するに手紙のようである。胸に込み上げるすす黒い煙を払いながら、彼女は慎重に中身を取り出した。
入っていたのはやはり手紙だった。
満智子は空になった封筒をテーブルの上に置くと、その手紙の表裏を眺めてみることにした。問題の手紙は、裏には文章が書かれていたが、表には宛名を初めとした文字が一切書かれていなかった。ホラーな感情がさらに強まり、満智子の息は荒くなったが、手紙の文章は見ずにいられなかった。好奇心は自分に絶対の被害があると確信できない限り、消えることを知らないのだ。満智子は手紙をひっくり返し、裏の文章を見た。字は万年筆で書かれているようだった。満智子は字面を見た瞬間にえっ、と声を漏らした。驚きの声だった。
手紙の字が示している意味を知ったとき、満智子は思わず涙が溢れてきた。まだ頭は半信半疑だったが、心は歓びの高鳴りになっていた。満智子は泣きながら文章を声に出して読み始めた。
拝啓
突然手紙をよこしてしまい、すまないと思っている。だけど、満智子にはどうしても伝えておきたいことがあって今回はそのために手紙をしたためた。この手紙を書いてから、そちらに届くまで三ヶ月はかかるらしいから、もしかしたらここに書いてあることは意味を成さなくなってしまうのかもしれない。それでも一応読んでほしい。これは満智子を守ることが出来なかった自分への贖罪のためでもあるんだ。
まず一つ、君との約束を守れなかったことを許してほしい。あのときは会社からのストレスやプレッシャーで、周りの細かいところが見えなくなっていた。だから自己中心的な考えで動いてしまい、結果的に君の心を傷つけることになってしまった。今自分がここにいるのも、君の心をないがしろにしてしまったことへの罰が下ったのだと思う。だからもしこんな自分のために満智子が悩んでいるのなら、僕のことはきっぱり忘れてしまっても構わない。これは二つ目に僕が伝えたいことだ。誰か別に好きな人が出来ても、僕に悪いとは思わないでほしい。僕はもうここにはいない人間だから。いなくなった人間のことは早々に忘れてしまった方が満智子のためだと僕は思う。
最後に、僕が一番満智子に言っておきたいことがある。子どものことだ。
二人の間に授かった子だから、もちろん大事にしたいという気持ちがある。でも、僕はもういなくなっているから、当然産まれた子は父親を知らないということになる。それは果たして良いことなのか僕には分からない。だけど、産むと満智子が決めているのなら、僕は反対しない。シングルマザーには様々な苦労が付き物だけど、満智子がそれを覚悟しているのなら、産まない理由はないと思う。でも、もし満智子がこの子を産むかどうか迷っているようなら、僕は堕ろすことも選択肢の一つだと思う。子どもを産みたいというのは女性の本能だから、こんなことは杞憂なのかもしれない。だから、あくまでの話だけれど。満智子が心に決めたことなら、僕はどちらの選択でも構わない。一つだけ反対するとしたら、愛とこの子の出産、両方をとってしまうこと。満智子のことだからそんなことは考えていないかもしれないけど、産まれてきた子があまりにもかわいそうだ。
もう少し僕はここにいたいと思っている。ここ、というのは僕らの子どもの息づかいが聴こえる、君のいるところからほんの少し離れた場所だ。どこにいっても夜になれば月が見えるように、遠くにあっても見えるものがある。必要があれば、僕に声をかけてほしい。僕の意志としては前述したように、僕のことは忘れて、満智子には自分の信じる道を進んでほしいのだけれど。
月の光は地球を常に照らす夜の灯り。君が僕の助けを必要としているとき、僕は君を照らす常夜灯になっていたい。
敬具
手紙はそこで終わっていた。
紙に滴がしたたり落ちて、インクを滲ませた。満智子は手紙を抱き締めるように持つと、はらはらと涙をこぼした。
リビングに張り付いた、穏やかな表情を見せるカーテン。そのカーテンの向こうでは、今日も月が朗らかな微笑を浮かべて空に存在していた。リズミカルなステップが夜風を誘い、地平線は数時間後にくる夜明けを待っていた。月は満智子が泣き止んだのを見届けると、安心したように今夜の星を数え始めた。
僕は君を照らす常夜灯。僕は君を照らす常夜灯になっていたい……。
次回、最終話。