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常夜灯  作者: 劉之介
7/9

7 桃色―無駄―便箋

 三ヶ月後……

 夜の電車は静かに、春の由比ヶ浜を走行していた。桜はとうに散り、闇雲に暴れる巨大な峰だけが残った。あと一ヶ月もすれば、その峰が散り散りになって日本の空を覆うだろう。

 江ノ電の中に誰も気づかない視線がそこにあった。視線を向けていたのは満智子だった。彼女はつり革に掴まり、椅子に座る少年に見下げるような光を送っていた。その光はアイロニカルを含んだものではなかった。もっと直接的な、私に気づいてほしいという主旨のものだった。

 少年はヘッドホンをしていた。白地にメーカーのロゴが書かれたスポーツキャップを被り、席にすわりながらガムをくちゃくちゃと噛んでいた。彼が口を開けた時に、桃色のガムが一瞬覗いた。

 ヘッドホンの音量は大きく、彼の目の前にいる満智子の距離からであれば、少量だが音が耳に侵入してくる感覚を受けとることができた。少年が聴いている音楽は洋楽で、満智子自身も聞き覚えがある曲だった。確か、自動車のCMソングになっていたが、曲名までは彼女には分からなかった。どちらにせよ聞きたくもない音楽を聴かされて、彼女にとっては迷惑なことこの上なかった。

 不快なことは他にもあった。

 満智子は彼の頭上にあるシールに目を移した。間違いがないことを確かめてから、彼女はまた困った顔をした。いい加減、彼に声をかけるべきだろうか。シールが指定している席は四つあったが、全員がその席に座っていた。しかし、その四人のなかでヘッドホンをしている彼だけが違反した使い方をしているのだった。

 満智子は念のためもう一度少年を凝視して、自分に間違いがないか確認した。自分にあまり自信が持てないのはいつものことだった。例えば道を歩いていて、偶然友人が向こう側からくるのを発見しても、彼女は絶対に声をかけない。というより声をかけられないのだ。本当に向こう側にいる人物が友人なのか、確かな自信が持てないからだ。人違いだったらどうしよう。そう思うと、無難に素通りした方が良いのだと思ってしまう。そう考えているうちに、向こう側の人が満智子の名前を呼んで声をかける。満智子はそこでやはり友人なのかと確信が出来る。友人と話をしながら、この人は勇気がある人だなと彼女は思う。それとも、自分の方に勇気がないだけなのか、どちらが「普通」なのか。満智子は迷う。

 眠ったように動かず下を向く少年は、満智子のことなど微塵も気づかない様子だった。彼女は自分の存在を気づかせようとした。確認の時間はもう終わったのだ。

 少年の肩を叩き、彼を起こそうとした、その時。少年の二席隣にいる男性が立ち上がった。

「どうぞ」

 スーツ姿の男性は左手の平で自分が腰かけていた席を指し、爽やかだが、恥ずかしそうな表情を満智子に向けた。

「ありがとう…… ございます」

 急なことで狼狽してしまった彼女はとりあえずお礼を言い、男性の方へと歩いていった。

 男性はつり革に掴まった。満智子は申し訳なさそうにしながら、彼が譲ってくれた座席に腰を下ろした。

 

 闇の中の江ノ電は月のように見えた。

 難しく考えず、先へと進んでいく。彼女にはそういう気楽なことはできなかった。妥当な言葉を考えられず、悶々と錯綜していく日々が続いていくだけである。

 電車のドアが開き、満智子はホームへと降りた。

 ホームではいつものように、カーペンターズの『青春の輝き』が響いていた。彼女はこの歌が大好きだったが、アーティスト名や曲名までは知らなかった。そういう「なぜか知っている曲」が彼女にはたくさんあった。

 改札を出て、真っ直ぐ家を目指した。悲しみは数ヶ月が経った今でも消えないまま、心の隅で佇んでいた。ファストフード店が横に見えたが、彼女はそのまま通りすぎていった。食べる気にはなれなかったし、別の理由もあった。

 大通りを外れ、古い街灯が並ぶ細い道へと彼女は入っていった。幾ばくの光もない夜の世界を、彼女は街灯と共に歩いていく。それまで傀儡の身であった彼女の心も、徐々に街灯の温かな放射によって、解けていく。誰にも縛られず、誰にも指図されず、自分の意思を信じて日々を生き抜いていく。当然の如く、これは簡単なことではない。生きることとは常に逼迫した状況下の中で、あらゆる手段を講じて次の局面に進まなければならない行為であり、それを達成するには多くの時間と、身体、精神の疲労を経験しなければならないのだ。

 満智子はそのことを分かっているつもりだった。しかし分かっているだけでは何も変わらないという事実までは知らなかった。人間は誰しも意味をもって生まれてきたのだという。果たしてそれは本当にそうだろうか。この七十億という人間のなかで数十人くらいは無駄な人間がいてもおかしくないのではないか。それは自分なのかもしれない。自分こそが無駄な人間なのかもしれない。自己嫌悪が日に日に募っていき、やがては体までが壊れそうになる。自信の喪失は時に、杞憂な恐怖を生み出す。普通ではあり得ないことや、日常生活の些細な失敗でも、精神の不安定によってそれらが重大なものであるように思えてしまう。それが実は重大なものではないと気づくのに、彼女はある程度の時間がかかった。延々と続くように思える洞窟をゴールがあると信じて掘っていくようなものだ。鉄板に「鉛」と書き付けたような疲れを彼女は何度も経験してきた。

 決意の奥で鳴りを潜めていた宝物が、ついに彼女の目の前にやってきた。もう、怖いものなどないのだ。街灯の上にある、さらに強い光を放つ衛星が、満智子を優しく見守っていた。

                   *

 広いホールの中には、男と老人しかいなかった。

 老人は顎髭を右手で撫でながら低い唸り声を上げた。全てを悟った男の末路が果たして幸運か不幸か、老人自身にも分からなかったからだ。

 上空の光に繋がる複数の回線が真実の意味を表していた。隠されていた出来事と後悔が、男の上に重くのしかかった。

 老人は顎髭を一本だけ抜くとそれを弄び始めた。それからこれまでのことを確認するように言った。

「つまり、君は喧嘩をしたのかね。彼女と」

 男は小さく頷いた。老人は、男の話を聞いて初めて事を知ったという言い方をしているが、本当は最初から全てのことを知っていた。それは老人が自称でも何でもない正真正銘の神だからであり、男を説得するためにここにきたからでもあった。

 男はうつむきながら言葉を続けた。「あのときは会社の方が忙しくて、イライラしていたんです。だから、素直に謝ることができなくて、心にも無いことを言ってしまったんです」

 男は下唇を噛んだ。これまでのぶっきらぼうな口調はなくなり、本来の男のものに戻っていた。

 神は彼の方を見ずに、どこか遠くに書かれている字を読み上げるように、淡々と言った。「六月七日。午後十一時。会社帰りの道で車に轢かれ死亡。白石浩平、二十九歳」

「三ヶ月も前から満智子と二人で計画していたんです。……新婚旅行。二人でフランスにいく予定だった。当日のスケジュールまできちんと組んで、その日が来るのを楽しみにしていたのに、こんなことになってしまった……」

 悲痛な顔を地に向ける彼に、神は言葉をかけた。

「後悔の種類は大きく分けて二つに分かれている。一つは、時が経てばやがては枯れていくもの。もう一つは、どんどんと育っていって、やがては黒い花を咲かせてしまうものだ。前者ならいいが、後者に当たってしまうと厄介なことになる。そういう後悔は育つ前から摘み取ってしまえばいい。後悔の種となった原因を根本から解消してしまえばいいんだ」

 神がそういうと男は顔を上げて、神の方を見た。「つまり、俺はどうすれば……」

 神は男の背後に向けて人差し指を向けた。その先にはケージに守られた卵があった。

「あの中に何があるか知っているか?」神は尋ねた。

「自分にとって一番大切なもの……です」

「具体的に」

「分かりません。それしか頭に残っていないんです」

 神は差していた指を降ろすと、静かに目を閉じた。壁を構成する金属の臭いが男の鼻を擽った。

「あの卵の中には新たな命が宿っている。あと八ヶ月もすれば、卵が割れて全てが解放されるだろう」

 男は息を呑んだ。神が放った言葉をもう一度心の中で繰り返した。

「新たな命……。 ということは……」

 神は目を閉じながら頷いた。

「そうだ。君と満智子氏、二人の間に出来た子。その子の生命があの卵の中に宿っている。まだほんの小さな受精卵でしかないが、数ヶ月もすればやがて卵自体が拍動し始める。手足が生え、脳が形成され、やがては立派な『一人の』命となる。君はずっと自らの子供を守っていたのだ。嗚呼、あの世に召されていく者が今生の世界に降り立つ者の手助けをするとは、なんと素晴らしいことだろうか」

「どうして……」男は悲哀の目になって、目の前にいる老人に尋ねた。「どうして、すぐに教えてくれなかったんだ。もっと早くから分かっていれば、俺はもっと早くここに駆けつけて、自分の息子を守っていたのに」

 神は悪戯っぽく笑うと、すぐ男の目を見つめた。

「物事には必ず順序というものがある。君がもし、最初からこのことを知っていて洞窟に来たのなら、さらなる苦悩と後悔が君を襲ったに違いない。もしかしたら君は精神的な悪夢に取りつかれ、洞窟を掘り進むのを止めてしまうかもしれない。前にも言った通り、神というのは人間が想像するものとは違って非常に無力な存在だ。だから君の心を見通したり、心情を変えたりなどということは出来ないのだよ。出来ることは私が信じる正確なルートを君が辿るように誘導するだけだ。あまねく漂う空気を吸い、君は死という現実を知らないままに、徐々に潜在意識の中にいる淀みを浮き上がらせていく。一種のカウンセリングのようなものだな。君が現実と向き合うために用意されたあの洞窟で、この空間で」

 男はゆっくりと俯いた。一体どのような気持ちになれば良いのか心が迷っていた。自分に子供が出来る。その事実だけが世界を構築しているのならば、自分は心から喜ぶことが出来ただろう。しかし、目の前の現実はもっと複雑なのだ。こうして自分がこの不可思議な世界にいることがこの複雑さの全てを物語っていた。

「まだもう一つやらなければならないことがある」

 神はそっと呟いた。口の下を右手の小指で掻きながら。

「君と同じような苦しみを抱えている者がもう一人いるのだ。誰とは言わん。だが君なら分かっているはずだ。『彼女』を助けられるのは君しかいないのだから」

 神は男の頭上を、まるで空気を掴むように手を伸ばした。神が左手に持っていたのは黄色い便箋だった。

 神は右手で口の下を掻きながら、その便箋を男に渡した。

「これは君に渡しておこう。やることは分かっているはずだ」

 便箋を受け取った彼は、しばらく呆然としていた。老人を見つめ、それから視線を落として便箋の方に目を向けた。黄色い便箋を見つめていたら、彼はなぜか涙が出そうになった。こぼれる直前でぐっと堪えたが、一体何の涙であるかは彼自身にも見当がつかなかった。

「分かりました」

 水滴は隠せたが、口から出た言葉は涙声になっていた。

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