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常夜灯  作者: 劉之介
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6 大河―毒素―電話

「分かったかね」

 神を自称する老人は、余裕のこもった表情を彼に向けた。生徒がプリントに書いた答えを、教師が上から覗きこむ時のような顔をしていた。

 男の考える時間は短くもあり、長くもあった。彼の思考世界は、まさに色の汚れた河の上を仰向けで流されている状態であった。流されながら岸にたどり着くのを刻一刻と待っていたのだ。

 崖の下にある、生命の宿し大河。流れの強い河の力が赤茶色の岩壁を削りとっていく。岩壁が岩になって、岩がやがては石になる。砂を横にして彼は無心の光と化していた。俺はどこに行くのだろう。俺は一体何をしているのだろう。すでに答えの出ている問いかけを彼は何度も何度も繰り返した。いっそのこと、このまま勢いよく岩に体をぶつけて粉々になってしまえばいい。本心ではないが、不思議とそんなことも浮かんできた。

 「過去」とは一体何なのだろう。「真実」とは一体何なのだろう。グロテスクな排気坑に手を突っ込むように、足踏みを続ける時間がだんだんと長くなっていった。少し勇気を出すだけで苦しみから離れることができる。しかし、その少しが上手くいかない。

 「後悔」は熱い大気を吸って、徐々に大きくなっていった。成長した心情とガスが毒素を強くしていき、彼の心へと近づいていった。彼は払い退けようとはしなかった。もう、どうでもよかったのだ。むしろあちらの方から来てくれたのだから逆に感謝をしなくてはいけない。本当は自分が迎えにいくはずだったのだから……


「行けない? どういうこと?」

 彼女の甲高い声がリビングに響いた。口から飛び出た言葉はそのまま方向転換せずに、白い壁へ衝突した。

「約束したじゃない」

 怒りの混じった願いが、スマートフォンの穴を突き抜ける。この言葉を発するのはもう三回目だった。

 返事は曇った声で届けられた。

「どうしても外せないんだ」

 若い男の声。騒がしい室内の様子も同時に聞こえてくる。男は間髪入れずに言葉を重ねた。「大事なプロジェクトなんだ。海外の重要なクライアントとも話し合わなきゃならない」

「約束したじゃない」四回目となる、彼女のそれが投げ込まれた。無様に何度も同じ台詞を言うのは、それ以外に効果的な言葉が見つからないからである。男に投げ掛ける彼女の声は汗を吹き出したかのように揺れていた。

 男は彼女に諦めを諭すようにゆっくりと言った。謝罪の言辞も当然加えて。「ごめん。でも、また今度にすればいいじゃないか。いくら新婚旅行と言ったって、心が新婚気分ならそれでいいわけだし……」

「それで…… 言い訳になると思ってるの?」恐れのない彼女の声音が再び部屋を包んだ。彼女の声は先ほどよりも小さいものだったが、脅しをかけるような凄みが込められていた。

「三ヶ月も前から計画してたことじゃない。もちろん、私だって浩ちゃんの仕事がとても忙しいことは分かってるよ。LMTにオフィスを構える一流企業に浩ちゃんが勤めてることは私にとっても誇らしいし、すごいことだとも思うよ。でも、約束は約束でしょ。どうして一日前にそんなこと…… 言うの?」

「だから、さっきからすまないって言ってるだろ。俺は世界を相手にしているんだ。お前みたいに家にずっと籠ってる奴とはわけが違うんだ」

「主婦を馬鹿にしないでよ」彼女は眼球に殺意を込めらせた。「一体どういうつもりなの? 自分から約束を破っといて、今度は開き直るつもり? ……呆れた。要するに、自分は儲けがあるから何したって許されるだろうってことね」

「そこまでは言ってない」

「言ってるわよ。あなたは追い込まれるといつもそうやって自分を正当化する。この前だってそうよ。帰りが遅くなって連絡もよこさないで、それなのにあなた、謝罪の言葉ひとつ言わず言い訳ばかりしてたじゃない」

「そんな過ぎた話は今どうだっていいだろ!」ついに彼は声を張り上げた。彼女の隣にあった花瓶が小刻みに震えた。

「もういい」獣のような荒い口調で彼は言葉を床に放った。「俺は忙しいんだ。切るぞ」

 電話はそこで途切れた。単調に流れる高音と共に、突き放されたような哀しみがそこに残った。

 彼女はスマートフォンを耳から離した。彼との、忘れたい会話の時間から逃れるように。

 リビングに籠っていた熱は彼女の心の行方を探していた。

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