5 教祖―後悔―写真
訪問者は突然やってきた。まるで、ドアの隙間から西風がそっとやってくるように。
「彼」がどこからやってきたのかは分からない。洞窟は塞がれているし、それ以外の出入口は見当たらないからだ。しかし、その訪問者がただの「侵入者」にならないのは確かだった。格好や姿など、それぞれの外見の調和がどちらかと言うとマイノリティな種に属するものだったからだ。穴を掘り、ケージの中の卵を現在進行形で守っている者には、その調和が異様なものに感じられた。
訪問者は老人の姿をしていた。髪は長髪、白とグレーの混じった色で、長い間洗っていないように見えた。髪と同じ色をした口ひげを生やしていたが、鉄の地面につくほどひげは長かった。着ているものは白いタキシードで、紺色のだぶだぶのズボンを履いていた。ケージの番人にとってその見た目は、浮浪者にも、新興宗教の教祖のようにも感じられた。
教祖は彼にゆっくりと近づいてきた。足音もなく、風が動くこともなく。よくそのような独特な雰囲気のことを「オーラ」というが、教祖の場合、まさしくその気迫こそオーラと呼べるものだった。霊気が、一瞬で部屋の隅にまで届いたのだ。番人の男は仁王立ちで、教祖の次の動きを待っていた。
教祖は歩みを止めた。先手を打って男の方から話しかけた。
「誰だお前は。一体、どこから来たんだ」
教祖は下品に鼻を鳴らした。
「話を始めるときは、まず挨拶からだろう」
男はその言葉に答えなかった。
「一体、何をしに来た。卵を盗みにきたのか」
「盗みにきた、だと……」教祖は不気味な笑みを浮かべた。「とんでもない、私は君を救いに来たのだよ」
「どういう意味だ」彼は低い声を立てた。
「そのままの意味だよ」教祖は信者に教えを授けるように言った。「君に伝えたい大切な情報があるんだ」
番人の男は訝しんだ。相手の口車に乗ってはいけない。奴は巧妙な手を使って卵を盗もうとしている。
教祖は長い口ひげを撫でた。「怪しく見えるかもしれないが、私は君がどのような存在で、どこから来たかを知っている」
番人は無言を決め込んだ。教祖は構わず続けた。
「私が誰だか知りたいか。いや、これは愚問だったな。君はいま、私のことを知りたくてたまらないはずだからな。リスの前に鏡を置いたときのように、君は君の周りで起こっている色々な状況を知りたいはずだ。いいだろう。私の名は単純明快。誰でも知っている存在だ。「神」だよ。私は神、そのもの。君に教えを授けに来たのだよ」
男は神と名乗った老人を睨み付けた。しかし、神は動揺など微塵もせず、むしろ彼の反応を楽しんでいるかのようだった。
「神だったら、その証明となるものを提示してもらいたいが」男は言った。
「見た目で、神とは分からないと?」
男はゆっくりと頷いた。
神は気味の悪い笑みを浮かべると、彼の頷きに答えた。「神を証明する必要はない。それは、とても無駄なことだ」
そして神は、男の真上にあるケージを指差した。爪の長い左手の人差し指を向けて。それは、非常に意味があることのようだった。
「卵がもうすぐで割れる」独り言のように抑揚なく神は言った。
「なんだと……」男は眉をひそめた。
「もうすぐで、割れる」神は言葉を繰り返した。「君の任務はもうじき解かれる。解放が始まるのだよ。奇跡が、起こる」
男は下唇の一部分を噛んだ。この老人の嘘を見破ろうとしていた。
老人は首を鳴らした。頸動脈の奥にある打楽器が音を奏でた。「嘘だと思っているのか。愚かな奴だ。私は君の味方であるのに…… 不必要な疑いは、時に破滅を生むのだぞ」
「卵はまだ割れない。このことは俺が一番よく知っている」
「それでは、卵がどうなってもよいと言うのだな」神は強い口調で言った。
男は唾を飲み込んだ。神の眼光は普通の人間のそれとは違う輝きをしていた。人類が今まで積み上げてきた常識を蹂躙するような光。男は老人の瞳の先に錯綜した懊悩を見た。とんでもないものに逢着してしまったと男はその時思った。
「もう一度訊く。卵がどうなってもよいと言うのだな」神はにやけながら繰り返した。
男は別に神の言いなりになった訳ではなかった。神がたとえ催眠術のようなものを彼にかけたとしても、彼には全く効果がないものだった。だから、今からの彼の行動は決して神によるものではなく、自分の意志によるものであった。
男は依然として老人を訝しんでいたが、全く元のままというわけではなかった。多少だが、こいつを信じてみようかという気持ちも生まれていたのだった。そう思ったのには、老人の眼光がもたらす内なる力に出くわしたことが理由にあった。
「いつごろ、卵は割れるんだ? 明日か、一週間後か」
神は彼の言葉に微笑を浮かべた。「三日後だ。その日、卵は突然に痙攣し始め、君の苦労が水の泡となる」
「卵が割れること自体は俺の望んでいることなんだ。しかし、時期が早すぎる。どうやったら食い止められるんだ。知っているんだろ? 神を名乗るような存在だったら」
神は鼻を鳴らした。「ずいぶんとためを張るのだな。まあ、いいだろう。今のところは許してやる」
神は続けた。「卵を救う方法はただの一つしかない。それは、君の過去に眠っている」
男は怪訝な顔をした。「過去?」
「そうだ」神は人差し指を立てた。しわのない奇妙なほどに清潔な手だった。「全ての元凶は君が過去に残してきた後悔にある。あれが禍根となって、君の使命にも影響を及ぼしている」
神はそこまで言うと人差し指を下ろした。男の判断を待っているようだった。しかし、原因を知っても男の顔が晴れることはなかった。神が述べた「後悔」という救済の言辞は、彼にとっては苦悩の暗示だった。彼は自分の名前、ここにきた所為、そして自らに起きた境遇について確かな記憶があった。そして、神が提示した「後悔」という言葉は、男にとって最も思い出したくない出来事であった。
(どうかな?)という表情で、神は、男が次に発する言葉を待っていた。しかし彼はすでに視線を下にして、自らが作りだした思考の世界へと入り込んでしまっていた。もう当分、戻ってくることはなさそうだった。
(悩むがよい)
神は心の中でそう思った。真の神は人間たちの想像するような万能の力は持たない。ただ、住む世界が違うということだけだ。だから、私の力で彼を救い出すことは出来ない。これはあくまで彼の人生であり、私は助言を行うのみで、直接手を下すことは出来ない。
万能な存在などないのだ…… 神は心の中でそう呟くと、彼の心の行く末を案じた。破滅の時は刻一刻と近づいていた。
*
昔、ここに来たことがある。
肩から落ちそうになったバッグを戻すと、満智子は再び昼の空を見上げた。
横浜ランドマークタワー。
日本で二番目の高さを誇るビルで、名前の通り横浜の象徴となるような建物である。七十階建て、高さは296・33メートル。
満智子は首が嘆くほどに、長い時間ビルを見上げていた。それは上空にある雲が、横浜の上を飛ぶことに飽きを感じ始めるくらい長い時間だった。道行く人が彼女の不審な行為に一瞬だけ目を向ける。しかしすぐに興味をなくし、皆自分の目的のために頭を使い始めた。
歩きながらスマートフォンをしていた二十代の男性が、停止している満智子にぶつかった。男性は悪びれた様子もなく、むしろそっちが悪いんだという態度を彼女に見せ、遊園地の方へと歩いていった。ジェットコースターからの悲鳴がうるさいが、満智子の耳には入っていなかった。男性と衝突したことにも気づいていなかった。
昔、ここに来たことがある。
満智子は心の中で、もう一度その言葉を繰り返した。呼吸が唇と絡み合って舞踏を踊る。心拍数が徐々に上がってゆくのが彼女にも感じ取れた。ここに来ることは最初から決まっていたはずなのに、どうしてこうも筋書き通りに事は運んでしまうのだろう。どうして、抵抗することができないのだろう。
パニック障害というものを聞いたことがある。特定の場所に行くと、軽い呼吸困難と多量の汗が出始める精神的な症状のことだ。ほとんどの場合、会社でのストレスなどから、その特定の場所が満員電車であることが多い。しかし、彼女の場合は違った。
満智子はカバンから財布を取りだし、普段レシートを入れているポケットに人差し指と親指を突っ込んだ。ポケットの中は散らかっていたが、目的のものはすぐに見つかった。それはまるでジグソーパズルのピースの山から、特定のピースを見つけるようなものだった。難しそうに聞こえるが、その特定のピースが他と違う彩飾をしていれば簡単に見つけることが出来る。
彼女が財布から取り出したのは一枚の写真だった。
彼女はその写真をランドマークタワーが作り出した蒼い空へと向けた。右腕を伸ばし、ゆっくりと掲げあげるその姿は、まるで何かに取りつかれているような不気味さを漂わせた。今の彼女はもう呼吸が乱れて、正常な自我を喪失していた。
汚れた生き物が視界にいないことで、写真は以前のような鮮明さを取り戻していた。写真の隣で微笑んでいるランドマークタワーの頂が、彼女に合図をするように身を痙攣させているのが見えた。もう全てのものが清浄な生き物と化していた。
「昔、ここに来たことがある」
彼女は言葉を発した。力のない、息のような声だった。
写真はアルバムを構成するピース。
彼は、そこに写っていた。