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常夜灯  作者: 劉之介
4/9

4 元町―中華―横浜

 夜明けの街で、月の残骸を見る。

 満智子はエスカレーターからコンクリートに地面を移し、一人ベンチに座った。座った途端に、それまで肩にかかっていた南京錠が一気に取り払われたような気がした。ここまで来るだけでもすでに息が苦しいのだ。

 中華街から伸びるみなとみらい線に乗って、真っ直ぐランドマークタワーを目指す。向かう理由はただ一つ。高い建物のそばに行きたいということだけだった。

 ホームには意外にも人が少なかった。満智子はスマートフォンで時刻を確認した。大きな画面には十一時二十分と表示が出ていた。お昼時なのに、こんなにも人が少ないものなのか。満智子はそう思った。

 地下鉄が来るのを待ちながら、彼女は元町や中華街での出来事を思い返していた。ここを訪れるのは人生で二度目。高校生の時に一度行ったきりだった。


「チョコレートの八個入りを一箱」

 満智子は指でディスプレイを差した。

「はぁい」

 他の客の会計を終えた女性店員が、甲高い声でそれに答える。慣れた手つきで箱をビニールの中に入れていく。年齢は四十代に見えた。

 満智子は無言でお金を払い、両手で商品を受け取った。

 自動ドアをくぐってすぐに、七、八才くらいの男子が物欲しそうに彼女の方を見た。近くに母親はいるのだろうか。もしいたとしたら彼はすぐに母に甘えて、あれが欲しいとせがむのだろう。店の前に貼られている球型チョコの中に、まさかラム酒が染み込んであるなんて知らないだろうから。可愛らしい彼に、満智子は本当のことを言ってあげたかった。チョコの真実ではなく、別の真実である。

 このチョコレートは私が食べるわけじゃないのよ、と。


 リードに繋がれた犬は、視線の先にシルバー色の自転車を見た。しかし、そんなことは気にせず、地面の臭いを嗅いだ。飼い主がリードを引っ張って、自転車が通る道を空けようとする。犬は数秒間だけ抵抗したが、この命令が飼い主のものであることを悟ると、すぐさま言うことを聞いて、飼い主の前についた。

 マンホールの闇から脱出を試みた蟻。容易く地上に出たのも束の間、凸凹の無くなった上からの闇が蟻を襲った。野球帽を被った五歳の少年が、マンホールから出てきた蟻を踏み潰したのだ。地下の大冒険を成し遂げた勇敢な「彼」も、人間の子供には敵わなかった。仲間に、大冒険の武勇伝を語ることもなく、彼の命はどこかへといってしまった。

 蟻を潰した少年は、何か言葉を呟きながら、蟻に最後の一撃を与えた。本当のことを言えば、とどめを刺す前からすでに蟻は死んでいたのだが、少年にとってはどうでもいいことだった。ただ、彼はゲームの主人公が使っている「必殺技」をこの虫に試したかっただけなのだ。

 

 チョコレートを手にしながら、満智子は商店街を抜けた。この商店街は、有名アニメの舞台として登場したことがあると満智子は同級生から聞いていた。しかし、満智子はそのアニメを観たことがなかったので、映像と比較しながら商店街を楽しむことは出来なかった。

 高架を抜けて満智子は中華街へと入った。昼御飯はそこで食べようと決めていた。ガイドブックのようなものは持っていなかったが、彼女にはすでにお目当ての料理があった。

 修学旅行生が向けるカメラに気をつけながら、満智子はストリートを進んだ。実践躬行出来る自信が彼女にはあった。普段食べ物にはあまり執着しない彼女だが、これに関しては例外だった。満智子はラーメンが大好物なのだ。

 ラップ調の曲を流したラジカセが、雑貨屋の前に置かれている。ラップがあまり好きではない彼女はなるべく音を意識しないように進んだ。

 全てが、物語の中にいるようだった。この非日常的な地で、控えめな混沌を味わうことの出来る場所で、心を支えていた秩序の何もかもが、洗浄されたような気がした。ただの観光スポットにこんなにも惹かれる自分が不思議でたまらなかった。私は夢中で未来を求めている。あんなことがあって、私の感情はすっかり停滞していたと思っていたのに、実は心に空いた小さな穴の中で、ずっと「それ」は息を潜めていたのだ。耳掻きで垢を取るように、私はもどかしい気持ちになりながらも、長い時間、その作業を続けていたのだ。

 吸い込む空気が新鮮なものに変わる。私は待ち続けなければならないのかもしれない。「それ」が私のもとへやってくるのを。それはある意味では言葉のない約束。時間が指定されない待ち合わせみたいなもの。私はそれを輝きの中で願っている。私が一回瞬きをして、あの人が目を開けるあの空白。その時間の差にはとてつもなく大きなズレがある。もう、住んでいる世界から異なっているのだ。

 私の見ている今の世界。あの人にも見せてあげたい。

                   *

 予定していない疲れが男を襲った。

 それはまるで遁走し続ける心臓に、追い討ちを掛けるかのようだった。体はほとんど動いていないのに、どうしてこんなにも疲労を感じるのだろうか。男は疑問に思った。この世界では、訳の分からないことが次々に起こる。

 背後にある装置が不気味な音を立てている。十分に一回くらいの頻度で、それは繰り返されている。ケージに変化はない。きまりを遵守していれば、檻の中の卵はいつまでも、穏やかな寝息を立てていられるのだ。「その時」がやってくるまでは、余程のことがない限り、卵に危険が及ぶことはないだろう。

 難しいことは何一つとしてない。それなのに、どうしてこんなにも草臥れてしまうのだろう。男は仁王立ちのまま原因を考えた。しかし、自分なりに納得のいく答えなど、何一つとして出なかった。まるで、錯綜した悩みの迷路に自分から入り込んでしまったようで、彼は忸怩たる思いに駆られてしまった。結局、集中によって精神をすり減らしているからだ、という回答に行き着いたが、完全に満足した答えだとは思えなかった。

 急に、不審な臭いが彼の鼻に覆い被さった。それは、オレンジ色のスポンジに夕方の光を詰め込んだようなもので、彼にとっては罹災の前兆としか思えなかった。ケージを守ろうと、彼は両足の中に見えない石を投入した。

 夕方の光が、ホールの中を満たした。臭いはやがて「匂い」へと変わった。彼はその不思議な匂いの旋律に、耳をすませた。よく聞けば、それは懐かしい音だった。昔の世界でよく耳にしていた、男がよく、好んで聞いていた音だった。

 彼はその匂いに頬を緩ませた。

                 *

 中華街でラーメンを食べた満智子は、真っ直ぐ地下鉄を目指した。交通量が意外と少ないことに驚いたが、代わりに通行人は多いようだった。観光名所にも関わらず、すれ違う人に笑顔がないことも気になった。勿論、全くというわけではないのだが、多くの人が重い鉄球に刺繍針を落とした時のような顔をしていた。都会の人は皆そうなのだろうか。鎌倉と横浜で、こんなにも感情の違いがあるのかと、満智子は不思議に思った。

 手提げバッグはいつも以上にひどく揺れていた。今ごろになって、チョコレートは帰りに買うべきだったと後悔した。

 さらに通りを進むと、彼女が目指す先に蒼色の建造物が現れた。満智子は目が良い方ではなかったが、その蒼が一体何であるかは一目で分かった。

 蒼がゆっくりと近づいてくる。満智子は手提げバッグからスマートフォンを取りだし、撮影の準備を始めた。まるで先ほどの修学旅行生のようだが、彼女は気にしなかった。何しろ、折角の横浜なのだ。憂鬱な気持ちを吹っ飛ばせれば、自然とそれはこれからに繋がっていく。

 数十メートルの距離を進み、満智子はようやくカメラを向けた。中華街には朱雀門から入ったが、それよりも大きいような気がした。それに、こちらのほうが蒼と金のハーモニーが高級感を漂わせていてより美しく見えた。

〈門陽朝〉

「朝陽門……」満智子は呟いた。まるで、言葉が脳の命令を無視して勝手に口から飛びだしてしまったような声だった。

 満智子は夢中で写真を撮った。近づきすぎると門の全体が写らないので、人目も憚らず立ち止まった。なぜ、他にもシャッターポイントはあったのに、どうしてこの門だけは撮ろうと思ったのか、それは彼女自身も分からなかった。ただ一瞬だけでも、不穏になっていた自分の心が、浄化されていくような気がした。右側にはゲームセンター、道を渡った左側にはコーヒー専門店。そして、緑をほとんど失った街路樹が密かに存在感を示している。風の有無は伝えてくれない。

 三枚ほど写真を撮り、満智子はようやく朝陽門を抜けた。出来れば門を潜りたいと彼女は思ったが、門の幅は歩道までは続いていなかったのでそれは叶わなかった。横断歩道を渡ってコーヒー専門店に入ろうかとも思ったが、先を行きたいという欲望のほうが勝ち、結局真っ直ぐ進むことに決めた。

 門の向こう側は十字路になっていた。運送業者のトラックが満智子の少し前を横切って風を起こす。満智子はスマートフォンをバッグの中にしまうと、向こうの信号が青になるのを待った。

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