3 呪文―湘南―仁王
電気がショートする音が、闇の空間に響き渡る。
久しぶりに踏みしめる鉄の感触に思わず両足が驚いた。分かっていたはずだった。それでも、彼は感動していた。欣喜した手が、スコップを握る力を弱める。錆びた匙型が地面に落ち、音を立てる前に粒子状となって砕け散った。
男はよろよろと歩き、残り数歩となるゴールに向かって進んだ。体はもうアドレナリンを受け付けなくなっていた。
「光を…… 光を……」
呪文のように同じ言葉を何度も何度も呟いた。呪文は天上の神に伝わって、願いを叶えてくれるような気がした。
男が立っていたのは、鉄の壁で出来た広いホールだった。壁の色は黒く、そのせいか辺りはうす暗い。しかし、何とか光を持っているものが一つだけあった。
まさに、それこそが彼の目指していた場所。目指していた装置だった。複数の回線が形作った土台の上に、円柱を描いた巨大なケージ、そして上空の光へと繋がるこれまた複数の回線。
「あれか……」
彼はケージの方を見上げた。かすかな光でも、彼にはとても眩しく感じた。思わず薄目にしながらも、心はやんちゃな子供のように、言うことを聞かなくなっていた。ケージの中には彼が一番大切に思っていたものがあった。
*
湘南の海の向こうに江ノ島がある。
当たり前の景色だ。いつも見ている当たり前の景色。
でも、どうして私はこんなにも不安なのだろうか。
喉の奥で停滞している唾を静かに飲み込んだ。唾はあまりに長く喉に居すぎたせいか、食道のあたりで文明を築いてしまっていた。規模の大きさからみて、恐らく長い時間が掛かったように見えるが、彼女がそこで飲み込んでしまったために、一瞬でその文明は瓦解してしまったのだった。後の支配者となるはずだった唾は酸性の中に飛び込んで、奴が最も軽蔑していた胃液の一部となった。
満智子は砂浜を歩いていた。黄昏の空を白いダイヤモンドが彩る。彼女はそのダイヤの上をゆっくり進む。丁寧に一歩一歩自分に言い聞かせるように。
普段は表舞台に出ることのない茅ヶ崎の夜。海の向こうでは何が渦巻いているのか。日常の風景でも、ふと立ち止まればたちどころにそれは不思議な景色となる。それを満智子は十分過ぎるほどよく知っていた。
この景色を誰かにも見せてあげたい。彼女はふとそんなことを思った。誰かとこの不思議な景色の素晴らしさを共有したい。しかし、そんなことは今の彼女にとっては無理なことだった。彼女は独りなのだ。どんなに頑張っても、自分の心を共有してくれる人間など他にいないのだ。
いつの間にか、私は独りになってしまった。彼女は苦心惨憺とした後の心みたいに、精神を孤独に削りとられていた。ゆっくり、ゆっくりとピーラーで心臓の外側から剥かれていくような、そんな思い。本当に、私はいつからこんな生活を送ることになってしまったのだろう。
満智子の放った無言の嘆きが、西の空に冷たい風を生む。皮膚に触れなくても冷たいことくらいは分かる。鼻が私に風の温度を教えてくれるのだ。満智子は立っているのも疲れて、その場にかがみこんだ。そして、家でしているのと同じように再び月を見上げた。そしてあの時と同じ言葉を頭の中に浮かべた。
私には成し遂げなければならないことがある。
海の香りが、満智子を寡黙に励ます。もうすぐで、外にも出られなくなってくるだろう。家にもいられなくなるのかもしれない。そして、使命を果たしたらこの街を出よう。
私は孤独ではないのかもしれない。そんな曖昧な確信が彼女の背中を押していた。
*
背後のケージを守ることだけが彼の使命だった。
それだけのために彼は穴を掘り、洞窟を作り、ここまでやってきたのだった。
仁王立ちで立っている彼の姿を誰も見る者はいない。しかし、そんな彼の姿はまさに城の衛兵のように重々しかった。
彼の大切にしているケージの中には、白い宝石のように輝く卵に似た物体が存在していた。その卵が何であるかは、彼の心の奥だけが知っている。普遍的だが、尊いもの。ありきたりだが、奇跡であるもの。そんな矛盾した存在感が、その物体を形作っている。
実を言うと、卵を襲う者はまず現れないのが真実である。ここに来るためには幾多の苦難を乗り越えなければならないし、彼が掘った穴もすでに塞がってしまったからである。たどり着く者は、絶対に現れない。
そのことは当然彼も知っていることだった。それなのに、なぜ彼は卵を守り続けるのだろうか。
彼は振り向くと、ケージの方へと目を向けた。時折こうやって、ケージの方へと視線を移すのだ。檻に包まれた「それ」はまるで瞬きを繰り返すように、何気ない表情を彼に向けていた。まるで、恐怖を固めた黒い波が向こう岸からやってくるのを待つように。
彼は「あること」を恐れていた。