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常夜灯  作者: 劉之介
2/9

2 歯茎―化粧―時計

 彼は起床すると、目を擦ることもせず、すぐさまスコップに手をのばした。とにかく時間がないのだ。彼は冷えきった皮膚に再び熱をこもらせると、先ほどのように無心になった。睡眠時間は不明だ。ただ、あまり寝ていないことは確実だった。所詮はただの仮眠だ。やるせない気持ちに指針を与えるための、無力とも言える作業に過ぎないのだ。

 この向こうにあるものが自分を必要としている。自分もそれを必要としている。大切なもののために、一センチ一センチと、なかなか進まない作業がもどかしく……

 寝ているのか、起きているのか、とうとう彼自身にも判断がつかなくなった。汚い歯茎が噛み砕けるものを探している。だが、ちゃんとした食べ物などここにはあるはずもない。しかし、歯茎は別に食べ物だけを求めていたわけではなかった。新鮮な気を望んでいたのだ。精神が苛つくと同時に、全身が不満を言い出したのだ。その筆頭が歯茎だったわけである。そのうち、体のあちこちから愚痴が飛び出るだろう。その前に早く……目的地にたどり着かなければならない。

 ありふれた思いだけが彼の胸に住み着く。変化が欲しい、進展を聞きたい。確実性のあることも、徐々に虚構のベールをまとうようになる。それが怖くもあり、同時に悔しいことでもあった。もどかしい時間が早く終わって欲しいと彼は願った。

 彼の思った願いは果たしてどこへ行くのだろうか。ここは洞窟の中だから、上に昇った願い事は天井に当たって、砕け散ってしまう。結局、この願いでさえもゴールには届かない。自分も含め何もかもが届かないのだ。もう、どうでもよくなりそうだ……。

 土が体に絡み付くと、彼はふと小学校の頃に母が聞かせてくれた物語を思い出した。聞かせてくれたといっても、別に母が創作した話ではない。誰かが作ったものだ。彼がその話を思い出したのには、その物語が「洞窟」に関係する話であったからだった。彼はどうしても我慢できず、スコップを置き、その物語を思い出すことに集中した。無心状態はすでに解かれていた。彼は今居る洞窟とは別の世界の洞窟にいた。

             

                 *

 混濁した想いが、感情を借りものに心の前を通り過ぎていく。

 鏡の前で満智子はファンデーションを手に取り、乱暴に化粧を始めた。粒子状のパウダーが、透明な壁の皮膚に張り付く。身震いを開始したパウダーに、満智子は綺麗なキメの幻を見た。

 疲れているのは相変わらずである。玄関を出れば雲一つない青空が待っているが、彼女にとってはそれでさえも鬱を起こすための立派な薪だった。晴天は昔から好かない。どちらかといえば雨の方が好きなのだ。彼女は目に入った前髪をかきあげながら思った。鼻の奥にちょこんと座る雨の匂いや、耳に譜面を乗せるような雨音は、不快どころか逆に癒しとなるものだった。彼女は、そんな滴のダンスに向けていつも無言の感謝を捧げていた。

 出来れば外に出たくないが、買い物はしなければならない。満智子は足かせのついた足を無理やり前に出すように玄関を目指した。ヒールを履こうか一瞬迷ったが、構わず足を入れた。ヒールの中に潜んでいた暖かい空気が、彼女をさらに疲れさせた。

 私にはまだ成し遂げなければならないことがある。満智子は自分にそう言い聞かせた。満智子にはその言葉が誰よりも重要なものとして頭に存在していた。脳にその言葉を刺繍して、半永久的に取れなくしたような、そんな感じ。それを達成するまでは、本来なら…… 自分の疲れのことなど、どうでもいいはずなのだ。それなのに、どうして私はこうなのだろう。満智子は自らの情けなさを嘆いた。口にこそは出さなかったものの、吸い込む空気は重量を持っていた。

 僅かな数秒という時間でも、体を一気に疲労させることはできる。それも、自分の気持ち次第で。満智子はため息を飲み込み、嫌いな太陽の光を浴びるためにドアのロックを解除した。

                  *

 音が聞こえてくる……

 確かに音は、男の掘る土壁の向こうから聞こえてきていた。彼は心臓が急に走り出すのを抑え、自分の耳に信憑性を植え付けることに集中した。ついに、ここまで来たのだ。精神の疲労はきていたが、予定よりは早く着いた気がする。男はスコップを握る力を弱めた。ゴールを目の前にして、先に進む意欲を失ってしまったのだ。普通は逆なものだ。しかし、彼の場合は違った。彼はスコップを後ろに放り投げると、意識を無くしたように倒れこんだ。そして、そのまま眠ってしまった。


 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。彼はようやく目を覚ました。まるで一週間分の睡眠を一度にとってしまったかのようだった。彼は寝ぼけ眼の上にかかった霧の中に希望の光を見つけた。それはとても小さな、弱い点のような光だった。こんな洞窟の中で、いったいどこからそれは射しているのか。彼はその謎の光に勇気を与えられたような気がした。そう…… まだ使命は終わっていないのだ。ゴールにたどり着いても、自分にはまだやるべきことがあるのだ。砂時計が粒を落とす今、休んでいる暇などないのだ。

 彼は起きあがるとまず深呼吸をした。体を痛め付けた憎い砂の臭いと共に、カラフルな彩りをした「未来」を冠した気体も一緒に入ってきた。これで、自分は進んでいくことができる。彼はスコップを再び手に取った。

 ありふれた日常の中にも、大切なものは確かにあった。それを忘れてしまったか、見落としてしまっただけなのかもしれない。男の掘る土が、新たな指針を意味するかのように、彼の足元にかかった。

                  *

 月の光に照らされて、満智子の夢がさらに現実を帯びたものとなる。

 黒い表紙の日記帳には、いつもため息と彼女の歌声が収められていた。

 同じことを何回繰り返し思ったことだろうか。満智子は月を見ながら、薄暗い部屋でそんなことを考えていた。月を見ていると力を吸いとられるような気持ちになる。太陽と違って、月は私に考える力をくれるのだ。冷静な目でこれからの未来について試行錯誤し、生きる源となる宝石を褒美に置いてくれる。満智子はそう思い、頬を緩めた。たとえ嘘でも、笑えば、少しは救われるような気がした。無理をしてでも、笑って、私は強くなるのだ。

「これから…… 私はどうなるの?」

 満智子は月に向かって言葉を投げ掛けた。窓の外にいる衛星は、彼女の質問に答えるどころか、頷くことすらしなかった。嘆きにも似たその弱々しい声に、誰も慈悲などかけてくれない。

 月は返事をしない。それでも、彼女は諦めなかった。月はまだ私のことを見てくれている。ただ、「返事」をしないだけなのだ。

 いつか…… 月が、私の呼び掛けに答えてくれると信じている。人に頼らず、こんな観念的なものに頼ってしまう自分が情けなくも思えたが、今はそれしかすがりつくものがなかった。他人は信じられなかった。

 顔には笑みを浮かべながら、満智子は涙を流した。頭がおかしくなってしまったのではないかと、彼女は自分で思った。でも、もうそれでもいいと思う心が彼女の中にはあった。いっそのこと、気でもおかしくなって、全てを放り投げてしまったほうがいいのかもしれない。

 満智子は部屋の壁を頭に付けて、水の澄んだ時間の川に流されていた。この川が向かう先には一体何が待っているのか。彼女には考える余裕などなかった。

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