表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
常夜灯  作者: 劉之介
1/9

1 雨―洞窟―台詞

この物語はフィクションであり、登場する人物、商品などの名称はすべて架空のものです。

 雨の中の江ノ電は美しく見えた。

 複数の看板が到着を待つ。静かに目をつむって、寂れた電車は忍び寄るようにやってきた。雨粒がサッシに当たって軽快な音をたてる。それと共鳴するように電車のドアは開く。ホームではカーペンターズの『青春の輝き』が流れていた。

 手提げカバンを片手に持ち、白石満智子は電車を降りた。背後から続々と人が続く。持ち上がらない今の状況を気にしないようにして、人々は生きているようだった。

 彼女は他の人よりも歩くスピードが速かった。それは決して今だけのことではなく、いつもの速さがこれで決められているのだった。ハイヒールの意地悪な音がリズム良く響いているが、手提げバッグは一切揺れることがなく、周囲の人に忙しさを感じさせるようなこともなかった。土産屋の前を通り過ぎ、早々と改札をくぐった。

 傘を開き、コンクリートが敷かれた直線の道を歩く。ふいにカレーの匂いが彼女の鼻に入ってきた。こんな観光地でどうして? と満智子は疑問に思った。いつもはこんな所でカレーの匂いなんかしないのに。まるで、誰かが私に直接カレーの匂いを届けてくれているようだ。

 短いトンネルを歩いた後は、開けたところに出られる。南を向けばショッピングモールがある。しかし満智子はそこには行かず、通りかかったハンバーガーショップに寄った。石畳の歩道が、彼女の足の疲労をさらに増大させる。彼女は急に無力な気持ちになって、乱暴に傘を立てた。銀色の傘立てが、彼女に不満を言う。しかし、すでに彼女は店のなかに入ってしまっていた。

 カウンターには中年のサラリーマンがいるだけで、さほど待つことなく注文をすることが出来た。値段は高い。あらゆる商品の値段が彼女の子供時代とは違ってしまっている。物価のせいもあるが、それを考慮してもやはり高いと彼女は思った。

 後悔した彼女の耳にポテトの揚がる音が入ってくる。それに急かされるように、満智子は注文を頼んだ。

 手提げバッグを肩にかけ、満智子はトレイを持って階段を上がった。カーキ色の壁から離れると、彼女は窓側の席を選んで座った。客は四人しかいなかった。人数がいない方が、満智子にはありがたかった。時間はもう五時を過ぎていた。雨粒が窓ガラスに付いて、必死に街の逃走をはかっていた。私もこの街から逃げたいと満智子は思った。無理をしてまで、この街に居る必要はないのだ。未練は勿論あるが、もっと大事なことは他にもあるだろう。時折吹いてくる潮風とも、いい加減別れなければならない。

 鎌倉の雨を見ながら、満智子はハンバーガーの一口目を食べた。別においしくも何ともなかった。

                  *

 スコップに男の汗が滲んだ。

 ありふれた思いだけが頭をよぎる。それはどれも疲労の言葉。そろそろ手を休めたいが時間がない。脳と手の動きを分離させるようにして、彼は動き続けた。

 洞窟の中は昼も夜もない。ただ、延々と続く暗闇が辺りを満たしているだけだ。ここにいると時間の感覚も無くなる。体の感覚と実際の時間の感覚は違うから頼れるものは何もない。男はちらとそう思ったが、すぐにそれを頭から追っ払った。つまらないことを考えれば、体力に影響が及ぶ。彼は時折目をつむり、作業に支障をきたすようなことは考えないようにした。

 目指す場所は分かっていた。黒々とした土の層を掘り進めば、いつかはそこにたどり着く。目的地までの距離は不明だ。しかし、彼は自分の名前やここに来た所為、自らに起きた境遇については確かな記憶があったので何も怖くはなかった。男には一つの大事な使命感があり、それを果たすために体を動かしていたのだった。

「そろそろ、いいか」

 彼は自分に言い聞かせるように呟くと、スコップを置き、後ろを向いた。千切れていた脳と体の線が結び付き、視覚が明瞭になる。男から、洞窟の入り口まではおよそ五十メートル。もう、外の光は僅かに小さい点となっていた。前に振り向いた時よりも、確実に光は小さくなっている。彼はむき出しの腕についた土をもう片方の手で払い落とすと、再び作業を開始した。

 定期的にやってくる深い焦りと、毒の混じった空気が彼の信念を徐々に溶かしていた。コードに繋がれた記憶が、撃ち込まれた銃弾によって分断される。じきに、思い出すこともできなくなる。世の中を憂うことも、形となった愛が温もりを保つことも出来なくなる。それまで可能になっていたあらゆることが不可能となり、彼の前にその事実が山と積まれるのだ。

 男はそれでも、もがき、情けなく喘いだ。バイタリティーも、今ではあるのかどうか分からない。希望があるような、ないような。迂言な言い回しも、結局は感情を曖昧しているのに過ぎない。目指す場所は必ず存在するのだ。そのことだけは絶対に忘れてはいけない。

 金属の板に「鉛」と書き付けたようなそんな疲れ。過度に溜まった唾を吐き出さずに呑み込む。洞窟の外では、もう夜明けが訪れようとしていた。

                  *

 満智子は床に寝そべった。だらしなく腹に置いた手は、憂鬱のしぐさに見えた。時折やってくる腹痛は、彼女をいいかげんにいきり立たせた。世界の始まりが訪れるようにも、終わりが近づいてくるようにも思えた。

 満智子はそばにあった漫画本を手に取ると、憂鬱をまぎらわすようにそれを読み始めた。漫画本は友人から薦められたもので、本を受け取った時から三日ほど経っていた。漫画の種類は少女マンガだった。二十代も後半にして、よくもまぁこんなものを読めたものだと友人を嘲りつつ、しかし心の中では、彼女自身も「こんなもの」を求めていたのだった。現実では到底ありえない荒唐無稽なストーリー、展開。ハッピーエンドの続きは誰も書かないものだ。物語というのはそういうように出来ている。でも現実は違う。登場人物が幸福になろうと、不幸になろうと、物語は延々と続くのだ。しっかり不幸をため続けて、やっとのことで放出した幸運も、終わらない物語によって、最後には尽きてしまう。尽きたらまた不幸をため直す。これの繰り返しで数十年が過ぎる。歳をとるたびに喜怒哀楽がなくなっていく。つまらなくなっていく。

 満智子は仰向けのまま漫画を読み始めた。ページは百の数字を越えていた。


 音のない会話が、老いた紙の上に刻まれる。文字は人々に心を持たせ、命を吹き込む。

「どうしても、諦めきれないの」

 本の中の女性が、男に決意の一言を述べた。その言葉は決定的な意味が込められていた。

「どうしても…… なのか?」男は彼女の表情から、全てを読み取った。

 月の輝く頃。夢は新たな冒険へと発進していた。城のバルコニーから見渡す街はとても美麗に見えた。だが、そんな街の景色も、ほんの些細なきっかけがあれば一気に瓦解してしまう。男は彼女の手を握り、そのまま自分の胸へと持っていった。空気の冷たい匂いに巻かれたが、二人は身じろぎひとつせず、互いの目を凝視していた。

 それから、二人は月の光に照らされながら抱擁を始めた。彼女の肩の上に彼の細長い唇が位置した。

「君の覚悟を…… 無駄にはしない」

 空気のレールにそっと乗せるように彼は言葉を発した。彼女は頷く代わりに両目を固く閉じた。心は欣喜の思いで一杯だった。


 素足に埃の感触。

 現実に引き戻され、満智子は不機嫌そうに漫画本を閉じた。もともと眠気があったわけでもないので、満智子はそのまま起き上がることにした。もう窓の外は黄昏時だった。

何を考えていたのだろう。何を恐れていたのだろう。自分と記憶の奥にある炎を合わせてみて、それでも分からないのはなぜだろう。いや、私は単にそう思いたいだけなのだ。そうやって、本能的に苦しみから逃れようとしているだけなのだ。

 満智子は自分にそう言い聞かせると、立ち上がり、部屋の電気を点けた。時計の針はもう五の数字を差していた。

 変わらなければならないことは分かっていた。このまま、引きずっているわけにはいかないと。漫画の中の女性と自分がリンクして、満智子は吐き気に似た気持ち悪さを覚えた。決断の時は刻々と近づいていた。

「君の覚悟を…… 無駄にはしない」 

 男の言ったこのセリフが脳裏に焼き付いて離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ