三歳児の癇癪から考えた、悪質コメントを書く人の心理
我が家の三歳女児が、絶賛いやいや期である。
朝に夕に、「私がやりたい!」「これじゃなきゃ嫌だ!」「うわあああ!」と毎日ギャン泣きフェア開催中。親のライフはじわじわ削られている。
困った時の子育て・幼児アドバイザー、てぃ先生。
「子どもは自分に注目してもらいたくて行動している。親がこまめに子どもの行動を認めたり、何をしているのか声をかけたりすることで、不満の芽が潰され、落ち着いていく」
半信半疑で実践してみた。
「一人で靴履けたね!」
「上手にお絵かきできたね!」
「お手伝いしてくれたの、ありがとう!」
すると驚くほど癇癪が減った。
以前なら泣き叫んでいた場面でも、「ママ、私これやりたかった」と、自分の気持ちを言葉で伝えてくれることが増えたのである。
人は、自分の気持ちを受け止めてもらえるだけで、こんなにも落ち着けるものなのか。
そんなことを考えていたある日、職場にいる、とても印象に残っている利用者さんのことを思い出した。
認知症の影響で状況を認識する力が落ちており、「腰が痛いわ」「寒いんだけど」「私はトイレなんか行かない」と、その時感じたことを、そのまま口にされる方だ。
こちらが理由を説明しても、返ってくるのは純粋な一言。
「なんで?」
責めているわけでも、嫌味でもない。
本人は本当に悪気がない。ただ、自分が感じたことを、そのまま言葉にしているだけなのである。
ほかの認知症の利用者さんは、「忙しいところ悪いね」「ありがとう」と職員を気遣ってくださる方も多い。
しかし、この方は病気の影響で、相手の立場を考えたり、その場の状況を踏まえて言葉を選んだりすることが難しくなっているように感じる。
目の前にいる相手にも都合や感情があるという視点よりも、自分が今感じていること、自分が今してほしいことが先に出てくるのだ。
正直に言えば、私はこのやり取りにイラッとしてしまうことがあった。
こちらは相手の体調や気持ちを考え、言葉を選び、安心してもらえるように何度も説明する。
それでも返ってくるのは、自分の訴えだけ。
こちらの事情も、今何をしているかも届かず、また「なんで?」と振り出しへ戻る。
もちろん病気の影響なのだから、本人を責める気持ちはない。
それでも、対応を終えるたびに、小さな徒労感だけが積み重なっていった。
そんな経験を重ねる中で、私は一つのことに気づいた。
人を不快にさせる言葉は、悪意だけで生まれるとは限らない。
相手にも都合や感情があるという視点が抜け落ちるだけで、コミュニケーションは驚くほど自分本位なものになってしまう。
そして、その小さな積み重ねは、受け手の心を少しずつ疲れさせていくのだ。
相手の気持ちを想像する力は、生まれつき備わっているものではない。幼い頃に少しずつ育ち、病気によって失われることもある能力なのではないだろうか。
そんなことを考えていた矢先、私の好きな作家さんが、悪質なコメントに悩まされている活動報告を目にした。
人格否定。攻撃的な言葉。心ないコメント。
もちろん、悪質コメントを書く人を三歳児や認知症の方と同列に語るつもりはない。
ただ、一つだけ共通しているように感じたことがある。
それは、「相手にも、自分と同じように感情がある」という視点が抜け落ちてしまうことだ。
だからといって、悪質なコメントが許されるわけではない。
言葉には責任がある。
画面の向こうにいるのは、感情のない文字列ではない。時間をかけ、悩み、時には寝る時間を削って作品を生み出した、一人の人間だ。
その人へ怒りや不満をぶつければ、当然傷つく。
だから私は、悪質コメントを書くという行為を肯定することはできない。
ただ、その人自身もまた、どこかで苦しんでいるのかもしれない、とも思う。
仕事で理不尽な思いをしたのかもしれない。
家庭で居場所を失っているのかもしれない。
誰にも本音を話せず、「つらい」「助けて」と言えないまま、心の中に感情だけが積もってしまったのかもしれない。
そして、もう一つ怖いのは、人は「自分は正しいことをしている」と思った瞬間、相手を傷つける行為への抵抗が薄れてしまうことだ。
「間違っている人を正している」
「悪いことをしている人を批判している」
そう思い込むことで、攻撃は本人の中で「正義」に変わってしまう。
誰かを叩くことで、自分が社会に貢献しているような感覚を得てしまえば、さらに強い言葉へ向かってしまうこともあるのだろう。
もしそうだとしても、その苦しみを創作者へ向けていい理由にはならない。
けれど、人は誰か一人でも、自分の話を最後まで聞いてくれる存在がいるだけで、大きく変わることがある。
少なくとも、私はそうだった。
結婚する前の私は、今よりずっと頑固で、自分の考えだけが正しいと思い込んでいた。
夫と出会い、嬉しかったことも、腹が立ったことも、不安だったことも、何でも話せるようになった。
受け止めてもらう喜びを知り、同時に、相手の話を最後まで聞くことの大切さも教えてもらった。
対話とは、自分の正しさを押しつけることではない。
相手の世界を知ろうとすることなのだと思う。
だから私は、できるだけ言葉を選びたい。
相手が目の前にいても、画面の向こうにいても、その先には自分と同じように笑い、悩み、傷つく一人の人間がいる。
そのことだけは、忘れずにいたい。
もし、このエッセイを読んだ誰かが、コメントを書き込む前にほんの数秒だけ立ち止まり、「この言葉は相手を傷つけないだろうか」と考えてくれたなら。
三歳児が少しずつ「伝える」ことを覚えていくように。
私たち大人もまた、「伝え方」を学び続けることに、終わりはないのだと思う。
ちなみに、夫と結婚した当初は私の自尊心をバッキバキに折られまくり、ギャン泣きの日々であった。
もちろん怒鳴られたわけではない。「その考え方は違うと思うよ」と、その都度根気強く話し合ってくれた結果である。
今思えば、当時の頑固者を何度も諦めずに相手してくれたのだ。
……良い人すぎる!また惚れてしまう!大好きだー!
だがしかし、現在進行形で時々怒られている。
どうやら「伝え方」を学ぶ旅は、まだまだ終わりそうにない。




