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婚約者に偽の氷河期を信じ込まされ、私は真夏の東京で凍死した

作者: 熾星
掲載日:2026/07/08

 婚約者に偽の氷河期を信じ込まされ、私は真夏の東京で凍死した



 プロローグ



 七月の東京は、息をするだけで肺が焼けそうなほど暑かった。


 けれど佐倉美緒は、婚約者の桐谷悠真に「世界は氷河期に入った」と信じ込まされ、偽りの終末の中へ閉じ込められた。


 悠真は寝室を密閉し、偽の災害情報を作り、業務用エアコンとドライアイスで極寒の部屋を作り上げた。美緒は恐怖と信頼の中で、少しずつ凍えていく。死の直前、彼女はたった一着のダウンコートまで悠真に渡し、「私の代わりに生きて」と願った。


 だが魂が身体を離れた瞬間、美緒が見たのは、扉の外に広がる真夏の陽射しだった。


 終末など、どこにもなかった。悠真と親友の白石雪乃は隣の部屋で食べ、飲み、笑いながら、美緒の死を待っていた。彼女の預金と、文京区の分譲マンションを奪うために。


 ゴミ箱に捨てられた美緒は、やがて怨霊となる。


 彼らが氷河期を作ったというのなら、今度は美緒が、この真夏の部屋を本物の氷の牢獄に変える。


 開かない玄関。暴走するエアコン。途切れた電波。目の前にあるのに越えられない生への出口。


 裏切り者の二人は、少しずつ絶望の底へ引きずり込まれていく。


 翌日、警察が扉を開けたとき、そこには東京で最も奇妙な密室冷凍事件の現場が広がっていた。



 1.真夏の氷河期


 悠真は私に言った。


 世界はもう氷河期に入った。東京の外気温は、マイナス百度まで下がっている。街を歩いていた人たちは逃げる間もなく凍りつき、氷の彫像のようになっている。もし扉を開けたら、吹雪が刃物みたいに流れ込み、皮膚も骨もまとめて裂かれる。


 私は信じた。


 五年間、彼を愛していたから。


 そして悠真は、私が何を言われれば信じてしまうのか、誰よりもよく知っていた。


 この一か月、私たちは文京区にある四十平方メートルにも満たない分譲マンションに閉じこもっていた。寝室の窓には黒い遮光フィルムが貼られ、防音材と厚いテープで隙間という隙間が塞がれていた。カーテンは一度も開かなかった。


 スマホは、終末世界に残された最後の電力だと悠真に言われた。私は怖くて電源を入れられなかった。外の世界を確かめる勇気もなかった。


 彼は、カビの浮いた非常食のクラッカーを半分だけ私に差し出した。指先は氷のように冷たく、目には、かつて私が何度も心を許した優しさが浮かんでいた。


「美緒、少しでいいから食べて。君のほうが、生きなきゃいけない」


 私はその半分をさらに小さく割り、彼の手へ押し戻した。


「悠真が食べて。私の分まで、生きて」


 悠真はうつむいた。肩が小さく震えていた。


 私は彼が泣いているのだと思った。


 あとになって知った。彼は笑いをこらえていただけだった。


 彼の言う最後の無煙炭を節約するため、私は自分の体温で彼の手を温めた。少しでも長く悠真に生きてもらうため、たった一着のロングダウンコートを彼の身体に巻きつけた。


 死ぬ直前、私はもう目を開ける力もほとんど残っていなかった。それでも彼の手のひらに頬を寄せ、凍りついた喉から声を絞り出した。


「生きて……悠真。私の代わりに……春を見て」


 それが、私の人生最後の言葉だった。


 次の瞬間、意識が身体からふわりと抜けた。


 私は天井近くに浮かんでいた。


 ベッドの上には、海老のように丸まった身体があった。皮膚は青紫色に変わり、眉にもまつ毛にも白い霜がついている。指は不自然に曲がったまま硬直していて、まるで冷凍庫に捨てられた古い服のようだった。


 それが私だった。


 佐倉美緒、二十九歳。イラストレーター。


 七月の東京で死んだ。


 嘘で作られた氷河期の中で、凍え死んだ。


 悠真はベッドの横に立ち、長い間、私の身体を見下ろしていた。かつて何度も私を弱くさせたその顔には、悲しみも名残惜しさもなかった。


 ようやく面倒ごとから解放された人間の、うっとうしそうな表情だけがあった。


「やっと死んだか」


 彼は腰をかがめ、私の足首をつかんだ。


 そしてベッドから床へ引きずり落とした。硬直した後頭部が床にぶつかり、鈍い音を立てた。


 私は反射的に飛びかかろうとした。けれど、伸ばした手は悠真の肩をすり抜けた。何にも触れられず、ただ細い冷気だけが揺れた。


 悠真は私を寝室の扉へ向かって引きずった。歩きながら、嫌そうに眉をひそめている。


「重いな。死んでまで手間かけさせるなよ」


 彼は、何重にもテープで塞いだ扉を足で蹴り開けた。


 私は本能的に目を閉じた。


 記憶の中では、扉の向こうは極寒の地獄のはずだった。吹雪があり、氷霧があり、ひび割れた東京の街があり、世界の終わりのような静けさが広がっているはずだった。


 けれど扉が開いても、吹雪は入ってこなかった。


 氷河もなかった。


 流れ込んできたのは、目がくらむほど眩しい夏の陽射しだった。


 玄関の外の廊下は、熱気で白く霞んでいた。遠くから車の音が聞こえ、階下の木では蝉が喉を裂くように鳴いていた。その一声一声が、私を嘲笑っているようだった。


 外に終末などなかった。


 東京は、まだ真夏の中にあった。


 凍え死んだのは、私ひとりだった。



 2.ゴミ箱の婚約者


 悠真は私の遺体をリビングまで引きずった。


 それから自分に巻きつけていた古い毛布を乱暴に剥ぎ取る。毛布がめくられた瞬間、白い冷気がふわりと散った。彼は気持ちよさそうに目を細めた。


 まるで冷蔵庫の扉を開けた人間みたいに。


「死んでも涼しいんだな」


 悠真は玄関脇に置かれた特大のゴミ箱へ、私の身体を押し込んだ。頭が縁にぶつかり、首が奇妙な角度に折れた。光を失った目は、ちょうど隣の部屋の扉を向いていた。


 その扉が内側から開いた。


 女が出てきた。


 キャミソールにショートパンツ。手には冷えたスイカの半分。髪は無造作にまとめられ、足には私のスリッパを履いている。


 白石雪乃だった。


 大学時代からの、私のいちばん親しい友人。


 この一か月、悠真は私に言い続けていた。雪乃は氷河期が始まった初日に死んだ、と。渋谷から帰る途中で吹雪に巻き込まれ、遺体も見つかっていない、と。


 私はその話を聞いて、声が出なくなるほど泣いた。彼女のために、長い時間、経を唱えた。


 その雪乃が今、私のリビングに立っていた。


 口元にスイカの汁をつけたまま、ゴミ箱の中の私を気味悪そうに見下ろしている。


「やっと息、止まった?」


「さっきな」


「よく粘ったね。隣で一か月も泣き声聞かされて、こっちはうんざりだったんだけど」


 悠真は雪乃に近づき、彼女が差し出したスイカにかぶりついた。赤い汁が彼の顎を伝って落ちる。


 血みたいだった。


 死ぬ前の三日間を思い出した。


 悠真は、水道は止まったと言った。飲める水はすべて凍って汚れた氷になったと言った。私は喉が裂けるほど渇いていた。冷蔵庫の内側に張りついた霜を少しだけ削り、口に含んで溶けるのを待つことしかできなかった。


 隣の部屋には、スイカがあった。


 コーラがあった。


 出前があった。


 二人の笑い声があった。


 私にだけ、聞こえなかった。


 悠真は雪乃の腰を抱いた。手のひらが、慣れた動きで彼女の太ももへ滑る。


「業務用エアコンに、ドライアイス、サーキュレーター。買った甲斐があったな。こいつ、思ったより身体が丈夫でさ。マイナス十度とドライアイスでも、一か月もかかった」


「銀行の暗証番号は?」


「死ぬ前に言わせた」


 雪乃の目がぱっと明るくなった。


「じゃあ、お母さんが残したこの文京区のマンションは?」


「遺言も書かせてある。預金とこの分譲マンションは、全部、婚約者の桐谷悠真に遺贈するってな。自筆、日付、署名、印鑑。形式だけは揃ってる」


 悠真は顎を上げた。声には、隠す気もない得意げな響きがあった。


 私の中で、何かが音を立てて崩れた。


 氷河期なんてなかった。


 終末なんてなかった。


 命を分け合って生き延びようとする愛なんて、どこにもなかった。


 あったのは、冷凍庫に改造された寝室。


 一か月かけて仕組まれた嘘。


 そして、私の人生を食い荒らそうと待っていた二匹の獣だけだった。


 私は狂ったように飛びかかった。両手で悠真の首をつかもうとした。


 けれど指は、また彼の身体をすり抜けた。


「悠真!」


 魂の奥から引き裂くように叫んだ。


 生きている二人には、何も聞こえない。


 悠真がふいに身震いし、首の後ろを触った。


「なんか、急に寒くないか?」


 雪乃が彼の胸にくっつき、肩を震わせて笑った。


「あの死体、まだ冷気出してるんじゃない?」


 悠真はゴミ箱の中の私を見下ろした。


「いいじゃん。死んでも役に立つなんて。冷房代わりだ」


 二人はソファへ戻っていった。


 もう私を見なかった。


 私はゴミ箱の上に浮かび、自分の捨てられた身体を見下ろした。


 憎しみは炎にはならなかった。


 私の中で凍りついていった。


 深く、深く、冷たく。


 本物の氷河みたいに。



 3.バカ女観察日記


 リビングのローテーブルには、冷えたコーラ、日本酒、出前の容器が並んでいた。悠真はリモコンを取り、壁のプロジェクターをつけた。


 画面が明るくなったとき、私はひとつのフォルダ名を見た。


 バカ女観察日記。


 悠真がその中の動画を開いた。


 映像は天井付近から撮られていた。密閉された寝室全体が、真上から映っている。


 私の魂が、宙で凍りついた。


 あの部屋には、監視カメラが仕掛けられていたのだ。


 画面の中の私は、薄いセーターを着て壁際に縮こまっていた。唇は紫色に変わり、指先は震えている。私は非常食のクラッカーをほんの少しだけ割り、残りをすべて悠真の手に置いた。


 映像の中の悠真は厚い毛布にくるまり、弱々しく私の手を握る。


「美緒が食べて。俺は平気だから」


 映像の中の私は泣きながら首を振り、クラッカーを彼の口へ押し込んだ。自分は空腹で指先まで震えていたのに、爪を噛んでこらえていた。


 現実の雪乃は、腹を抱えて笑った。


「本当に信じてたの? 窓に黒いフィルム貼って、防音材つけただけで、外が終末だって?」


 悠真はテーブルに足を投げ出し、ゆっくり日本酒を飲んだ。


「美緒は閉所恐怖症だし、誰かに迷惑かけるのを異常に怖がるからな。扉を開けたら俺まで死ぬと思わせれば、絶対に開けない」


「災害情報も全部偽物?」


「画像を作っただけ。ネットで吹雪のニュースを拾って、日付を変えて、速報音声っぽいのを流した。あいつ、一回見ただけでパニックになってたよ」


 私は画面の中のみすぼらしい自分を見た。


 まるで尊厳を剥ぎ取られた知らない女だった。


 動画は続いた。


 死ぬ前の夜。


 私は小さなテーブルに伏せるようにして、紙に文字を書いていた。指は凍えて、ペンを握ることさえ難しかった。紙は涙でにじみ、字はひどく歪んでいる。それでも私は、必死に最後まで書いていた。


 私、佐倉美緒は、名義上の預金および文京区の分譲マンションを、婚約者である桐谷悠真に遺贈します。災害の中、最後までそばにいてくれた彼に感謝します。


 書き終えた私は、たった一枚残っていた使い捨てカイロを悠真の腹に貼った。三日間、自分には使わずに残していたものだった。


 画面の前で、悠真が一時停止を押した。


 彼はその紙を指差して笑う。


「これで、形はできた」


 雪乃が彼の腕に絡みついた。


「警察に疑われない?」


「俺も閉じ込められていた被害者ってことにする。機材を処分して、現場はエアコンの異常による低体温事故に見せかける。誰が七月の東京で凍死なんて考える? しかも死ぬ前に、自分で遺言を書いてる。スマホはオフ。窓もカーテンも塞がってる。精神的に追い詰められて、変な行動をしたって思われるだけだ」


 彼の声は、天気の話をしているみたいに軽かった。


 私は宙に浮かびながら、空っぽの胃の奥から、今まで感じたことのない吐き気がこみ上げるのを覚えた。


 五年。


 私はこの男を、五年も愛していた。


 悠真のデザイン事務所が資金繰りに困ったとき、私は貯金を渡した。家賃に追われる彼を見ていられず、母が遺したこのマンションへ招き入れた。


 生活が落ち着いたら結婚しよう。


 その言葉を信じて、私は自分の人生を何年も後回しにした。


 雪乃のことも、私がどん底から引き上げた。


 東京に友達がいないと泣くから、仕事先の人を紹介した。就職先が見つからないと言うから、履歴書を一緒に直した。敷金が払えないと言うから、金を貸した。返してほしいなんて、一度も催促しなかった。


 映像の中の私は震えていた。


 現実の二人は、喜劇を見るみたいに笑っていた。


 その瞬間、私はもう泣きたくなくなった。


 涙は、生きている人間のものだ。


 死んだ私に残されたのは、取り立てる権利だけだった。


 部屋の温度が、何の前触れもなく数度下がった。


 悠真が腕をこすった。


「エアコン、また冷えてないか?」


 雪乃が肩をすくめた。


「悠真、機械は全部止めたんじゃなかったの?」


 私は二人を見下ろした。


 自分の魂が、少しずつ透明ではなくなっていくのを感じた。


 憎しみが、私に形を与えていた。


 そんなに氷河期が好きなら。


 今度は私が、本物を贈ってあげる。



 4.開かない玄関


 悠真はすぐに残高を確認しなかった。


 彼は戦利品を見せびらかすように、動画を一本ずつ雪乃に見せた。雪乃は彼の胸に寄りかかり、画面の中でみじめに震える私を指差しては笑った。


 十分に笑い終えてから、悠真はようやく私のスマホを手に取った。


 私の指紋ではもう解除できない。彼は、死ぬ直前に聞き出した暗証番号を入力し、銀行アプリを開いた。


 残高を見た瞬間、目の奥が異様に輝いた。


「二千万以上ある」


 雪乃が勢いよく身を起こした。


「本当に?」


「ああ。それにこのマンションもある。広くはないけど、場所がいい。近くに学校も塾も多いし、売ればしばらく遊んで暮らせる」


 雪乃が彼に抱きついた。


「悠真、宮古島に行こうよ。海の見えるホテルに泊まって、それからバッグも買いたい」


「買えばいい。欲しいものは何でも買ってやるよ。美緒のスポンサーでな」


 悠真は彼女に口づけた。声には軽薄な笑いが混じっていた。


 私は二人の背後に立ち、自分の金で未来を語る彼らを見ていた。


 怒りというより、私が生きてきた痕跡を一枚ずつ剥がされ、彼らの足元に敷かれていくような感覚だった。


 しばらくして、悠真が時計を見た。


「先に現場を片づける。機材、フィルム、スピーカー、全部運び出す。死体は寝室に戻して、発見したときには手遅れだったってことにする」


 雪乃が寝室へ入り、窓に貼られた黒いフィルムを剥がしはじめた。


 真夏の陽射しが、ようやくあの部屋へ差し込んだ。


 光はベッドシーツの上に落ち、私が丸まっていた壁際に落ち、空になったコップにも落ちた。そこには、もう私の体温はなかった。


 悠真はドライアイスの器具、強力なサーキュレーター、吹雪の音を流すためのスピーカーを大型の袋へ詰め込んだ。


 それからゴミ箱のそばへ来て、私の遺体を引きずり出し、寝室のベッドへ投げ戻した。


「もう匂うな」


 彼は私のドレッサーに置いてあった香水を取り、遺体に向けて半分ほど吹きかけた。


 誕生日に自分へ買ったシャネルの香水だった。普段はもったいなくて、ほとんど使えなかった。


 甘い香りは死臭と混ざり、吐き気を催すような濃さになった。


「これ、地味すぎ」


「こっちは老けて見える」


「あ、このワンピは持っていこうかな」


 雪乃は私のクローゼットを開け、一着ずつ服を選んでいた。彼女は私のシルクの部屋着を踏み、靴底の汚れを平然とこすりつけた。


 そのとき、私はテーブルの上のグラスを見た。


 悠真との一周年記念日に作ったグラスだった。側面には、二人で撮った写真が印刷されている。写真の中の私は、何の警戒心もなく笑っていた。悠真の手は私の肩に置かれ、世界でいちばん頼れる人のように見えた。


 割れて。


 心の中で、そう念じた。


 次の瞬間、グラスが弾けた。


 破片が四方へ飛び散る。そのうちの一片が悠真の手の甲をかすめ、すぐに血が滲んだ。


 彼は手を押さえ、顔色を変えた。


「何だよ、今の!」


 雪乃が彼の後ろへ隠れ、ベッドの上の遺体を指差した。


「悠真、もしかして美緒が……」


「くだらないこと言うな」


 悠真の声は、さっきより少し高かった。


「熱で膨張して、冷えて縮んだだけだろ。部屋の温度差があったんだ。安物のグラスなら割れることもある。先にこいつと荷物を捨てるぞ」


 彼は私の身体をもう一度ゴミ箱に戻した。袋を拾い上げ、雪乃の手を引いて玄関へ向かう。


 この扉さえ開けば、二人は外へ出られる。


 階下へ行ける。街へ行ける。真夏の人間の世界へ戻れる。


 私は玄関のそばへ漂い、錠前に手を重ねた。


 金属に触れた瞬間、魂が焼けるように痛んだ。無数の細い針が骨の髄まで刺さるようだった。


 でも、私にはもう骨などなかった。


 これ以上傷つけられる身体もなかった。


 悠真がドアノブを回した。


 扉は開かなかった。


 彼は眉をひそめ、もう一度強く押した。防犯扉はびくともしない。彼はドアノブを乱暴に揺らした。金属のぶつかる音が、玄関に何度も響いた。


「どうなってる?」


 雪乃の顔が青ざめた。


「鍵、壊れたの?」


 悠真は扉を蹴りはじめた。


「よりによって、こんなときに」


 彼は知らない。


 壊れたのは鍵ではない。


 二人の逃げ道だった。



 5.本物の氷河期


 悠真は数分間、玄関扉を蹴り続けた。


 それでも防犯扉は少しも緩まなかった。彼は舌打ちし、スマホを取り出した。


「鍵屋を呼ぶ」


 画面が明るくなる。


 左上には、圏外と表示されていた。


 雪乃も自分のスマホを取り出した。顔から血の気が消える。


「私のも。ネットもつながらない」


 ルーターの赤いランプが、暗がりで点滅していた。


 この分譲マンションの回線は安定していた。オートロックもあり、防犯カメラもあり、管理会社による定期点検もあった。台風の日でさえ、めったに通信が切れることはなかった。


 それなのに今、すべての電波がこの部屋に呑み込まれていた。


 悠真は窓へ向かった。窓を開けようとして、すぐに固まる。


 窓は動かなかった。


 それは彼自身が取りつけた強化ロックだった。


 私が終末への恐怖で錯乱し、外へ出ようとしないように。彼はすべての窓を内側から補強していた。


 今、そのロックが彼を閉じ込める鎖になっていた。


「おい! 誰か! 聞こえるか!」


 彼の声は厚いガラスに遮られ、リビングへ虚しく跳ね返った。空っぽで、滑稽な響きだった。


 そのとき、室内のスマート家電が短く音を立てた。


 リビングのカーテンが自動で閉まりはじめた。厚い遮光カーテンが左右からゆっくり近づき、外の陽射しを一寸ずつ切り取っていく。


 雪乃が駆け寄り、壁のスイッチを押した。


 カーテンは止まらなかった。


「止まって! ねえ、止まってよ!」


 最後の光が消えた。


 リビングは暗闇に沈んだ。


 その闇を、私はよく知っていた。


 死ぬ前の一か月、毎朝、目を覚ますたびに見ていた色だ。


 窓がない。


 時間がない。


 世界がない。


 あるのは、悠真の優しい嘘だけだった。


 雪乃の声が甲高く響いた。


「悠真、何かスマホで設定してたんじゃないの?」


「圏外なのに、どうやって操作するんだよ」


 二度目の電子音が鳴った。


 壁の中央空調パネルが光った。青白い画面の数字が、ゆっくり変わっていく。


 二十六度。


 二十度。


 十五度。


 零度。


 マイナス五度。


 マイナス十度。


 最後に、数字はマイナス二十度で止まった。


 悠真がひそかに改造した業務用エアコンの限界温度だった。


 かつて彼はそれで、私を偽りの氷河期へ閉じ込めた。


 今、それは本物の刑具になった。


 吹き出し口が低く唸り、白い冷気が獣のように噴き出す。冷霧は一瞬で天井と床を覆っていった。


 雪乃は両腕を抱えた。むき出しの肌に、すぐ鳥肌が立つ。


「悠真、消して! 早く!」


 悠真はエアコンのそばへ走り、コンセントを見つけて力任せに引き抜いた。


 火花が散った。


 彼は悲鳴を上げ、電流にはじかれて数歩後ろへ転がった。手のひらは黒く焦げていた。


 コンセントは宙に垂れ下がっている。


 それでもエアコンは止まらなかった。


 むしろ、さっきよりも大きな音を立てていた。


 その瞬間、悠真は初めて黙り込んだ。


 床に膝をついたまま、本来なら電源を失ったはずの機械を見つめている。目の奥で、理性がひび割れていくのがわかった。


 私はエアコンの上に浮かび、彼を見下ろした。


 彼に私の声は聞こえない。


 けれど、私がそこにいることは感じている。


 私は悠真の耳元へ近づき、そっと息を吹きかけた。


 ねえ、悠真。


 本物の氷河期へ、ようこそ。



 6.最後の食料


 十分後、部屋の温度はすでにマイナス五度まで下がっていた。


 それは普通の冬の寒さではなかった。吹雪はない。けれど冷たさは皮膚を通り抜け、骨の隙間へ入り込み、呼吸まで少しずつ凍らせていく。


 悠真と雪乃は、必死に服を探しはじめた。


 皮肉なことに、二人が奪い合ったのはほとんど私の物だった。私のセーター、マフラー、ウールのコート。雪乃は震えながら、私のニット帽まで頭にかぶった。


 悠真の目が、床に落ちていたロングダウンコートを捉えた。


 それは、私が死の直前に彼へかけたものだった。あとで彼は、遺体が邪魔だと言って私から剥ぎ取り、部屋の隅へ投げ捨てていた。


 今、それはこの氷の部屋で唯一まともな命綱になっていた。


 雪乃もそれを見た。


 二人は同時に手を伸ばした。


 悠真のほうが早かった。彼は一気にダウンコートをつかむ。


「よこせ!」


 雪乃が袖をつかんで引っ張った。


「悠真、私、こんな格好だよ。先に貸して」


 冷気の中で、悠真の顔が歪んだ。


「離せ」


「守ってくれるって言ったじゃない!」


 悠真は雪乃の腹を蹴った。


 彼女は床に倒れ、痛みで身体を丸めた。


 悠真は素早くダウンコートを着込み、ファスナーを顎まで上げた。


「こういうときは、生き残ったほうが先の話をできるんだよ」


 その言葉を聞いて、私は笑いそうになった。


 似たようなことを、彼は私にも言ったことがある。


 水を一口だけ欲しいと頼んだ日、彼は扉の向こうに座っていた。疲れ切った、けれど優しい声で言った。


 今は特別な状況だ。少しでも消耗を減らせば、その分だけ生き延びられる。


 命を分け合う愛なんて、苦しむのが他人のときだけ綺麗に聞こえる。


 雪乃は床にもたれ、目の焦点が少しずつずれていった。低温で唇は青白く変わり、目尻に滲んだ涙は小さな氷の粒になった。


 そのとき、彼女は私の声を聞いた。


「雪乃、寒いよ」


 雪乃がはっと顔を上げた。瞳孔が小さく縮む。


「誰……?」


「寒いの。私たち、親友だったんでしょう?」


 彼女は悲鳴を上げ、転がるように壁際へ逃げた。


「美緒がいる! 本当にいる!」


 悠真の手が一瞬震えた。


 すぐに彼はライターをつかみ、煙草に火をつけようとした。


 小さな火が灯った瞬間、冷たい風が吹いて消えた。


 もう一度。


 消えた。


 またもう一度。


 やはり消えた。


 暗闇の中、その小さな火だけが彼のつかめる希望だった。けれど、どの火もすぐに消えた。


 寒さと一緒に、空腹も襲ってきた。


 人間は極寒の中で、急激に熱を奪われる。そう長くは耐えられない。


 やがて二人の視線は、キッチンへ向かった。


 冷蔵庫には、二人が祝うために買い込んだ食べ物が詰まっていた。オマール海老、和牛、輸入フルーツ、冷えたスイカ、雪乃の好きなスイーツ。


 雪乃が飛びつくように冷蔵庫を開けた。


 笑顔が、そのまま固まった。


 彼らの目に映った冷蔵庫の中には、カビの生えた乾パンが一箱、汚れた氷が半分入った器、そして腐った木片のようなものしかなかった。


「私のステーキは?」


 悠真が中をかき回した。けれど彼の手につかめたのは、そのカビた乾パンの箱だけだった。


 本当の食べ物は、そこにある。


 ただ、私が見せたくないだけ。


 私はかつて彼が私に渡した嘘を、そのまま返した。


「世界は氷河期に入りました。これが最後の食料です」


 私の声が、二人の首筋に触れた。


 悠真が勢いよく振り向く。


「誰だ! 誰がいる!」


 リビングのテレビが勝手についた。


 画面には、悠真が私の遺体をゴミ箱へ押し込む監視映像が映っていた。


 けれど、映像の中の顔が変わっている。


 引きずられているのは悠真だった。


 遺体を切り分け、彼の口へ差し出しているのは、雪乃だった。


 雪乃は画面を凝視した。顔の表情が少しずつ壊れていく。


「消して……早く消して……」


 悠真はリモコンをつかみ、テレビへ投げつけた。


 画面にひびが入った。


 それでも映像は消えなかった。


 不気味な笑い声が、割れたスピーカーから漏れ出した。まるで氷の底から這い上がってくる何かの声だった。


 私は知っていた。


 これは、まだ始まりにすぎない。



 7.愛は紙より薄い


 暗闇の中で、時間は鈍くなっていった。


 外の東京は、まだ熱を帯びていた。階下からは、時折、子どもの笑い声や自転車のベルが聞こえた。


 けれど室内は、世界から忘れられた冷凍庫のようだった。壁の隅、テーブル、床の上に白い霜が降りている。


 最初に耐えられなくなったのは水道管だった。


 キッチンの下で乾いた音がして、水が噴き出した。水は床に広がったそばから、薄い氷の膜に変わっていく。


 悠真と雪乃はソファの隅に縮こまり、見つけられる限りの服を身体に巻きつけていた。それでも冷たさは内側から生まれていた。どれほど布を重ねても、魂が凍っていく感覚までは防げない。


 悠真は乾パンの箱を抱えていた。


 雪乃は、その箱をじっと見ていた。


 かつて二人の間にあった甘い呼び名も、優しい約束も、未来の旅行の計画も、寒さに剥ぎ取られていた。


 残っていたのは、飢えた目だけだった。


「悠真、少しちょうだい」


 悠真は箱を胸元へ隠した。


「さっきスイカを食べただろ」


「あれ、何時間前の話よ」


「節約しないと」


 雪乃が飛びかかった。


 彼女は悠真の手首に噛みついた。悠真が悲鳴を上げ、彼女の頭を殴った。


 二人は凍った床の上でもみ合い、ローテーブルを倒し、花瓶を割った。血が氷の上に落ち、すぐ赤い小さな珠になって固まった。


 私はそのそばに立ち、醜い奪い合いを見ていた。


 これが二人の言う愛なのだ。


 マイナス二十度の中では、紙一枚より薄い。


 最後には、悠真のほうが力で勝った。


 彼は雪乃に馬乗りになり、潰れた乾パンの箱を握りしめていた。雪乃の顔は血まみれで、奪えたのはほんの少しの欠片だけだった。


 彼女は床に這いつくばり、埃と氷の粒が混じった乾パンの粉を舐め取った。


 その姿は、かつての私よりもみじめだった。


 悠真は荒く息をしながら、嫌悪と警戒だけの目で彼女を見た。


「俺の物を奪う気か?」


 彼は雪乃の髪をつかみ、私の寝室へ引きずっていった。


 そこは、かつて彼が私のために用意した安全隔離室だった。精神状態が不安定だから、冷静になる必要がある。消耗を減らす必要がある。


 そう言って私を閉じ込めた部屋。


 暖房も毛布もない。あるのは、空っぽのベッドだけだった。


 雪乃は中へ投げ込まれ、扉は外から鍵をかけられた。


「悠真! 閉めないで! 死んじゃう! 何か着るものをちょうだい、食べ物をちょうだい!」


 彼女は必死に扉を叩いた。声は扉の向こうで歪んで聞こえた。


 悠真は扉の外にもたれ、乾パンをかじった。


「体力を無駄にするなよ。叫べば叫ぶほど、早く腹が減るぞ」


 同じ場所。


 同じ扉。


 同じ声。


 一か月前、私もこの扉を叩いて、彼に外へ出してほしいと頼んだ。


 そのとき悠真は扉の外でポテトチップスを食べながら、監視カメラ越しに、私が少しずつ力を失っていくのを眺めていた。


 私は扉をすり抜け、雪乃のいる寝室へ入った。


 彼女は壁際に縮こまり、目は焦点を失っていた。


 私は、完全な姿を彼女に見せなかった。


 見せたのは、青白い顔、落ち窪んだ目、腰から下が氷柱のように固まった身体だけだった。


 雪乃は口を大きく開けた。


 けれど声は喉に詰まった。


 私は彼女の前に漂った。


「雪乃、生きたい?」


 彼女は必死にうなずいた。


「外にいる男は、ダウンコートを着ている。乾パンも持っている。まだ力もある。あの人が死ねば、あなたは少しだけ長く生きられる」


 雪乃の目が、ゆっくり扉のほうへ向いた。


 視線は部屋の中をさまよい、最後にドレッサーのそばに置かれた小さな眉用のハサミで止まった。


 細い。


 でも、十分に尖っていた。


 私は陰へ退いた。


「美緒、そこにいるんだろ」


 扉の外で、悠真が何もない空間に向かって跪いた。


 額を氷の床に打ちつける。何度も、何度も、鈍い音がした。


「悪かった。宮古島なんか行かない。金もいらない。全部、雪乃が悪いんだ。あいつが俺を誘った。あいつがやろうって言ったんだ」


 私はその男を見た。


 彼の後悔は遅すぎた。


 そして、軽すぎた。


 それは罪悪感ではなかった。


 ただの恐怖だった。



 8.燃えるブランド品


 悠真がどれだけ額を床に打ちつけても、寒さは止まらなかった。


 やがて彼は、幽霊に謝っても無駄だと理解した。


 今度は火を探しはじめた。


 家具の多くは合板と金属で、すぐには壊せない。窓は開かない。玄関からも出られない。


 燃やせる物は、二人が宮古島へ持っていくつもりだったスーツケースの中身くらいだった。


 雪乃のお気に入りのブランドバッグ。限定のスニーカー。高価な化粧品。海辺で着る予定だった新しいワンピース。


 悠真はスーツケースを開け、値の張るバッグの中身を床にぶちまけた。そして火鉢代わりの容器へ放り込んだ。


 今度は、私はライターの火を吹き消さなかった。


 炎が革を舐めた。すぐに黒い煙が上がり、鼻を刺す焦げ臭さがリビングに充満した。


 悠真は両手を火にかざした。煙に目をやられ、涙を流していても、手を引っ込めようとはしなかった。


 次はスニーカーだった。


 ゴムの燃える匂いはさらにひどかった。閉ざされた部屋に新鮮な空気はない。煙はすぐに重くなり、悠真は咳き込み、腰を折った。


 扉の向こうで、鍵穴がかすかに鳴った。


 雪乃が眉用のハサミで鍵をこじ開けていた。


 指は凍えていたが、その動きはだんだん必死になっていく。


 私は、錠をほんの少しだけ緩めた。


 扉が開いた。


 雪乃は追い詰められた獣のように飛び出してきた。


 彼女はまず、燃やされたバッグと靴を見た。


 次に、悠真の着ているダウンコートを見た。


 恐怖より先に、恨みが目に満ちた。


「それ、私に渡して!」


 悠真は煙で反応が遅れた。


 その手の甲を、雪乃のハサミがかすめた。


 二人は火の容器を倒した。燃えた革がカーペットに落ち、炎がぱっと広がった。けれど室内の寒気に押されるように、火は頼りなく揺らめいた。


 煙、冷霧、血の匂い。


 すべてが混ざり、リビングは封じられかけた棺のようになった。


 混乱の中、ハサミが悠真の左手の小指を切った。


 私はその傷口へ、寒気を集中させた。


 その指は、折れた氷の枝みたいに床へ落ちた。


 悠真の悲鳴は濃い煙に詰まり、人間の声とは思えないほど掠れていた。


 雪乃も動きを止めた。


 床に落ちた指を見つめたまま、全身を硬直させている。


 二人はようやく理解した。


 これはエアコンの故障ではない。


 システムの暴走ではない。


 偶然でもない。


 この部屋には、本当に何かがいる。


 そのとき、玄関の外からノックの音がした。


 若い男の声が、扉越しに聞こえた。


「出前館です。ご注文の商品をお持ちしました」


 その一瞬、悠真と雪乃の目に同時に光が戻った。


 外に人がいる。


 扉の向こうには、生きている人間がいる。


 社会がある。


 警察がある。


 病院がある。


 この悪夢から彼らを救い出せるかもしれない、すべての可能性がそこにあった。


 私は玄関脇に立ち、ひとつ目の鍵を外した。



 9.扉の外の夏


 悠真は怪我をした手をかばいながら、玄関へ這っていった。


 大扉が開いた瞬間、真夏の熱気が部屋へ流れ込んだ。


 廊下の灯りは黄色く、空気には埃と汗の匂い、そして陽に焼けた壁の熱が混じっていた。


 扉の前には、制服姿の配達員が立っていた。汗だくで、注文内容を確認している。


 それは、私が悠真のスマホで頼んだものだった。


 冷えたカットスイカ。


 悠真は大きく口を開けた。


 助けて、と叫ぼうとした。


 けれど喉は氷のセメントで塞がれたように固まり、壊れた息の音しか出なかった。


 雪乃も玄関へ飛び出してきた。


 両手を乱暴に振り、顔を歪めている。彼女は配達員に通報してほしかったのだろう。部屋の中の遺体、血痕、霜を見てほしかったのだろう。


 けれど、外の人間から見れば、二人はただの異常者だった。


 真夏に厚着をし、顔は煤で汚れ、眉にも髪にも白い霜をつけている。背後の部屋は真っ暗で、扉の隙間から冷気が流れ出していた。


 まるでわざと作ったお化け屋敷のようだった。


 二人は助けを求めようとした。


 だが凍りついた顔の筋肉は、表情を奇妙な笑みに変えてしまった。


 配達員は一歩後ずさった。顔色が明らかに悪くなる。


「……あの、大丈夫ですか?」


 返事はできない。


 悠真は口を開け、血の交じった息だけを漏らした。


 配達員の表情が引きつった。


「すみません、玄関先に置いておきます」


 彼は外袋を扉の横へ置くと、逃げるように背を向けた。エレベーターを待つこともなく、階段へ駆け込んでいった。


 悠真が追いかけようと手を伸ばした。


 けれど足が敷居を越えた瞬間、見えない壁にぶつかったように弾き返された。彼は玄関の氷の上へ、重く倒れ込んだ。


 雪乃も外へ這い出ようとした。


 同じように、部屋の中へ押し戻された。


 扉の外には、明るい廊下がある。


 熱がある。


 人間の世界がある。


 扉の内側には、暗い氷の牢獄がある。


 血がある。


 二人が自分たちで作った地獄がある。


 たった一歩。


 けれど、もう二度と越えられない。


 大扉は、二人の目の前でゆっくり閉じていった。


 最後の廊下の光が切れる。


 玄関の床には、配達員が置いていった袋だけが残った。


 悠真は這って近づき、震える手で袋を開けた。


 中には、冷えたカットスイカが入っていた。


 レシートには、私が残した備考が印字されていた。


 悠真、おいしい?


 彼はその文字を見つめた。


 最後の理性が、そこで切れた。


 悠真はスイカをつかみ、口へ押し込んだ。


 だが彼の口の中で、それは果肉ではなかった。


 鋭い氷片だった。


 砕けたガラスだった。


 歯茎を刺し貫くほど冷たい、血の味だった。


 血が口の端から流れ、彼の白いダウンコートを赤く染めていく。


 雪乃は壁にもたれ、彼が泣きながら飲み込むのを見ていた。


 そして突然、笑った。


 その笑い声は軽く、壊れていた。


 氷にひびが入る音に似ていた。


 私は二人の前に立った。


 誰も助けてはくれない。


 この氷河期は、あなたたちが私のために用意したものだから。



 10.氷の部屋の獣


 私は二人の時間の感覚を狂わせた。


 二人の意識の中では、もう三日が過ぎていた。


 現実の世界では、一晩しか経っていない。


 室内の温度計は、とっくに壊れていた。壁も、家具も、床も、天井も、厚い霜に覆われている。息を吐くたび白い霧になり、まつ毛に落ちて小さな氷の粒になった。


 悠真はもう生きている人間には見えなかった。


 唇は裂け、手のひらは黒く焦げ、小指の断面は紫黒く凍っている。ダウンコートは、魂の奥から湧き上がる寒気を防げなかった。


 彼は床に伏せたまま、部屋の隅にいる雪乃をじっと見つめていた。


 雪乃もほとんど動けなかった。


 身に巻いたコートは鉄板みたいに硬くなり、髪には霜がこびりついていた。打ち合いで裂けた肩口の血は、暗い色のかさぶたになって凍っている。


 悠真の目には、もう雪乃は人間ではなかった。


 まだ少し熱を残している肉の塊だった。


「温かい……肉は、温かい……」


 彼の声は、舌が回らず濁っていた。


 雪乃が目を開けた。


 かつて海へ行こうと抱きしめてくれた男が、血まみれの口を開けて、自分に向かって這ってくる。


「悠真……?」


 彼は雪乃に飛びかかり、肩口の服に噛みついた。歯で狂ったように引き裂こうとする。


 雪乃が短く悲鳴を上げた。


 私は、彼女の身体にかけていた凍結の感覚を少しだけ解いた。


 死の間際の生存本能が、雪乃に最後の力を与える。


 彼女はそばに落ちていた眉用のハサミをつかみ、反射的に悠真の太ももへ突き刺した。


 ハサミは深く入った。


 温かい血が噴き出し、雪乃の顔へ飛んだ。


 その熱に触れた瞬間、彼女の目が光った。


 彼女は舌を伸ばし、ほとんど貪るように頬の血を舐めた。


「温かい……」


 悠真は悲鳴を上げながら、雪乃の首を絞めた。


 二人は血だまりと霜の中で絡み合った。


 互いに噛みつき、引っかき、奪い合った。


 SNSに貼りつけていた仲のよさそうな写真。


 私をいちばん理解してくれる人。


 運命の人。


 そんな言葉は、この瞬間、全部ただの笑い話になった。


 私はリビングの上に浮かび、二人を冷たく見下ろしていた。


 二人はもう、人間には見えなかった。


 もしかすると、もっと前から人間ではなかったのかもしれない。


 この氷の部屋が、綺麗な皮を凍らせて割っただけだ。


 中に隠れていたものが、ようやく姿を現した。



 11.真夏の密室冷凍事件


 現実世界の翌日正午。


 東京の気温は三十九度に達していた。


 管理会社の担当者は、二人の警察官と鍵業者を連れて、部屋の前に立っていた。廊下は蒸し暑く、担当者は汗を拭きながら部屋番号を指差した。


「ここです。昨夜、近隣から騒音と変な臭いの苦情がありまして。今朝は配達員の方から、こちらの部屋がホラー動画の撮影みたいで様子がおかしいと通報が入りました」


 警察官が何度か扉を叩いた。


 返事はない。


 鍵業者が解錠を始めた。


 数分後、鍵が開いた。


 警察官が扉を押し開ける。


 最初に流れ出てきたのは、熱気ではなかった。


 骨まで刺すような白い冷気だった。


 扉の前にいた全員が、同時に身震いした。


 室内は、真夏の東京に運び込まれた巨大な冷凍庫のようだった。


 壁には霜が降り、床には氷が張り、家具の表面は白く凍っている。空気には血の匂い、焦げた臭い、腐敗した甘ったるい臭気が混ざり、まともに息をすることも難しかった。


 リビングの中央で、悠真と雪乃は絡み合うように倒れていた。


 悠真は破れたダウンコートを身にまとい、口元は雪乃の肩と首のあたりに食い込んでいる。雪乃の手は、悠真の太ももの傷口の近くに突き立っていた。


 二人の皮膚は、重度の凍傷のように紫黒く変色し、表面には薄い氷が張っていた。


 すでに死んでいた。


 それでもその姿勢は、最後の熱を奪い合っているように見えた。


 管理会社の担当者は、その場に尻もちをついた。


「何なんだ、これは……」


 駆けつけた検視官も、遺体の状態を見て顔を険しくした。


「体温が異常に低い。死因は、現時点では重度の低体温症と考えられます」


 若い警察官が、まだ動いているエアコンを見上げた。


「でも、このエアコンだけで室内がここまで下がるとは思えません」


 誰も答えられなかった。


 外では蝉がうるさく鳴いていた。


 窓の隙間から差し込んだ陽射しが床の氷に当たっている。その光は確かに熱いはずなのに、この部屋の寒さをすぐには溶かせなかった。


 警察は、壁に血で書かれた文字を見つけた。


 文字は歪んでいた。死ぬ直前に指で引っかいたようだった。


 愛だけが氷を溶かす。


 若い警察官が眉をひそめた。


「どういう意味だ……?」


 私は彼の背後に浮かび、その一文を静かに見ていた。


 それは、悠真が好んで口にしていた言葉だった。


 私が凍えて泣いていたとき、彼は扉越しに言った。


 俺たちが愛し合っているなら、この氷河期だってきっと乗り越えられる。


 今、その言葉は彼の死亡現場に残された、最も滑稽な注釈になっていた。


 二人の愛は、一本のマッチさえ灯せなかった。



 12.真夏に霜が降りる部屋


 現場検証の途中、警察は玄関脇の特大ゴミ箱の中から、私の遺体を発見した。


 私は極寒の中心にはいなかった。


 遺体は凍っていたが、わずかに腐敗も始まっていた。若い警察官が遺体袋を開けたとき、表情が明らかに変わった。


「こちらにも、女性の遺体があります」


 私の服のポケットには、皺だらけの紙が入っていた。


 悠真が喉から手が出るほど欲しがっていた遺言書だった。


 表面には、預金と文京区の分譲マンションを悠真へ遺贈するという内容が書かれていた。字は歪んでいたが、日付、名前、印鑑はあった。


 彼にとっては、それで私のすべてを奪えると思えるだけの材料だった。


 警察官が紙を裏返した。


 そこには、さらに乱れた一文があった。


 完全に息が止まる前、最後の直感だけで書いた文字だった。


 もし私が凍死していたら、私を殺したのは桐谷悠真です。私は騙されました。外に終末なんてありません。


 リビングが数秒、静まり返った。


 警察官たちは、密閉された寝室を見た。


 部屋の隅に残された業務用エアコンの設備、ドライアイスの痕跡、遮光フィルム、防音材、音響機器を見た。


 この事件は、不可解な死亡事故から殺人事件へ変わった。


 悠真は、一円も手に入れられなかった。


 死後、彼の名前は詐欺、監禁、殺人の疑いとともに捜査資料へ記録された。雪乃もまた、偽の災害情報の作成、部屋の封鎖、財産移転への関与を疑われた。


 彼女の家族は記者に追われ、インターホンにすら出られなかった。


 あのマンションは、メディアにこう呼ばれた。


 真夏の密室冷凍事件。


 そしてその後、もうひとつの名で噂されるようになった。


 真夏に霜が降りる事故物件。


 管理会社は価格を下げて売却しようとしたが、誰も買おうとはしなかった。


 夜、その部屋の前を通ると、女がそっと扉を叩く音が聞こえるという人がいた。


 七月のいちばん暑い日、その階の廊下だけが冬のように冷えるという人もいた。


 警察はすべての詳細を公表しなかった。


 あの夜の温度を説明できなかったからだ。


 電源を抜かれたエアコンが、なぜ動き続けたのかも説明できなかった。


 監視映像には、悠真と雪乃が何度も、誰もいない場所へ向かって許しを乞う姿が映っていた。


 だが、そこにいた三人目の声は、誰にも聞こえなかった。


 答えを知っているのは、私だけだった。


 私は宙に浮かび、自分の遺体が慎重に運び出されるのを見ていた。


 作業員たちは、私をとても丁寧に扱ってくれた。


 もう二度と痛くしないように、というように。


 悠真と雪乃が遺体袋に入れられるとき、二人の身体は凍った肉の塊のように硬かった。搬送する人たちでさえ、思わず顔をしかめていた。


 陽射しが窓から差し込んだ。


 今度は、眩しいとは思わなかった。


 光は私の霊体に触れ、久しぶりの温もりを与えてくれた。身体に絡みついていた怨念は、朝の霧のようにゆっくりほどけていった。


 私はもう、この部屋に縛られた怨霊ではなかった。


 ただの佐倉美緒だった。


 愛する相手を間違えた。


 けれど最後には、自分のために決着をつけた女だった。


 去る前に、私はもう一度、寝室を振り返った。


 黒いフィルムは剥がされていた。


 窓の外の空は、驚くほど青く澄んでいた。木では蝉が鳴き、通りでは日傘を差した人が歩いている。遠くから、電車の走る音が聞こえた。


 世界は、一度も終わっていなかった。


 私を壊したのは、たった一人の嘘だった。


 私は細い風になり、窓辺に残っていた最後の冷気を吹き散らした。


 テーブルの上に置かれていた紙が、風に巻き上げられる。


 愛だけが氷を溶かす。


 そう書かれた紙は、まだ溶けきらない氷水の中へ落ちた。


 墨が少しずつ滲んでいく。


 最後には、何も残らなかった。


 さよなら、悠真。


 あなたが作った氷河期は、ここで終わり。


 真夏の東京に、雪は降らない。


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