ギュイ隊長は動かない《アルデバランの昏き贄》
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第一話 ギュイ分隊、動かず(原題:牛隊不動)
(遥かに聴く 砲声の長空を震わすを)
遠くで鳴り響く大砲の音が、広い空を震わせているのが聞こえる。
(隊長は端居して 豆の煮らるるを香ぐ)
だが隊長はどっしりと腰を据え、ただ豆の煮える香りを確かめている。
(眼に敵を見ずんば 心乱れず)
「この目で敵を捉えぬ限り、心をかき乱す必要などない。
(一炊の出来 是れ戦場なり)
今、目の前の鍋の出来こそが、死守すべき戦場なのだ」
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砦の方角から、砲撃音が聞こえる。
「隊長、本当に行かなくていいんですか!」
部下が詰め寄っても、その男は煤けた手で鍋の蓋を少しずらし、蒸気の匂いを確認してこう言う。
「落ち着け。俺が見ていないものは、起きていないのと同じだ。……それより、皿を出せ。ちょうどいい具合だ」
男がようやく重い腰を上げ、「……よし、行くか」と言うとき、だいたい勝敗は決している。
ギュイ・アンガス率いるギュイ分隊は、一時が万事そんな調子だった。
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軍令違反。その罪は重い。重いはずだ。
新兵テオは混乱していた。
ならなんで、ギュイ隊長はお咎めなしなんだ…?
ギュイ分隊は動かない。
配属されて二週間、身をもってわかったことだ。
「退け」。退かない。
「行け」。行かない。
しかもその理由がよくわからない。
炊事をしてるから、という時もあればしてないときもある。
とにかくギュイ分隊は、まるで遊撃部隊のように勝手が許されていた。
ギュイ隊長の実家が太いとか?
これはない。と、テオは思った。
ギュイ隊長は農民くさかった。
爪の先まで土がにおいたつような、腰を曲げて大地と対話する男の香りがした。
あと装備がショボかった。
軍の上層部と恋仲とか?
これもない。と、テオは思った。
ギュイ隊長は美丈夫ではない。
むしろ、その風貌は恐ろしく、岩山のような体躯をして、口がくさかった。
そういうのが好きな人間もいるかもしれないが。可能性は低そうだった。
実はかなりの実力者で、いざとなれば凄まじい強さを見せるとか?
テオはこれがいちばんありそうに思えた。
軍隊に所属しながら、戦の勝敗に動じずにいられるギュイ隊長の姿は、とても小物にはみえなかった。
テオは、ギュイ隊長が軍服を脱いだ姿を見たことがあった。
その盛り上がった上半身には何百もの鞭の痕があった。
過去の戦いの傷痕か、敵に捕まって拷問をされた痕なのだろうとテオは思った。
痛々しいというよりはかっこいい、男の勲章に見えた。
そのすべてが軍令違反で食らった鞭の数だとは、この時のテオは夢にも思わなかった。
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(やってるなぁ……)
高台に登った小隊長ジャック・カラスコは、戦線からはるか遠方に取り残された、ギュイ分隊のものと思われる吹煙に目を凝らした。
部下にその方角とおおよその距離を記録するように指示を出すと、懐から愛用の爪やすりを取り出し、手入れをはじめる。「待ち時間」だ。
ギュイの首が繋がっているのはひとえに彼の上官であるジャックが、同郷のよしみで彼をかばっているからにすぎない。
今までは、なんとかごまかせていた。
年上の偉そうな堅物たちをだまくらかすのは得意だった。
あの手この手を使いきるのも性に合っていた。
しかし限界も近い。
戦況は悪くなっていた。
その責任をギュイに負わせようなどと上層部も思ってるわけではないだろう。
ただその首ひとつ晒して軍の規律を引き締められるなら安いものだ、くらいのことはいかにも考えていそうだった。
悪いことに、ギュイ分隊には手柄という手柄がなかった。
それを補えるほどのあまりある功績をジャック小隊が立てているわけでもなかった。
おまけに、ジャックは若く、ただの郷士で、特別なコネもなかった。
つまり、見せしめに殺せ、と言われて拒むことはできなかったし、その命令は今日にも下されそうだった。
(あら、消えた……)
右手の人差し指の爪を整え終えて、ふっと息を吹きかけたジャックは、先ほどまで上がっていた、薄白く細い煙がなくなっていることに気づいた。
ジャックは、見習いの時にギュイの部隊にいたことがあり、彼が狩人風煮込みにかける途方もない時間と途方もない燃料について、よく知っている。
雨は降りつづいている。しかし、この程度の雨で、「彼が」炊事を中止するだろうか?
否、とジャックは判断した。
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第二話 ギュイ分隊、五月雨の森に動かず(原題:濡森守竈)
(五月雨は 深林を濡らして 翠滴り)
五月の雨は深い森を濡らし、木々の緑は滴るほどに鮮やかである。
(戦塵遠のき 辺りはただ滴の音のみ)
遠くの戦いの喧騒は雨に遮られ、ただ葉を叩く滴の音だけが響いている。
(隊長は 鉄鍋の火を 守りて動かず)
ギュイ隊長は、濡れた薪を操りながら、鉄鍋の火を絶やさぬよう静かに座り続けている。
(眼に映ゆるは 雨脚と 白き湯気のみ)
その目に映るのは、降りしきる雨と、鍋から立ち上る湯気だけだ。
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森の木々の下、ギュイ隊長は大きな軍用雨衣をマントのように羽織り、小さな焚き火の前にうずくまっている。
敵軍がすぐそこまで迫っているという伝令の報告も、彼にとっては雨音のひとつに過ぎない。
「……隊長、雨で視界が悪すぎます。敵がどこまで来ているか、これでは見えません」
不安げな部下に、ギュイは湿った焚き火を煽りながら、静かに答える。
「見えないなら、いないのと同じだ。……今は、この雨の音を聴け。雨が土に染み込む音だ。これを覚えておけ」
鍋の中では、彼が大切に守ってきた「野蒜と塩肉の煮込み」が、雨の冷気を押し返すように静かに煮えている。
彼は、一滴の雨も鍋に入らないよう、大きな手で蓋を支えている。
新兵の腹が、ぐうと鳴る。
「まだだぞ」とギュイは応えた。
口ではそう言いながら、鍋をかき回していた匙で煮込みを掬い上げ、その一匙を新兵に渡した。
新兵は一匙を口に含むと、信じられないです、という顔つきで「うまいです」と匙を返した。
「これまだなんですか?」
「まだだ」
ギュイ隊長の腹も、ぐうと鳴った。
その時すでに、ギュイ分隊は敵の部隊に取り囲まれていた。
「動くな」
鋭くはっきりとした声が響くと同時に、炊事場の周囲の茂みから、矢をつがえた男たちが立ち上がった。
その際に飛び散った水滴が一粒、ギュイ隊長の横面を叩いた。
「動けば殺す。あなたたちは包囲されている」
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「罠かな?」
フィデリオ・ルフィーニは、鞍の上でそう呟き、濡れた手綱を握り直した。
五月雨が森を塗り潰す中、立ち上る白煙はあまりに無防備で、そして不気味だった。
「ボルツ、どう思う」
問いかけられた老兵は、深く刻まれた眉間の皺をさらに寄せ、片目を細めた。彼はフィデリオの父の代から仕える唯一の「本物の兵」だ。
フィデリオが学んだ兵法には、「敵地での炊事こそ最大の隙であり、同時に最大の誘いである」とあった。経験豊富なボルツがどう思うか、聞いてみたかった。
いくらか雨に叩かれ、目立たなくなるとはいえ、吹煙を完全に消せるほどの強い雨脚ではない。
そして敵陣には撤退命令が出ているはずだった。その後退する戦線にぽつんと取り残された一筋の煙がどうも奇妙に思えた。
「報告によれば……『ギュイ・アンガス』分隊、隊員十名。軍令違反の常習者で、前線に取り残された落伍者のはず。はずですが……」
ボルツが、剣の柄に手をかけたまま困惑を漏らす。
「申してみよ」
「はっ。もし私が敵陣の小隊長ならば…」
ボルツは首をかしげながらゆっくりと、いかにも自信がなさそうに続けた。しかしフィデリオはわかっていた。この独特の言い回しは、ルフィーニ家の嫡男の顔を立てるためのものだ。よほどの確信がなければ、そもそもこの老兵は忠言などしない。
「もし私が敵陣の小隊長ならば、ギュイという男を囮として使います。寡兵に見せて、多くの伏兵を忍ばせ、油断して近寄ってきた敵を一網打尽とします」
それは最もな作戦に思えた。
フィデリオは一度陣地に帰り、自分の兵二十六名を率いて、散開させながら包囲にあたった。
驚くべきことに、ギュイ分隊の吹煙は、一刻半後もまだ同じ場所に立っていた。いよいよ罠である確率が高くなり、フィデリオ小隊に緊張が走った。
しかし、近づくにつれ、彼らの鼻を突き肌をざわめかせたのは血の匂いでも伏兵の気配でもなく、あまりに呑気な煮込みの香りと、和やかな談笑の空気だった。
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新兵テオは落胆した。
ギュイ隊長は戦わず、あっさりと縄にかかった。
雨の音を聞け、と言うわりに、これだけ多くの兵の接近にも隊長は気づかなかった。
その上、敵に、鍋をすすめた。
子供のような誇らしげな顔で、うまいぞ? と言った。
この人はこれから自分や部下が殺されたり、ひどい目にあったりすることがわかってるんだろうか?
ギュイ隊長は、隠し玉なんかじゃない。
ただ普通の大人より「圧倒的に」、愚鈍なおじさんなだけだった。
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罠かな?
フィデリオ・ルフィーニは、馬上で本日何度目かの警戒をした。
隣に控えるのは、父の代から家政を支えてきた老兵のボルツ。残りの二十六名は、フィデリオの領地から徴募された、泥と垢の匂いの抜けない農民兵たちだ。
家族と畑を里に残して従ってくれた彼らを、フィデリオは「誰も死なせずに」帰したかった。しかしすでに二人を失っていた。
だからこそ、あの吹煙が怖かった。
軍令違反の落伍者、ギュイ・アンガス。野蛮な荒くれ者なのだろう。また兵を失う予感がした。
しかしその煙が立つ場所は自分達の持ち場だった。戦線を押し上げないといけない。フィデリオは覚悟を決めた。
ところが、捕縛したギュイに戦意はなく、抵抗しなかった。それどころか「この鍋は食べていけ」と、親か友のように煮込みの鍋をすすめてきたのだ。
「毒だろうか?……いや」
フィデリオは見渡した。後ろ手に縛られて座っているギュイの部下たちの目は、この男は本当のことを言っているとか、この鍋がうまいのは間違いないとか、もし食わんなら俺たちが食うからとか、そういう訴えを投げてきた。
辺りをうろついていた三名を捕らえた者の話では、三名が通った道々にはキノコが剥がされた跡があったそうだ。
(……いい人たちなのだろうな)
フィデリオは、同じ土の匂いがする彼らに親近感を覚えた。
もし、自分がルフィーニの家名を背負っていなければ。彼らも敗残兵でなければ。
「腹が減っているなら座れ」という言葉に、甘えてしまいたかった。
だが、フィデリオは「理知的な将」として振る舞わねばならなかった。自分を信じてついてきた村の若者たちに、戦場の厳しさを教えねばならない。
「毒がなくとも、敵の供物を食らうことは許さぬ。……それが兵の規律だ」
フィデリオはギュイたちを殺したくなかった。捕縛して連れていく場合の手順を思い浮かべていた。だから兵に指示を仰がれたとき、その答えが少し雑になった。
「若! じゃあ、この鍋は」
「廃棄せよ」
フィデリオを「若」と慕う一人の兵士が、役に立とうとして、フィデリオの命令に機敏に反応した。
兵士はまだ火にかかっている香ばしい湯気の立つ鍋に、足をかけ、蹴り倒した。
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第三話 森の惨劇(原題:翠林血雨)
(降伏して縄に投ぜらるるも 意 自如たり)
降伏して縄をかけられても、隊長の心は平然として動じなかった。
(ただ一鍋を将て 戎虜に献ぜんとす)
ただ、「この鍋だけは食え」と、敵兵にその至宝を差し出した。
(狂卒蹴り翻して 香湯尽き)
無作法な敵兵がそれを蹴り飛ばし、香しきスープが泥に消えたその瞬間――
(満林の新翠 血雨に変ず)
森一面の瑞々しい新緑は、一瞬にして血の雨へと塗り替えられた。
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「廃棄せよ」
という敵将の声に応じて、敵の兵士一人が、ギュイ隊長の鉄鍋を蹴り倒した。
ガシャン、と重い音が響き、鉄鍋が泥濘に転がった。数時間かけて煮込まれた野蒜や塩肉が、無慈悲に泥にまみれる。撒かれた汁の熱気が狼煙のようにぶわっと上がった。
その瞬間。ギュイ・アンガスの耳には、森を支配していた五月雨の音が消えたように感じられた。
「……あ」
新兵テオは見た。ギュイ隊長の首筋の血管が、まるで這いずる蛇のようにどす黒く浮き上がるのを。
ミリミリ、と、骨がきしむような異音が響く。 ギュイの両腕を縛っていた太い麻縄が、膨れ上がった筋肉に耐えかね、糸屑のように弾け飛んだ。
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「え、っ……」
鍋を蹴った兵士が驚きで後ずさる。だが遅かった。その若者の喉笛にはすでに、ギュイの巨大な手に備わった力強い五指が食い込んでいた。
ギュイの喉から漏れたのは、言葉ではなかった。
獣の咆哮ですらない、低く響く地鳴りのような不吉で微かな唸りだった。
彼はそのまま、喉を裂かれて絶命している兵士の体を片手で振り回した。 鎧を纏った人間を、布か何かのように扱い、駆け寄る兵士たちの頭蓋を一人、また一人と殴り下していく。
フィデリオは戦慄した。
彼が学んだ兵法のどこにも、人間を素手で引き裂き振り回す怪物への対処法など記されていなかった。
「撃て! 矢を放てッ!」
フィデリオの叫びに応え、数条の矢がギュイの背に迫る。だが、ギュイは振り返りもしない。
まだ見ぬ矢を薙ぎ払うように、振り回していた兵士の死体をぶん投げると、彼は地面に転がった、まだ熱を帯びている鉄鍋を掴み上げ、フィデリオの目を見据えた。
ジュウ……という恐ろしい音と肉の焼ける匂いが辺りに充満し、それが敵兵を恐れさせた。
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「下がれ、若君ッ!」
フィデリオのそばに控えていた老兵ボルツが、喝とともに愛剣を引き抜き、凄まじい踏み込みで割って入った。
フィデリオは我に返った。
ボルツが時間を稼いでくれたのがわかったからだ。
背中の矢筒から矢を引き抜いて弓につがえ、引き絞る。しかしだめだった。矢先が定まらない。なぜだ? 原因は。そこまで考えて初めて彼は、自分が震えていることに気がついた。
狂乱の最中にあっても、ギュイの目は新しい敵を捕らえた。彼は腰を落とし、盾の代わりに「空になった鉄鍋」を構える。その円い底が、雨粒を受けるたび、ジュワ、シュワと声をあげた。
ガ、ンッ!
助走の乗った重い一撃は受けながら反らされた。
飛び退いた老兵の眉が跳ねる。
(……打てぬ!)
熟練の剣士である彼は、戸惑っていた。あの鍋はただの調理器具だ。幾千回と火に焼かれ、煤と油で焼き固められたとはいえ、ただそれだけの鉄の塊だ。騎士の剣の鋼鉄に強度で勝てる代物ではない。だが。その表面は、受け流すためにあつらえたかのような曲線を描いている。
鋭い刺突を繰り出せば、鍋の円い底に先端を滑らされ、無防備な懐を晒すことになる。
かといって、渾身の力で叩き斬れば、鍋の球面のうち剣に接する一点が剣の衝撃をすべて跳ね返し、愛剣が折れるかもしれない。
一太刀で破壊できないわけではない。力と技があれば。ただそれを初手で試みるのは博打だった。そのようなとっておきの一撃は、好機のために取っておくべきだ。
そこそこの力で打ち払い、相手の鍋を持つ手を痺れさせ、あるいは疲れさせて機を待つのが現実的だ。しかしそれは持久戦だ。老兵である自分が、この暴れる牡牛相手にその策を取るならば、それは時間稼ぎでしかない。しかし考える間ももはやない。何より自分の命などどうなってもよい。
ならば。
ボルツは打ち合うふりをして地面を転がり、ギュイの後ろに回った。そしてすかさず起き上がり、低い体勢から敵の足の腱を狙って剣先で切りかかる。思った通り敵はその動きを獣の勘で察知し、払うようにして鉄鍋でボルツの剣の腹をはじいた。
動きを読んでたボルツは、素早く剣を反転させて敵の怪力から剣を逃がし、刺突の構えを築いて後ろ足を踏みしめ、振り向いた怪物の首を狙った。
しかしその刺突は、平手打ちで防がれる。無頼の法とその力強さに老兵は驚きながらも払われた剣で弧を描き、真っ正面に大振りにうち下ろす。これはおとりだ。鍋で受ける怪物を地面にめり込ませるように、とにかくここで渾身の一撃を使った。鍋は壊れない。だが、これでいい。
(今です! 若!!)
ボルツの心が聞こえたかのように、フィデリオの矢が敵の背に刺さる。その手応えがボルツの剣まで澄んだ振動として伝わった。しかし……。
怪物は全く表情を変えない。
ボルツは鍋と剣を合わせたまま、第二の矢を待った。矢は来た。しかし、刺さらない。第三の矢を待った。矢は来た。だが外れた。その間もじりじりと、敵は力を増し、覆い被さるようにボルツを押し込み、ボルツの両足はまるで沼地に立ったかのごとく地面にめり込んでいく。これ以上はだめだ。
「お逃げくださいっ! 若様っ!」
老兵が焦燥に駆られた瞬間、ギュイが踏み込んだ。
「守り」のための道具であったはずの鍋が、円い軌道を描いてボルツの視界を覆う。
ゴ、ンッ。
鈍い、しかし重い音が森に響いた。
剣を合わせる隙すら与えず、ギュイは鍋の底でボルツの面殻を真っ向から叩き潰した。
名匠が鍛えた兜が、熟れた果実のようにひしゃげる。
老騎士が倒れるのを許さぬように、ギュイはその喉を掴み戻し、握り潰し高く掲げた。だらりと力の抜けた人間の体。その喉から赤黒い血が降り注ぐのを浴びながら、ギュイの怒りの目は、再びフィデリオを捕らえた。その背には矢が一本突き刺さっていた。しかし、痛みを感じる神経など、とうに焼き切れているようだった。
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縄を引きちぎり、素手で敵兵の喉を掻き切るギュイの瞳には、もはやかつての穏やかさはなく、ただ「汚された大地を血で清める」という獣の如き本能だけが宿っていた。
九人の部下たちは、初めて見る「父」の狂気に震えていたが、やがて自分も兵であることを思い出して、戦った方がいいのかなと思い始めた。しかし縄をかけられてる以上どうすることもできず、ただ仕方なく座っていた。不思議なことに、ギュイ隊長が猛り狂っていく間、隊員たちは冷静になっていった。敵兵の恐怖の表情がよく見えた。その心までありありと感じられた。
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老兵士は絶命しても剣を放さなかった。ギュイはその固まった指を折るようにして長剣をもぎ取り、敵将が跨がっている馬の首を叩き切り、腹を蹴って馬を倒した。そして金色の鎧と白いマントを泥に濡らした敵将の首を掴み、老兵にしたように持ち上げた。
フィデリオの命はルフィーニ家家宝のゴージェットによって守られた。金色に輝く節の多いゴージェットは、太陽の神の聖像を模して祖先が作らせたものだった。その喉鎧は、下顎から喉、鎖骨までを覆っている。美しい光沢は彼の領民の血で汚れてしまったが、緻密に重ねられた節によって、怒れるギュイの怪物じみた握力から、青年の柔らかい喉を守り切った。
しかし。それが何だというのだろう? このままでは時間の問題だった。
フィデリオの兵たちは武器を捨てて降伏した。
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敵兵は「若君」の助命を願い、ギュイ分隊の縄をほどき、自ら縄にかかった。
若君と呼ばれ、フィデリオ・ルフィーニと名乗った青年は、縄にかけられて地面に座ったまま、心ここにあらずといった様子だった。夢を見ているような物言いで、ギュイ隊長に問いかけた。
「罠だったのか?」
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第四話 泥餐の将(原題:泥餐敵将)
(沈黙して言わず 計謀に非ざると)
「罠だったのか」との問いにギュイは答えない。答えるまでもなく、この惨劇が計略であるはずはなかった。
(残汁を掬いて味わい 涙 双つながら流る)
彼はただ、鍋に残ったスープを指で掬って舐め、失われた「至福」を思って涙を流した。
(敵将を捕え来りて 汚土を食らわす)
敵の将を引きずり出し、スープの混じった汚れた土を無理やり食らわせた。
(五月雨深く 恨み未だ休まず)
降り続く五月の雨の音の中、ギュイ隊長の深い恨みはまだ癒えることはなかった。
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「うまいか?」
ギュイ・アンガスの目は昏かった。
うまいはずはない。土を詰められた口では答えられるはずもなかった。
しかし、その声の優しさにぞっとして、フィデリオは気がつくと頷いていた。何度も、何度も、何度も。
「そうか」
ギュイは嬉しそうに、血濡れの手に、煮込みの混ざった土を盛ると、フィデリオの口に押し当てた。
「なら、もっと食え」
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テオは、土を食わされる敵将の喉がごくりと鳴るのを聞いた。
それは拒絶の音ではなく、恭順の音だった。
恐怖が極限を越えたとき、人は怪物の論理に染まるのではないか。そんな仮説を立てながら、その儀式を見ていた。
なぜ儀式だと思ったのか? それはギュイ隊長が手に盛った土が、どこか供物のようだったから。人知を越えた「異形の神」や「古き獣」への捧げ物。そう見えてしまった自分自身を、そして目を背けられなかった自分自身を、どう捉えていいものかわからなかった。
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「おや? また上がった……」
ジャック・カラスコは、馬上で、首をかしげた。
一度は消されたはずの煙が、今度は以前よりも太く、力強く立ち上っている。それは森に不穏をもたらすような、どす黒い灰色の柱だった。
「燃料を変えたか。あるいは、何か別のものを燃やしているか」
ジャックは小隊を引き連れて、ギュイ分隊の捜索に向かっていた。吹煙が途切れて半刻あまり。そろそろ目標地点につくはずだった。
ギュイがいた辺りから立ち上る新しい煙に、少しの胸騒ぎがする。彼の知るギュイ・アンガスは、自分が納得できない場合は軍規も雨も無視するが、これほど荒々しい火を焚く男ではない。彼はおき火を愛する、ゆえに、煮炊きに時間がかかるのだ。
「……戦闘か。はたまた埋葬か」
部下たちを引き連れ、ジャックがその場所に辿り着いたとき、鼻を突いたのは、五月雨が森を打つ匂いでも、野蒜が煎じられる香りでもなかった。
戦場ではありふれた、鉄錆のような鮮血の臭気と、獣皮のような古い血の臭気。
そして、それ以上に強烈な、「肉が焼ける脂の匂い」だった。
視界が開けた先で、ジャックは馬の歩みを止めた。
そこには、彼の「手に余る」光景が広がっていた。
木の枝には、馬の首と、首をなくした馬の体が、縄に吊るされ揺れている。
地面には、重なった死体と、飴細工のようにひしゃげた兜や鎧。
血だまりを避けるように、武具や装備がまとめてある場所があり、縄に縛られた人間たちが二十名ばかり座っていて、全員見覚えがなかった。
その中心で、ギュイ・アンガスが背中に矢を立てながら、竈を守っていた。
傍らには、吊るされた馬から切り出したのだろう、赤い肉塊が、葉の上に置かれている。
ギュイは、巨大な平鍋を火にかけ、その肉を切り崩しては放り込んでいた。
鍋の中では、血と脂がグツグツと泡を立て、狂気じみた芳香を放っている。
「……なんだこれは」
ジャックの呟きに、ギュイがゆっくりと顔を上げた。その顔は返り血で真っ赤に染まり、瞳には底知れない虚無が宿っていた。
ギュイは黙って、手にした小刀を肉の隣に置いた。
「ジャックか。……ちょうどいい。馬肉の羹を作ろうとしてるのだが、人手が足りないんだ。手伝ってくれ」
見た目の壮絶さに比べて、ギュイの声は、いつもと何も変わりがなかった。
だがジャックは見た。ギュイの対面には、後ろ手に縛られ、口の回りに「泥」を塗られて、ガタガタと震える若き将の姿があった。
ジャックは、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「他の隊員はどうした」
「水や生姜を探してもらってる。あとキノコと野蒜と」
「これあとどのくらいかかる」
「……一日は動けん」
ジャックは天を仰いだ。
○
第五話 帰郷(原題:殺馬為羹)
(馬を殺めて羹を煮 敵我に分かつ)
馬を殺して熱いスープを煮出し、敵も味方もなく皆に分け与えた。
(孤将のみ連行して 兵士を放つ)
敵の将軍一人だけを連れ去り、あとの兵たちはすべてその場に解き放った。
(郷に還りて 黙して五月の田を耕やす)
戦を終えた彼は故郷へ帰り、今は黙って五月の田を耕している。
(誰か知らん 至味こそ是れ真の槍やりなるを)
敵の胃袋に刻み込んだ「至味」の狂気こそが、武力よりも深く相手を畏れさせた。
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フィデリオ・ルフィーニは、身代金と引き換えに郷里へ引き取られた。
ギュイ・アンガスを囮として使い、敵の小隊長を捕らえた本事案は、ジャック・カラスコ小隊長の肝入りの作戦であり、軍法会議はこれまでのギュイ分隊の軍令違反を、作戦の一部であったとして特例で不問とした。
本作戦で負傷したギュイ・アンガスは、治療のために郷里へ返された。
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……精算完了だ。
手数料は高くついたが、差し引き大幅な黒字。
ギュイ、お前という爆弾は、この賭場(戦場)には少しばかり、火力が高すぎた。
あとは田舎でその情熱を、田んぼにでもぶつけてろ。
ジャックは整えられたばかりの爪で、ギュイの除隊届けに署名した。
「ジャック・オア・ベター。
俺の手札には、お前はもう重すぎる。
……あばよ、ジョーカー」
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数年後。「土喰らいのフィデリオ」と名乗る狂将が戦場の恐怖を独占していた。
彼はギュイ・アンガスを求めて戦場を駆け巡り、捕らえた敵兵に土を食わせて「うまいか?」と聞いた。
かつての慈悲深く理知的な青年は、もういなかった。
彼がどうしてそうなってしまったのか、語りたがる者は少なかった。
しかし、少しずつ少しずつ、あの日何があったのかは広まっていった。
○
噂を聞きつけ、再び彼を戦場へ引き戻そうとする使者が、緑の生え揃った五月の畑に降り立つ。
「ギュイ・アンガス。貴公のような武勇を持つ者を畑で遊ばせておくわけにはいかない」
その農民は、腰を伸ばして使者を見つめ、首にかけた手拭いで、顔や首をぬぐっていたが、雲の影がひとつ畑を通りすぎてから、やっと口を開いた。
「……腹が減っているな? ならば座れ。この土が育てたものを食わせてやる」
おつかれさまでした。
力は山を抜き 気は鍋を蓋う
時利あらず ギュイ行かず
ギュイの行かざる いかんすべき
テオテオなんじを いかんせん
あとがき
牡牛座というものと戦記ものというものを研究するために書き、主人公と物語の核が牡牛座であり続けることにこだわりました。牡牛座をのりこなすのは、牡牛座を理解し自由を意識するようになった双子座で、牡牛座に征服されるのは大地を忘れて星を見ている射手座です。牡牛座の正体を考えますと、古き神です。文明が破壊と再生を繰り返すのは、古き神の供物にされるためにリビルドされ続けるからだと、書いててそんな気になりました。




