予測と警告のアプリ「トマレ合図」
近年、スマートフォンのアプリ市場に彗星のごとく現れ、瞬く間に話題をさらったシンプルなアプリがある。その名も**「トマレ合図」。運転中に危険が迫り、停車すべきタイミングを的確に知らせるこの画期的なアプリは、リリース以来、数えきれないほどの人身事故や交通事故を未然に防いできたとされている。その効果は絶大で、ユーザー評価は驚異の4.8点を維持し、既に50万ダウンロード**を突破。主に車を保有するドライバー層に圧倒的な支持を得ている。
僕――高校生のユウキ――は、まだ運転免許を持たない身でありながら、このアプリをスマートフォンに入れていた。運転するのはいつも母親。助手席、あるいは後部座席に座り、スマートフォンを眺めるのが、いつしか僕の日課になっていた。アプリの画面は驚くほどシンプルだ。背景は黒一色で、中央にたった一つ、白いランプが表示されているだけ。事故発生の5秒前になると、そのランプが赤く点灯し、警告を発する。それだけの機能なのに、巷では「命の恩人」とまで呼ばれていた。
僕がアプリをインストールして半年以上が経過していたが、ランプが点灯することは一度もなかった。それは、僕と母親のドライブが常に安全だった証拠だ。しかし、心のどこかでは、そのシンプルなランプが発する「警告」というものに、漠然とした興味と少しの不安を抱いていた。一体、どんな時に光るのだろうか?
ある蒸し暑い夏の日の放課後、僕はいつものように母親の運転する車の後部座席に横たわり、半ば意識の無いまま「トマレ合図」の画面を眺めていた。今日の母親はいつもより口数が少なく、どこか上の空のように見えた。疲れているのだろうか。そんなことを考えていると、突然、スマートフォンの画面が、これまでに見たことのない真紅の光を放った。
「止まって!」
僕は考えるよりも早く、叫んでいた。母親は驚いたようにアクセルから足を離し、間一髪で急ブレーキを踏んだ。体が前のめりになり、僕は慌てて起き上がる。窓の外に目をやると、信じられない光景が広がっていた。僕たちの車は、まさに線路の真上で停止していたのだ。視線の先には、急速に迫り来る電車のヘッドライト。ガタンゴトンという振動と轟音が、車の窓を震わせる。
もし、あと数秒遅れていたら。
もし、僕がアプリを眺めていなかったら。
もし、僕が叫ぶのを躊躇していたら。
一瞬の間に、無数の「もしも」が頭を駆け巡る。生きた心地がしなかった。母親もまた、青ざめた顔でハンドルを握りしめ、震えている。電車は、僕たちの車の寸前で緊急停車し、けたたましい警笛を鳴らしていた。周囲には、急ブレーキの音と電車の警笛を聞きつけた人々が集まってきている。九死に一生を得たのだ。
その夜、警察からの事情聴取が終わり、自宅に戻った僕と母親は、リビングで向かい合って座っていた。重苦しい沈黙が部屋を満たす。いつもなら陽気な母親が、今日だけは俯いたままで何も語らない。
「ママ、どうしてあんなところに…」
僕は震える声で尋ねた。母親はゆっくりと顔を上げ、僕の目を見た。その瞳には、今まで見たことのない虚ろな色が宿っていた。
「ユウキ…ママね、疲れたんだ…」
蚊の鳴くような声で、母親はそう呟いた。そして、僕の記憶に深く刻み込まれるであろう言葉を続けた。
「あの時、アプリが光らなければ、ユウキも一緒に…楽になれたのにね」
僕の心臓が凍りついた。母親の言葉は、僕が今まで想像していた「事故」とは全く異なる、恐ろしい真実を突きつけた。母親は、死のうとしていたのだ。そして、あろうことか、僕をも道連れに。
「トマレ合図」は、確かに僕の命を救った。だが、それは同時に、僕を、そして母親を、地獄のような現実へと引き戻したのだ。あのアプリは、単なる危険予知ツールではない。それは、人間の心の奥底に潜む闇をも暴き出す、残酷な「啓示」だったのかもしれない。
僕の人生は、あの日を境に一変した。母親は精神科に入院し、僕自身もカウンセリングを受けることになった。あの時、ランプが光らなかったら、僕たちは本当に線路の上で命を落としていたのだろうか?そして、それは本当に「事故」だったのだろうか?
「トマレ合図」は、今日も誰かの命を救っているだろう。だが、その光が照らす先には、救われた命の数だけ、深淵な闇が広がっているのかもしれない。僕は今、その闇の只中にいる。
作者感想
~こわいねぇ~