華厳
僕のおばあちゃんの部屋の仏壇には、古い仏像がある。
おばあちゃんは、毎日のようにその仏像を拝んでいる。十一面千手観音像というのが正式な名前で、おばあちゃんは観音様と呼んでいる。でも僕には、その仏像がそんなに立派なものには見えない。おばあちゃんが作る人形の方がよっぽど綺麗で精密だと思う。僕の生まれた家は、江戸時代から続く伝統ある人形師の家系で、おばあちゃんは、日本でも有名な人形師なのだ。そのことをおばあちゃんに言うと、おまえにはまだこういう美しさは解らないだろうねえ、と笑われた。
その仏像は、江戸時代の僕のご先祖様が、旅の人と出会い、友情の証として、自分で作った人形と交換したものだという。三百年以上の歴史があることは凄いと思うけれど、僕にはやっぱりそんなにありがたいものには見えない。
ところが最近、おばあちゃんの眼力は正しかったことが証明されることになった。おばあちゃんを訪ねてきたお客さんが、その仏像を見て、これは円空仏ではないですか、と指摘したのだ。
円空というのは、江戸時代のお坊さんで、旅をしながら生涯で十二万体もの仏像を彫り上げたという凄い人だそうだ。現在でも、円空仏のファンは多いのだという。こんどの土曜日に、民俗学の先生がうちに来て鑑定してくれるそうだ。
瀧の様な土砂降りが、山道を急ぐ男を容赦なく襲っていた。男は、笠の庇に手を掛け、顔を守る。
轟々、轟々、と大水の流れる単調な音が、ふと、彼を何も聞こえていないかの様な錯覚に陥らせた。草鞋が泥濘に塗れた小石を踏みつけ、体の均衡を崩しかける。道の左手は、急な勾配になっており、その下には激しい濁流が窺えた。轟々という音は、この流れに潜むあやかしが、贄を引き摺り込むために呼ぶ声なのかも知れない。男は大きく息を吸って身体を立て直した。
――確乎りしろ、精吉。
自らを叱咤し、下唇を噛んで感覚を取り戻す。旅籠の主人らの反対を押し切ってまで、危険を冒しているのだ。呆けて此処で倒れる様な事が有っては、彼らにも申し訳が立たない。
稚い頃から山岳で修行を積んできた精吉であったが、その彼の健脚を以ってしても、嵐の山道を登るのは困難を極めた。
――円空様、御無事で居て下さい。
顔も未だ見ぬ人物をそらで念じ、精吉は体躯に力を込めた。旅の先々で、その名がよく人の口の端に上っていた僧侶、円空に、ひと目会いたいと精吉は願っていた。生業の薬売りの傍ら、彼は口伝えを頼りにその足取りを追っていた。
円空の滞在する村に到着したのはつい先刻の事。追いついたと喜んだのも束の間、旅籠の主人から、かの僧が危機に対面していると聞かされ、精吉は居ても立ってもいられなくなり飛び出して来たのである。
精吉が登っている天覧山は、村の北側に位置し、その頂近くの洞には、山の神の御堂が有るという。仏師として名高い円空は、旅籠を訪ねてきた名主に頼まれ、そこに祀る神の本地仏である観音像を彫るために山に登ったのだが、そこでこの大雨である。
自分にもっと力があれば、と、精吉は自分の不甲斐なさを嘆く。伝え聞く処に依れば、彼の先祖は方術によって、自在に天候までも変えられたそうだ。だが、今世の精吉では精々天候を予知することが出来る程度である。
精吉の一族に、親から子へと代々伝えられてきた方術も、七百年近くに渡る月日の中で、その式や力は徐々に失われている。精吉はその衰退に抗うべく、母を亡くしてから、一族の宿願を叶える旅をひと時中断し、越中国は立山にて修験者に交じり、暫くの間山伏修行に励んだ。失われた式は取り戻しようがないが、それでも彼の肉体と精神は常人の域を越えた位置に高められている。
もし精吉が並の人間であったならば、不安を覚えつつも、そのまま円空の無事を祈りながら帰りを待ったことであろう。しかし彼は、幸か不幸か、特別な力を持つ人間であった。
「む」
道を彎曲したところで、倒木に行く先を塞がれる。大雨に緩められた土の有様を目の当たりにし、不安が募る。先に進もうと幹を踏みつけた時、足元から幽かにシャンという音が聞こえた。山林に於いては不自然なその音に、精吉は感覚を研ぎ澄まして辺りを伺う。果たして、木の枝に紛れる様に、黒い棒がその下敷きとなっていた。手を伸ばして触れると、先程と同じシャンという音がした。引き摺り出して、その正体が判明した途端、精吉はハッとして身を震わせた。棒の先には、渡り三寸程の金輪が幾つか取り付けられていた。僧侶の持つ錫杖だ。
精吉は辺りを見回し、僧侶の名を叫ぶように呼んだ。大雨が無情にその声を掻き消す。
よもや、と思い、精吉は道を外れて荒れた斜面を見下ろす。大雨で水嵩を増した渓流の縁に、最初に目に留まったのは朱塗りの大きな木箱だった。あれは笈に違いない。そして、その傍に黒と白の塊が見えたとき、精吉の目が見開かれ、顔から血の気が引いた。鈴懸を身につけた人の姿だ。
「円空様!」
叫び、斜面を滑っていく。
その人物はうつ伏せ気味に倒れていた。古びた袈裟、剃髪した頭、日に焼けた皺深い顔。錆色の血が脚絆を汚していた。
精吉は初老の僧侶の首筋に触れてみる。雨に濡れて体温はよく判らない。しかしそこに、僅かな脈動を感じ取った精吉は、一先安心する。しかし、長い間雨に打たれていたのだ。油断は禁物である。
「円空様、御気丈に」
その呼び掛けに、僧侶は、うゝ、と呻いた。精吉は自らの蓑を脱ぎ、僧侶に着せてやる。
「村へ戻れば、直ちに私が薬を処方致します」
斜面を転げ落ちるときに笈の蓋が開いて了ったのだろう。周りにはその中身がばら撒かれていた。精吉はそれらを拾い上げて笈に戻し、自分の背に負った。
さて、と、彼は斜面を見上げる。背中には笈を負ったまま、人ひとりを抱えて登るのは些か困難なようだ。下りる時と違って、これは集中力だけでどうにかなるものでもない。精吉は、足元に手を遣ると、複雑な法則に従って指を動かしながら手首を返す。印を組むと同時にまじないの文句を唱えて、方術の式を成立させる。精吉は僧侶を抱き上げた。
「■」
最後に梵語で真言を放ち、足を踏み出す。見えぬ力に脚が守られる。そこがまるで石段であるかのように、精吉は雨天の山の斜面を駆け上がった。
円空を抱え村に駆け戻ると、名主が旅籠で待っていて、金を出すので一番良い部屋に泊めてくれと申し出た。幕府の令が無ければ、名主の屋敷へ迎え入れたいところだが、旅の僧侶が寺社や旅籠以外の処に宿泊することは禁じられている。また、寺社であっても、宗派の違いや藩の役人の身元検めの厳しさから、泊めて貰う事ができない場合も多々あった。精吉が態々還俗し、富山の薬売りとして旅をしているのも、その令が自分の使命を果たすためには障りとなりそうだったからである。
旅籠の唯一の座敷へと導かれ、旅籠の娘にも手伝ってもらい、汚れた円空の身体を拭いて蒲団に寝かせる。旅籠の台所へ、薬湯を煎じる為に湯を貰いに行き、それを満たした碗を持って部屋に戻ると、円空が横たわったまま目を覚ましていた。こちらの方が円空様を連れて帰ってきて下さったのですよ、と娘が精吉を紹介すると、僧は、鉈は落ちておりませんでしたか、と尋ねた。精吉は微笑み、鉈ならこちらに、と部屋の隅に置いていた笈から、襤褸布の包みを取り出した。山で道具を拾い集めた時に見止めていたものだ。長さは一尺余り、幅は二寸足らず。円空は自らの鉈一丁を持参して仏像を彫っていると聞く。これに相違あるまい。
鉈を取り出して彼に見せると円空は安堵の息を吐いた。今は未だお休み下さい、と精吉は言って薬湯を飲ませ、再び眠りに付かせた。
精吉は自分の借りた部屋へと戻り、転りと横になる。板の間が軋んだ音を立てた。終に円空と会うことができたのだ。併し、会ってどうしようかという事は余り考えていなかった。自分と同じように特別な力を持った人物と共感したいのかもしれない。或は単に名のある奇人を目にしたいという鄙びた物思いかもしれない。
初めて彼の仏像を見たのは美濃の国であった。とある村で、鳥居を後ずさりしながら潜る老婆を見て奇異に思い尋ねたところ、こうすると倅の病が早く治るのだと言い、そこで、えんくさん――円空の仏像――のことを聞かされたのだ。老婆が拝む御堂を覗き込むと、木彫りの仏像が丸っこい素朴な顔で笑っていた。大きな寺にある有名な古の仏師の仏像と比べると、彫り方は粗く、一見、乱雑に造ったかのように見えるにも係わらず、何かしら精吉の心を打つものが感じられた。
それ以来、彼は各地の寺社を参る際には、円空を意識するようになる。南は大和国から北は陸奥国まで、精吉は様々な像を拝んだ。聞くところでは蝦夷地でも円空は仏像を彫ったのだという。その内、精吉は或る事に気づいた。奥州以北の地で彫られた像は円空の若い時分の作で、こちら側のほうが精緻で、古の名人の作をも彷彿とさせていることだ。齢を経て仏彫が粗くなっているという不条理に精吉は首を傾げた。だが、より深い感銘を受けるのは最近の作のほうなのだ。円空はある時期を境に作風を変えたと考えられる。その心境に精吉は興が沸いた。
円空には不思議な逸話が数多く残されている。流行り病や、水害に悩む村で、彼の仏像を祀ったところ、それらがたちどころに治まったというのはその内のほんの一部だ。精吉は、幼い頃に自分の母親や祖父から、自分らの先祖が方術を使って人々を助けたという昔話を聞かされていたが、それと重なりあうような気がした。
数々の先祖の逸話は、幼い彼を喜ばせ、憧憬の念を抱かせたが、彼が成長するにつれ、それらは彼の劣等感へも転じていった。偉大なる先祖と比して、自分の体たらくはどうだ。彼らですら成し遂げられなかった一族の宿願を、無能な自分がどうして果たせようか。その憂いを明確な言葉として口にする前に祖父が死に、母も死んだ。祖父は山の神の怒りの化身である猪に傷を負わされて。母は時化の海に捕らわれた人々を救うために祈祷をし精力を使い果たして。どちらも、人々の為に命の炎を燃やし尽くした、先祖に恥じぬ見事な死に様であったと精吉は思っている。
人の幸いを願う気持ちが力となるのですよ。
生前の母によく聞かされていた言葉だ。精吉は、旅を再開してから、出来る限り薬や方術で人々の為に尽くしてきた積もりだ。それでも力の足りない自分は、まだ思いが足りないのだろうか。或いはそのようなことを考えているからいけないのだろうか。
――私は円空様に祖父や母を求めているのかも知れぬ。
寝そべって天井を見上げながら物思いに耽るうち、精吉は溜まった疲れに押し流されるようにまどろみの世界へと落ちていった。
旅籠の娘が精吉のいる部屋へやってきて、お坊様が呼んでらっしゃいます、と告げた。精吉は礼を言って、旅籠の奥の座敷へと向かう。そこで初老の僧は蒲団から半身を起こし、座して待っていた。薬湯の匂いがまだ残っていた。
「貴公が拙僧を助けて呉れたのでしたな。先程は、お恥ずかしい処をお見せしました。呆として御礼も碌に申し上げず、鉈の心配など」
円空は手を合わせ、頭を下げる。
「いえ、道具を大切になさる円空様の御心を目の当たりにし、嬉しく思います」
「あの鉈とも長い付き合いですからな」
禿頭を掻いて円空は笑う。
「円空様、改めまして御挨拶申し上げます。私は、越中国は富山藩より、薬種を商って旅をしております、茶乃木屋の精吉と申す者です」
精吉は居住まいを正し、畳に手を付いて頭を下げた。無論、平民である精吉は名字を名乗れない。茶乃木屋とは屋号である。
「拙僧が円空じゃ。このような格好で失礼いたすが、改めて御礼申し上げまする。あの場で薬売り殿に回り逢えるとは、正に仏のお導きでしょうな。それにしても、精吉殿は唯の旅商人ではないとお見受けする。貴公は修験道の修行をしてきたのではありませんかな」
嘗ての身分をずばりと言い当てられて、精吉の背筋が歓喜でゾッとする。
「お判りになりますか。流石は円空様です。御推察の通りで御座います」
「ハヽヽ、そんなに買い被らないで頂きたい。なに、先程、山で貴公に背負われたとき、呪を唱えていたのをボンヤリと聞いておりましての。拙僧も山伏修行の経験がある故、知っていたというだけですわ」
精吉は無駄に興奮した自分を恥じ、ああ、そういう事でしたか、と云って肩を落とす。
「唯、私は仏門に入った真の修験者ではありませぬ。山岳での行はあくまでも精神を鍛える為のもの。元々私の一族は、先祖代々、特別な力と技を受け継いでいるのです」
精吉は円空から目を逸らし、部屋の隅の笈へと向けた。そして、御覧下さい、と一言口にして精神集中を始めた。
笈の蓋が、手も触れぬのに、カタヽヽと鳴って開いた。円空は目に驚きの色を湛え、凝っとそれを見つめていた。やがて笈から鉈を包んだ襤褸布が現れ宙に浮く。まるで目に見えない手がそこにあって、取り出したかの様だ。鉈の包みは、すう、と二人の所まで宙を飛び、精吉の伸ばした手の中に収まった。円空は、ほう、と息をついた。
「念ずる事に依り物を動かす術は、一族の最も得意とする処です。他にも、物に触れてその持ち主を想ずるような術など、一族では、方術と呼んでおります」
「法術とな」
精吉はそらに指で「方」の字を書いた。
「成程。その字を当てるのであれば、貴公の術は道教ないしはその教えを取り入れた陰陽道の流れを汲む筈。式札に魂を宿す術に似ているといえば似ておる」
円空が先に頭に浮かべた法術という文字は常用的ではないが密教の僧侶が使う。精吉は成る程と頷いた。
「我が御祖は智徳法師の師事を受けたと聞きます」
「ふむ。智徳法師なら、拙僧も知る処じゃ。仏門に入りながらも、宗旨の垣根を越え、真言密教に陰陽道、神道、道教と様々な思想と術を取り入れ、多くの民を救った方じゃな。黎明期の修験道の基となった方じゃ。併し乍ら、精吉殿、貴公の様に、呪を口にせずとも物を操るという方は初めて目にしたわい」
「一族の血がそうさせるのでは、と祖父や母から聞いております」
円空は暫し俯き、思案する。
「嘗て空海上人が、……あゝ、精吉殿は空海上人のことを御存知かな」
「空海……弘法大師様のことですね」
「然り。その空海上人が唐の国より密教の経典を持ち帰ったのが、我が国の真言密教の始まりじゃ。密教とは、簡単に申せば、この世に秘められた真理を探究しようというもの、また、自らの中に眠る仏を開眼させ、仏と一体になろうというものじゃ。本来ならば、教義を読み、修行を積むことで即身成仏するのじゃが……。もしも、仏門に入る前から真理に触れた者が居るとすれば……」
円空は、精吉の姿を上から下へ舐める様に眺めた。
「呪を唱えることなしに、神通力を使えるのかも知れぬな。拙僧も、推し量るしかないがの」
「……」
「ふむ、例えば烏じゃ」
「からす……で御座居ますか?」
「貴公も立山にて修行していた間、仲間と験競べをしたことがあるじゃろう」
「はい」
験競べとは、修験者達がお互い高め合う為に、定期的に修行の成果を見せ合う催し事である。
「貴公は、烏跳びで何間跳びましたかな。二間から三間ぐらいというた処か。じゃが、烏はどうじゃ。厳しい修行をせなんでも、何里も飛び続けおる」
「それは」
「当たり前だというのじゃろう。つまりはそういうことじゃ。凡そ、人の身では幾ら行を積んだとて空を渡る事は出来ぬ。だが、貴公の一族のように、その神力を血に憶えているのならば、それを行に依って高めることも出来るじゃろう。密教の秘伝を師から弟子へと受け継ぐことを血脈と呼ぶが、貴公の場合は文字通り、血の繋がりで相伝されているのであろうな。何やら曰くのある家系のようじゃが」
はい、と返事をすると、精吉は頤を反らし、物思うために天井を見上げた。未だ雨は止まず、旅籠は屋根を打つ大雨の音に包まれていた。
「私は口を糊す為に、薬種を商っておりますが、それが本来の標ではありませぬ。諸国を旅するのは、先祖代々の宿願を果たす為であるのです」
「宿願とな」
「……この空の上の何処かに、娘子が独り、永久に嘆きの夢を見続けている」
精吉は言葉を切り、気の狂れた者の戯言に思われてはいないだろうかと、刹那、僧侶を伺った。併し円空は静かに、続く彼の言葉を待っていた。
「その娘は、翼人、即ち、つばさあるひと、と呼ばれた神の使いであり、神通力を以て人々を災厄から救い、崇め奉られておりました。併しその力を恐れた時の権力者に依りて、その身を呪に捕らわれ、天空へ封ぜられたと聞きます。神人ゆえ、輪廻転生も儘ならず、その苦しみも永久であるということ。我が御祖は、その翼人の娘の従者であったそうです。その娘子を……娘子の化身を探し当て、その魂を救うことが我が一族の願いであると言い伝えられております」
「翼ある娘子とは、また奇態な話じゃな。人が死して、その魂が鳥の姿を取るという昔話は聞いたことがありますがの」
「はい。私も諸国を巡り歩いて参りましたが、翼人の話が伝わる地に至ることは御座いませんでした」
「探し求める娘子に、当ては在るのかの」
「明らかな標はありませぬ。しかし、翼人の娘の化身のいる所には、望まざるとも不可思議な出来事が集うと言われております。私は訪れた地においてその噂話や昔話を聞き、手がかりを得る心算で御座います。あゝ、円空様のお噂も、そのような話の中からよく聞いております」
「ふむ。そう言えば先程、旅籠の娘から聞いたのじゃが、貴公は、拙僧を追ってこの村に来たとか。貴公の標と係わることかの」
拙僧は只の乞食坊主じゃぞ、と僧侶は嗤った。
「何をおっしゃいます。円空様の評判はよく聞いております。旅の先々で霊験あらたかな仏像を彫り続け、人々を救っているではありませんか」
目を輝かせる精吉に、霊験のう、と、円空は困ったように微笑んだ。精吉はそれを謙遜だと思った。
「この間、円空様の彫られた仏像を手にする機会がありました。半月ほど前のことでしょうか。以前、円空様が立ち寄られたという村に着いたときの事です。旅籠に薬一式を置くよう勧める話の途中、円空様がその村で、病に罹っていた子の為に、仏像を彫られたことがあったという事を聞きました」
「そう言えばその様な事も在りましたな。いや、貴公の商売の邪魔をして了いましたかな」
「そのようなことは構わぬのです」
軽口を言って笑う円空だったが、精吉は遮った。
「私はその子供の家に寄り、仏様を手に取らせて頂きました」
手に持っていた鉈をその仏像に見立て、その時の事を思い出す。
「ふむ。精吉殿。貴公はそこに何を感じたのかな」
「ああ、いえ、残念ながら、時が経っていたせいか、法力のような特別な力は、何も感じられなかったのです。ですが、心を打つ素晴らしい仏像であったことには相違ありませんでした」
そこで精吉が言葉を切ったのは、円空の表情に僅かな翳りが見えたせいだった。併し、円空は精吉の変化を悟ると、意図して破顔した。
「精吉殿、己の力をもっと信じなされ。貴公が何も感じなかったのは当然なのじゃ。拙僧は山伏修行を積んだとはいえ、神通力を得ることは終にできなんだ」
「真逆、そんな事はないでしょう。円空様の仏像を渡された子供の病は、たちどころに治ったと聞きます。それは最近の話で、尾鰭の付いた噂話や昔話などではない、真の話であると思いましたが」
「仏様の御加護に相違ありませんな」
円空は目を細めて微笑みながら合掌した。だが、精吉はそれで満足できない。
精吉は旅をしながら、幾人かの俗に塗れた山伏達を見かけたことがある。手妻だけを憶え、効きもせぬ祈祷をしたり、人心を惑わす説を述べて金を集める醜い輩であった。幕府が僧侶に対する厳しい令を立てるようになった原因の一つはそれである。精吉は方術をこっそりと使って、そのような穢い心に染まっている山伏を懲らしめたこともあった。彼らのような存在こそ精吉の最も厭うところであった。
「まあ、何じゃ。拙僧もさしてその山伏達と変わらぬ」
「そのようなこと」精吉は自らの期待が裏切られることを恐れ、大きく頭を振る。「円空様については、いかな悪い評判も聞きませぬ。自らの彫った仏像に依って民を救う、円空様こそ真に仏の力を持つ方だと、そう信じ、一目会いたいと思っておりました」
だが、精吉は、自身が特別な力を持つ存在であるが故に、円空はそれを持たないことを殆ど心の内で認めていた。俯く彼に、僧侶は苦笑いを浮かべた。
「拙僧に何も法力がなくて落胆されたのか。拙僧が神通力を使う処を見たかったか」
「あ……。否、決して見世物に群がる様な心持ではなく……唯、お話を伺いたかったのです。御祖の代から幾多の年月を経て、今や、私の使える方術は手妻と然程変わらないまでに衰えて了いました。祖父や母からは、方術を使う時には純粋に人々の幸いを願え、それが人々を救う力になるのだ、と教えられてきました。併し、私が未熟な内に祖父も母も亡くして了い、導を失った私は修験道に入りましたが、満足のいく結果は得られませんでした。ですから、弘く利他行をなさっている円空様のお噂を聞いて、お話をお聴きしたくなったのです。何を心掛ければよいか知りたかったのです」
座敷に沈黙が流れた。
「拙僧にも、貴公のような時期があった」
肩を叩かれ、精吉は顔を上げる。円空は黙って、併し慈愛に満ちた表情で彼に小さく頷いて見せた。
「少し……昔話を致そう。丁度、この様な大雨の晩で御座った」
言われて、精吉はその音がずっと聞こえていたのを失念していたことに気づいた。
「拙僧は幼い頃、やろか水で母親を失うての。その身を寺に引き取られたのが仏門に入った切掛じゃ。思えばその頃から、仏の姿形に魅せられていたようじゃったな。やがて修行中に知り逢うた或る神社の神主殿からの誘いで、得物を渡され、神像や仏像、人物像を彫り始めたのが今の拙僧の始まり……その鉈はその頃から使い始めておる」
精吉の手の中の鉈を愛しそうに見やる。
「暫くしてその神主殿も亡くなられての、拙僧はそれを機に旅に出ることにしたのじゃ。奥州へと向かったのは、その地にあまり仏の教えが弘まっていなかったせいじゃな。自らの修行と布教とを兼ねて拙僧は旅先で一宿一飯の礼に仏像を彫っておった」
そして老僧は恥ずかしそうな顔をする。
「嘗ては拙僧も、自らの彫仏の腕を上げることが喜びであった。腕を上げ、仏像を真の仏の姿に近づければ近づける程、仏の加護が得られると信じておった。併しのう、津軽で木仏長者の昔話を聞いて、拙僧に迷いが生まれたのじゃ」
「あゝ、木仏長者の話ならば私も聞きました。長者の持つ金仏と、風呂焚きの男が森で拾った仏に似た木っ端とに角力を取らせる話ですね」
「うむ。誰もが金仏が勝つと思いきや、木の仏様のほうが勝って了う。事前の約束により、風呂焚きの男が長者の身代を譲ってもらうことになる」
「そして長者が金仏に、何故負けた、と問い詰めると、光々に磨くばかりで拝みもせぬ、供え物もせぬのならば、私に力が出よう筈もない、と答える訳ですね」
「貴公はこの話を聞いて、如何思われた」
「……ええと、信心が大切ということでしょうか」
「うむ、拙僧も初めはそう思った。併し、何か心の内に引っ掛かるものがあっての、暫し考え込んで了うたのじゃ」
「とおっしゃられますと」
「拙僧が幾ら彫仏の腕を上げたとしても、それは、かの金仏と同じではないかと」
精吉は息を吸い、口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。
円空は、精吉の方術の力を、己の彫仏の腕前に喩えている。精吉はそれに合わせ、自分の身の周りに起きたことに置き換えながら円空の話を咀嚼していった。
精吉は祖父から聞いたことがある。祖父の祖父の時代……戦国の世では、人を救うはずの方術が、戦の道具に使われて了い、精吉の先祖は悲しんだという話だ。一度は方術を捨てようかと思ったこともあったらしい。
「迷いが晴れぬうちに、津軽藩から立ち退くよう言われての。拙僧は蝦夷地へと渡ったのじゃ。精吉殿は蝦夷地へ行かれたことはあるか」
「いえ、津軽にいた頃は、偶々悪しき天候が続いていた事と、蝦夷地での不穏な噂を聞いていたことから、行く気にはなれませんでした。蝦夷地に住むアイヌの民は、松前藩との折り合いが合わず、諍いが絶えぬとか」
「そうじゃな。松前殿が欲をかいたせいじゃ」
そこで老僧は、精吉には初めて見せる厭な顔をした。円空はアイヌの方に情を寄せているらしい。
「拙僧は、アイヌの民が作ったという幾つかの像に惹かれるものがあっての、言葉の分かる者に仲立ちを頼み、話をさせてもらう機会を得たのじゃ。拙僧の坊主頭に奇異な目を向けられたが、身分を明かすと、心安く受け入れてもらえたわい」
円空が語るアイヌの印象は、精吉が思っていたような野蛮なものではなかった。争いを好まず、自然との共存を大切にする民であると僧は語った。
「アイヌの民の信仰を聞いて、拙僧は感心致した。自然の中に存在するあらゆるものにカムイ、つまりアイヌの民の謂う所の神じゃな、それが宿っているというものじゃ」
「神道や仏教の教えとよく似ていますね」
「うむ。人の言葉として口に上らせて了えば、些細な処で異なっているのだが、本質的には同じ物を見ているのじゃろう。そこで拙僧は漸く知ったのじゃ。否、識ってはいたが解っていなかったということじゃな。木々の中には初めから神仏が居る。拙僧はそれを顕現させるだけでよかったのじゃ。人の身で仏を作り出そうなどというのは傲慢だったのじゃ。だから細やかな人の手を経ずとも、見た者の心に仏が顕れるのならそれは仏像じゃ。木仏長者の風呂焚きの男が手にした木っ端も立派な仏像なのじゃ」
円空は身を正し直し、改めて精吉に向き合った。
「拙僧はの、神仏の力をこの世に顕せる者は、神仏に選ばれし者だけではないかと思うておる。じゃが、神仏に選ばれたから偉い訳では御座らん。神通力で救うことが出来るのは、神通力を与えた者に対してだけじゃ。先程の病の子供の事に話を戻そうかの。拙僧の彫った観音像を見て、親の心の中の仏が目覚めた。その心持で子供の病を看た。その姿が子供の中の仏を呼び覚ました。その仏が病を跳ね除けたのじゃ。このように言えば解り易いかの。元々誰の中にも仏がいるのじゃから、拙僧は何もせんでよい。何もせずして人を救えるのならばこれ程楽なことはないぞ」
僧侶は呵々と笑った。精吉は噂に聞いた円空ではない、直接対面した円空に改めて敬意を覚えた。
夕べの嵐が嘘のように過ぎ去り、精吉は気持ちの良い朝を迎えた。
「精吉殿、拙僧を助けて呉れたお礼じゃ。」
円空は、朝餉の終わった頃に精吉の部屋へとやってきた。夕べ、精吉との話を終えた後で彫った千手観音像を彼に手渡す。受け取る精吉の手は僅かに震えた。
「此れは、円空様手ずからの観音像」
精吉は陶酔したような目で観音像を見渡す。
「どうじゃ、そこから何か法力は感じ取れるかの」
円空は揶揄するように笑いながら言う。
「いえ。併し、私にとってはこの観音様こそが今、最も必要とする仏であります。円空様、身に余る幸せに御座います」
「うむ。これからの旅の間にも、迷うことはあるじゃろう。その折にはその観音様を眺めればよい」
「はい。有難く頂戴したします」
円空は笑顔で頷きながら続ける。
「そこで精吉殿、お願いがある。迷いが晴れたと思うたら、その観音様は、貴公と同じように迷っている者に渡して欲しい」
「手放さなければいけないのですか」
「それが仏の教えを弘めるということなのでな」
「……」
「精吉殿、若し、手放した後で観音様のお顔を見たくなったのなら」
円空は両頬を吊り上げ胸を指差す。
「己の中に居る観音様と向き合えばよいのじゃ」
精吉は円空の表情を映すように笑み、そうで御座いました、と答えた。
それからまもなくして、二人は身支度を整え、別々の旅路へと足を向けることになる。
「精吉殿。拙僧は偶々手先が器用だった故に、人を救うために彫仏という手段を使うておる。貴公も、人を救う為に貴公の持つ力が必要だと思えば、ためらうことなく使うがよい。貴公の祖父や母の教えていたのはそういうことなのじゃ。努々忘れるでないぞ」
「はい。心得ております」
精吉が円空と言葉を交し合ったのは、ほんの短い間だった。だが、その時得たものは千手観音の中にいつまでも残っていた。
“円空学会”(そんな学会があるなんて知らなかった)から民俗学の先生がやって来た日、物珍しさから、僕もその場に立ち会った。
先生は一目見て歓声を上げ、これは円空仏と見て間違いないでしょう、と言い、おばあちゃんは嬉しそうに頷いて仏様を拝んだ。
先生は、それでは失礼して、と言い仏壇から観音様を取り出したのでちょっとびっくりした。誰に言われた訳でもないけれど、それは勝手に触ってはいけないものだと思っていたからだ。でもそのお蔭で、僕も仏様を違う角度から見るという経験をすることが出来た。
僕は翼が生えているみたい、と感想を漏らした。仏壇から出てきた仏像は、いつもと違うかたちで僕の視界に映り、観音様の幾対もの手が、まるで鳥の翼のように見えたのだ。
おばあちゃんは、これ、と言って僕を窘めたけれど、民俗学の先生は、いやいや、お孫さんは見る目がありますよ、とおばあちゃんを止めた。
なんと、先生の言うところでは、千手観音の無数の腕は、本来翼を現しているものだとう説があるらしい。鳥を霊的な存在に結びつける思想は大昔からあって、例えば神社で神主さんが振るギザギザの紙なんかも、鳥の羽を模したものだとか。
僕は得意げになると同時に、翼をはためかせて大空を飛ぶ仏様の姿を想像して少し可笑しくなった。
「しかし、こちらの地方に円空仏があるというのは、珍しいですよ。おそらく、人から人の手へ渡ってきたのでしょうなあ」
おばあちゃんが先生に仏像の来歴を語る。僕のご先祖様に観音様を渡した人はお坊さんだという話はないから、手渡されたのは少なくとも2度以上だ。そこには僕の知らないドラマがあったのだろう。
この仏様と交換されたという、僕のご先祖様が作った人形は、どうなったのだろうか。今でもその旅の人の子孫に受け継がれているのだろうか。
僕はここにいない人へと思いを馳せた。