伝言板に
昔は多くの駅に伝言板が設置されていた。学校の教室にある黒板を縮めたようなやつで、「xxで待ってます」とか、「先に帰ってます」とか大抵そういう待ち合わせに関連するメッセージがチョークで書き込まれていた。
今は大体誰でも携帯電話を持ってるから伝言板なんて必要ないが、当時は便利だったんだ。
もう今じゃ伝言板を使う人間は殆どいない。だからどこの駅でも撤去されちまっている。
ところが俺の地元の駅には今でも残っているんだ。珍しいだろ。
だけどさ、おかしいんだよ。
その伝言板の周りには赤いコーンが置かれて黄色いプラスチックの鎖が張られていて、立ち入り禁止になってるんだ。
それに伝言板には白い布が被せられていて紐でグルグル縛られている。
これじゃあ誰もメッセージを書き込めないし読めない。
いくら需要が少ないからって、使えないようにするくらいなら何故さっさと伝言板を撤去しちまわないんだ。俺はずっと不思議に思っていた。
最近な、ちょっとしたきっかけでその駅の関係者と知り合ったんだ。駅に設置されたコインロッカーの管理会社に勤めてる人なんだけどな。定期的なメンテナンスがあって、駅の事務所にも立ち寄ったりするそうだ。それで駅員と話をする機会もあるらしくて、その時にした雑談の中で、伝言板の話題が出たらしい。
その駅でも何度か伝言板を撤去したことがあったんだよ。でも結局は元の場所に戻して、今みたいな状態になった。
昔。30年以上前のことだけど、その駅で飛び込み自殺があった。特急列車が駅を通過するのを見計らってホームから線路に飛び込んだんだ。日中、沢山の利用客が見ている前でその女の体は列車に撥ね飛ばされてポーンと宙を舞い、左腕が千切れてどこかに飛んで行ったそうだ。勿論即死だった。
その女が列車に飛び込む前に、例の伝言板に自分の名前とその日の日付、それから「自殺します」というメッセージを書き込んでいたそうだ。
どういうつもりでそんなメッセージを書いたんだろうな。自殺にまで追い込まれた自分の辛い境遇、怨念。そういうものを少しでも形に残そうとしたんだろうか。まあ遺書みたいなもんか。駅側としてはたまったもんじゃないが。
余談だが、数ある自殺の方法の中で一番遺書が残されている割合が低いのが鉄道への飛び込みらしい。他の方法と比べてフラッと衝動的にやっちまうケースが多いのと、そうじゃない場合でも遺書が発見されて意図的に飛び込んだことが明確になると遺族が鉄道会社から損害賠償を請求されるからそれを避けるために遺書を残さないことがあるとか。
聞いた話だから本当かどうか知らないけどな。
伝言板の件に話を戻そう。
駅の伝言板ってのは駅員が定期的に書かれているメッセージを消すんだ。その駅では毎朝シャッターを開くとき、その作業のついでに古いメッセージを消す習慣になっていた。
飛び込み自殺から一週間後くらいかな。その朝の担当者がシャッターを開き、ついでに伝言板のメッセージを消そうとして驚いた。乱れた文字で変なメッセージが書かれているんだ。
『私はこの駅で自殺しました。
腕が千切れて、体中がズキズキ痛いです。
苦しいです。
助けてください。
苦しいです。
助けてください。』
悪趣味なイタズラだ。自殺のニュースを聞いたどこかの馬鹿が、駅員や客たちを怖がらせようとしてやったんだろう。あまりにも不謹慎だ。駅員は腹を立てながらそのメッセージを消した。
ひとつ不思議なのは、このメッセージがいつ書かれたかだ。
前日の夜には書かれていなかったはずだ。もし書かれていれば誰かが気付いただろう。
夜中に誰かが駅に忍び込んだんだろうか。だがシャッターは閉まっていて鍵を持っている人間でなければ入れない状態だった。
昼前ごろ、今度は別の駅員が、また伝言板に同じメッセージを見つけた。見つけたというか客に教えられたんだな。伝言板に気持ち悪い落書きが書かれてるって。勿論その駅員も、すぐにその落書きを消した。
朝勤務から夕勤務へのシフト交換の時に、引継ぎの日誌にもその件は記載された。『伝言板に悪戯書きあり、注意のこと』って。
その後は終電が発車して駅を閉めるまで、特に伝言板におかしなことはおこらなかった。
でも翌朝。また落書きがされていた。
『私はこの駅で自殺しました。
腕が千切れて、体中がズキズキ痛いです。
苦しいです。
助けてください。
苦しいです。
助けてください。
どうして助けてくれないんですか。』
最後の一文は、昨日の落書きには無かった文言だ。昨日と同じ文言が書かれて、さらに一行増えたってことだな。
駅員は引継ぎ日誌に書かれていたから伝言板のことは当然気にしていた。前日駅を閉めるときに間違いなく落書きが無いことを確認していた。それなのに朝になると、書かれていたんだ。
もう一つ気味の悪いことが起こった。
前日落書きを消した二人の駅員が、二人とも左腕に怪我をしたんだ。いや怪我というのは正確じゃないな。二人とも夜中に腕がジンジン痛み出して、翌朝には2倍近くの太さに晴れあがったんだ。
医者に行っても首を傾げられてな、ばい菌が入って酷く炎症しているようだが、しかし切り傷も擦り傷もなく、どこからそのばい菌が入ったのかわからない。とりあえず薬を出して様子を見ましょう、という話になった。
さて。それからも同じことが何度も続いた。消しても消しても、そのおかしな落書きがいつの間にか現れる。しかも、それを消した駅員は程度の差はあれ必ず左腕付近に異常がおきるんだ。骨折する者、刃物で切ってしまう者、転んで強く打ち付けてしまう者。何が起こるかは人それぞれだが、とにかく一人の例外もなく全員が左腕に被害を受けた。
引継ぎ日誌には毎日のように『伝言板に悪戯書きあり、注意のこと』の文字が並び続けた。
それとな、伝言板に書かれる悪戯書きが段々長くなっていくんだそうだ。一番初めに書かれた文章の後にどんどんプラスして「痛い」「苦しい」「憎い」「許さない」「殺してやる」「なんで私だけが死ななきゃいけないの」って感じでな。
今や伝言板はその気持ちの悪い落書きで一面覆いつくされんばかりだ。しかも落書きは後半に進むにつれて、元々乱れていた筆跡がさらに荒れてきてな。最後のほうは殆ど読み取れないくらいだ。それが自殺したあの女の怨みの深さを表しているようで不気味でな。
駅員は皆、落書きを消すのを嫌がったよ。だけど客から言われれば消しに行かざるを得ない。だから「せめて自分にはあまり酷いことが起こらないでくれ」と心の中で祈りながら消すしかなかった。
最初の日に落書きを消した二人の駅員がいたろ。そのうち一人は病院で薬を貰って、すぐに良くなったらしい。でももう一人は左腕の腫れが全然収まらず、どんどん赤黒くなって、入院したんだが抗生剤も効果がなく。最後には腕が半分腐ったみたいになっちまって切断するしかなかったらしい。
この時点では、自殺した女の祟りだと完全に信じ込む者もいれば、絶対に誰かの悪戯だという考えを変えないものもいた。
悪戯だと思っている者たちは何人かで順番を決めて伝言板を見張ることにした。だが、結局犯人を捕まえることはできなかった。それどころか何も書かれていない伝言板の前で、見張りがわずか数秒視線を外した隙にびっしりと悪戯書きがされたのを見て、とうとうこれは人間の仕業ではないと認めざるを得なかった。だって人間には到底できないぜ。数秒の間に伝言板の前に立って、チョークを手に持って伝言板の全面に渡るような大量の落書きをして、そのまま見つからないように姿を消すことなんて。
この時期、駅員からは配属変えの希望が続出した。まあ当然だろう。俺だってそんな場所で働きたくない。毎日伝言板に気味悪い落書きがされるだけじゃなく、それを消したら祟りがあるんだからな。
しかしそれが意外な展開を読んだ。あまりにも異動希望が多いことを不審に感じた本社管理部署の担当者は、職場の状況確認のために駅に赴いたんだ。
その担当者はまず、駅長や総務助役と面談を行ったが、これといった成果は得られなかった。まあ駅長としても本社の人間に「駅員は皆、自殺した女の呪いを怖がっているんです」とは言えなかったんだろう。
その後、その担当者は職場実態の視察として駅と事務所を見て回ったんだが、その時に引継ぎ日誌が目に留まった。それで毎日書き込まれている『伝言板に悪戯書きあり、注意のこと』という文言は何かと尋ね、それで伝言板の一件を知ったんだ。
馬鹿馬鹿しい。
担当者はそう言って、そんなに悪戯書きが怖いのならば、と伝言板の撤去を命じた。
だが駅員たちは伝言板に触るのを嫌がって誰もその指示に従わない。それならばと、担当者は自分で伝言板を撤去した。書かれているメッセージを全て消し、事務所の奥の倉庫に押し込んだんだ。
三日後の夜のことだ。
大型トレーラーと軽自動車の衝突事故に巻き込まれて担当者の男は死んだ。
速度超過のトレーラーにわき見運転の軽自動車が正面から突っ込み、衝撃で弾き飛ばされた軽自動車のフロントグリルが歩道を歩いていた男の左腕に直撃したそうだ。特にフロントグリルの角が運悪く腕の動脈を切り裂いたそうで、出血多量により救急車が到着する前に息絶えた。皮肉なもんだ。トレーラーと軽自動車、どっちにも過失があるのに死んだのは無関係なその担当者の男だったんだから。
事故の話を聞いて駅員は全員震えあがったよ。それで、駅長が手配して、すぐにお祓いすることが決まった。
濃い紫色の袈裟に派手な金色の飾りをつけた、でっぷり太った坊さんがやって来た。じゃらじゃらと金のネックレスなんかを着けて、口を開ければ悪趣味な金歯が光って。袈裟を着てなけりゃどこかの成金社長かと見間違うような、俗っぽい坊主だった。
駅長も駅員も、この人で大丈夫かなと不安に感じたらしい。ところがその坊主は、何の説明も聞く前に一直線に奥の倉庫の前に向かい
「この中にあるものを祓えば宜しいか?」
と言ったんだそうだ。
ああ、この人は本物だ。その場の全員がそう思った。
坊さんは持っていた鞄の中から小さいラジカセを取り出して床に置きスイッチを押した。
「ま、拙僧ひとりでも良いんだが、こういうのは大勢の声が響くほど効果があるもんなんでな」
テープから聞こえてきたのは、何人もの声でお経を読む音声だった。それに合わせて、その坊主自身も大声で読経を始めた。
5分経ち、10分経ち、結局1時間近く読経は続いた。読経が終わると坊主は「大分和らいだな」と呟き、倉庫のドアを3度ノックした。そして
「入るぞ」
とドアを開けた。
ドアが開いた瞬間、周りにいた駅長や駅員は腰をぬかしそうになったよ。
ドアの向こうが真っ黒だったんだ。
そのとき倉庫の中は電灯のスイッチが入っていない状態だった。それでも昼間なんだから、窓から差し込む光で多少は明るいはずだ。だがそういう明かりが一切なく、まるでぽっかりと空間が切り取られたかのように、何も見えない真っ黒な状態だった。
坊主はしかし、意に介していないようで、ずかずかと中に入り込みドアを閉めた。
駅長たちは固唾を飲んで見守った。
耳をそばだてると、中からはボソボソと声が聞こえる。坊主の声と、それから女の声だった。中には坊主一人しかいないはずなのに、何故か女の声が聞こえるんだ。
二人は何か会話をしているようだが、その内容はわからない。
坊主も女も抑揚のない低い声だ。
やがてその声が、止まった。
駅長と駅員が顔を見合わせていると、ドアがすっと開いた。ドアの中は先ほどまでの真っ黒の状態ではなく、いつもの倉庫と同じ景色に見えた。
「あの、どうでしたか」
駅員の一人が尋ねると、坊主は何となく気もそぞろな感じで答えた。
「ああ。あれは駄目だ。諦めなさい」
駅長室に入った坊主は、駅長に向かって
「まあ今回は祓えなかったからな。お気持ちは半分くらいということで」
と言った。
『お気持ち』というのはつまりお布施のことだろう。この坊主お祓いに失敗したくせに金だけは取るつもりか、と駅長は思ったが、しかしここまで足を延ばしてもらって、失敗したとはいえ一応お祓い自体はしてもらったので支払はないわけにはいかないと思いなおし、用意していた袱紗を渡した。
「ふむ。まあ貰うものは貰ったわけだし、このまま何もしないで帰るわけにもいかんな」
坊主は満足げにお布施を懐にしまい込むと、駅長を連れてもう一度倉庫に戻った。
坊主は倉庫に置かれた伝言板の前に立ち、鞄から白い大きな布を取り出して伝言板に覆いかぶせた。それから「紐があれば持ってきてくれ」といい、駅長が持ってきた黄色いポリエステルのねじり紐を受け取って、布の周りに巻き付けた。
「よし。元の場所に戻そう」
そう言って駅長と二人で伝言板を持ち上げ、元々置いてあった中央改札口を出た先に運んだ。
「ここから動かさなければ、とりあえずは大丈夫だ。ここに置いて、誰も触ってはならん。それから紐を解いてはいかんぞ。中を見たら、また人が死ぬからな。30年はこのままにしておくこと。良いな。30年経ったらまた拙僧が来て様子を確認してやろう」
それから月日は流れ、駅長や駅員もどんどん代替わりしていった。伝言板の件は重要な引継ぎ事項として、新しく来た人間には必ず伝えられることになっているが、やっぱり実際に体験していないと俄かには信じられない。
だから駅長が変わる度に何度かあの伝言板を撤去しようとしたらしいんだが、いつも何かしら事故が起こって取りやめになるそうだ。
ところで例の坊主は30年経ったらまた見に来てやると言っていたが、どうもその後連絡したら、もう亡くなっていたらしい。
それであの伝言板をどうしたものか決めかねて、今でも残しているそうだ。
これが、俺が知り合いから聞いた話だ。
ところで今でもあの伝言板、近づいて見てみると下にチョークのカスが落ちてるんだ。
さっきも言った通り布で覆われてるから、誰も書き込めないはずなのに、チョークカスが落ちている。きっとあの紐を解いて布をどけると、板いっぱいに『痛い』『苦しい』『助けて』だの、あの女の怨み事が書かれていて、今でもそれが増え続けてるんだろう。
想像すると何だか気味が悪いやな。