スピリットワールドウォーリア
見た目、齢二十二歳。ということは女子大生(かわいいW)が立っていた。原宿の竹下通りのど真ん中で。
心地よい、でもどこか生暖かい風が吹いた。その風とともに、一人の少女が舞い降りた。純白のウエディングドレスを想像させるかのような、いでたち。地上に降り立った少女は、二本足で立ち凛としている。その佇まいから軸がしっかりしているのだろうと察することができる。よく見れば、ウエディングドレスなどではなく、ワンピースで、生地は絹。そのことが高級感をいやおうなく漂わせている。そしてその洗練されたデザインは、どこか個性的で、和風を感じさせない。外国製の物と見て取れる。靴は、同色のパンプスを履いていて、顔さえなければ、遠目からは白い幽霊や妖精に見えるかもしれない。……無論それは、ここが現実世界でなく、何か物語りや絵本の世界、メルヘンならば、の話だが……。
ひたいは適度に広く、眼は、両眼とも奥二重で、眉毛はその眼に対して目がしらから平行に伸びて目じりで綺麗な弧を描く。色は、髪の色に合わして、アイブローが施されている。
鼻筋はピンと伸びて高い。その筋が太陽の光線で、白っぽくきらめいて美しい。
鼻筋の中心の少し右の辺りにほんの小さな数ミリ単位のほくろ―遠目にはわからない。至近距離まで近付いてみないと―があり、それは彼女のひそかやなチャームポイントとなっている。唇は上唇、下唇ともにまるで口紅を塗っているかのように赤い。それは見ている者が吸い込まれてしまいそうな、ようえんな魅力を醸し出している。
髪型は肩まで伸びるショートボブで色は栗色。毛先がきれいに顔に向かっているから、元々小顔な顔がさらに小顔に見える。
何かの拍子に笑ったとき開くその隙間から垣間見える歯は気持ちよいくらい真っ白で、見ていてすがすがしいくらいだ。そしてそのとき、あご先は丸みを帯びたままの美しい三角形の形を描くことは、目の前の彼女を笑わせた者だけに見ることができる特権である。
背丈は、一六四センチ。体重は、……女の子なので控えさせていただく。もちろんスリーサイズも同様である。ただし、太ってはいない。やせてもいない。出ているところは出ているし引っ込んでいるところは引っ込んでいる。何がいいたいのかといえば、それは、つまりは、グラマーであるということだ。
そんな出で立ちで、彼女は立っていた。アイドル顔負けの様相と佇まいで。しかし様子がおかしい。ここは天下の往来。辺りは人、人、人であふれかえっているから、いずれどかなければならない。いや、というかどくべきだ。なのにどかないのは彼女は通行人
が避けて通るくらいのお偉い様なのか?これからが愉しみな新進気鋭のアイドルなのか?ただの傲慢な性格なのか?はたまたとてつもなくヤバい変質者か犯罪者か。前者だったら見てみたい……あっ。これは作者と読者と彼女のファンの願望である。それはさておき、さて……今、まさに人が彼女の前を通り過ぎようとしている。これでは、はたまたどちらかがどかないとぶつかってしまう、大変な事が起きてしまう。あっ!危ないー!そう思った矢先、信じられないことが起こった。通行人は彼女の身体をすり抜けたのである。何事もなかったかのように。彼女の名前は「鶴真星香」。この世の者ではない異界の存在……そう。霊である。
2
星香は、何をするでもなくただ平然とその場に立ち尽くしていた。そしてひとり言にしては少し大きすぎるのではないかと思えるくらいの音量でつぶやいた。
「遅いな。まだかな?もうすぐだと思うんだけどな」
何人もの人間が当たり前のように星香の身体を通り抜けていく。そうして過ぎ去っていく時間は果たしてどれくらい経っただろうか。人数にして、二十二、三くらいといったところで。星香の顔が破顔した。星香の視線の先、前方五十メートル先に男性が歩いてくる。星香は笑顔を崩さず、彼に近付いてこう言った。
「こんにちは。わたしだよ。わかる?」
彼女の笑顔はむなしく彼をスルーした。いぶかってから男性の眼は星香の眼からそれて、そのまま通り過ぎていった。
「やっぱ。駄目だったか。ふー。無理もない。ってか甘くない」
時は、さかのぼる。
3
二〇一九年七月六日
閑静な住宅街の一角によく見られるなんの変哲もない公園がある。遊具が二つとベンチが二つ。その公園を取り巻く広大な広葉樹林。その広葉樹林の奥に高々とそびえ建つ塔が見える。塔のてっぺんには古びた時計があり静かにその時を知らせている。公園の中央は広場になっており、テーブルが二つと椅子が四脚ある。
―時計の鐘がなる。鐘は黄金色でその輝きはこうごうしい。まるで聞くものをどこかの世界にいざなうかのように、そのねの音にはまろやかな広がりはある。時刻は―文字盤の上を長針と短針が、グルグルと回っている。止まることはない―、不明であった。
どこか格式たる室内。奥まった場所に柱が四本。その中を段差が二段あり一番高いところに玉座が置かれている。今は誰もいない。天幕が吊り下げられており、その玉座を覆うようにしている。
扉を開けた星香は、室内に入り、いそいそと、歩いてきて玉座の前、二段下にその身をひざまづかせる。その表情はどこかこわばっていてどこか不安が窺い知れる。
そのとき、空気が一新した。王が入ってきたのである。玉座に座る。星香はひざまづいていた身体を平伏にする。
「苦しくない。楽にせよ。おもてをあげよ」
王は、威厳ある声色でそう言う。ははー、と、顔を上げた星香は、王と呼ばれる者の顔をまじまじと見る。
白いあごひげを三十センチくらいであろうか。伸ばしている。それは鼻の下、耳の下まであり、唇を覆っている。同じく白い頭髪はオールバークになっており、おでこはむき出し。そのせいか年齢は不詳だが、さらに年老いて見える。
この者、霊界王である。そしてここは霊界であった。
霊界王と呼ばれるその老人が星香にこう述べた。
「指令。そのほうに課す。人間界において、達するべきは、恋愛エネルギーの確保である。しかるべき量をチャージ次第、霊界に帰することを命じる。それでは幸運を祈る」
再び、ははー、としぶしぶ星香は顔には出さず了承する。拒否権など彼女にはもちろんない。
そして、霊界王は胸元から厚手の皮の手帳を取り出し、星香に手渡す。そして玉座の間から去る。すぐに星香は、立ち上がり、先程のことを、ふと思い出す。
霊界王は、……おもてをあげよ、と、言葉が、の続きを待つ間の、霊界王の顔を見た星香は悪寒が背中に走った。なぜならあのとき、霊界王の顔にはいやな含み笑いがあったからである。
4
星香は心の中で言う。わたしに課せられた使命は……、ふー。ため息をついて星香は続ける。荷が重い。先が思いやられる。
星香はステッキを取り出した。これは星香専用のステッキで、霊界エネルギーを集める指令をつかさどる者はそれぞれ専属のアイテムを持っている。霊宝器と呼ばれるそれは剣であったり斧であったり弓であったりほうきであったり霊によって様々である。霊界王いわく、その霊の個性に合わせて持たせている、とのことである。
星香のそれ―ステッキは、「パラソルステッキ」と呼ばれるもので洋傘のように広がることからその名がついた。
霊宝器の一つ。霊界王より星香に授けられる。伸縮自在。操る者の能力値が上位であれば、その形をさまざまなものにすることも可能―剣であったり、何か物や物体であったり、あくまで見かけだけの模写で性能まではまねできない。例えば洗濯機やタブレットなど。さらに最上位となると、人間や動物にも変形させることができる。ただし言葉や泣き声は喋れないため、ほぼ人形と同じ。
唱えることで、消し去る―霊界の宝物庫に安置する―ことも、目の前に姿を現すこともできる。
パラソルステッキが開く。それは七色に光輝いて、星香の身体が浮き上がった。そしてそのまま上空をさ迷う、さ迷う、縦横無尽にさ迷う―。
夕暮れ時の中学校。男女の一組が、教室の隅の窓際に立っている。そのあいだに微妙な距離感があることはいなめない。星香は上空から近付き耳を傾ける。
「ねえ今、つきあってる人っている?」
女がこたえる。
「うん。いるよ」
星香はおもむろにつぶやいた。
「チャージ」
星香は、再び夜空をさ迷う、さ迷う、縦横無尽にさ迷う―。
時刻は既に夜を迎えていた。ビルの中のファミレス。テーブル席に向かい合って座る若い男女がいる。星香は近付き聞き耳を立てる。女が、いそいそと言った。
「こないだの返事、聞かせてくれるかな」
「ごめん。真剣に色々考えたんだけど……やっぱ無理」
男女の仲に気まずい空気が流れた。星香はそのことには意も解さず淡々とつぶやく。
「チャージ」
また星香は、上空をさ迷う、さ迷う、縦横無尽にさ迷う。
星香は、半月の夜空を飛行しながら思う。感じる。感じる。近くにいるな。ここは、どこなのだ。神奈川県にある川崎市。うむ。星香はパラソルステッキを振りかざす。
「行きしさ迷い歩き、たまもえ。巡りめく、恋のロンドを。彼の名は将也ー、お前に憑依して進ぜよう。かかめソるシア、ンザンテ。ラランしんしんかんじたんらー。素敵な夏を送りたもえー……パラソルステッキ!」
星香の姿がこつぜんと消えた。そこには、たんたんと歩く男の姿がただあるのみだった―。
夜の時はその闇を、より深くしていた。
「げげっ。まだ恋愛未満、ってか始まってもないし―どうしよう、マジか!」
八畳はあるかというような和室。打毬の図の描かれた「大宋屏風四帖(たいそうのびょうぶよんじょう」で囲まれている。その二段高くなった中央に女性が座している。その二段下で男性は、神妙な面持ちで同じく座している。女性は黒紗の面衣をおろし、その表情は窺い知れない。男性はスーツ姿で、上下で色と素材を変えており、洒落ている。
男性は、突然立ち上がる―。
目の前の女性にしっかりと向き直る。そして襟を正す。それから色を正す。
「七、六、十七。これは、すごい体験したから。おれの中で多分、生涯で、すごいことで、風で、飛ばされそうになったから、体の自由がきかなくて、十二番線、リターン。四番線リターン。十五番線リターン、運転の影響で。運転を見合わしております。情報が錯綜したリターン。誰か助けてリターン。最初四番線で横浜行くって話だったのに、動かなくなって、次に十四番線が動き出すって言われて。みんな一斉に走り出して、中には五十歳オーバーのおばさんもいて、ハイパーでアイパーで一瞬みんなで百メートル走ってる感じになって、しかもなんか早いの。おれ!毎日こう見えて、特訓しててだから、体力には自信があるのだけどついていけなくて。早いの!……あっ抜いた早いの!あ、抜かれた。おばさん超早いの!ボルトー。十二番線動き出しません。話違うじゃん。リオデジャネイロオリンピックの感動と興奮を返せーみたいな」
男性は嘆息をついた。何か自分をいましめるようにも見える。「ピ、ピ、ピ、二十三、時、〇一分を回りました。ピ、ピ」
このとき、星香は、男性の心の中で思う。
ここで、将也の話を聞いて下さっているあなたに。わたしが、川原将也に憑依していることが、あなたにわかりやすく説明できるように。その人間の、心のダメージが百パーセントに達した場合イコール失恋までの間が、わたしの憑依の制限時間、言わばタイムリミットとなります。……今、既に半分。五十パーセント、彼は傷ついています、……早いな、と。
男性はまだ、目の前の女性に向かって喋っている。女性は話に飽きてはいないのだろうか?その表情はショールのせいで伺い知ることはできない。
「リサーチ。リサーチってわかります?事前準備。何でもかんでもこれ大事。就活時代から決め込んでること。お偉い先生が言ってて、『汗かいて自分の足で体感することが大事なんだ』って。それ感銘受けて。駅降りて、自分の目と足で探す。これ大事。キーポイント。とっても。だって今、アプリ。インターネット。スマフォ。なんでもクリーンヒットできちゃう。あ!検索とか閲覧とかいう意味なんだけど。それで、歩き回ってついに見つけて。めぼしき金指家を。「これだ」みたいな神がかり的な感覚、ん、ニュアンスの方が近いか。空からなんかが自分の中に降って入ってくる感覚。あっニュアンス。青天の霹靂ー。でも、この日は、リサーチだけって決めてたから、まだ入らず、本当にまちがいないかしばらくは金指家の回りをぐるぐる周回してたんです。そうやって周回しながら、頭の中で、本当にこの金指家で大丈夫なのか?間違いないのか?本当に?なのか。別の金指家だったときのショックから立ち直れるのか。ひきずらないかしばらく……なんてことを考えて、周回してたら、金指家に入っていく女性の姿があって、あ美人だ。多分、生徒だ。もう間違いないってなって。来週行くぞっ!てようやく決心が固まったんです、ここで。ついに。でもさっきも話しましたけど、翌週は台風の影響で行けず、しかたなくあきらめて翌週になり……。二週間越しに、ようやく行ったんです。金指家に」
ここで、一旦この話のワンセンテンスが長くて支離滅裂な風変わりな男を紹介しよう。男の名は「川原将也」といった。ちなみに年は二十七歳である。容姿については、また別の機会に……。なぜなら著者までその文章が長くなりそうなもので……、あしからず―。
七月十三日
「よし、ついにきたぞ。ここから始めるんだ。新しい出会いの第一歩を」
男は意気揚々と虚空に向かってほえた。男は将也であった。将也は今、家庭教師のアルバイトをしようとしている。彼は、東京大学の高学歴の持ち主である。だから「カテキョウ」の依頼が母校の先生からつてであった。恩師は、優秀な男だしお前なら自信を持って推薦できると思ってな。まあ、つまりはそういうことだ、と、何度も咳払いしながら言われ、将也は、ああ、そういうことか、と、得心する。っていうかあんたもそれなりの仲介手数料、がっぽりもらってるんでしょ。がめつい親父だ、ったく!と、そのやりとりを、将也は昨日のことのように覚えている。
―1時間程の授業のあと。
応接間には、テーブルが二つと椅子が四脚ある。テーブルの上には、飲みものが三つとフルーツの盛り合わせが、皿に載せられ置いてある。アップルマンゴー、メロン、パイナップル、キュウイ、グレープフルーツ色違いのピンクも。さらに眼をこらす。バナナ、白桃、巨峰、種類の違うマスカット。そしてイチゴ。見るからに高級そうで、都内の有名なフルーツパーラーで買ったものだろうかと、おおよその想像がついた。
てもちぶさたにしばらくそれらを見ていたら、目の前の貴婦人が、どうぞ、遠慮せずにお食べになられて、と言った。将也はそれを聞いて、どうも、それじゃ、遠慮なくいただきます、と言った。そう言って将也は、目の前のフルーツの中からイチゴを手にした。それは将也の好物だった。手に取り口に含んだ果実は香ばしく、なんともいえずジューシーで、将也の顔は思わずほころんだ。
その表情を見てとってか、貴婦人は、よろしければ、そのお隣りのイチゴもどうぞ、と言った。
んっ?と将也は少しいぶかりながらも、先程取ったイチゴと寄り添うようにして置いてあるイチゴを手に取る。この場合遠慮はかえって失礼になると思ったからだ。
口に含む。わずかに味が違った。それは、とちおとめで、その前のものは、あまおうだった。ここまで配慮できるものなのか?将也はそのことに感服して、心の中で一人平伏した。
そして今。
「金指千春」とその母、「奏子」が、椅子に座っている。将也もそこに対面するように座っていた。奏子が食い入るように履歴書を見ている。そして将也にその両眼を向けた。
「東京大学卒業。……名門ですね。川原さん」
と、言ったその眼に、憂いをおびていることを将也は、見逃さなかった。再びその下の口が上下に開く。そこだけ見れば奇怪だ。
「そして現在は、誰もが知る大手一部上場企業に従事。……ご立派ですわね」
「ありがとうございます」
何が言いたいのかわからない質問の意図に将也は、額からの汗と背中の悪寒があったことを認識した。
「まあ、そう緊張ならさらずにどうぞ召し上がってください」
将也は、言葉通りに目の前の紅茶に手を差し伸べる。ソーサーとカップがあたらず、音は鳴らなかった。そのことに安堵し、口に一口含む。味は、……ダージリンティーだった。でも、……この分だとフルーツはとてもじゃないが、喉を通りそうにない。少なくとも咀嚼にいつもの三倍から四倍はかかりそうだった。カップをソーサーに戻して、将也はそうもの思いに耽った。それにしても、と奏子の声が聞こえて、再び顔をあげて視線を声の主に戻す。
「やっていけるのかしら?掛け持ちだなんて」
「マミー。今は副業というのよ。ねえ、川原さん?」
「はあー」
千春にそう言われて、将也は溜飲を飲んだ。やはり緊張を隠せない。それは、副業であるということ。財閥であるということ。そのどちらの、でもあった。
「まあ、何にせよ、わたくしとしましては、これ以上言うことはありません。結果さえ出してくださえさえすれば……」
言葉が切れたが、ためがあるようだ。将也は黙ってこれを待つ。
「副業していようと、陰で貴方が何をしていようと」
将也はこの言葉を聞いてさすがに間髪入れずこたえる。
「あのそれはどういった意味でしょうか?」
「言葉通りの意味ですよ。気に障られたのなら失礼」
奏子はそうは言っても詫びているような表情は微塵も見せない。将也は胸の奥深くに少しいらだちを抱いた。
「よろしくお願いしますよ、将也さん。教授からの推薦ということで貴方を雇ったのですから。期待していますよ」
「もちろんです」
奏子の言葉にこのときばかりは、将也は自信を持ってこたえたことはいうまでもない。
帰り道、将也は達成感でしてやったりであった。そのとき将也のスマートフォンが着信を伝えた。着信表示を見る。奏子からだった。
「もしもし。川原ですが……」
「金指です」
「はい、金指さん。先程はどうも」
「今日はありがとうございました」
「いいえ。とんでもない……」
次の言葉を待ったがなかなか出てこない。微妙な間があったので、将也はすぐに言葉をついだ。
「それでいったいどういうご用件で?」
「実は大変申し訳にくいのですが……」
「はあ、……」
「貴方の家庭教師の任、解任します」
「えっ、そんな?」
「心配しなくても、今日の分のお給料はお支払いしますから」
「いえ、そういうことを言いたいのではなくてですね」
「……」
こたえはない。将也は続ける。
「納得できません。俺にも家庭教師としてのプライドがある。リベンジさせて下さい」
この言葉を聞いて奏子はようやく口を開いた。
「ならば、次のテストで、結果を残せれば考えるわ」
「わかりました」
電話が切れる。将也は、空を仰いだ。暗雲立ち込める空。それは雨雲だった。いったい何が? 陰で貴方が何をしていようと、あのとき奏子は確かそう言っていた。あれは、もしやこのことと何か関係があるのだろうか?
将也のいだくいちまつの不安。そのことに対する解決策は今のところどこにもなかった―。
第二章
【本文】
二
電車の車内のある一車両。男女が座っている。空席などもある。みな普段着で、確かに通勤ラッシュの時間帯ではなかったが、なぜか外回りの者すらいないので、何か作為的なように見えるその光景が、やはり何かものめずらしくも見える。
車内を動き回る黒い影が二つある。時刻は日中で夜陰には早く、座る人たちの影にしてはその動きは奇怪だ。自然現象というより人為的な動きに近い。よく眼を凝らせばそれは、物体を伴っていて、人の姿、形をしているのだとわかる。―と、いっても、車内に座っている人たちにはそれら異妖なものが見えていない。それは、決してスマートフォンに夢中になっているからでも他人に無関心だからというわけではない。
―見えないのである。生きとし生けるもの全て。少なくとも今、車内にいる人たちには……。
影の一つが車内にいる人間の一人一人を見定める行動を起こしている。反対側でも影が同じようにしている。
将也、電車のドア側に寄りかかっている形。新聞を読んでいる。
「A署 事件放置か 送検せず時効成立
警視庁は1日、A署の刑事1課が1995~2007年に取り扱った計103件にも及ぶ事件を、東京地検に送検せず放置していたと発表した。全てすでに時効は成立となっている。警視庁は、『異動期の引き継ぎの不徹底が最大の原因である』と説明、歴代の刑事1課長を含む関係者9人を徹底指導したが、懲戒処分は行わない方針としている。」
将也、新聞を下げ、一息つく。えり。菜の実。……元気だろうか。会いたいな。今さらあわす顔は、これっぽっちもないのだけれど。……一目でいい。会いたい。遠くからでいいから、元気でやっているのか知りたい。……と今、心底思うよ。
将也、四駅目で降りる。入れ替わりで、別の入り口からえりが、車両に入ってくる。そして座席に座る。座ってから、周囲を見渡している。スマートフォンは持っているがそれよりも彼女は人間観察が趣味だった。特に同世代の女性に対する。
わたしは、右ななめ前方のドア側のママと子ども二人に視線を向けている。ママはわたしの視線に気づいているはずなのになぜかわたしと視線を合わせようとしてない。さっこんの世の中だ。いろいろあるだろう。わたしは男性ではないが、男性を想定しているのかもしれないしそうでないのかもしれない。どちらにせよ同じことのように思える。
先日、新聞か週刊誌か覚えていないが、「わたしの子どもにむやみにさわらないで」といった読者からの投稿記事を読んでわたしは、正直びっくりしたのを覚えている。三歳か四歳の女の子のママが、「かわいいね」と言って頭をなでる七十代とおぼしい男性に不快感をあらわにしていたのだ。きたない手でとでもいいたいのか。素性のしれない訳のわからない男だからなのか。そこまでは言及されていなかったが、多分言いたいことはそういうことなのだろう。
そう。そういう時代なのだ。もしかしたら、わたしが、道ばたで、かわいい子どもを見て、かわいいねと声をかけ、頭をなでたり、かわいいペットを散歩している光景を見て、近づいて、そのペットに、むやみにさわることすら投稿者のママのような気持ちが一般的に浸透していてできないのかもしれない。
二歳か三歳くらいの男と視線が合った。この男のママはどうなのだろうか。やはり勝手にさわったりなどしたら、怒りをあらわにするだろうか。声に出さなくても、表情で不快感を示すだろうか。わからないが、わたしは、今、思考回路は、そちらにではなく、うらやましいなという気持ちにいっている。 ……うらやましいな。今は、午後の三時過ぎくらいだから、これから、家路に向かい、近所のスーパーで夕食の買い物をして帰る。夕食の支度を終えた辺りで、だんなさんが帰ってくる。家族四人で、囲む。そのような風景。きっとだんなさんのかせぎがいいのだろう。ママさんは、流行のファッションに身を包んでいるし、二人の子ども。お姉ちゃんも弟も、おそろいのキャラクターのTシャツを着て、弟は帽子をかぶり、姉は、変わったデザインのスカートをはいている。そこに、二人ともおしゃれなスニーカーが決めてとなって、見事なコーディネートをかもしだしている。さすがだ。ママさんは、なにか、そういう関係のお仕事をされているのだろうか。わからないが。
わたしは、今思う。うらやましい。なぜ、わたしには、あの母親のような生活がないのだろう。なぜわたしにはないのだろう。
理由は自分でもわかっている。わたしは……男性不信なのだ。三年前、婚約した男性から、突然、解消を言い渡された。……それから、わたしは心のどこかで男性を信じることができない。日本の男性、全てが川原将也みたいな人じゃない。中には、いい人だっていっぱいいる。それがわかっているのに、一歩すら踏み出せないでいる。
……わたしは大学一年のとき、彼と知り合った。同じサークルだったから親しくしていくうち、自然と交際が始まった。それから彼が姿を消すまでの六年間わたしたちはつきあってきた。
―ああ、わたしは貴重な九年間を無駄にしてしまった。今、本当にそう思い始めている。許せない。忘れようとしても忘れられない。どこかにしこりが残ってしまう。当時のことを考えると怒りが生じ始める。消えないわだかまりとなってわたしの心を苦しめる。
しばらく、うつろな眼で家族を見ているえり。二つの影はえりに的をしぼり、えりの側に集まってくる。
「見つけた」
それは女の声だった。声色に笑いを帯びている。
「おれも、見つけた」
今度は男の声だった。
「邪念や心残りや不快感。ついに見つけたぞ。その気持ち我が心とシンクロさせるかっこうの糧となる。もらうぞ、その心。我とともに、その気持ち増幅させるのだ。喜べ女。いっときの至福を味あわせて進ぜよう」
「おれもだ」
車内に暗黒の風が吹きすさぶ。それは二人を取り巻いていく。
彼らは邪心。邪心には邪心王の加護があり、それは、離れていても、風となって、彼らの力を引き出し、―ときには守る。
女が気合を入れた。彼女を取り巻いていた漆黒の風が、体内に入っていく。女の顔がきょうきに満ちた。
「そこにいでたちるしっぷうのごとき闇風よ。イカレイカレス、アンタイレ。ムムンざれざれくらんたんらー。二度と抜け出せぬうらみつらみの迷宮へ、いざなえたもえー」
女も目の前の女も微動だにしない。まるで時が止まったかのようだ。
「何故だ?いったいどうして」
女邪心の焦りに男邪心も動揺を隠せない。―!そのときだった。
邪心の女の身体から漆黒の風が出る。出たそれは渦巻きを巻いてハリケーンとなってからその人でいうずがい骨の辺りに顔を作った。輪郭のない眼と口だけだった。
「まて」
開いた口の中は空洞だった。
ははー、と女の邪心はひざまづく。男の邪心もこれにつづく。
「われこそは『邪心王3神』の一人『ルタイ』なり」
「いったい何があったのでしょう?」
女邪心が言えば、男邪心もこれにつづく。
「どうしたというのです?なんなんです?これはいったい」
「……どうやら、完全体ではないようだ」
「といいますと?」
女はありのままの疑問をぶつける。
「まだ、この女の心の奥底に希望、信じる心みたいなものが残っている。そいつが邪魔して憑依できぬのだ」
男邪心はとまどって。
「その言葉きいただけで怖い。気分が胸糞が悪くなってくる」
男はうなされて。
「助けてー!聞きたくないよ。誰か助けて。助けてくれ!助けてくれ」
あわただしくなる場と周囲の空気―。
「じゃあ、撤退するか。別の人間を探そう」
落ち着きを取り戻した男邪心にルタイは言う。
「まあ、まて。見たところゆがんでいる。信念みたいなものが、不安定になっているんだ。だから、植えつけておいた。誘惑の種子を。なにかのふとしたきっかけで、この信念は揺らぐ。その時こそ、ねづいてやるのだ。我ら怨念の心を」
「ちょ、ちょっとまってください。それじゃ、どうなるかわからないってことじゃないですか」
「そう。こちらに転ばない可能性もある」
ルタイの線のような両眼が上に寄った。
「なんだ。じゃあ無駄足ってことか。期待して損した。さあ他、当たろう」
コウモト、とやさしく呼びかけ、コウモトは身体をピクリとさせる。男邪心の名は生前「甲本 正」と言った。ルタイは話し出す。
「どうかな?人間の心とはうつろいやすいものだよ。ふとしたきっかけで思いもよらない感情が生まれて方向がぐらついていくことだってある。人間の心なんてくだらなくて安い物だよ。それは果てしなく。とてもとても果てしなくね。とにかく様子を見ようじゃないか。様子をね」
漆黒の風が渦巻きを渦巻いて高速に回転して霧散した。それを見て甲本と女邪心は車両から消えた。
三
しばらく弟君と眼を合わしていたら、お姉ちゃんが弟君にちょっかいをだし始め、弟君の視線はわたしからそれた。そして、その内、三つ目の駅で降りた。結局、母親とは一度も眼が合うことはなかった。
……もうやめようと思う。とにかく一歩ふみだそうと思う。残された人生を、わたしなりに幸せに、有意義に生きたいと思う。いい人が見つかるか、けっこんができるか。子どもをさずかるか。そして……さっきの幸せに見える、ママさんと子どもたちのような生活がおくれるかはわからないけれど……。わたしは、残された人生を幸せに生きたいと思う。そう思っている。
電車内のえりは再びそう思う。電車が駅に停車した。そこは、他私鉄との乗り換え駅でもあり、急行停車駅でもあった。車内の人たちの幾人かは降りていき、入れ替わりで幾人かの人たちが入ってくる。今度は席が全て埋まり立っている乗客で車内は埋まり、たちまち満員になってしまった。
あの家族連れの姿はなかった。どうやら、この駅で降りたようだった。気付けば発車を知らせるベルが鳴った。
アナウンスが流れた。それはしつこいくらい何度も繰り返されて不愉快だった。少なくともえりにはそう感じた。
「各駅停車をご利用の方は当駅でお乗換え下さい」
四
室内の大広間には、テーブルが二つ置いてある。そこは、映画館のようで、前面にスクリーンがあり、上空は吹き抜けのように広く高く空間が広がっている。席は、並べられた椅子が何十個と等間隔に置いてあり、それが、みすぼらしくここが、映画館ではないのだと現実に引き戻される。
菜の実がテーブルの側に立っており、菜の実に対して半円に椅子が、並べられている。菜の実は、足元のボックスケースの中から缶を取り出してテーブルの上に並べていく。缶が凸の形に並べられるのが最終形の形のようだ。
邪心が二つ室内にくる。その様相はやはり黒い。邪心はどうやら全て黒のようだ。
菜の実が、缶を並べているその側で女邪心は男邪心に話し掛ける。女邪心は名を「沢田 鴇代」。男邪心は「遠山 蒼亮」といった。
沢田が愉快そうに語り出す
「この女が皆藤菜の実。川原将也のかつての恋人の妹……。邪念や心残りや不快感があまり感じられないな。誘惑の種子を植えつけたところで憎しみを増幅できそうにない。しかたない。別の人間を当たろうか」
「まて。強い憎しみを持った人間が、二人。……ここにくる。なにやら、この女に対して強い憎しみを持っている」
「……」
沢田は様子を見守った。
「確かにくるな」
「利用しよう」
遠山は言う。
「どういう意味だ?」
「この女の憎しみを増幅させるのよ」
再び遠山。
「でもどうやって?」
「第三者の強い憎しみをうけて、いらいらしていく。むかついていく。そいつのことが、腹ただしくなって、どうしようもなくなる。強いうらみや憎しみとなって心にねづいていく。そこを狙うのよ」
「なるほど」
沢田の顔に得心が生まれる。
「器は、油がのっていたほうが、だんぜんうまい。我らの血となり肉となる」
「よしのった。策士だな、お前!」
「なーに。なんてことはない。よきょうがあったほうが本番は、がぜん愉しくなるだろう」
遠山の顔には笑みがほころぶ。
そのまま沢田と遠山 足早にその場から立ち去った。
五
菜の実は、ボックスケースを目立たないテーブルの隅に追いやる。
一仕事終えてようやく菜の実は嘆息をついた―。
菜の実は思う。見てごらんなさい、この広い会場を、吹き抜けの空間を。そして……外から見る、人工の建造物を。その周囲を取り巻く人工のアスファルトの広大な敷地を。ようやく手に入れた。逃したくない。わたしの手に入れたもの、培ってきたもの、積み重ねてきたもの、その全てがここある、失いなくない、わたしは……駆け上がるのだから。―一つ一つ―この階段を。負けるものか。わたしは絶対、のし上がってみせる!
菜の実立っていると、男たちや女たちがくる。夫婦で幼女二人を連れた家族。老夫婦。フリーター風の青年二人。中年の中国人カップル―いかにもそれは富裕層っぽい―。子どもの性別だったり、数が違ったり、片親だったりといった、それらの入れ違いの家族づれ、多数。それらの人たちで、百近くある椅子はものの見事に埋まっている。席はあと三つ四つあるかないか。開始時間にはまだ十分あるから、このイベントがいかに人気であるかがわかる。
男が来てその光景に驚くも空席を見つけて座る。座ってからの周囲の高揚と高鳴りと雰囲気に、戸惑いを隠せないでいるようだ。
場内の客それぞれ胸元にストリートのロゴタイプが入ったバッジをつけている。菜の実は、それぞれ入ってくる人間におじぎをしながらも、それらを確認することを忘れない。男が席についてから、しばらくして男が来て少しして女が来た。
―時間だった。―さあ、始めるの。わたしのスターダムへとのしあがる道を。ここではわたしが……主役だ!
菜の実は自身に集まる視線を一心に受けとめ、快感へと変える。それはものすごく爽快で心地良い。
「本日は、当社、川崎生産工場に起こし頂きまして誠にありがとうございます。わたしは本日の皆様のご案内をさせて頂く皆藤と申します。どうぞよろしくお願い致します」
一同から拍手が起こる。
「ありがとうございます。まず、皆様には当工場で生産している、ジュースの生産工程の見学をして頂くとともに、現在の形になるまでの、歴史のあり方を説明させて頂きたいと考えております。それではこちらをご覧下さい」
非の打ち所が無い、喋り方だった
菜の実が指し示すテーブルの上には、純ぶどう厳選ジュースの缶が凸の形に並べられている。菜の実は、その中の一つを手に取り、来場者に指し示す。
「当社が自信を持って、しじょうで販売している、純ぶどう厳選ジュース。こだわりには、厳選されたぶどう品種にあります。一般的に果汁ジュースは、産地が混合されて作られています。その割合は、左の数値を外国産で構成した場合。四対六や七対三。そして外国産、国産を三品種。四品種使う場合もあり、その配合は各社が市販している果汁ジュースによって様々です。わたくし共、弊社ストリートが生産している純ぶどう厳選ジュースは、そのぶどう品種の配合を三対七まで引きあげることに、とくちょうとした高品質の国産ぶどうを使用し、しかも、さらに、七割の内、全て、同一の産地を使うといったまさに画期的な大挙を実現したスーパージュースと言ってもかごんではありません。本日はぜひとも、この純ぶどう厳選ジュースの工場を見学して、頂き、また、どのような工程をへて完成に至るのかを知って頂きたく思います。又、最後には試飲の時間もご用意させて頂きました。どうぞ最後まで、お愉しみ下さいませ」
再び一同から拍手が起こる。
「それではまず第一工程からご案内させて頂きます。こちらへどうぞ」
菜の実、移動する。それに客たちも順につづく―。
あの直前に来た場慣れしてない男……将也だ。間違いない!進みゆく歩の足先の速度をゆるめずに菜の実はそのように思う。
六
とても広いレストランがある。いったい何畳あるだろうか。ざっと、見渡しても、結婚式や披露宴。芸能人の何かの会見や企業の不祥事が起きたときの謝罪会見などで使っても遜色ないであろう広さだ。レストランには土産物屋も隣接されており、そこだけは地方によく見られる店舗並みの広さでなんだかそこだけ妙な違和感がある。
―果たしてこんなに必要か?向こう側のテーブルに座る小学生くらいの女の子が、おかあさん、ぜんぜんちがうね、と和気あいあいにジュースを飲んでいる。そうか、と得心する。学校休みや連休には、ものすごい人でごった返すのだろう。そう思って、辺りを見渡すと、残りの九割のスペースがなんとも狭苦しく見えてくるから不思議だ。
菜の実がレストランに入ってくる。つづいて純ぶどう厳選ジュースが入ったコップを持って客たちが来る。将也はそれらの最後尾であった。そして置かれている椅子の一つに座る。
「それではこれより十三時三十分までの間、試飲のお時間とさせて頂きます。おかわりは一人三杯までとさせて頂きます。おかわりの際は、向かって奥の右手にあります。ジュースサーバーコーナーへ行って頂き、胸元のバッジのご提示をお願いします。この胸元のバッジがおかわり提供の目安となりますので、ご協力の程を宜しくお願い致します。空いたグラスは、あちら向かって奥の左手にあります。グラス返却ケースにお願い致します。又、時間とともに自由退出となります。次の時間帯のグループもいらっしゃいますので、早々の退出をお願い致します。尚、お帰りの際は胸元のバッジを出口のドアにありますバッジ返却ケースにおいれ下さいませ。それでは、当社が誇る純ぶどう厳選ジュースを心ゆくまでお愉しみ下さい」
と言われるやいなや、おかわりをする者やグラスを返却する者、早々に飲み終えて帰る者―出口では、併せてバッジを返却ケースに戻すことによる渋滞も起きていたり、なんだかそのことで場が騒がしかったり―で、なんだか場内は殺伐とした雰囲気が醸し出されている。それは一人客の将也にとってなんだか居心地の悪いものだった。
おかわりを求めて、一度席を立った将也は再び席に着く。同じように、飲み干したグラスを持っておかわりへと席を立つ人たち。何度もたくさんの人間がそれらを繰り返す。無造作に絶え間なく―。
なんだかざっくばらんとしている、と将也は思う。菜の実の声が聞こえて将也はその方向へと顔を振り向かせる。
七
「皆様、当社の純ぶどう厳選ジュースは愉しまれておりますでしょうか。それではここで皆様からの質問を承りたいと存じます。なにか質問はありますでしょうか?」
しーんとした間があった。
特に手をあげる者も声をあげる者もいない。
そのとき、見えない風が四方八方から吹きすさび、それらは段々と中心に集まって融合する。漆黒の、暗黒の風だった。
と、同時に沢田と遠山が姿を現した。その闇の風が、彼女らの身体に入る。きょうきの表情をもよおし、沢田は客の一人である女の側へ行く。年の頃なら二十代前半。薄幸の女性だった。
沢田は気合を入れた。
「かんぷくせよ。そこにいでたちるしっぷうのごとき闇風よ。イカレイカレス、アンタイレ。ムムンざれざれくらんたんらー。二度と抜け出せぬうらみつらみの迷宮へ、いざなえたもえー」
沢田の黒い影は薄幸の女性の中に消えた。逆に薄幸の女性の顔にきょうきが満ちる。
(さあ、チャンスだ。チャンスじゃないか。憎め)
沢田は女性の身内から、脳裏の思考回路を支配する。海馬を支配された人間にもはや抵抗する術はない。あるのは受容と共感だけだ。
「なんでも宜しいのですのよ。本当になんでもけっこうですから。どうぞ気がねなく」
きょうきの女性が、その手をあげる。
「はい。そこの方どうぞ」
菜の実に指された女はこたえる。
「具体的に出荷量を伺えますか。例えば十月なら、何缶くらい出てるんでしょうか」
一瞬場内が静まり返る。
「恐れ入ります。具体的なその月の出荷量に関しましてはおこたえできかねます」
菜の実にとまどいの色はなかった。沢田は女の脳裏を支配する。
(入社試験に落ちたのだろう。憎め)
女の憎しみが、「ぞろり」と増した。作為的な憎しみの増幅―「ぞろり」と呼ばれる―には限界がある。通常人間は三回まで。これを超えることは、その人間の精神を破壊し、その先は、
邪心の種の植え付け→芽が出る→茎への変化→葉がつく→葉が4枚→つぼみ→邪心の芽の開花=殺戮犯となる。ただし、この場合、邪心王復活のための器とはなりえない。
「そうですよね。そしたら、一年を通して、どれくらい出荷量があるんでしょうか?」
再び場内は静まる。もはや場に私語はない。
「恐れ入ります。それもなんとも……」
二度目、沢田は女の脳裏を支配する。
(なんでこいつは受かっている?えっ。なんでお前じゃないんだ。さあ、おとしいれろ)
女の憎しみが、ぞろりと増した。二回目だった。
「そうですか……。そうしたら、一年だと出荷量が落ちる月というのは?」
「……そうですね。やはり年間を通して冬は出荷量も落ちます。工場内の機械のかどう率も六割程度に落ち込みます」
(ちっ。駄目だったか)
沢田はごねた。
「なるほど。どうもありがとうございました」
女の顔からきょうきが消えた。それは沢田はいなくなったことを意味した。
「いいえ。大変恐縮です」
菜の実、全体を見渡して。
「他になにか質問はありませんか?」
別の意味で萎縮したのだろうか?特に手をあげる者も声をあげる者もいない。
横目で見ていた遠山が男の側へ行く。ち、駄目だったか、口の中でぼやく。
遠山は気合を入れてから。
「かんぷくせよ。そこにいでたちるしっぷうのごとき闇風よ。イカレイカレス、アンタイレ。ムムンざれざれくらんたんらー。二度と抜け出せぬうらみつらみの迷宮へ、いざなえたもえー」
遠山の黒い影は細面の男性客の中に消えた。逆に細面の男性の顔にきょうきが満ちる。
(遠まわしに早期退職を強制された。やぶからぼうに。憎め)
「なんでも宜しいのですのよ。本当になんでも結構ですから。どうぞ気兼ねなく」
きょうきの男が手をあげた。みながそれを一心に見る。
「はい、そこの方」
菜の実、今度は細面の男性の席と将也の席の間にくる。将也は、純ぶどう厳選ジュースを飲んだり菜の実を見たりをくり返している。しかし菜の実は、将也と視線を合わせない。
「おまたせしました。どうぞ」
近付くも菜の実は細面に威圧感を与えない。
(こいつをおとしいれろ)
細面の脳裏で遠山がほえた。ぞろりとする。
「先程の生産工程の見学のお話の中で、三対七の配合の中で三の比率、いわゆる外国産のぶどう品種が使われている訳ですが、その三の比率の中に酸味と甘味を合わせているというお話がありました」
「ええ」
菜の実は、とまどいの色は見せない。
(さあ、おとしいれるんだ。こいつはリストラされなかった社員。くやしいだろ)
再び遠山がほえる。それは怒りに近い。ぞろりも再び動く。
「それは具体的に酸味が何割で甘味が何割なんでしょうか?」
「恐れ入ります。具体的な比率に関してはおこたえできかねます」
(お前となにが違う。お前じゃなくてもよかったはずだ。違うか。さあ!おとしいれろ)
遠山の声はもはやほうこうよりも怒りだった。
「そうですよね。そしたら、その外国産の品種はどこの国とどこの国の物が使われているんでしょうか?」
「恐れ入ります。それもなんとも……」
(さあ、おとしいれろ。ぼろをさらけださせるんだ。会社の機密情報をおおやけにしてしまうんだよ。さあやれ。やってしまえ)
「そうですか……。そうしたら、その外国産の品種は、どのようにして選ばれているのですか?まさかどこでもいいという訳ではないでしょう」
と言って笑う。どちらの笑みかはわからない。
「……わたくしどもストリートの純ぶどう厳選ジュースのためだけに作られた指定栽培地で育てたぶどうを使っております。もちろん。一つの国だけでなくいくつかの国にそれはあります」
(そしたら、こいつに、会社は厳しい処罰を下すだろう。確実に首だ。ねがったりかなったりじゃないか。さあ、大衆の面前に赤っ恥をかかせるんだ、よ。さあやれ。やってしまえ)
邪心の芽の開花の一歩手前だった……。
「その指定栽培地で作られたぶどうであれば全て使うんですか?」
「いいえ。それなりの経験をつんだ目利きのプロ弊社栽培者が厳選した物のみ使用しております」
(ちっ。駄目だったか)
細面からきょうきが消えた。
「そうですよね。なるほど。どうもありがとうございました」
「いいえ。大変恐縮です」
菜の実は、細面の席から離れ、全体を見渡している。お客様一人一人の顔を。そして、あらためて、事故や問題がなかったかの確認をしている。
再び黒い影が現れた。遠山と沢田だった。
「この女から、強い信念みたいなものを感じる。決して揺らがない努力の心。不屈の闘志が。日々、積み重ねてきた情熱のまばゆい結晶が。これが心のエネルギー……」
「ああ。多分そうなんだろう」
遠山は嫌悪感をあらわにして言う。
「尊くて、気高く美しい。まるでダイヤモンドのよう」
沢田の影の色が一瞬薄れた。
「あんまり見ないほうがいい。頭がおかしくなりそうだ」
遠山はそのどちらも見ない。
「この女に憑依していなくてよかった。もし憑依していたら、その心のエネルギーで確実にどうにかなっていた」
沢田はもう菜の実を見ていない。
チッ、遠山は舌打ちをして。その音で沢田は振り返る。
「退散だ。せっかく手に入れた誘惑の種子を無駄にするところだったよ」
「いやなものを見てしまった」
沢田は同意する。
漆黒の風がきた。それは次第にハリケーンとなる。ルタイだった。その取り巻く渦の中のVが動き出した。それは彼の口だった。
「種子を植えつける別の人間を探すぞ。ネームプレートの関係者は、まだ他にもいるんだからな」
ハリケーンが霧散した。それを確認したように遠山と沢田、館内から去る。
八
菜の実、特に問題も事故もないことを確認し終えて、
「それでは皆様、本日はありがとうございました。わたくし皆藤が担当させて頂きました。失礼いたします」
去ろうとする菜の実に、声をかけ引きとめる男と女の姿がある。
「皆藤さん、なんか困らせるような質問ばかりして、どうもすみませんでした」
言って頭を下げる。
「わたしもどうもすみませんでした」
と同じく女も頭を下げる。
「そんな……どうか頭を上げて下さい。いいんですよ。わたくし、気にしてませんから。又、ぜひ工場見学いらして下さいね」
菜の実は、男と女を一瞥して笑顔を見せてから、館内の「関係者only」と書かれた扉へと去っていく。少しして居心地悪そうに、男と女、着いていた席へと戻っていく。残った客たちは、おかわりをしにいったり、空いたグラスを返却しにいったり、出口に向かったりといった、それぞれのばらばらの動きがあって。まばらであって。その中が、端から見れば何かまどろっこしくてとてつもなく愉快だ。
館内の来場者の一人が、扉へと威風堂々と過ぎ去る菜の実の後ろ姿を見て思う。
菜ノ実。……元気そうで。菜ノ実。よかった。立派になられて。……本当によかった。
―将也だった。
九
大通り沿いに面した喫茶店。チェーン店でなく個人経営なのがめずらしい。店内にはサラリーマン、OLが当たり障りなくいれば、主婦や年配者の姿もちらほら目立つ。繁盛しており経営が成り立っていると予測できる。
中央には、テーブルが二つと椅子がテーブルに対して対面に置いてある。テーブルの上には、ティーカップセットが置いてある。えりは、一つのテーブルの椅子に座っている。
えりは腕時計を見た、カルティエの文字盤が陽射しで一瞬キラリと光った。
菜の実がくる。少し辺りを見渡し、えりを発見してから。えりの席に近づき、菜の実も座る。
「えり。おまたせ」
「うん。そんなまってないから」
嘘だった。実は早く来過ぎていた。話を聞いていてもたってもいられなくなって。でもそう体裁をとりもった。
で、話ってなによ、と問いかけたものの、当の菜の実はカウンター奥の店員に向かって。あっ、すみません。アイスコーヒー下さい、と言っている。なんだか、揚げ足をとられた感じがして、いやだった。
はい。かしこまりました、と女店員は愛想よく言う。教育が行き届いている。さすがだ。繁盛するはずだ、とえりは思う。
「それでね。落ちついて聞いてよ」
「うんなに。けっこうかしこまった話な訳?」
えりの眉が自然と寄った。
「そう。だから、あのねお姉ちゃん。将也が……川原将也と会った」
「えっ?……」
えりは身体を竦める。無意識に。
「いったいどこで……」
今度は首を傾ける。故意だった。
「わたしの働いてる工場見学ツアーにいたの」
そんな、フーと心の中で呟いて、吐いた。
「それで、菜の実、あんたなんか話をしたの?」
「ううん。なにも。わたしは、気づいていないかのように素知らぬふりをしたわ」
「そう」
息を吐いた。今度は菜の実にもわかるように。
店員が、アイスコーヒーを持ってテーブルにくる。さわやかな香水の匂いがして、えりはいかがわしいと、前言を撤回した。
「おまたせいたしました」
菜の実の前にアイスコーヒーとストローを置く。伝票は、先にささったものとまとめて入れられた。一緒になるのか別になるのか。そんなどうでもいいことを考えて、えりは自分に嫌気が差した。店員去っていく。去るのをあえて眼で確かめてから菜の実はかばんから、紙を取り出し、テーブルの上に置く。菜の実、アイスコーヒーを口に含む。喉が渇いていたようにはみえない。それは自身の気持ちを落ち着かせるための行為に思えた。
「これは?」
「川原将也の電話番号。受付に同期がいてね。頼んで予約時の電話番号訊いた」
「だからってわたしにどうしろと?もう終わったことじゃない。わたしもあなたも。そうでしょ。今さら会いたくなんてない。会ったところで会話なんてないよ、もう」
「……会うべきだと思う。会ってけりをつけるの。過去にけっちゃくを。わたしも一緒に行くから。本当のことを聞くの。本当はなんだったのか。嘘ではなく本当の理由を聞くの。それを聞いて終わりにしよう。お姉ちゃん。もう終わりにするの。過去にとらわれて自分の人生をだいなしにしちゃ駄目だよ。本当のことを聞いて。納得できなくてもいい。行動をおこして。今のお姉ちゃんは心にぽっかりと穴があいていて見ていてつらい。だから、これからの人生を幸せになってほしいの。ね」
「菜の実……。ありがとう。そこまでわたしのこと、考えていてくれて。嬉しい」
「うん。がんばれ。えり。幸せになるんだよ」
「わかった。まずは、川原に。川原将也に電話をしてみるよ」
「うん。なにかあったら言ってね。当日はもちろんわたしも行くから」
「菜の実。ありがとう」
「えり。もういいってば」
「うん」
「それじゃ、そろそろ行くわ」
菜の実は伝票を見た。
「あ、わたしが払うよ」
菜の実はそういうえりの言葉に構わず伝票を取る。
「え、いいのに」
「いいから。ここはわたしに任せて」
菜の実は立ち上がる。
「もう。相変わらず忙しいんだから」
えりは苦笑いする。
えり、なにか菜の実に向かって手を合わせるしぐさをする。菜の実は、もうえりのほうを見ていない。去り際、じゃあっ、と目の前の、空気に向かって言って、そそくさとレジカウンターへと去る。
えりは会計する菜の実の姿をしばし見ていた。
十
暗い。とてつもなく。夜陰―いやそうではない。場の空気が暗いのだ。静まり返ったその時間は永遠とも取れる。
漆黒の風が折り重なって巨大な人柱を作った。ルタイだった。
「騒がせよ。狂わせよ。惑わせよ。漆黒のアンダルシアの風。さあ、怒りをくれよ。怒りを集結させよ。ここにつどえ。かの亡者ども。その闇と救いのない心が、我が3神の心、『怒り』の結集。邪心王さまの源となる。復活に向けてどうどうたる開戦ののろしをあげさせるのじゃ」
たくさんの黒い影が集まって集まって散らばってさらに散らばった。仲むつまじく見えたかのように見えたそれは、決してそうではなかったのかもしれない。
人柱が再び風となって、それらを取り巻いた。楕円の風壁となって周囲の視界との隔たりを作る。
―しばらくして、誰かが、口を開いた。それは女の声であり、男の声だった。
「のろいの言葉をかける」
女が言った。
「のろいの言葉をかける」
男が言った。そうしたかと思うと、交互に五回続いて、こだました。何度も何度も続く。それはいつ終わるともない悲鳴にすら聞き取れる。赤ん坊のぐずる声に似ている。止まらない。終わらない。なんとも絶え間なくたまらない。
連名したように連なった声はこだまのように繰り返し繰り返し反響し、響いていたが、次第にそれは収まっていき、今度は、無数に複合していた男女の声が単独になって、聞こえだす。
「うらめしい。許せる訳がない。なぜ許せるか。わたしは男にだまされた。うわきをされた。心が傷ついた。そして人生をくるわされた。うらめしい。うらめしい。うらめしい。あー」
沢田鴇代だった。
「おれはいじめられた。遺書を残し自殺した。まだ十代だった。なぜおれだったのか。おれじゃなくてもいいのではないか。クラスの日々は、なにごともなかったかのように始まっている。まるでおれはいなかったかのように。……おれはいったいなんだったのか。くやしい。くやしい。くやしくてたまらない。あー」
遠山だった。
「知り合って一ヶ月もたっていない他校の生徒。なん度か口を聞いただけの存在。なん回目かに会ったとき、ちょっとしたいざこざになって、相手はしゃくにさわり、きれた。おれだって興奮していた。後日、おれはそいつに呼びだされた。仲間がまちかまえていた。囲まれた。ぼうこうを受けた。やられるがまま、リンチされた。川に落とされ、おぼれて死んだ。手足はしばられていた。知り合ってなに回かの他校の生徒。たかがいざこざでおれは命を落とした。憎い。憎くて仕方ない。おんねんが。おんねんが募る。おれのおんねんが募る。あー」
甲本だった。
「ナいちゃダメなの。わたしはまだセイゴまもないアカんボウ。ねえナいちゃダメなの。コトバがわからないから。ツタえカタがわからないからツタえるんじゃない。オギャー。オギャー。オンギャー。アンギャー。セイリョウなんてわからないよ。コントロールなんてできないよ。なぜナグルの。アンギャー。オンギャー。オギャー。オギャー。オギャー。オギャー」
声がその内、だんだん途絶える。名羅だった。
「お腹、空いたよ」
管 音羽だった。
「そうだねわたしもお腹空いた」
その姉、五月だった。
「もっといっぱい食べたい。お姉ちゃんは大丈夫なの?」
「ううん。大丈夫じゃない。でもがまんしてる」
「わたしはがまんできないよ」
「そうだね。でもおかあさんを悲しませたくないから、そういう言葉や顔を出さないようにしてるの」
「……」
音羽しばらく黙っていたがこらえられなくなって悲しみだして。
「お姉ちゃんみたいにわたしはできないよ。わたしにもわかるよ。家にはお金がないんだよ。いっぱい。いっぱい余ってないんだよ。わたし、わかるよ、おとうさんがいないからでしょ。家には、おとうさんがいないの。だからお金がないの。いっぱい。いっぱい。ないの。どうしたらおとうさんできる?お金いっぱいになるの。ねえ。お教えて。お姉ちゃん」
「……そうね。今日は、寝て、明日、起きたら、きっとお教えてあげられる。だから今日はもう寝よう。いい子ね。♪ねんねこねこねんねこねころりや。ねんねこねこねんねこねころりや。……おかあさん。寝たわ」
「あら。いい寝顔ね。うん。きっといい夢が見られるわ。さあ。準備をして。ガムテープでふすまや窓四方を止めるの。煙がもれないように。早くして。やるわよ」
「おかあさん。……わたしまだ死にたくないよ」
「……ごめんね。……ごめんね。……本当にごめんね。もし生まれ変わることができるのなら。……幸せに……幸せになるんだよ。とってもとっても幸せになるんだよ。貧乏なんかになるんじゃないよ」
「わたし、まだ死にたくないよ。わたしまだ死にたくない。他になにか方法はないの?わたし、死にたくないよ。死にたくない。死にたくない。死にたくないんだよ。あー」
沢田鴇代は共鳴した。
「あー」
遠山は共鳴した。
「あー」
甲本は共鳴した。
「あー」
管巡子は共鳴した。
「あー」
音羽は共鳴した。
「あー」
五月は共鳴した。
「あー」
巡子はほえる。
「あー。おんねんがたまる。おんねんが募る。あつい。苦しい。助けてくれー。うらみ。うらみつらみが募っていく」
風がそれらの身内に吸収されていく。邪心たち全員が苦しみだした。意思のない束縛の世界。恐怖とおそれとかいねんのみの暗黒の世界に取り込まれる、各々。そこに救いのない。
「あー」
沢田鴇代の声。
「あー」
遠山の声。
「あー」
甲本の声。
「あー」
名羅の声。
「あー」
管音羽の声。
「あー」
管五月の声。
「あー」
巡子の声。
そして、そうしてから邪心たち男と女の全ての声と気配が消えた。
手はず通りに、邪心王さま万歳!そう言うルタイの声が、高らかに周囲にこだました。
十一
Cチーム、リーダー―霊界八賢者の一人―にこれまでその都度、大水晶で見てきたこと聞いてきた現状をありのまま報告していた星香は、ことのとどこおりにいきどおりを隠せないでいた。
何故、こうも組織というものは、一挙手一投足の行動が遅いのか。邪心たちの行動は、日に日に勢いを増していてその危険度をさらに高めているというのに、一向に動く気配・きざしがない。―と、いうより、他チームとの連携がなっていないのだ。チーム間の情報の共有が隅々まで行き届いていないから、未だ平行線。各チームは思い思いに正しいと思った道を突き進む。日ごとの操作会議では各チームのまとめた報告をリーダーや担当者が逐一、霊界王に報告。その霊界王の次の判断と指示をあおぐ、という流れでは、事態は、手遅れ。時間がかかりすぎる。遅すぎる……星香はそう思う。
―邪心たちに、大きな動きがある。
その報告を―チームのリーダーに先程終えた。今夜の捜査会議が始まるまであと一時間はある。―果たして霊界王の指示がいつになるのやら……。
星香は大水晶を覗いていた。あなたの優しさと誠意が彼女の胸に届きますように。もはやそう祈るしか術がなかった―。
十二
閑静な住宅街の一角によく見られるなんの変哲もない公園がある。遊具が二つとベンチが二つ。その公園を取り巻く広大な広葉樹林。その広葉樹林の奥に高々とそびえ建つ塔が見える。塔のてっぺんには古びた時計があり静かにその時を知らせている。
中央の広場には、なにも置かれていない。
えりが、公園に来る。そして、えりはセカンドバッグから、果物ナイフを出す。が、やはり思い留まって果物ナイフをしまう。えり、天に祈りを捧げる。
許せない。どうしても許すことができない。この渇望を、満たされぬわたしの心を、どうか。どうか癒したもえ。
えりはしばし無心でいた。
巡子が、えりの側にくる。
「女。憎いか。川原将也が憎いか」
えり、周囲を見渡す。
「誰?」
「誰でもよい。憎いかと訊いておる」
えりは、ああ、祈りが神に届いたのかと胸の内でそう思う。
「ええ。憎いわ。わたしの人生を狂わした男。川原将也が憎い」
「そうだろう。そうだろう。殺したい程、憎いのだろう。ならば、自分に正直になれ。その奥底にある、もしかしたら。ひょっとしたら。というくだらぬ感情を捨ててしまえ。憎いのだろう」
「でも、もしかしたら。ひょっとしたら。なにかとても重要な理由があったのかもしれないし……」
えりの心の奥底に光るものがあった。巡子はその言葉を聞いて、不快を隠せない。
「甘いな。よく考えてもみよ。この九年間を。お前にとっての貴重な九年間を。無駄にしてしまったのだろう。その男。川原将也のせいで」
「そう。わたしは無駄にしてしまった。貴重な九年間を。人生の大事な時期かもしれなかった大切な九年間を」
「無念だな。よし。その気持ちをくんで、特別に素敵なプレゼントを与えて進ぜよう」
巡子が笑った。その顔は醜い。しかしそれがえりにはわからない。
「プレゼント?」
「そうだ。お前が男性不信にならなければ、手に入れることができたかもしれない幸福の歴史を今、見せてあげよう」
もしかして……?えりは先程から胸の辺りで未だにつっかかっているものの正体を口に出す。
「あなたは、誰?もしかして?尊いかたなのでは」
「そう。わたしは神だ」
巡子は平然とした顔でそう言った。声だけ聞くえりは思う。なんとこうごうしいのだ、と。えりは感嘆して。
「ありがとう。神様ありがとう」
えりの双眼に、絵が写る。家の食卓で食事をしている風景。えりは、夫と二人の子供に囲まれて幸福な顔を見せている。
絵というよりそれはもはや生存しえない巨匠といわれる画家がえがいた絵画といったほうが、しっくりとくる。
えりは泣いた。
「これがわたしの手に入れられたかもしれない歴史」
「そうだ。川原将也のせいで、お前は、手に入れることができなかったのだ」
「川原……将也」
言っている一語一句の言葉と、その吐いた言葉の意味とを把握することが、シンクロがしない。口が二つあって、そこから発せられたよう。
「憎いな。憎いよな。正直になれよ。楽になれよ。もしかしたら。ひょっとしたら。そんな気持ちいらないんだよ。楽になっちまいな。憎め。ほら憎め。憎んでしまうんだよ。憎め!憎め!憎め!憎め!憎め!憎め!憎め!」
考えようとしても考えられなかった。自分の中のかすかにあった心の奥底のものが形を失くし薄れ、なくなっていくのが実感できた。それは形のない絵空事なのに―なんとも滑稽だ。
―全てがなくなった。そして痛みが残った。苦しい痛みだけがえりの総身を支配した。怒りしか残らなかった。
「うー。憎い。憎くてたまらない。川原将也が憎い」
巡子は笑って。
「完全体の誕生だ。種子が花開いたぞ。号令。全ての保管テリトリーから脱出したおんねんたちに告ぐ。ここに、誘惑の種子が開花したことを、今告げる。集まれ、亡者ども。川原将也のエネルギーで、浄化されるはずだった、我ら心のうらみ。うらみつらみ。今ここに果たそうぞ。人間界を殺戮の恐怖におとしいれようぞ」
辺りが、シンと静まり返った。木々のゆらめきさえもなかった。
巡子、気合を入れてから。
「かんぷくせよ。そこにいでたちるしっぷうのごとき闇風よ。イカレイカレス、アンタイレ。ムムンざれざれくらんたんらー。二度と抜け出せぬうらみつらみの迷宮へ、いざなえたもえー」
漆黒の風がえりと巡子を取り巻いた。激しく突風のように舞って上下に揺さぶった。それはルタイのかんきと興奮だった。
風はそのままえりに近付き吸収されるように身内に入る。えりの、ビクッとする動きが聞こえた気がした。
見れば巡子のもとに徐々に影が集う。それらは、憑依、憑依、と暗号のようにくちずさむ。ときたたずして全ての影が集まった。それはエネルギー保管庫から抜け出したもの全てを意味する。影は全部で七つあった。一堂に会して言った。
「邪心王万歳!」
影が次々とえりの身内に入っていく。もはやえりの身体に動きはなかった。それは生気のない人形。
全てが入って、静寂があった。
身内から声がする。それはルタイと七つの声との、とおぼえと共鳴だった。一つ一つ繰り返された。
「ついに手に入れたぞ。さあ憎め。川原を憎め。その憎しみの心をわたしたちとシンクロしよう」
「憎め」
「憎め」
「憎め」
「憎め」
「憎め」
「憎め」
「憎め」
さらにもう一つ声があった。それはえりの口からだった。
「このうらみはらさねば。我がうらみはらさねば。あー」
えりの心と顔にきょうきがほとばしり、かおにはきょうきがにじみでる。頭頂部には角が一本異形な形に伸びている。まっすぐでなくあんたいる、アンモナイト、かたつむりのように。
そして―両手の爪も伸びていた。尋常ではない長さに。人間のそれではない。爪先は曲をえがきその腹は赤みを帯びている。爪先が獣の持つ凶器になっていた。
えりの形相、見た目ともにそれは邪神と化した。実態を伴ったルタイの分身、人間としての、の完成であった。
―時計の鐘がなる。鐘は黄金色でその輝きはこうごうしい。まるで聞くものをどこかの世界にいざなうかのように、そのねの音にはまろやかな広がりはある。
時刻は―文字盤の上の長針と短針は、五時を指していた。
足音がした。将也だった。えりは広葉樹林の陰に隠れた。
将也はひざまづいて天に祈りを捧げる。それはえりの居た場所とは対角線にあった。
どうか。どうか彼女が幸せになりますように。
祈りを終える将也。えりは鼻で失笑した。邪心に憑りつかれたえりには心の内が読める。
えりが将也の存在に今気づいたように、将也に近づく。
将也はえりに気づいて。
「えり」
気まずい空気が二人のあいだに流れた。いろんな思いが渦巻いた。その思いの何もかもが久し振りだった。それらは複雑にからみあい、そしてちぎれた。
「・・・・・わたし、やっと自分の気持に正直になれた。もっと早くこうすべきだったのよ。三年間なんて無念だったのだろう」
「……えり」
「ねえ。お願い早く死んで。死んでほしいの。死んでしまえ」
最後は声が高らかに響いた。
「それで君の気が済むなら。でも殺してしまったら、殺人罪になってしまうから、最後はおれがおれで自分の心臓を、さすよ。傷害罪に問われる可能性はあるが殺人罪よりはよっぽどいい」
えりは意に介さない。
「わたしね。限りある人生をあなたと将也とともに必要以上に歩みたいと思っていたの。それなのに。あなたは。ねえ。人を好きになるってなに?人を思いやるってなに?愛し合うってなに?教えてよ。あの日隠してたこと、わたしに今、教えてよ。早く教えてよ」
「お金だよ」
えりは首を傾けた。
「金。金……そんな物のためにあなたは、あなたはわたしを捨てたのね」
「ああ。そうだよ」
「許せない」
今度は顔がひきつった。
「でも、えりこれだけは信じてほしい。決して君のことが嫌いになった訳じゃない。愛してた。もちろん今でも愛してる。その心に嘘はない」
「やめて」
鳥肌が立った。それで少し、愛?と考えそうになったとき、
「のろいをかける」
沢田鴇代の声だった。
えりはうなされる。それをうめきを言葉に出して。
十三
「うっあ」
「えり。どうした?」
将也が声を掛けてくる。気休めにもなりはしない。
「のろいをかける」
遠山がおいうちをかけるように言う。えりにあるのは受容と共感。それはあらがえない。あらがうことは耐え難い痛みと苦痛をともなう。
「あー。苦しい。燃え盛る炎が消えない。あなたが憎い」
「えり?」
将也、えりに近づく。えり、セカンドバッグから、果物ナイフを取り出し、近づこうとする将也の体を、果物ナイフで切りつける。将也、うろたえる。傷口を押さえる。
「さようなら。恋人を裏切った男よ。さようなら」
えりの中の迷いが断ち切れた。
えり、再び将也の体を傷つける。
かすり傷や切り傷ができる。
将也うろたえる。
「さようなら。わたしの人生をくるわした男。川原将也よ。さようなら」
えり、三度将也の体を傷つける。
別の場所にかすり傷や切り傷ができる。
将也うろたえる。
「どうせ、結ばれぬ恋だったのだから、始めからこうすればよかった。なんでもっと早く気づかなかったんだろう」
えり、もう一度将也の体を傷つける。
かすり傷や切り傷ができる。腕に同じ箇所が重なって傷口が深くなる。
将也うろたえる。
「さあ、将也。わたしが殺してあげる。人生を終わらしてあげる」
将也、えりに近づく。
「えり……そうはさせないよ。君に殺させはしない。君に罪は背負わせはしない。えり……。君は幸せになるんだ。絶対に。さあ。させ。させばいい。もっともっとさせばいい。でもとどめはささせはしない。絶対にさせない。さあ、させ。さすんだよえり。君の気の済すまでさすんだ。それがおれにできる最後のつぐないだ。生きるんだえり。幸せになるんだえり。残された人生を納得のいくまで、精一杯生きるんだ。大丈夫。君は絶対に幸せになれる。だから安心していいんだよ。えり。君は幸せになれる」
途切れず言った。言葉を挟ませ、……させなかった。
「ばかね、とことんの、心底のばかね、あなたって」
言葉通りで心はなかった。
将也、けがのため、もうろうとしながらえりに近づく。そして、えりの前でひざまづく。
「なに?なにをやっているの」
今度は心もそう思う。
「本当にすみませんでした。ごめんなさい」
まさか。あきれた。思うところがあった。
「……将也。あなたわたしのためを思って。……あの日のこともわたしのために、わたしに迷惑をかけないために、あなたは身を引いたのね」
「数千に及ぶ額を君に背負わすなんてこと。おれにはできなかったよ」
「将也……。あなたって人は……」
えり、果物ナイフを落とす。不可抗力だった。
「それならそうと正直に言ってくれれば」
えりの顔からきょうきが薄れた。
えり、将也の体に手を差し伸べようとして、邪心の花がうずいた。そして広がっていく。身体の自由が奪われる。手足の感覚がなくなる、脳の思考が、将也への思い・気持ちその全てを壊す。かいつまんでいく。むしばんでいく。音もなくとりとめもなく唐突に突然にそこはかとなく跡形もなく……。
「のろいをかける」
甲本だった。
「う」
痛かった。苦しかった。せめて言葉を……と。それすらも途切れさせる。
「のろいをかける」
巡子だった。
えりの動きが止まる。うなされるえり。
「えり!」
将也が歩み寄ってくるのが視界を捉えた。いい、いいから来ないでくれ、痛みと苦痛に支配されて言葉にならないから、手を振り払って意思表示する。しかし―これでは苦しんでいる動きにしか見えないだろう。まどろっこしかった。再び痛みと苦痛が襲う。
頼むから、わたしから離れてくれ、苦しみながらもまたしても言葉にならない思いを脳裏に描く。それがたとえ届かないとわかっていても。……頼むから、と―。
「のろいをかける」
管音羽だった。
「のろいをかける」
管五月だった。
「のろいをかける。終われない。このにくしみは終えられない。許せるものか」
管巡子だった。
「男が憎い。わたしをうらぎったあの男が憎い」
沢田鴇代だった。
「なぜおれなの。いじめる対象はなぜおれなの」
遠山蒼亮だった。
「いざこざって人を殺す程のこと?リンチして人を殺す程のこと?」
甲本正だった。
「シャベれないの。オギャーとしかイえないの。キモチをこのコトバでしかツタえられないの。でもこれからコトバをオボえていくんだよね。そしたらヨびかけることができるよね。ねえ。パパ。ママと」
名羅だった。
「お姉ちゃんわたしにだって意志はある」
管音羽だった。
「わたしにもあるよ」
管五月だった。
「わたしは生きたかった」
管音羽だった。
「わたしも生きたかった」
管五月だった。
「なのに」
管音羽だった。
「なのに」
管五月だった。
「なのになのになのに」
管音羽だった。
「おかあさん。おかあさん。どうしても駄目だったの?おかあさん」
管五月だった。
「貧乏が憎い。娘たちよ。わたしでなかったらね。許せよ。こんな手だてしか思いつかない駄目な母親を。……許せよ」
管巡子だった。
―えりの身内が、ピカーと光った。それは五光に近い。えりの顔にみるみるきょうきが満ちた。
えり、落ちている果物ナイフを拾う。そして刃先を将也の胸に向ける。
「えり。くいが残らないように」
将也は眼をつむる。どうやら覚悟を決めたようだ。それを見てえりは、刃先を今一度将也の胸に向けなおす。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
沢田だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
遠山だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
甲本だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
名羅だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
音羽だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
五月だった。
「さあ。死ね。死んでしまえばいい」
巡子だった。
「ねえ。お願い早く死んで。死んでほしいの」
最後はえりすらも言った。
「お前なんて死んでしまえ」
ルタイ、邪心七つ、同時だった。
「あなたなんて死んでしまえ」
えりも同時だった。
刃先を、将也の胸に刺すまでの、えりの、必死でとまどいながらも、刃を胸に向けて刺そうとする、間があった―。
えりは、覚悟を決め、勢いをつけて果物ナイフを上にあげる。そして眼をつむる。
十四
男が天体観測をしていた。女は悩んでいるとき夜空を見るのが趣味だった。子どもは母親との帰り道、おかあさん、と空を指差す。
ひと筋の高速の閃光が空からきた。流れ星だった。おかしい。またたきは途中で消えず、地上へと続いていく。そのまま、舞い降りて、地上まで届いた。それは将也とえりの居る場所であった。その衝撃で二人は気を失った。
十五
降りたった星香は、目の前の将也の傷だらけの姿と、そのすぐ側にナイフを持って横たわる女性の姿に衝撃を隠せない。そんな、―これは。完成している。手遅れか。いや、いちかばちか、賭けるしかない!霊界王が光臨するまえに。わたしのようになってほしくない。……生きてほしい。少なくともこの人には。考えるまもなく、言葉を発した。
「将也!駄目だ。死んだら駄目だ。恋愛をしていくって言ったじゃないか。死者の邪念よ。不快感よ。心残りの気持ちよ。その眼に焼きつけよ。これが人が人を思う気持ち。恋愛エネルギーだ!その眼にしかと焼きつけるがよい。かかめソるシア、ンザンテ。ラランしんしんかんじたんらー。素敵な秋を送りたもえー……パラソルステッキ!」
星香の姿が将也の中に消えた。
十六
将也は思う。ここはどこだろう。ああ、あの日デートした場所だと。
同じくえりは思う。ここはどこかしら、と。うん、あの日デートした場所だわ、と。
死ぬ間際の走馬灯の記憶だ、と双方思って、夢想の中にその思考を置いた。夢見心地だった。
「ねえ。えり」
「んっ」
「笑ったりなにかして驚いたりふざけあったり。そういう他愛のない気持ちって愉しかった?」
「さあ。どうだか。その感情は、わたしの感情を揺さぶったのかな?心に振動はあったのかな?」
「君の気持ちを受けとめるためにと思って、おれは君の大事な歌を途中でさえぎってしまったけれど。今度はおれがお返しをしよう」
「ええ。聞かせて。聞かせてほしいわ」
将也は、以前えりと食事をした際に見た、飲食店案内の看板を見ている。将也は、片方の人差し指を使ってお店の写真を指差す。そして順番に移動しながら歌い始める。
「♪ど、こ、に、い、こ、う、か、な。ふ、た、り、の、か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り。え、り。ま、さ、や。え、り。も、う、ひ、と、つ、お、ま、け、に、えり。えり。えり……」
今度はえりの胸に指す。そしてその指を動かしてゆっくりとハートを描く。
二人は見詰め合って笑う。
「もっと聞かせて」
そう言って、えりは将也の手を取る。二人は仲良くお店に向かって歩いていく。その手の握り方は俗にいうラブラブ握りと呼ばれるものに他ならない。
店内に入った将也とえりは、複数のいらっしゃいませ、の声の中を移動していく。二名様ご案内、こちらへどうぞ、という女性店員の声があって、将也とえりは、椅子に座る。二人の世界に浸っていて、どうやら、店員の顔を声も上の空らしい。声を出した店員は全部で五人いた。
席についた。テーブルの上にはナプキンとメニューがのっている。二人でメニューを見ながら。
将也、おもむろにテーブルの上のペーパーを取って、適当な形に千切る。
「えり」
「んっ?」
将也は、千切ったナプキンを、片方の手の中に収める。千切ったナプキンを、片方の手から片方の手に、分けながら。
「えりが、おれのこと、♪好き、……いや。おれは、えりのことが♪好き、嫌い、好き、嫌い、好き、嫌い。好き……」
「とめないわ。わたしはもうとめないわ。その歌をとめないわ」
将也、傷の痛みで眼がさえる。えりも同じように眼を開ける。
将也、体のさし傷を押さえて。えり、その将也の様を見て、手に持っている果物ナイフをいつのまにか地面に投げ捨てる。
えりの異形な姿が将也に見えた。それは星香に憑依されたことで。―救いたい。将也は心の底からそう思う。
「おれはここで終わるよ。もう終わるよ」
「まって」
「とめないよ。もう絶対にとめないし。とめることはしないから」
「聞いていてもいい?その歌が終わるまで側でずっと聞いていてもいいかな?」
「うん。いいよ。でも、一緒には行けない。その変わり、そのこれから始まる一部始終を見に行けないかな?」
「さあ、どうだか。なぜならもうわたしはあなたの知ってるえりじゃないから」
「なおしてあげるよ。だったら道しるべを立てるよ。そこに向かえば迷うことはない」
「それでも迷ったら、後戻りもできないし右にも左にも行けなくなってしまったらその時は……」
「いるよ側に。いつだって今だって」
えりは将也に近付いた。将也それを、そっと受け入れやさしく抱擁した。
「あー。心があらわれる。人が人を思う気持ち。なんと美しいのであろう」
沢田鴇代だった。
「あー。ありがとう。美しい。なんと美しいのだろう」
遠山蒼亮 だった。
「これで成仏できる。くいあらためられる」
甲本正だった。
「あー。ありがとう。わたしも心があらわれた」
名羅だった。
「いいものを見せてもらった。あー。ありがとう」
管音羽だった。
「ありがとう。おかげさまでいやな気持ちがなくなった」
管五月だった。
「本当にありがとう」
管巡子だった。
えりの身内からふつふつと蒸発したものが浮き出て次第にそれらは気体となって、えりから流れでた。白い蒸気で、ふんわりとやんわりとしたそれは楕円形で、七つあった。しばらく、えりと将也のまわりを動いたあとに上空へと消えた。そのあと、あきらかにそれらとは大きさの違う蒸気が現れて、もくもくとその場で大きくふくらんだと思ったらそのまま小さくなってどんどん小さくなって次第に消えた。最後に悲鳴のような断末魔があった。それは星香と将也だけには聞こえた。
えりはそのまま気絶したようにその場に倒れ込んだ。将也はそのさまをそっと見守っていた。あとにはただ静寂だけがその場を支配した。
えり、もうろうとしている。将也、えりの様子を見て、えりが目覚める前に、落ちている果物ナイフを拾う。そしてポケットからハンカチを取り出して、果物ナイフの刃をハンカチで拭き、果物ナイフを、えりのセカンドバッグにしまう。それからハンカチをポケットにしまい去る。
十七
えり、眼を開ける。もうろうとした意識があってから、少しして、我に返る。菜の実が来る。えりの様子を見て、訝る。
「なにがあったの?」
「わからない……」
「将也とは会ったの?」
「うん会った。でもなにがあったのか。あれは本当のことだったのかな」
えりは、セカンドバッグから果物ナイフを取り出し血のついていないことを確かめる。そして自身の両手を噛み締めるように見る。
そのしぐさをただ菜の実は見守った。
「わからない、わからないけど、……菜の実。わたし、もう。もうわたし大丈夫だよ」
「えっ」
えりの瞳の奥が光輝くのを菜の実は見た。
「恋愛をしていく。将也のことはもういいの。お金、それも莫大な、とてつもなく莫大なお金。それがわかったから。もういいの」
「えり、ふっきれったんだね?」
「うん。わたし、もう大丈夫だよ」
えりが空を仰いだ。
「それでいいんだよね、♪将也!……わたし……幸せになるよ。きっと幸せになる。将也、さようなら」
菜の実はそっとえりの両手を握り締めた。それに気付いてえりもぎゅっと握り返した。
そうしてから二人はお互いを見合った。夜風がふいた。それがとても気持ちよかった。それはまるで二人を祝福しているかのようだった。
十八
将也はベンチに座って嘆息をついた。家に帰り、ケガの手当てをして、夜風に当たりたくて近所の公園に来ていた。
「一回目の憑依で恋した人間の心の願望を一度だけかなえられるであろう。……よく、えりが、まだおれに恋してるってわかったな?」
声が将也の中で大きくまたたいてこだました。なんの憶測も脈絡もなくただ平然と。
「霊界のおきて。読んだんだ。わたしの置き土産」
将也は大きく息をはいた。
「ああ。わざと落としたんだろ。もう千切ってゴミ箱に捨ててしまったけれどな」
誰かに見られるとまずい、と思った。言わなかったが、言ってから、ああ、心の中の星香には感じ取れるだろう、と思う。
「いちかばちかの賭け。どっちに転ぶかわからなかったけど。……恋しててよかった、結果的には」
「おいおい。どうなるかわからなかったって訳か」
将也は身体をすくめる。
「うん。……」
心の中で笑いが聞こえた。
「なーんてね。冗談。わかってた。わたしも女だからね。えりさんの気持ちがわかるんだ」
「……」
将也は一瞬言葉をうしなった。それなのに……、
「でもありがとう。おかげで助かったよ」
「着ていた服もハンカチも処分して。えりさんや菜の実さんにもお別れを言わずにきてしまったけれど……よかったの?本当にこれで?」
将也は首をすくめた。
「もうお互い未来に向かっていくんだ。過去にとらわれず。おれもえりも」
「そう」
星香はそれ以上何も言わなかった。
しばらく無言の時間が流れた。夜はすでに深かった。
「将也」
夜闇を切るように星香は言った。
「んっ?」
将也は首をかしげる。
「……わたしね。初めて、原宿行って竹下通り歩いたり、渋谷のセンター街行ったり。色んな男の人から声かけられて、すごいちやほやされる言葉、言われたりしてね。わたし、うかれてた。気分高揚して、気持ち高鳴ってて……」
将也は少し待つようにした。それはあえて。
すぐに声が聞こえた。
「あさはかだった。それで、その声かけてくるたくさんの男の人の中にとてもかっこいい人がいて。ついていったんだ。そしたらね、その人が、……」
うん、とだけ将也は言った。でもそれは心の中で。そしてできるだけやさしく……。
再び声が聞こえた。かぼそかった。なんだかそれは星香らしくなかった。
「わたし、抵抗したんだけど、叫んだんだけど、……」
うん、と胸の内で言う、今度は少し、できるだけ小さな声で。
星香に、気付けば悲しみが込み上げている。それを感じ取って手を胸にそっと当ててあげた。誰のためでもない。彼女のためだけに―。
星香は、今度は嗚咽を漏らして泣き出している。将也はたちまちたまらなくなった。
将也は自分で自分を抱き締めた。
十九
「もう大丈夫です」
星香のこの言葉を聞いた菖蒲は、考えるところがある。それは、自身の弟のことだった。いじめを苦に自殺した弟。さぞかし無念だったことだろうと思う。心残りの気持ち―怨念を残して、成仏できていないのではないか、と。菖蒲は、元々霊感の強いほうではあった。だからといって、霊媒師になろうと思ったわけではなかった。できれば、別の職業になりたかった。そして人並みに……。
このような世間から不審がられ人によっては忌み嫌われ、隔離された職業などではなく。
いざなったけれど、弟の霊とは通信できなかった。というより、―少なくとも生まれ育った場所では、再会できなかったし、居所をつかめなかった。どこか別の場所にいると思っていた。それは途方もなく果てしない遠い作業のことのように思われた。一生かけても辿り着けるかどうか……。
また次の場所へとあてのない旅を―、と思っていた矢先のことであった。そして……霊界の仕組みを知って安堵した。星香の記憶の回想の中では、菖蒲の弟は邪心の中にいなかった。だから、そもそもが霊界において人間の心のエネルギーで浄化されていることだろう、と。
じつをいえば星香に求むのは、大水晶であった……。
霊界に伝わるといわれる、秘宝。それを持ったものは霊界の秘境の果てにおいて、願い事を叶えてもらえるといわれる言い伝えがあった。
菖蒲は、その話を、以前、まだ修行時代。この法を学んでいるとき、未完成であったため、防御壁を、破られ、突破されたとき、憑依された邪心の一人により知らされた。ある女子高生であったと記憶にある。
その子は、師匠の手によって、無事に成仏された。
宝は三宝あり、それぞれ香水、古代歌謡、鏡からなる霊界に伝わる伝説の秘宝。人間界の不明な場所に現存されているとされる。一つは、菖蒲が持っている。その女子高生の忘れ形見だ。
そして残り二つ。大水晶があれば、そのありかを覗くこと・知ることができるとされる。
でももういらない、というよりもはや必要ないであろう。礼も求めない。成仏しているならそれでいい。
そう思ってほっと胸をなでおろす。
―ようやく解ける。自分からは解けないこの法―反転よみがえりの禁呪縛法は、わかっていてもやはりリスクが高い。改めて解かれてよかったと、ほっと安堵する。心は晴れやかであり安らかであり気持ちよい。
そして茶を飲み一つ思考に明け暮れる。
星香が将也から離脱する方法。―それはある。わたしが持っている秘宝「鏡」を使えば。
これがあれば分身を映し出し、あたかも対象物がそこにいるかのようにごまかすことができる。
そう考えて、菖蒲は、自身の前に鏡を置いた。
二十
「やめろ!もういいよ。話さなくていいよ。もうわかったから。……ごめんな。また男のおれに憑依させて。今まで、嫌だったろうに。男なんかに憑依して苦痛だったろうに。それなのに、又三回目も憑依してくれて。おれなんかのために本当にありがとう」
「うん。いいんだ。……でもどうしよう。もしかして一生このままなのかな?それはそれで困るよね。お互い」
「やっぱリスク高すぎたよな。さてさて。考えててもしょうがない。なんか食べに行こうか?スウィーツでも」
「……」
「?」
星香からの反応がないので将也、気を使って喋り始める。できるだけ明るくしようと心に決める。
「じゅれって知ってるか。固体と液体の間どろっとしてて、サラダにかけたり、ゼリーみたいに食べたり。どう?食べたくなってきただろう?」
またしても星香からの反応がないので将也、さらに気を使って喋り始める。将也の中で何かが揺れ動き始めた。動揺したのかもしれない。とりとめのない変な、気持ちだった。
「……あのさ。もしずっとこのままだとして。お前さえよければだけど。その共存していくよ。又、一緒にせわしなく朝起きちゃって、あわただしくパン口につっこんで、コーヒー飲んで、バタバタ急いで家出て、満員電車にもみくちゃにされながら会社出勤して、昼メシは、あまりおいしくない安いだけが取り柄の社食だけど、週一回くらいは、奮発して農林水産省の中にある社食で食べよう。それにお前のために頑張って無理して月に一回くらいは丸の内のオーエルに人気のレストランの窓際の二階席で、二千円ちかくのフォーを食べてもいい。又、仕事の商談で使うホテルで千円以上するコーヒーを堪能しよう。うちに帰ったら、たまには、得意の料理を教えてほしい。又、手ほどき頼むよ。スマートフォンで、人気のアプリや最新のアプリを使ったり、動画や音楽をダウンロードして泣いたり笑ったり、感動したりを共感しよう。そうやって毎日を過ごそう。トイレやお風呂のとき、離脱はできないけど、また50メートル以内なら、体から脱け出されるんだろ?だったらまた何か衣類を渡すから、それを持って退出してくれればいい。布などは見えるから、俺に。だから星香はそれを持って見えるところにいてくれればいい。星香が離れてるのがわかるから、さ。―一日一時間半のそれぞれの無言時間、プライベートな時間は必ず守る。けんかだって又するかもしれないけど、その時は、なるべくおれが一歩ひく。あやまるから。あと、よかったら……おれの体を自由に使っていいから好きなことをやりなよ。お化粧や女物の服でおしゃれしてもいい。ちょっと恥ずかしいし、耐えられないこともあるかもしれないけど、できるだけがまんするから。だからおれの体で、できなかったことをやりなよ。後ね、スカイツリーという東京タワーに変わるあらたな電波塔が誕生したんだよ。しかも東京タワーよりもっともっと高いんだぜ。そして二〇二〇年には東京でオリンピックがあるんだよ。なあ、だから一緒に人生を愉しもうよ。おれでよかったらさ」
星香の反応をしばしまってから。
「……ねえ。聞いてる?」
しばし星香の反応をまつが、やはり星香の反応はなく。
「あ、もうー」
ごねた。
将也は意味もなく立ち上がった。たたらを踏んで、思いついたように歩いていく。
そこには青春時代の甘ずっぱいかおりがした。
二十一
「川原さん。ご気分はいかがですか?」
そう言うと川原はすぐに起きる。最初こそもうろうとしていたものの菖蒲の顔と見慣れた和室を見て意識がはっきりしたようだ。そのまま川原は、菖蒲に向かって言う。
「……ああ。そうだ。霊の記憶を回想されたんですよね」
「お話はよくわかりました。ご事情も」
「……ああ。よかった。霊媒師さん。なんとかなりませんか?霊媒師さん。どうかお願いします。どうぞ、この通りです」
と言って、川原は、菖蒲に、頭を下げる。
二人に沈黙が流れた。
その川原の姿を見ながら菖蒲は、終始疑問に思っていたことを脳裏に浮かべる。こればかりは訊かなければわからないことだと思ったから。
「川原さん」
「えっ、なんですか?」
顔をあげた川原はそう言ってわたしを見てくる。なんて真っ直ぐな眼だろうと思う。
「一つどうしてもわからないことがございます」
「どうしても、わからないこと」
「何故、川原さんは、祭りの日の日曜日のあと、警察署に行ったのですか?」
「祭りのあと、警察署に行ったのか」
「女性の、そのなんといいますか、とてもデリケートな問題を、霊は、あなたに話したんですか?」
「それは……」
とまどってから、胸の辺りをさわっている。
「話したくないなら話さなくともよいのですよ」
「……いえ。お話します。話すことで、なにか解決の糸口に繋がるのなら、それに越したことはないですから」
固唾を飲んだ。少し緊張をした。
「ゆっくり順序を立てて説明しますね。……霊界のおきてにもある通り、霊に憑依されると、それぞれの気持ちを感じ合うことができますよね。あー!霊、霊っていい加減、名前で呼びたくなってきた。でも、おれが今、霊の名前を今ここで公表するのは、筋を通していないと言いますか、おこがましいと言いますか、彼女に対して失礼な気がしますのでやめておきますね。おれなりの気遣いと言いますか。やさしさ?おれ、昔から女性と子どもにはやさしくするよう教育、しつけられてるから。それで霊の気持ちを感じて。かき氷。食べたいって気持ちを感じて夏祭りの日に。かき氷を食べたりしてて、その時なんですけど、彼女の、霊の深層の奥底の気持ちがあらわになっちゃったんですよね。好きな物を食して舌で味覚を愉しんで。胃の中にたまってお腹いっぱいの感覚を感じて。おれも詳しくはわからないけど霊界や霊のこと。でも、実体がないっていうのは暗黙の了解じゃないですか?一般教養。だから、自然な気持ちが出ちゃったんでしょうね。おれ、その気持ちを感じ取ってしまいました。秘め事です。でも大切だから。非常にデリケートな問題だから。これもおれの口からは一切口にできません。……あっ。なんだか隠し事ばかりでごめんなさい。でも、まてよ。ってことは、おれの秘め事も彼女にばれたのではないのだろうか」
動揺して一人の世界に入っている。
「まずいな。それって結構まずいことなんだよな。どうしよう」
我に返ったようだ。
「あの、ちょっとすみませんけど、失礼します」
二十二
将也、女の客間から離れる。それは、待合室と客間が隣接した前の玄関から続く渡り廊下の前だった。中庭には数々の植木と鯉が放たれた池があって、竹でできた、筒が、かたんと音をたてて、下へとさがり、中の水を池へと放つ。日本家屋に日本庭園だった。すがすがしい風が吹いた。将也はその空気とにおいを噛み締める。
将也は、一呼吸おいた。
「おい!星香。聞いてるか。一度しか言わないからよく聞いておけよ。好きだから曲げられない。この気持ち曲げられない。絶対曲げられないから。星香のこと、一生幸せにする。おれが一生守ってやるから。大好きだよ……えっ?」
気付けば視線の中に星香がいた。いったいいつの間に?いや、それよりも何で?てか離脱できたの?いろんな疑問が頭の中を錯綜する。
そんな思いをうわのそらにするように当の星香は離れた場所で将也のことを見守っている。
「将也、わたし、離脱しちゃった。あのね。……将也。わたしもあなたのことが好き」
星香、将也の側へと近づいて行く中で、霊界王が現れる。手には二つの錫杖を持っている。二人の道程のあいだに立ちはだかり、二人の行く手をさえぎる。星香は、おくしてひざまづく。将也は訳がわからず立ち往生。
「霊界において。恋する人間に憑依した場合のおきて。原則として恋をしていない人間への憑依は許されない。これをおかした場合の代償は以下の通り。一回目の憑依で恋した人間の心の願望を一度だけかなえられるであろう。尚、さらに回数をつづける場合この限りではない」
霊界王は、二人をそれぞれ見定める。
「どうやら、憑依された人間が、憑依した霊と相思相愛になったため、離脱が完了したらしい。されど、霊ナンバー八千二十一。元い、人間界においての生前時の名、鶴真星香よ。おきてを破った罪は重いぞよ。しかしながら、不穏な霊が浄化されたその方の功績、大変大儀であった。残っていた誘惑の種子も無事に浄化された霊たちから回収された。不必要な人間の命も未然に防ぐことができた。ひとえにそのほうのおかげである。よって充分情状酌量の余地がある。なにもなかった、ゼロの状態に戻すことで、穏便をはかる。よって、川原将也。鶴真星香。以上両名。この者らの記憶は、全て喪失される。以上。これは指令である」
霊界王は、間髪入れず、素早く二つの錫杖を、それぞれ二人の頭に向かって振りかざす。
二十三
「……」
何も言わない星香を見て霊界王は訝る。はて、大丈夫であろうか、と。
というのも錫杖を使ったこの術は、霊界王自身久々だったから、いささかの不安はあったのである。
が、これも、転ばぬ先の杖、だと、霊界王は自慢の髭をさすった。
「指令。そのほうに課す。人間界において、達するべきは、恋愛エネルギーの確保である。しかるべき量をチャージ次第、霊界に帰することを命じる。それでは幸運を祈る」
霊界王は、胸元から厚手の皮の手帳を取り出し、星香に手渡す。そして去る。
二十四
パラソルステッキが七色に光またたく。と同時に星香は現れ、
目の前の人形を撫でたあとで吸収する。ものの見事に吸い込まれた。跡形も残らなかった。
「終熄、ミステリアスミラードールイミテーション」
―はっとして周囲を見回す。将也の姿、形はどこにもなかった。
二十五
将也は、先程の菖蒲と話をしていた同じ場所に移動する。
目の前の菖蒲にしっかりと向き直る。そして襟を正す。それから色を正す。
将也、菖蒲に向かって。
「七、六、十七。これは、すごい体験したから。……台風の日」
これは二〇一九年七月六日から二〇一九年十月のあいだに、神奈川県川崎市高津区にある金指家及びその地域の周辺に於いて川原将也とその人物を取り巻く人間のあいだで実際に巻き起こった想像を絶する逸話である。
(了)
※この作品はフィクションです。実在の人物・事件・団体などとは一切関係ありません。