ブリーカ王国第三王子ライナーと名無しの権兵衛
この土地を治める主の住まう城の一室に、かつんかつんと駒の動く音が響き渡る。
室内では二人の男が向き合って座っている。片方の男は首に生きた狐を巻いている。チェスボードを見つめる目の瞳孔は縦に長い。髪は綺麗に整えられ、身にまとう服も一級品であるとわかる。駒を持った指先は爪の色形まで美しい。
その男と向き合っているのは、異様な恰好をしていた。まず、髪の毛があまりにボサボサだ。手入れなどしていないことが一目でわかる。無精ひげに覆われた顎元を指でさすっている。爪は伸びる限り伸ばしているのか五センチほどある爪もあれば、一方で折れたようで短い長さの爪もある。
「そういえば」
髭の男が駒を動かす。視線はチェスボードから動かず、言葉を続ける。
「ライナー王子」
狐を巻いた男――ライナーがわずかに視線を対戦相手へと向ける。その視線は交わらない。呼びかけたというのに髭の男はすぐには次の言葉を紡がなかった。チェスには興味がないのか、だんまりを決め込んでいた首元の狐が顔を上げた。その頭を撫でてやりながらライナーは次の一手に思考を巡らせる。
すると、髭の男が一人でぺらぺらと喋りだす。
「アルザーティ公国で起きた騒ぎはお耳に入っていますか? 大陸の頭脳とまで言われたアルザーティの次期当主が女に溺れる……高貴な血を引こうが、人の子ということ。爵位を取り上げ平民に落としたところで、あれほど広まった醜聞がそう簡単に消えるでしょうか。娘が残っていたのは幸いでしたねぇ。もともとは亡くなった婚約者の家に嫁ぐ予定だったのでしょう。もし婚約者が亡くなっていなかったら、今頃アルザーティ公国は大騒ぎだ。公女様がお家を継ぐのは確定でしょう。それか公女様の結婚相手ですかね。そういえば公女様の新たな婚約者はまだ決まっていませんね。一体誰になるのやら。確かアルザーティには、ライナー王子の弟君が留学されていましたねぇ」
「口を慎みなさい、ジョン・ドゥ」
声を上げたのはライナーではなかった。その首に巻き付くように肩に乗っている狐である。平然と人語をしゃべりだした狐に、ライナーも、ジョン・ドゥと呼ばれた髭の男もおどろきはしない。
この狐はただの狐ではない。この世界に存在する妖怪という生き物だった。小さい姿をしているように見えるが、人間の持たぬ数多の力を有し人より長く生きる。実際、この妖狐はライナーやジョン・ドゥよりも長く生きている。
ジョン・ドゥは肩をすくめて見せる。
「ご存知かどうか聞いただけではないですか、洲桃殿」
「馴れ馴れしく私の名を呼ばないでいただけますか」
洲桃は冷たい瞳でジョン・ドゥを見る。普通の人間であれば震え上がるような視線だったが、ジョン・ドゥはむしろ楽しげに口角を釣り上げてみせた。
一人と一匹の間で静かに火花が散ろうとしている。その瞬間、
「チェックメイト」
落ち着いたライナーの声が部屋に響いた。眼前のチェスボードの行方を完全に忘れていたジョン・ドゥは慌ててボード上を見る。確かに、ライナーの宣言通りジョン・ドゥの負けだ。片手で額をたたき背もたれに倒れこみながら天井を見上げる。
「ッカァー! やられましたねぇ。さすがの腕前ですなぁ」
ライナーは微笑を浮かべている。さっと立ち上がると首元から洲桃が飛び降りた。窓際へと背中で腕を組みながら歩いてゆくその姿は優雅そのもの。ジョン・ドゥとの組み合わせは、あまりに異常なものといえた。
「それで。何かご存知では?」
「調べるまでもなくあなたの耳には入るでしょう」
「いやいやいや。信用できない面がある人間の情報より、当事者と関わりがある者の話のほうが信頼でいるではありませんか」
「おや、私が貴方にウソをつく可能性はあるではないですか」
ライナーは形の良い眉を吊り上げながらおかしそうに笑った。
「ノーコメント、ということで」
「そりゃあありませんよ。ブリーカにとってはどうでも良いことかも知れませんがね、我々商売人には重要な話なんですから」
「商売人? 胡散臭い虚言吐きの間違いでしょう」
「売っているのが物なのか情報なのかの違いですよ、洲桃殿」
「だから名を呼ぶなというのに……」
「ねえライナー王子。つい先日王都からお戻りになった訳ですから何かしらの話ぐらい聞いているのでは?」
「そうですねえ。ジョン、わが国の王族のメンバーを貴方は全て言えます?」
「そりゃあもちろんでしょう。ブリーカ王国はここらじゃ最も有力国ですからね。まずは国王と王妃のお二人。それから第一子であらせられるエーデルラント王女。その夫の」
「ああ継承権のない人間はいいですよ」
「となりますと、お次は王太子のトルステン殿下。その息子のヘンドリック王子。ラファエル王子にその娘ジャスミン王女とラリッサ王女。アントワネット王女は嫁がれておりますが、一応継承権はお持ちでしたね。それから、われらがライナー王子」
芝居がかった様子でライナーを手で指すジョン・ドゥに、ライナーも微笑を返す。洲桃は唾でも吐き捨てそうに顔をゆがめた。獣の姿で器用なことだ。
「そこからはシュケルゼン王子、スメイラ王女、ウェンケ王女、ポリーナ王女、ジュゼッペ王子、ヴァルデマー王子、ギュンター王子、クラリッサ王女、オグザン王子、ニコライ王子、アンネカトリン王女、ティエモ王子。全部で二十二名でしたか」
「それが、二十一になるのですよ」
窓を眺めたまま、ライナーが言う。ジョン・ドゥが目の色を変えた。
「それは、だれかがアルザーティ公女に婿入りするという意味ですか。誰です。現在未婚の王子で最年長なのはシュケルゼン王子ですが――ああ、最初っからそういう目的の留学だった訳ですか!」
ジョン・ドゥはおもいきり膝を打った。洲桃は呆れたとばかりに頭を振る。この名無しの男を、洲桃は好いていなかった。なぜ主たるこの男と付き合いを重ねるのかさっぱりわからない。確かに頭は回るがライナーに忠誠を誓っている訳でもない根無し草、その上身なりも貧しく不敬罪で首を飛ばされてもおかしくはない態度ばかりをとる。
笑みを浮かべているジョン・ドゥは、恐らく今手に入れた情報をどう売って歩くか考えているのだろう。窓の外から庭を見下ろしていたライナーは、庭に妻がいることに気が付いた。結婚して、五年。未だ子供はいないが夫婦仲は良好だ。
「この後妻と茶会をしますが、ジョン、食べていきませんか。妻の手製……ではありませんが、気に入りの菓子を食べるつもりなんですよ」
「…………いいえ、ご遠慮しますわ」
暫く口を閉じてから、そうジョン・ドゥは返事をした。不敬と切って捨てられてもおかしくはない態度だが、ライナーは気にせずそうですか、とだけ答えた。
ジョン・ドゥが去っていくのを確認してから、洲桃はもう何度も何度も繰り返している疑問を、主に問うた。ライナーは妻との茶会の場に行くべく歩を進める。
「ライナー様、あの男のどこが良いのです?」
「どこ、とは難しい。彼には良いところが沢山あるからな」
「どこが!」
洲桃は不機嫌そうに鼻を鳴らした。その鼻先を掻いてやって、ご機嫌取りをしながら妻の待つサロンへ通じるドアの前に立つ。使用人たちが主人の来訪を察知して、ドアを開いた。
サロンに入るライナーを、妻ヒルダが出迎えてくれた。
「あら、名無しさんはもう帰ってしまわれたの?」
「ああ。どうにも彼は恥ずかしがり屋でね」
ライナーの肩から飛び降りた洲桃はその言葉を聞いて尾を膨らませた。
「まさか! 信じてはなりませんよ、奥様。あの根無し草はそんな魂ではございませんよぅ」
「洲桃。少し言葉が荒くなっているな。気を付けないか」
「あの男と会ったせいですよお!」
洲桃がそういうとライナーとヒルダは揃って笑った。
温かい陽射しの差し込むサロンで、夫婦は穏やかな時間を過ごした。
「そういえばヒルダ。もうすぐお義母様の誕生日ではなかったかな。もうプレゼントは用意したのかい」
「はい。お義母様にはブローチを用意しましたわ。……あの、ライナー様」
「……嗚呼」
僅かに口ごもった妻を見て、理由に思考を巡らせたライナーは納得したように声を上げた。迫っているのは妻の義母の誕生日だけではなかった。もう一つ、ヒルダにとっては大事な日が迫ってきている。
「そうか。君の本当のご両親の命日も、もうすぐだったね」
「はい。また、花を届けに参りたいのです。よろしいでしょうか」
「もちろんだとも。一等良い花を用意してあげなさい」
「はい」
夫婦がそうして誕生日を祝うためと墓参りの予定を話し合っているのを、狐の姿をした洲桃だけが聞いていた。
◆
「助かったぜジョン・ドゥ!」
不揃いの出っ歯を晒す男がそう叫んで、笑顔で出て行く。それを見送りもせずジョン・ドゥは手持ちの金を見た。先ほど出っ歯男に教えた情報の引き換えでいただいた金だ。
「さて、少し遠出でもするかなァ」
ライナーから仕入れた情報は、この町ではあまり使い勝手がよくはない。アルザーティ公国などと関わりのある土地でなければならないだろう。既に今日は空が赤らみ始めていた。今日の夜にでも荷物を準備して、明日の朝一で出ることにしようと心の中で予定を決める。
立ち上がり、歩き出してすぐのこと。ジョン・ドゥは自分が何者かにつけられているということ気が付いた。小さく舌打ちをする。
情報屋などという職業をしている以上、多方面から恨みを買っていることは仕方がない。だが一体どこの者なのか、分からなかった。出っ歯男に売った情報ではないだろう。いくらなんでも早すぎるし、あの情報には価値があるが出っ歯男が正しく利用できるとはジョンには思えなかった。となればそれよりも前の情報の売り買いだが、ピンとくる出来事は記憶にはない。
人の少ない場所にいけば相手側が出て来るだろうが、もう若くもなく、武術に秀でている訳でもない身で追跡者と相対するつもりは毛頭なかった。人の多い道へと足を移し、一度も振り返ることなくジョンは歩き続ける。
「よお、ジョン」
後ろに気を取られ過ぎたジョンは、突然目の前に立った男を見て、今度は隠す事なく舌打ちをした。そして、男の顔を見たことによってジョンはどの情報のせいでつけられることになったのかを理解した。
「……どうも久しぶりだなあ」
「そうだな。もう数か月はお前のことを見てなかったぞ」
ニコニコと笑う男の目が笑っていないことぐらい、ジョンも分かる。
この男は商売人だった。主に扱っているのは服。表の顔は極めて好青年といってよい男だったが、情報屋仲間たちの間では臭う臭うと噂になっていた。
数か月前、男がとある酒場に来た。そこで酔ってペラペラペラと様々なことを喋っていた。大声ではなかったが、薄い板を一枚挟んだ席に座って居たジョン・ドゥには全て筒抜けだった。そこで耳にした情報を元にいくつか当たってみれば、男の化けの皮はあっさりとはがれて見せた。その事を、ジョンは男と新たに仕事をする予定だった相手に売ったのだ。相手は自分たちでも裏取りをしてジョンの情報が正しいと知ると、男との仕事を白紙にした。男からすれば大口の顧客が無くなった、その原因がジョン・ドゥという訳だ。恨まれもするなあと笑いながら、それでもジョンはしっかりと立って男を見上げる。気付けば男の部下だろう男たちがジョン・ドゥの後ろ側に立っていて、逃げ場は無くなっていた。
「それで何? なんかよい情報でも売ってくれるのか?」
親指と人差し指でわっかを作って下品な笑顔を浮かべたジョン・ドゥを見た男は、先ほどまでの笑顔を消し去った。顔が沸騰したヤカンのように赤くなり、低い低い声で罵ってくる。
「ふざけんじゃねえぞてめえ。情報なんて売るか。てめぇを売ってやろうか。あ?」
大声で怒鳴らないだけ理性が残っているのだろう。だがそれはジョン・ドゥからすれば具合が悪かった。ここで怒鳴ってくれれば、町の治安維持を担当している兵士たちが駆けつけてきた可能性もあるが、これでは軽いいざこざぐらいのもので、周囲の人間からは遠ざけられるだけだろう。
「来い」
男がそう吐き捨てると、部下たちがジョン・ドゥを両側から挟み込んだ。これは逃げられそうにないと、ジョン・ドゥは溜息をついて、大人しくそれに従った。
◆
「人を呪わば穴二つ。他者を救う者は他者からも救われ、他者を陥れるものは他者から陥れられる。人を愛する者は愛され、人を憎むものは憎まれる。……本当に人とは鏡そのもの」
後ろ足で耳の後ろを掻こうとしてから、洲桃は今はそれが出来ないことを思い出した。彼は今狐の姿ではなく人の姿になっていた。やわらかい体を駆使すればできなくもないが、人の姿のまま、足で耳の当たりを掻くのはあまりに不格好だ。
今の洲桃は、どこからどう見ても人間そのものだった。頭には耳もない。尻から尾も生えていない。肌が露わな薄く少ない体毛に覆われているだけ。それが人に化けた狐であると、気付ける者はいないだろう。
「悪い意味合いで言えば、自業自得、そのものでしょう。そんな相手を助けることに意味など、ええ、意味などありませんとも」
夜の道を洲桃は歩いていた。誰一人すれ違わない。偶然か、必然か。どちらでも構いはしない。
「……うるさいですよ。私はあの男は嫌いです。嫌い嫌い、心の底から好かないですとも、ええ!」
虚空に向かって洲桃が叫ぶ。
人の住んでいる気配の薄い、裏の街の中を洲桃は進む。
「大事な大事なライナー様に、あの態度。許せますか? 許せる訳ないではないですか。失礼極まりないあの態度、本当に思い出すだけで腹が立つ! 身分の差というものを理解していませんよ本当に」
まるで何者かと話しているかのような異様な態度は、けれど誰とも出会うことがないために異様だと見られることも、遠ざけられることもない。人とすれ違わないのは洲桃にとって幸運なことだったろう。
「命に貴賤が無いなどと綺麗事。何事もなしえることのない男と、数百数万の命を守る力を持つ男、どちらが尊く大事な存在なのかということなど、明白。当然、あの根無し草などわざわざ助ける価値など欠片もない男」
洲桃が立ち止まった。そこはちょうど――ライナーたちが暮らす者などと比べれば全く大きくはないが、周囲の家と比べれば――大きい家が建っている。その、門の前。
「……私は優秀な狐なのです。公私混同など、ええ、致しませんとも。殺したいほど憎んでいたとして、ライナー様が望まれるのでしたらいくらでも救って見せましょう」
見開かれた人ならざる目が、月の光を纏うかのように怪しく光る。偶然その場に居合わせたフクロウが一度瞬きをした。そしてフクロウが見たのは、何者も立っていない石畳の道だった。
人間からすれば瞬間的。妖怪からすればやや早い。そのような速度で家の中に洲桃は侵入した。鍵の掛けられたドアを蹴破って、どんどんと室内に入っていく。物音に反応して奥から現れた人間の男たちが武器を持って襲い掛かってくるが、そんなもの洲桃には通じない。念力でもって武器を奪い取って、人間自体は適当に投げ捨てる。
匂いを嗅ぐ。屋敷には煙草だか酒だかの匂いが染みついていて、願うことならば今すぐ飛び出してしまいたい。しかしながらこれは主人たるライナーからの命令だ。邪魔な匂いの中から目的の香りを嗅ぎ取った洲桃は早足にそちらへと向かう。
そちらに近づけば近づくほど、襲ってくる人間の数も増える。つまりは、当たりだ。
「なんだテメエ!」
「……お前らのような輩に名乗る名前など持ち合わせてないなア。名を呼ばれるなんて、吐き気がする」
洲桃は最後の一人らしい男を殴り倒すと、ジョン・ドゥが居る筈の部屋のドアを蹴破った。
はたしてそこにジョン・ドゥは居た。しかし状況は芳しくない。
ジョン・ドゥは、頭から血を流して倒れていた。
洲桃は知っている。人間は頭を軽く叩いただけで皮膚が裂け、頭蓋骨が割れ、血が溢れ、死ぬということを。
「おい。名無しの男」
洲桃が声をかけてみるも、返事はない。意識も失っているらしい。もしや死んでいるのではないだろうかと覗き込んでみたが、ジョン・ドゥの身体は僅かにまだ息をしていた。死んでしまっていればそれを理由に帰れたが、生きているのなら助けなければならない。
「うむむ」
しかし洲桃は学があるので、頭から血が流れている人間を下手に動かしてはやはり死んでしまうことを知っていた。時間的なことを言えば洲桃が運べばジョン・ドゥは助かるだろう。だがその移動は妖怪的な移動速度になるので、意識不明の重体らしき男が耐えられるとは思い難い。
少し考えた結果、洲桃は一つの結論に達した。つまりは、患者を移動させるよりも、医者をこの場に連れてきた方が早いということを。
どうせライナーは今頃お抱えの医師たちを集めているはずだ。万が一の危険が無いように屋敷にいた荒くれ者共は適当な所に投げ捨てて、医者をここに呼んだほうが、遥かに早い。
思い立ったが吉日とばかりに洲桃は先ほど自分が倒した男たちを集めて鍵のついていた一室に放る。道中偶然外に出ていたらしい仲間が帰って来たのでそれも捕まえておいた。鍵を閉め、奴らが出てこれないようにしてから洲桃は体を獣へと変化させて、走り出した。
◆
「起きたか、ジョン・ドゥ」
ジョン・ドゥは聞き覚えのある声に、重い瞼をゆっくりと押し上げた。人ならざる瞳がこちらを覗いていた。
この目が嫌いだと、ジョン・ドゥは思う。この、何もかも見通されそうな瞳が、恐ろしく思えてしまうのだ。
「……何故、助けたのですか」
ジョン・ドゥの絞り出した声に、ライナーは不思議そうに首を傾げて見せた。とぼけているのか、本当に理解できないのか。
「私のような人間を助けた所で、貴方に利などありはしないでしょう」
「貴方とのお喋りが好きだから、ではだめですか?」
「ハッ。本気でそんなことを言っているのですか。お抱えの情報屋などいくらでもいるでしょう。いや、人間なんかより、妖怪たちの方がずっと情報も集められるはずだ。私をわざわざ助ける理由なぞ王族のあんたにはない」
「……ジョン・ドゥ。昔話をしましょう」
ジョン・ドゥは顔をしかめた。ジョン・ドゥが過去を振り返るのが嫌いな男であることを、ライナーはよく知っているはずだ。それなのにわざわざ昔話、などと言い出したライナーを見上げ、訝しむ。けれども嫌だと言ったところで、体を動かすことのできないジョン・ドゥにはライナーの口をふさぐことも彼のいない場に移動することも出来ない。ただ黙って彼の話を聞き流すぐらいしか、出来ることがない。
「私の妻、ヒルダの話です。貴方も良く知っているでしょう。彼女は我が国の有力貴族の一つであるカペラ―家の娘です。……ね、貴方も良く知っているでしょう?」
「…………」
「ですがね、彼女は血筋で言えばカペラ―の娘ではないんですよ。その昔、親を亡くしてさ迷っていた幼い彼女を、カペラ―夫人が保護し、養女としたのです。普通そんなことは出来ませんが、カペラ―夫人は子供を亡くしたばかりで、年頃の似通った幼いヒルダを捨て置けなかったそうですよ」
「…………」
「ヒルダの両親はね、商売人だったそうです。物と情報の違いはあれど、同じ職種です、もしかしたら貴方は知っているやもしれませんね。けれどある時、山を越えた先の村に荷物を売りに行って、それきり両親は帰ってこなかった。不幸な事故だったそうです。山では、そういったことが多い」
「…………」
「彼女が私の許嫁になったのは、偶然でした。私の母がね、たまたま見かけた彼女を気に入ってしまったんですよ。ヒルダはよい心の娘ですから、そういうところが母からすれば好ましかったのかもしれませんが。ともかく、気に入った娘を自分の血脈に入れたいという一心で、当時婚約者のいなかった私と婚約することになったのです。他の兄弟姉妹よりかは、遅い婚約でした。――それが、私が十の時で、もう十五年も前のことです」
「…………」
「ああそういえば。ジョン・ドゥ、貴方が商売人として活動をし始めたのも、十五年前だそうですね」
「その昔話、いつになったら終わるんでしょうか。流石に体が痛いんでねエ、そろそろ眠ったりしちゃいたいんですが」
「もう終わりますよ、ジョン・ドゥ。先ほど、貴方言いましたね。何故助けたのか、と。利などないはずだ、と。確かに私は王族です。時には私的な感情を捨てて、公的な見方から判断しなければならない。その通り。……ですがね、それでも私は、自分が非人間であるつもりも、なるつもりもないんですよ」
「……やめろ」
「助けた理由など簡単でしょう?」
「おいっ!」
「お義父さんを助けるのに、理屈など必要でしょうか? 妻の父を大切にするのに、理由が必要ですか?」
ジョン・ドゥは大きく目を開いた。起き上がることの出来ない体を、それでもジョン・ドゥはブルブルと震わせた。外も中も傷だらけの身体が悲鳴を上げるが、気にもせず、ジョン・ドゥは憎々し気にライナーを睨み上げた。
「いつからだ?」
「貴方の二度目の来訪から、ですかね」
「チッ、殆ど最初からじゃないか……」
この場に他の人間が居たならば、不敬罪だと捕まってもおかしくない態度をとるジョン・ドゥに、ライナーは嬉しそうな笑い声を立てる。洲桃が居たならば怒り狂っただろう。今はジョン・ドゥが襲われた事件の後処理を任せているのでここにはいない。
ジョン・ドゥは笑うライナーを不審げに見た。
「……それで? 俺に何をさせるつもりだ? ヒルダに会わせて幸せな再会でも演出するつもりか?」
「いいえ別に。ジョン・ドゥはヒルダには会いたくないのでしょう? 今まで、会えるのならいくらでも会えましたからね。茶会だって何度誘っても来てくれなかったではないですか。……会いたくないというのなら別に無理に会えとは言いませんよ。言ったでしょう、義父を助けたかった、だから私は貴方を助けたんです。それだけ。けれども、貴方が何か理由が要るというのなら、そうですねえ、助けた代わりに……これからも私の所に通って、今までのようにチェスの相手でもしてもらいましょうか」
ジョンの瞳が、ライナーを捉えた。ライナーの縦の瞳孔が丸くなり、年老いた男を見下ろしていた。その人ならざる瞳に、ジョンは静かに降参のため息を吐いた。
◆
煙の立ち込める酒場にジョン・ドゥが一歩踏み込むと、入り口付近にいた酔っぱらった男が大声で彼を呼んだ。
「ジョン・ドゥ、久しぶりじゃねえか! 死んだと思ったが生きてんな!」
「勝手に殺すんじゃねえよ」
下品な笑い声を立てる男を通り過ぎて、酒場の奥へと入ってゆくと、六人掛けのテーブルに座り込んだ男たちがジョン・ドゥを手招きした。呼ばれるままに近づいて席に着くと、男たちは顔は潜めず、声だけ潜めて聞いて来た。
「聞いたぜジョン・ドゥ、死にかけたお前さんを助けたのはあの第三王子様だってなァ」
「前々から出入りしてたのは知ってたがよ、随分まあ売り込んだもんだ。どうやって王子様を手玉に取ったんだ?」
「手玉だぁ?」
ジョン・ドゥは運ばれてきた別の男の酒を奪い取ると呷った。酒を奪われた男が文句を言う。ジョン・ドゥは雑に袖で口元を拭いなが男どもに笑ってやった。
「手玉に取られたのはこっちだっての。あれは手ぇ出さねえ方が良い類の奴だ。ヤんなるぜ、自由気ままの根無し草が売りのジョン・ドゥが……こうだ」
両手で自分の首に囲い、首輪のようにしてみせると男たちは汚い声をあげた。
「まじかよアンタ」
「はぁ~! 王族サマの気に入りになんてなるもんじゃねえな」
「違いねえ」
「支払いが良くたって子飼いはやだよ子飼いはぁ!」
男たちがガラガラと喉を鳴らして笑う。それに唇だけ吊り上げて合わせながら、ジョン・ドゥは再び酒を呷った。
■第三王子ライナー
第5子。洲桃という従者を連れている。妻の名はヒルダ。夫婦仲は極めて良好。
■洲桃
ライナーの従者である狐の妖怪。ライナーをとても大事に思っているのでジョン・ドゥが嫌い。
■ジョン・ドゥ
名前の無い男。ただ、幸せかどうかだけ知りたかった。この後いつも見張りの妖怪に付きまとわれるようになって辟易する。