吐き気も止まる甘さ
ダヴィド視点です。
執務室に戻り、カウチに腰掛けて背もたれに寄りかかると、自然とため息が出た。
ついさっきまでミチル様の部屋に皆で押し掛けて、今後の事を話した訳だけど。
思い出される主人夫妻の遣り取り。
「……別人過ぎません?」
ミチル様は一貫してるんだけど。もう片方が。
「ルシアン様の事?」とセラが聞いてきたので、頷く。
前から思ってるけど、ルシアン様はミチル様の前でだけ別人だ。何かなあの甘い声、丁寧かつ気遣いを感じる喋り方、優しい眼差し。
「初めて見た訳じゃないでしょ?」
ロイエがコーヒーを淹れ始める。セラは侍女につまむ物を持って来るように命じた。
「前から思ってはいたんですけど、毎回凄いな、って思うんですよ」
「ルシアン様のご容姿で、誰にでもあのような態度をなさったら血の雨が降る」
それは分かる。ルシアン様は整った容姿の持ち主だ。
以前に比べて色気とか増えてるし。
整った容姿の持ち主はそれなりにいる。他の人物達と何が違うのかと言えば、目だろうと思う。
あの琥珀色の瞳に見つめられると、心の中まで見透かされるような気持ちになる。性別なんて関係なくそう思うんだから、女性が見つめられたら心が揺れる事請け合いだ。
「ルシアン様に関してはどんな態度を取ろうと血の雨が降るのよ」
どう言う意味ですか? とセラに聞き返す。
「ミチルちゃんに向けるあの態度を、自分に向けさせたい、って考える人間がいるって事」
「あり得ないでしょう」
「不可能です」
オレとロイエの声がかぶる。
「絶大な自信を持つ女性はね、自分ならルシアン様を振り向かせられる、と思うみたいよ」
ロイエがため息を吐く。遠い目をしてるあたり、これは過去にあった事を思い出してるんだろう。
話に聞いていた皇女シンシアとか、キャロル嬢とか、リリー嬢あたり。
「迷惑ですねぇ」
うんうん、と二人も頷く。
今回のビルボワン伯爵令嬢もそう言った人物かと思いきや、違った訳だけど。
「自信があったとしてもですよ? ミチル様のご容姿はかなり整っているのに、これまでの猛者はその上をいったって事ですか?」
アレクシア様の先代女皇と、その娘である皇女シンシアは美しい、と言うのはよく耳にしていた。
「上とか下とか、簡単に比較は出来ないわね、花の美しさが色々あるのと同じよ」
「セラって、見た目が男らしかったら、女泣かせでしょうね……うぉっ!」
言った瞬間、付箋がおでこに直撃した。万年筆だったら危なかった……。
距離があるから突かれないと思ったのに、甘かったか。
「お褒めいただきありがとう」
セラの笑顔が迫力あります……。
侍女が甘いもの、甘くないものを混ぜて持って来てくれたのを、三人でつまむ。
「返す返すも、ルシアン様にとってはミチル様だけが特別なんですね」
ミチル様が死んだら自分も死ぬとおっしゃる訳だから、特別なのは分かってる。
レーゲンハイムとしても、ラルナダルトの当主であるミチル様を大切にしてもらいたい。
だけどあの吐き気すら止まりそうな甘さ! 甘さに驚いて吐く事を忘れそう。
「今更な事ばかり言うのねぇ」
呆れたようにセラが言う。
「早く慣れなさい。むしろ今は平和なんだから」
ん? 平和?
ロイエを見たら顔を逸らされた。どう言う事ですか。
「ミチルちゃんが今より奥手だった時なんて、監禁待ったなしだったのよ」
ため息を吐きながらセラがロイエを見て、見られたロイエは何故か目を閉じた。
多分、ルシアン様の望みを叶えようとするロイエは監禁に反対してなくて、ミチル様を守ろうとしたセラが、監禁回避の為に四苦八苦したとかそんな感じ……。
って言うか、監禁って……。
「そんな状況で、よくミチル様はルシアン様の想いに応えましたね?」
「元々、お互いを好き合ってはいたのよ。認識の食い違いがあったぐらいで」
「すれ違いって奴ですか?」
「別にすれ違いって言うようなものもなかったし、ルシアン様はミチルちゃんの気持ちを試すような事もしなかったし」
それでどうして監禁に至るのか不明。
ミチル様は確かに鈍感な所があるけど。だから今回、珍しく鋭い反応を見せたのは驚いた。何某かの危機を本能的に察知したとか?
「ルシアン様が病ンデレだからよ」
異常なまでの溺愛は確かに。
ヤンデレと言う単語もセラから教えてもらいました。
ミチル語録は着実に家人の中に浸透しつつあります。
「ミチルちゃんが見るもの、聞くもの、考えるもの、全てを自分だけにする為に監禁しようとしていたのよね」
「ぅわぁ……」
思わず率直な反応をしてしまった。
半端ねー……。
「ただ、その極端な行動に至る前に認識の相違が解消されたのと、ミチルちゃんが引きこもりな事も幸いして、大事に至らなかったのよ」
ギリギリのラインじゃないですか、それ……。
「ミチル様が行動的な方だったら、監禁されていたって事ですね」
確かにミチル様は引きこもりではあるんだけど、言動からして、意図的に控えてるなと感じる事もある。
衝動のままに行動するような(大変迷惑な)事はなさらない方だ。
主人相手に不適切な表現だとは思うけど、弁えてらっしゃる。だからそんな行動をしてルシアン様に監禁されるような事はないんだろうけど。
「絶妙な均衡を保ってるのよ、あの二人は。ただ、ルシアン様がミチルちゃんを閉じ込めておきたいと思ってらっしゃるのは事実だから、陛下やゼファス様から連絡が来るのよね」
「それなんですけど」
ミチル様は、陛下と皇太子殿下からのお誘いのなさも、事の大きさを推し量る材料にしたとおっしゃっていた。
成る程と思ったけど、同時に違和感を覚えた。
「あのお二人が、そんな分かりやすい事をすると思いますか?」
「どういう意味? わざとだって言いたいの?」
頷く。
「陛下も皇太子殿下も、ミチル様に関してはルシアン様に負けず劣らずじゃないですか? それがこの沈黙。既に動いてらっしゃってる、と考えるのが普通かなと思いました」
ロイエが目を細める。セラも難しそうな顔をする。
「確かに変ねぇ」
「だとするなら、それはミチル様にではなく、ルシアン様への軽めの警告だろう」
祖父はオレが当主としての役目を果たしてから、基本的に皇城にいる。たまに来るのはこっちの様子を確認して陛下に報告してるんだろうと思う。
皇太子殿下はオットー家の人間だ。影をあちこちに配置している。影から報告を受けているに違いない。
あの二人が噂を知らない筈ないし、放置する訳がない。
最初は何気ない噂。それに段々と悪意が感じられるようになってきてる。
むしろオレ達より早く掴んでる可能性が高い。……次からは誰よりも先んじてやる。
「陛下はミチル様のご意思に理解を示しつつも、更にその先を見てらっしゃる」
「ゼファス様はミチルちゃんが女皇になる事を望んでいないわ」
「ルシアン様はミチル様のお気持ちを尊重なさる訳ですから、我らの行動は皇太子殿下と一致する、って事であってますか?」
二人が頷く。
「陛下はミチル様を守る事、ラルナダルトの血筋を守る事こそが、皇国を守る事、ひいてはマグダレナ全体を守る事に繋がるとお考えだろう」
「そうなると、今回のビルボワン令嬢達の行動如何では弾圧もあり得ますねぇ」
陛下はミチル様が眠りに着かれている間、アレクシア様をイリダに派遣する事を決めた。叔母であるリンデン殿下は当初反対したけど、陛下は決定事項であるとして聞く耳を持たなかった。
アレクシア様は滅びの祈りを完遂出来なかった責を取らされた。そもそもアレクシア様には荷が勝ちすぎたのだとリンデン殿下は訴えた。イルレアナ様はそれが何だと、人の上に立つ者が、無能であった事は民にとっての不幸である、アレクシアでも果たせる役割を与えてあげようというのに、何が不満なのかと仰せになったと。
最愛の孫娘が犠牲になった理由が、アレクシア様の能力不足であった事が許せないイルレアナ陛下による報復──と、ここまでが建前。
陛下……強気ですよねぇ。
この話には裏があって、オーリーとイリダからの賠償金はディンブーラ皇国が受け取った。ト国とギウスには支払ったんだったかな。
実際、要塞などの建造はディンブーラ皇国が費用を負担した。帝国は費用の負担を渋って出さなかった。ギウスは元より支払う能力を持っていなかったけど、それは皇国として納得してて、その分ギウスは人足を用意した。
にも関わらず、あれこれ理由を付けて帝国は賠償金を自分達にも寄越せと言い出した。直接言われた訳ではなく、サーシス家当主が派遣した者達が集めた情報、と言う奴。
無論、帝国皇帝と皇弟はその声に耳を傾けなかった。
帝国は不作とまではいかずとも、大地の魔力不足により緩やかに作物の生産量を下げていたし、それに伴って家畜も増えなかった。
国庫は潤っているとは言い難かった。
そこにギウスとの戦争が起こり、ギウスからの賠償金は微々たる額しか支払われていなかった。命しか差し出せるものがない彼らが、支払える訳がないんだけどね。
追い討ちをかけるように起きたイリダとの戦争に、愚か者達は難色を示した。
皇帝の叔父である大公一派が駆逐され、これで平和にと思ったのも束の間。帝国国内での己の存在感を高めようとでも思ったのか、勘違いしちゃった中立派貴族が転身し、鬱陶しい存在になった。
イリダに攻められたのはディンブーラ皇国なのだから、ディンブーラ皇国で何とかすれば良いものを、何故帝国が助けねばならないのかと。
そもそもギウスとの戦争も、皇国が介入せずとも勝てた。結果として国土も増え、帝国は国力を増す筈だったのを水を差したのは皇国側だろうとまで言い出しちゃって。帝国の繁栄を邪魔したとかなんとか。
そいつらが、帝国はイリダの戦艦と戦うための船や兵士を出したのだから、それに対する対価を皇国は支払うべきだと言い出した。
終わってからなら何とでも言えますよね。
もうね、死ねと。おまえら何もしてないよね。って言うか皇国はずっと助けっぱなしなんですけど?
当時まだアレクシア様が在位していた。実際はイルレアナ様が仕切っていたけど。
皇国もまだ混乱の最中にあった。ミチル様を失った後の舵取りをどうすべきか決まっていなかった。
結局押し切るようにイルレアナ様は即位して、帝国の愚か者どもに向かって、マグダレナ大陸を守る為に帝国の力を借りた事はアレクシア帝の愚策であった、と言い放った。
その責めを受けるべきは皇国皇位に就くアレクシアである。よって退位し、今後このような事がないようにイリダに派遣するものとする、と宣言して終わらせてしまった。
自分達が言っていた事が遠く離れた皇国に知られていると知った愚か者達は大層焦ったらしい。馬鹿である。
さすがに女皇が自らの進退でもって責任を取った皇国に、賠償金の分け前を寄越せとは言えなくなった。元よりそんなの取る必要ないんだから。それ以上言えば皇国との関係は悪化する。
ミチル様が起こした奇跡の恩恵を受けて帝国の大地は力を取り戻した。魔石で復元させたとするなら如何程になるのか、それを帝国に請求させていただいてもいいか?(意訳)と追い討ちをかけたのはアルト公。
ぐうの音も出ない程に潰された帝国貴族は押し黙った。
そんな訳だから、イリダに行ってちょうだいね、と陛下がアレクシア様におっしゃった──これが本当の所。
アレクシア様は皇国で居場所がなかった。退位したとしても、フィオニアもサーシス家を継げない事が確定していた。フィオニアもまた、アルト一門に居場所がなかった。
宗主の命に背いた事、眠りについていた事、サーシス家当主に必須となる力を失った事。
サーシス家嫡子は兄であるセラに確定した。これはもう何があろうと覆る事はない。
皇国ではアレクシア様が力不足であった為に愛し子のミチル様が犠牲になったのだと言う話が広まっていた。これ、ゼファス様の仕業だったらしいけど。あの人、情報収集だけじゃなく、情報操作までやるらしいよ。オットー家怖いなぁ。
この事はイルレアナ様とアルト公による温情だった。こうでもしなければ彼らが婚姻を結ぶのは難しい。
いくら退位したとしてもアレクシア様は本来、いずれかの公家と婚姻を結ばねばならなかった。
罰を受けた瑕疵のある者にしなければ、フィオニアがアレクシア様を妻に迎えるのは無理な話だった。
二人は喜び、イリダに向かう事を決める。
ただ、二人にとっては過酷な条件もついた。
サーシス家の血を引く子供が生まれたら、五歳までは手元で育てる事を許すが、それ以降はアルト一門に属する者として寄越すようにと。
二人は受け入れた。共に生きていく為に。
今、二人の手元で育てられている子供は、もう少ししたらサーシス家預かりとなる。もしこれをアレクシア様が受け入れなかった場合は、子供の命はないし、二度と子の出来ない身体にする、という脅し付きだ。えげつないけど、あの家の能力を考えたらしょうがない。
ギウスは皇国に対して敵対心を抱いてはいない為、問題はない。でも帝国は下手を打った。
この件もあってなのか何なのか、ゼファス様は皇国の皇位に就く者がマグダレナ教の教皇を兼任するべきだとおっしゃるようになる。
帝国の国教でもあるマグダレナ教の頂点が皇国皇帝となると、帝国としてはやりづらくなる。事実上の属国扱いになるから。だからマグダレナ教の教皇職を兼任する事に反対している。まぁ、これは分からなくもない。皇太子殿下がミチル様がいる今しかない、と言うのも分かる。
「皇太子殿下がここまでして皇国の皇帝とマグダレナ教の教皇を兼務させたい理由が、イマイチよく分からないんですよねぇ」
アルト公の考えとしては、国は今の三つのままが良く、力関係も等しい、つまり三つ巴が望ましいとの事だった。
そこにギルドなどの別の力などが加わる事で、力が何処かに偏る事を防げる。
でも皇太子殿下のやろうとしている事は、皇国に力を集中させる事。
「血脈の維持じゃないかしら」
のんびり答えたセラは、オレには甘くて食べられない菓子を美味しそうに食べる。
「まさかですけど……帝国をかつてのラルナダルトのようにしようとしてるって事ですか……?」
ロイエが頷き、セラが頷いた。
「この前ミチルちゃんの元に届いたリュドミラ皇后からのお手紙に、皇帝と皇弟が錬成術を習得した、って書いてあったのよ」
このマグダレナ大陸において、血筋というものは恐ろしく重要な意味を持つ事がここ数年ではっきりした。
しかも、皇帝と皇弟も、錬成術の習得に成功した。つまり、予備として充分な血統を維持してきたと言う事になる訳で。
なんだか、色々と納得がいった。
「皇太子殿下って、見た目に騙されがちですけど、宗主様と長年お付き合いがあるだけはありますよね……」
陛下と皇太子殿下がどう動くかも想定しないといけないって事か。あの二人の上をいくのは正直キツイ。
「ミチル様って、ルシアン様を筆頭に濃すぎる人に気に入られる事、多くありません?」
思わず弱音を吐いた時、冷たい声がした。
「そうだな」
扉に寄りかかって薄く微笑むルシアン様に、三人とも固まった。




