ホワイトデー 前編
ルシアン視点のホワイトデーです。
一日遅れな上に一つで終わりませんでした。
しかもミチル、キョニュー化プロジェクトの間に入ってしまってすみません。
ミチルの寝顔を見つめる。
よく、眠っている。
眠る彼女を見て不安に感じる事は、以前に比べれば少なくなったように思う。
ミチルが三年に渡る眠りから目覚めてしばらく、また眠りについてしまうのではないか、このまま目覚めないのではないかという不安から、夜中に何度も目が覚めた。
あまりに心配する俺に、ミチルは要塞での事と、目覚める直前の女神との遣り取りを話してくれた。
女神は分かっていて、ミチルに選ばせたのだろう。
俺と魂の一部を共有している事により、即座に死ぬ事は無い。だが、どれだけ肉体が損傷を受けるかも不確かだったろうし、俺がミチルの後を追って自死した場合は、俺からミチルに魔力が供給される事がなく、枯渇状態になる。
その後に待つのは緩やかな死だ。
ミチルの自己犠牲による女神の奇跡。
奇跡はマグダレナ大陸だけではなく、イリダ、オーリー両方の大陸をも浄化し、潤した。
これから先、このような奇跡は起きないだろう。
ミチルを讃える声は、今でもある。
にも関わらず、あれは俺を助けたいというエゴだから、褒められると居た堪れない、とミチルは言うのだ。
『自分がどうなっても良いから、ルシアンを助けたかったのです』
何かあった時は共に死のうと言う約束を破った事を、申し訳なさそうに話すミチルに対して、幾つもの感情が湧いた。
怒りは無い。それだけはない。
愛しさと、安堵と、ほんの僅かな寂しさと、己の無力さ。それらの感情が混然となって、落ち着かない気持ちにさせられた。
いつもいつも、彼女は簡単に俺の心を乱す。
彼女は俺を助ける事を願い、自分を守って命を散らした者達に思いを寄せ、あの愚かな戦争を起こした全てに対して憂えたのだろう。
頰をなぞるように指で撫でる。
指に伝わってきた彼女の体温に、安心する。
アルトの男は生涯ただ一人の伴侶だけを愛し抜く──そう聞かされて育ったものの、自分に関してはそれは当て嵌まらないと思っていた。誰かを想うなど考えられなかった。
今では歴代のアルトの中でも、一、二を争う程に伴侶を溺愛していると言われる。
そんな事はどうでも良い。俺が心の底から愛していると言う事が、ミチルに届けば良い。
そっと頰に口付けを落とす。目覚めないように、軽く。
律儀なミチルは、バレンタインデーにチーズケーキを作ってくれた。半ば強引に製作に加わった。
俺が料理をするのは、少しでも側にいたいからだ。もう二度と彼女をこの手から離したくない。
きっと、彼女は別の解釈をしているだろう。
チョコレートをマーブル模様になるように溶かし入れたチーズケーキは、甘さも控えめで美味しかった。
俺にとって、ミチルが作ってくれたと言うだけで価値があるし、美味しく感じる。
父や兄と何かの折に話した際、呆れられたが、この考えは変わらない。二人は伴侶に何かを作ってもらうという経験が無い。だから想像がつかないのだろう。
愛してやまない存在が、自分の為だけに何かをしてくれる。それがどれだけ幸福な事か。
バレンタインのお返しに菓子と宝飾品を考えている。
ミチルが好きなお菓子は、燕菓子が多い。かと言って料理を始めたばかりの俺がおいそれと手が出せる程、簡単なものではないだろう。
洋菓子で好きなものは、マカロン、エクレア、シフォンケーキ、アップルパイ。
それぞれの作り方をパティシエに提出させてはいる。
製作方法だけを見ればシフォンケーキが一番成功確率が高そうではあるが。
「シフォンケーキだけでは、ミチル様を甘やかせそうにありませんねぇ」
ダヴィドが言った。
サーシス家嫡子であるセラはミチルを主とする為、レーゲンハイム家当主であるダヴィドが俺付きになった。
側で控えるようになったのは、アルト一門が正式にディンブーラ皇国貴族に転籍し、旧アドルガッサー領をラルナダルト領に改名した後だ。
「ルシアン様お手ずからミチル様に食べさせるだけでも、十分に甘やかしていると感じるが」
反論したのはロイエ。
「そもそも、ルシアン様はご多忙に付きお時間が無い。菓子作成にばかりお時間を割くよりは濃密な時間をミチル様とお過ごしになる事の方が重要であり、結果としてルシアン様の執務遂行速度が格段に向上される」
ミチルが眠っている間、ラルナダルト領の深刻な問題は解消したが、豊かとは言い難い。レーゲンハイム一門が管理していた領地は良く管理されているのだが、それ以外の領地はお粗末としか言いようのない場所も多かった。アドルガッサー王家の領地がそうだ。
街道やそれぞれの街に対してもまだ改善の途中であり、成すべきことは山積みだ。
ロイエが言う通り、時間はいくらあっても足りない。
「それはオレだって分かってますよ。でも、ホワイトデーは年に一度ですよ? その一日の為に時間も作れない訳はないでしょう、と言いたい訳です。
世の中の夫人はもっと我儘ですよ? ですがミチル様はそんな事はおっしゃらない。そんなミチル様の為に時間を使うのはそんなに無駄な事ですかね?」
ため息を吐くダヴィドに、ロイエは眉間に皺を寄せる。
「何も言わないからと言ってミチル様が不満を抱えてないと思ってるなら、鈍器持って来ますから、殴ってあげます」
笑いながら鈍器で殴る動作をするダヴィドを、部屋に入って来たセラが怪訝な顔をして見た後、ロイエの横に立って話しかける。
説明を受けたセラは大きく頷く。
「脱線しましたけど、ミチル様のお気持ちに重点を置いて欲しいんですねぇ。オレ、レーゲンハイムですからね、どうしてもミチル様寄りになるのはご容赦下さい」
どうしても俺を中心にして考えてしまうロイエと、ミチルを中心として考えるダヴィドは、こう言った遣り取りをよくする。
「ラルナダルト領に関して動く事はオレ達でも出来ますけど、ミチル様にとってのルシアン様は代わりがない訳なんです。数日ルシアン様を執務から解放する事も出来ない無能ではないと思うんですよ、我ら」
ダヴィドの言う事は筋が通っている。俺でなくとも、ラルナダルト領は経営は出来るし、ある程度出来なくては話にならない。
ロイエが呟く。
「ミチル様は前世の記憶がお有りの所為か、着飾る事に関心をお持ちではない。花は喜んで下さるものの、そればかりと言うのも脳が無い」
「そうねぇ。ミチルちゃんは花は好きだけど、大量に花があると、消費しなくては、と言う強迫観念に駆られるらしいわ」
「強迫観念?」とロイエが尋ねると、セラが頷いた。
「無駄にしてはいけない、って思うんですって」
ミチルらしい。
その理屈で言うなら、結婚直前に日々贈っていた薔薇は、ミチルに強迫観念を抱かせていたと言う事か。
立ち上がり窓の外に視線を向けると、中庭にミチルの姿があった。ベビーカーに子らを乗せて歩いている。
彼女が欲しいと言って作らせたベビーカーは、各国でよく売れている。揺りかごをそのまま乗せられるようになっていて、眠ったままでもそのまま移動させられるのが便利らしい。
ベビーカーから小さい手が伸びる。花に触ろうとしているようだ。触らせはしないものの、ミチルは屈んで子と同じ目線になると、何やら話しかけている。
胸の内がじんわりと温かくなる。
ダヴィドの言う通り、ミチルは欲が無い。本当はあるのに遠慮している可能性だってある。
俺にこうして閉じ込められても、文句も言わない。だが、それに甘えて良い訳はない。
早く領内を安定させてミチルとの時間を多く取りたい。かと言ってその為に今、我慢させるのは本意では無い。
「ホワイトデーの一週間前にラルナダルト入りする。菓子はシフォンケーキだけで良い。欲をかいて失敗するのは避けたい」
シフォンケーキそのものも作った事は無い。練習しなくてはならない。
子が生まれてから、ミチルは服装や装飾品をより質素な物を選ぶようになった。子の口に入らないように、引っ掛けたりしないように。
貴族の夫人は自ら育児をしない。俺としても出来ればその方が良いが、ミチル自身が育児をしたがる為、好きなようにさせている。ただ、リュリューシュの夜泣きがミチルの睡眠を妨害した為、別室で寝かせるようにした。
ミチルを起こさないように代わりに抱いても、リュリューシュの夜泣きは収まらず、結局ミチルの眠りを妨げてしまっていた為だ。
「何か装飾品も贈りたい」
セラが笑顔で「簪をお願いします」と言った。
「簪ですか?」
ダヴィドが尋ね、セラが頷いた。
「今お持ちの簪は、飾りの多いものが殆どなのよ。だから使えなくてリボンだけになってらっしゃるの。いくら屋敷内とは言え、もうちょっとキレイにしてあげたいわぁ」
ロイエとダヴィドが頷いた。
簪。それは良い。
可能性は低いが、何かあった時の護身用にもなる。
「白金の用意を頼む。ミチルが普段使う用に簪を作りたい。意匠の凝ったものは作らない。模倣に適した簪を数本用意してくれ」
礼をして二人は部屋を出て行った。
窓の外に視線を戻すと、ミチルが丁度こちらを向いた。
リュリューシュを抱き上げると、リュリューシュの手を掴んでこちらに手を振る。手を振り返すと、今度はロシュフォールを抱き上げて手を振ろうとする。嫌がっているのだろう。向き合って何か話しかけている。
ロシュフォールは俺に似たのか頑なな所がある。
若干負けず嫌いなミチルは、強引にロシュフォールを俺の方に向ける。手を振って見せると、抵抗が和らいだのか、ロシュフォールの手を掴んで振ってきた。
子は可愛いと思う。
比較する対象ではないと言われるだろうが、俺にとってミチル以上の存在はいない。
今すぐ抱き締めたいが、それは夜まで取っておく。




