新たな大地
ラトリア視点です。
長旅、それも船の旅は人生において初めてだった。貴重な体験ではあるが、何度も船に酔って伏せることのほうが多かった。落ち着いたら来ることになっているロシェルやオーガスタスはどうしているだろうか。
もうずっと会っていない妻と子の顔を思い出す。手紙のやりとりはしていたが、それだけでは寂しさを埋められない。身重の妻のそばにいてやれない不甲斐なさに情けなくなる。子供の成長は早い。会えない間にも育っているだろう息子。
「ご気分はいかがですか」
声をかけられて振り返ると、リジー──エリザベス・ルフトが立っていた。ルフト家の当主 ベネフィスの妹の子であり、ルフトを名乗ることが許された為、こうして私の元に遣わされた。
アルトの林檎──様々な毒性を持つ樹木で、この樹木に触れられない人間はルフトを名乗ることを禁じられる。
「リジーからもらった薬のお陰でだいぶ良くなったよ」
「それはようございました」
リジーは以前ミチルの侍女を務めていた。命じたのは父だ。どんな思惑があってリジーをミチルのそばに置いていたのかは不明だが、皇女シンシアの元に彼女を遣わした理由は明確だ。あの時から父はシンシアをどうするか決めていたということなのだろう。
皇女はアルトに泥を塗ろうとした。叔父との婚約をあのような形で破棄したシンシアの姉も人知れず葬られることだろう。父は、アルトは許してはならないのだ。アルトに仇なす者を。
「アダール様を覚えておいでですか?」
「覚えているよ。皇子だね」
母である女皇が権力を失った途端、いや、純血のマグダレナではないと判明してすぐに幽閉された。殿下の称号こそ奪われていないものの、血統について公表されてしまった為、皇位継承順位を大きく下げた。彼が皇位を継ぐ日は永遠に来ないだろう。女神への信仰心を強く持てば魔力の器を持てることは分かったが、さすがに皇族の場合は許されない。そういう問題ではない立場だからだ。
北の離宮に住んでいるとは聞いているが、良くも悪くも噂にのぼらない人物で、得体が知れない。
皇位継承順位をバフェット家と争っている時すら、母親の陰に隠れているような人物だ。
「あの方は空虚です」
「空虚?」
意味が分からず、聞き返すとリジーは頷いた。
「母であるエリーゼ様のお人形でした」
見目は父に似て大変美しかった為、母であるエリーゼ様はことのほかアダール様を可愛がったとは聞いていたが、人形とは辛辣な表現だ。
「アダール様に同情しているのかい?」
「いいえ。ですが、宗主様はそうではないようでした」
父がアダール様を気にかけている? 何の為に?
「その理由が分からず、ラトリア様ならお分かりになるかと思いまして」
思わず苦笑する。
「父の考えていることは私には分からないよ」
あの人が父でなければと思ったことは何度もある。父で良かったと思ったことも同じだけある。
「分からないけれど、無駄なことをしないあの人が、何故アダール様を気にかけているのか、確かに気になるね」
「はい」
リジーをシンシアの元に遣わしたのは、シンシアをいずれ罰する為だと思っていたのだが、それだけではなかったということなのか。そうだとするなら、今は誰がかの方の監視をしているのだろう?
「いずれ分かる日が来るのかも知れないが、父の謀が動く時は大抵大変なことになる。そうならないように祈っているよ」
「仰せのとおりです」
アダール様の何を気にする必要があるのか。
血筋ならばシンシアやもう一人の皇女と変わらないはずだ。異なるのは性別だけだが……。それともアルトに仇なしたとして全員を葬るつもりなのか。ありえない話ではないが……。
ルシアンなら分かるのだろうか。私よりも父の思惑を見抜くあの弟なら。
「それにしても、母親の言いなりでしかない人物が皇位を継いだのかもしれないなんて、笑えない冗談だ」
バフェット公がいたから無理だったとは思うが。なにしろ皇子には後ろ盾がない。皇子の父は伯爵家出身。他の公家を抑えられる力がない。他の国であれば、王配が伯爵家の出身なのはあり得ることだ。けれどディンブーラ皇国ではそうではない。皇家に血を注ぐものは公家に連なる者でなければならないのだから。
「私も気になりまして色々調べさせたのですが、皇都の学院に通うようになってから顕著になったと聞いております」
「学院時代に? ではそれまでは操り人形ではなかったと?」
どういうことだ?
「私の表現が不適切だったようです。操り人形という意味の人形ではなく、人形のように空虚なのです」
人形のように空虚?
「当時ウィルニア教団による薬物が皇都でも蔓延しておりました。学院で手に入れたのでしょう。アダール様からは薬物使用と思しき反応がありました。私はアダール様の体調管理も命じられておりました」
とっくの昔に葬っていたはずのものが出てきて、不快になる。
皇族が薬物中毒者など、笑えないどころの話じゃない。薬物の乱用で人格に影響が出るのは聞いたことがある。
問題は、何故それを父が気にするのか、その一点。薬物が問題ならば、ウィルニア教団に傾倒していた平民の多くがその影響を受けているのだから。
確かにウィルニア教団がばら撒いた薬物は問題があった。その為の薬だって広く──皇子はその薬を服用しただろうか?
「リジー、父から皇子の体調管理を命じられたと言っていたが、それには薬物の中和も含まれていたかい?」
「はい」
それでもその状態ということか? 間に合わなかったのだろうか。
「私がお会いした時は既にその状態でした」
空虚になっていた──。
「見えてきました」
リジーの指差した先に、ゼナオリアの大地が見えた。