彼の真意
イリスはガクガクと手足が震えていた。恐怖で身体が動かない。血の匂いと死体を目にして、イリスはうっ…、と不快感と吐き気に口を押さえた。イリスは一刻も早くここから離れなければと思い、ふらつく足を引きずりながらもその場を急いで立ち去ろうとした。が、動揺したせいか大きく音を立ててしまった。その音に気づいたのだろう。
「あら…、鼠が一匹…、紛れ込んだみたいね。」
メアリー船長がスッと目を細めた。イリスはハッとして、後ろを振り向かずにダッとその場を逃げ出した。その直後だった。ザンッと音と同時に斬撃が走った。振り返れば、扉が真っ二つに切断されていた。あのままそこにいればイリスの身体は切り裂かれていただろう。その事にイリスはぞっとした。
―に、逃げなきゃ…!
見つかったら、殺される。恐怖でもつれる足を必死に動かしてイリスは走った。背後から追ってくる音が聞こえる。このままだと追いつかれる。どこかに隠れる場所は…、イリスは辺りを見回す。すると、丁度近くに木箱が積み重なっているのが見えた。イリスは慌ててその隙間に入り、物陰に身を隠した。足音が通り過ぎていく音が聞こえる。イリスはバクバクと心臓が音を立てる。ハアハア、と荒い息を必死に押し殺すようにして口を手で押さえた。
―今、見たものは一体…、
メアリーの残虐で狂気的な表情が脳裏に焼き付いて離れない。それに、彼女の奇妙なあの行動は…、殺された男の身体を彼女は触れずに切り刻んだ。まるで、見えない刃で操るかのような…。彼女は一体何者なの?あれは、一体何…?イリスはがくがくと膝が震える。怖い。怖くて堪らない。ギュッと懐中時計を握りしめる。不意にイリスは口を塞がれ、そのまま身体を引き寄せられる。慌てて口を塞いだ人物の腕を掴んでその拘束から逃れようと必死に抵抗する。すると、
「騒ぐな。…あいつらに気づかれる。」
聞き覚えのある低い声…。見上げればそこにはシリウスがいた。イリスは動きを止めた。
「ついてこい。」
シリウスに促され、イリスは後に続いた。
「…ここなら、誰も来ない。暫く、隠れていろ。」
シリウスは彼らに見つからないようイリスを連れ出し、船の一室に通した。室内が暗くて、よく見えない。
「ここは?」
「ワインセラーや酒樽を保管する部屋だ。ここは、限られた人間しか立ち入りできない。隠れるには最適な場所だ。」
シリウスは扉を閉め、内側から鍵をかけた。階段を降りていくシリウスに続いてイリスも階段を降りた。が、最後の二、三段目で足を踏み外してしまい、そのまま倒れ込みそうになる。
「きゃ…!?」
咄嗟にシリウスが受け止めた。見上げればすぐ真上に彼の顔があり、イリスは頬を赤くする。
「気をつけろ。ここは暗いから足元が悪い。」
「は、はい。すみません…。」
イリスは頭を下げて礼を言った。シリウスはイリスから離れると、そのまま奥へと進む。イリスも彼の後を追った。彼は壁を背にして、床に座った。イリスも彼から少しだけ距離を空けて隣に座る。チラリ、と彼を横目で窺う。沈黙が怖い。無表情で前を見据えているシリウスは何を考えているのか分からない。怒っているのか。呆れているのか。でも、イリスはきちんと言わなければとギュッと服の裾を掴んで話しかけた。
「あ、あの…、シリウス様。」
「…何だ。」
「あの…、すみませんでした。勝手な真似をして…、」
「…。」
「そ、それから…、助けてくれてありがとうございます。あのまま見つかっていたら、私…、」
イリスは僅かに手が震えていた。シリウスはそんなイリスを横目で見下ろすと、
「…何故、あの場にいた?」
シリウスは青い瞳をスッと細めてイリスに問いかけた。イリスはビクッと怯えた。
「ご、ごめんなさい…。私…、」
「謝罪ならもう聞いた。俺が聞いているのは何故、あそこにいたのかと聞いているんだ。」
どうしよう。何て説明すればいい?イリスはシリウスから目を逸らした。
「俺は言ったな?船長に近づくなと。」
「それは…、」
イリスは口を噤んだ。そんなイリスの反応に彼ははあ、と溜息を吐いた。
「あれは俺よりも厄介で性質が悪い。船長と比べれば他船員達の方が幾らかマシな位だ。…だから、近づくなと言ったんだ。あれはお前の手に負える相手じゃない。」
イリスははっとシリウスの顔を見上げた。それは、まるで…、
「あの見かけに騙され、悲惨な末路を辿った奴らを俺はこの目で腐るほど見てきた。確かに、船長の容姿は清らかで美しい天使の様だといわれているが…、その中身は苛烈で傲慢で自己中心的な性格をした女だ。ここにいるブラッディパンサー号の中でも最も残酷で加虐趣味の持ち主だ。…特に、あいつは捕虜や敵を拷問することを何よりの生き甲斐としている。その中でも若い女を拷問することを至福としている。女に鞭を振るって苦痛に喘いで絶望する表情を見て快感を得るという悪趣味な女だ。だから…、お前も十分に気を付けて…、?何だ。その顔は。」
シリウスはイリスの顔を見て怪訝な表情を浮かべた。
「あの命令は…、私の為…、だったのですか?船長に近づくなと言ったのは、私が危険な目に遭わせないように配慮してくれてのことだったのですか?」
信じられなかった。イリスはずっと彼から理由も分からず、一方的な命令を受けてきた。イリスの行動を制限し、所有物のように支配しているのだと。でも、違った。彼の忠告にはちゃんと理由があったのだ。
「お前の為じゃない。…船長の機嫌を損ねて八つ当たりを食らうのが面倒だったからだ。」
「あ…、そうですよね。」
シリウスの言葉にイリスはシュン、とした。恥ずかしい。彼が自分を守ろうとしてくれたなんてよく考えればそんな事あるわけないのに。
「とにかく…、これでよく分かっただろう。船長がどれだけ危険な女なのか。これに懲りたら、もう船長には近づかないことだ。」
「はい…。」
シリウスの口調はいつもと変わらない。淡々としていて、何の感情も籠っていない。でも、イリスはそこに彼の優しさを感じた。




