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蛇足
筆者。
日常の中に、抱く感情がいつからか変わるものがある。
例えば、筆者は小さい頃、ねぎが嫌いだった。
しかし、いつからかねぎへの苦手意識は無くなり、今は好物になっている。
その、嫌いから好きへの境界線というのははっきりしない。
多分、この変化に大きな意味は無いと思う。
成長につれて味覚が変化しただとかそんなところなんだろう。
ただ、もしもそこに物語を感じられることができたら、それは素敵な解釈だと思う。
馬鹿馬鹿しい解釈だと嘲笑されるかもしれないが、誰も、このお話を完全に否定しきることはできないはずだ。
なぜなら、人は、忘れたことは覚えていなくて、元々存在しないことと同じだと思うからだ。
自分の人生の中に、今はもう忘れてしまって、露ほども思い出せない何かがあるのだとしたら、その何かは救われなければならないし、報われて欲しい、と、筆者は切望する。
今回、「荒涼に意味を与えることは人間の務め」という思いの元、筆を取った。
筆者のエゴ丸出しの駄文にお付き合いいただいた方がいたとしたら、深謝したい。




