狂歌
短編として書いていたのですが、1万字を越えたところで短編にするのを諦めました。
楽しんでいただければ幸いです。
リリスはいつも多くの人に遠巻きにされている。
王城の魔導士たちにあてがわれた一角にある塔に籠っている彼女に、大抵の人間はなるべく近づかなかった。
黒曜の天才。
狂気の探求者。
無垢なる歌紡ぎ。
半ば誉め言葉とは程遠い二つ名をいくつも持つ彼女は、国随一の魔法の天才で、新しい魔法の開発のためにその全てをささげていると言っても過言ではなかった。
幼少期、国の方針で測定された魔力の高さは平均以上で、それを知った家族は是非国の魔導士にと彼女へ望んだ。城下に家を持つ中流の普通の町人であった彼女は、近くにあったお城に興味はなかったけれど、魔術を行使する為に必要な第一歩はクリアしてるとわかるや否や、それにのめり込んでいった。
その熱意は、是非国の魔導士にと望んだはずの家族すらも、おののくものであった。
しかし彼女は、誰に望まれていなくても構わないと、魔術について学び続けた。
彼女にとって、周囲から望まれるかどうかはどうでもよかった。ただただ知識を貪欲に貪り続けられればそれでよかった。
本の虫となった彼女を見ていた同年代の少年少女が揶揄した言葉は、『知識だけあっても扱えないなら意味がない。』であった。
半分はやっかみで、しかし、もう半分は厳然たる事実。
リリスはとにかく知識を欲して書庫に籠るばかりで、訓練所にはとんと現れなかったのだ。
難しい魔導書を読み解くだけの頭を持っていた少女は、その言葉の半分が事実である事を十分承知していた。けれども、その時の彼女にとっては、学ぶだけの時間がただただ惜しかった。
だというのに、リリスはある日突然学び舎に作られていた練習場に現れた。
その日の空は晴れ渡っており、澄んだ空気が清々しかった。
着る物に頓着しない彼女は、魔術師のローブを身にまとい、ひとくくりにした髪をなびかせて、練習場の真ん中に仁王立ちして杖を取り出した。
周囲はじっとそれを見守りながらゴクリと唾を飲み込んだ。
本の虫のリリス。その杖を見た事がある者はほとんどいない。
使われる術がどのようなものかも、知られていない。
多くの視線が集中する中、リリスは、自身が知る中で自身の魔力量ギリギリだと想定される最高位の魔法を紡ぎあげる。
リリスの魔術。それは、歌。
少女の声は愛らしく。響く言葉は神秘的。高く低く抑揚のつけられた音は正に天上の音色。
しかし、訪れたのは恐怖の瞬間。
黒稲妻が天から地までを真っ二つに引き裂き、王都中に雷鳴を轟かせた。
王都に住まう人々は、何が起きたのかと恐怖し身を縮めた。王城は即座に国の魔導士と騎士団を派遣し、原因となる少女を回収した。
その日、城下から一人の少女の姿は消えた。
代わりに季節外れの新人魔導士が誕生した。
それから数年――
「リリィ、君、今日も部屋からでないつもりなの?」
柔らかい黄色の髪を後ろで束ね、深い森の緑のような優しい瞳の青年が、シャッとカーテンを開け、窓を開ける。
国の魔導士のために設けられた施設のひと部屋、たくさんの資料を積み上げていた少女はそれに特に文句もなくただもくもくと本を読みふけっている。
「ねぇ、聞いてる?っていうか、もうちょっと身支度に気を使おうよ。」
「聞いてる。今日はこの本を読みたいから終わるまではでない。櫛ならそこにあるから勝手に使って。」
青年は全くもう…と、腰に手を当てながら息をはいた。
彼は、魔導士の塔に出入りするにはきれいすぎる身なりをしていた。全体的に白い服は、縁取りや刺繍の施された仕立ての良いもの。履いている長靴も汚れひとつなく磨かれておりぴかぴかだ。長い髪に痛みはないし、指先もきれいに磨かれているが、それに反して手のひらの皮は厚く、そこここにたこができている。
対するリリスはといえば、適当に縛り上げた黒いくしゃくしゃののばしっぱなしの髪。長い前髪で埋もれた顔。しわくちゃな真っ黒いローブ。そのローブなど、国が所属する魔導士に配布している飾りもそっけもないもので、正直他に着ている魔導士などほとんどいない。着ているとしたら、リリス同様全く自分の服装に頓着しない者ばかりだ。
「リリィ…ちょっとは動かないと、いざってときに体が動かないよ。」
「読み終わったらね。」
青年はもう一度息を吐き、きょろりと部屋の中を見渡した。リリスが座っているのは部屋の真ん中に鎮座したソファー。セットになっているテーブルにいくつもの本が山となっていて、壁際には本棚がいくつかと、勉強机が1つ。
その勉強机の上に、鏡と櫛がそっけなく置かれているのが見え、青年は机に歩みより櫛を手に取った。
「借りるからね。」
「ご随意に」
彼は、本から顔を離さないリリスの後ろに立ち、くしゃくしゃな髪を手に取った。適当に括った紐を外し、毛先からそっと櫛梳る。
長いのに、適当に扱うからその黒髪は変なところではねたりうねったりしている。それらに優しく櫛を通し、丁寧に丁寧に整えていく。
きちんと櫛を通せば緩い流れを描きながら艶ある輝きを取り戻せるというのに、彼女はとんとそんなこと気にしない。ともすれば、前髪で顔もほとんど隠れてしまうし、だらだらと長いだけのむさ苦しいばかりの頭でその辺を闊歩しているのだから驚きを通り越してショックを受けたことが何度もある。
「君の髪は綺麗な黒なんだから、大事にしてあげないとかわいそうだよ。」
「イシスが大事にしてくれてるから十分恵まれてるわ。」
「それに、そんなに顔が隠れて。綺麗な湖面のような瞳がもったいない。」
「青だか紫だか濃いんだか薄いんだかわからないこの目をそういうのはイシス位なものね。嬉しいわ」
「あのね、そうじゃなくて…」
「そもそも私が会うのなんて、イシス位じゃない」
「あのね、僕が居ない日もあるし、王城にはたくさん人がいるでしょ。」
「一年通じてイシスのいる日の方が多いから良いし、すれ違う人は会っているとは言わないのよ。」
話しながらもものすごいスピードで文字を追っていく視線と、ページを繰る手。後ろから見ている青年――イシスは、いつもの事ながらすさまじい読解力と速読に舌を巻きながらもようやく頭部に到達した櫛を優しくリリスの後頭部に当てる。
「来週からまた国境だから、それまでに一度、髪を整えに連れてかせて欲しいんだけど。」
「これを読み終わったら行けるかな。」
「いつ終わるの?」
「今日中には終わると思うよ。」
気負いのない声で告げられるが、その超難読な書物が今日中に読み終わるという返事にイシスはくらくらとする。くらくらしながらも、思った以上に早く動いてくれそうだということに安堵した。
ああ、でも、そこで安心すると痛い目をみるというのはこれまでの経験でよくわかっている。
「午後、その本読み終わったら絶対僕のところに来てよ?」
「わかった。」
「約束?」
「うん。約束ね。」
よし、約束したから絶対だよ。と念押ししてイシスはやっと満足げにこれで良いと密かな笑いをこぼした。
リリスは本を読み終わるまでは梃子でも動かないような子だ。けど、ちゃんとタイミングさえあえば外にも出てくれるし、生活リズムは守る主義だった。
今回みたいに読み終わったら良いよと言われた際、きちんと約束をしておけば絶対にそれは守ってくれる。とても素直な子なのだ。
ただし、読み終わったら良いよ。の一言に安心してぼさっとしていると、次の本を読み始めてしまい、また振り出しに…なんて事が起きえるので気を付けなければいけない。
「よし、きれいになった。」
「ありがと。またしばっといて。」
満足げなイシスの声にちゃんとお礼を述べてリリスは少しだけ本から顔をあげた。
その顔はあどけない少女のもの。
日の光が透けて深い湖面の表層のような色をした瞳が少しだけ嬉しそうに見上げてくる。イシスはその不思議な色が好きだった。
さっきはずした紐は適当にもほどがある物だったから、シュルリと自分の首を飾っていたスカーフを外し、彼女の髪をそれで結う。せっかくだからと勝手にサイドテールにして左肩から前へ髪が落ちる流れに整える。
結んだリボンが少しでも視界にはいるように。
勝手に髪型を変えたイシスに、特に文句もなくリリスは自分の髪の位置を少しだけ整え、結われたスカーフをちょっとだけつつき、また本へと没頭した。
イシスはそれに満足し、じゃあ、午後にねと部屋から去っていった。
残された部屋には、カーテンを開いた窓辺から明るい光が射し、開いたままの窓から柔らかな風が吹き抜けている。彼が来る数分前の薄暗い部屋とは大違いである。お陰で彼が来た日はいつも本が読みやすいし埃っぽさに辟易することもない。
本が読めればなんでも良いリリスだが、環境が良いと勉強がはかどるというのを教えてくれたのはイシスだった。
ペラペラと本を繰りながら、今日は早く読み終わりそうだなとそんな事を思う。