8
雛菊は午前の業務を終えると梓と交代した。
梓がいるので土日は休みか、こうして早番遅番と振り分けられている。
受付業務の多い午前は雛菊で、時間配分的には午後よりも短い。
お疲れ様でしたと紫野と梓に告げてから、雛菊はもふもふ堂からまっすぐ帰宅した。
そして午後からは家の掃除など家事全般に時間を使い、夕方になると急いで楠動物病院へと足を進めた。
毎日通っているので迷惑だとは思っていても、あの小さな柴犬の顔を見なくてはどうしても落ち着かないのだ。
ちょうど午後の診察が始まったところに着いてしまい、いつものように煩わしがられるだろうかと悩みながら覚悟して踏み込むと、意外なことに、ちなみに友好的に迎え入れられた。
ちなみ以外の看護師は反対に、紫野がいないのでがっかりした顔をしている。
「あの柴ちゃんに面会ですね」
「はい。……元気ですか?」
雛菊が訊くと、ちなみは案内をしながら「元気ですよ」とにこやかに言った。
紫野に対して棘のある対応をしているのに慣れていたせいか、この変化には戸惑った。
よく思い出してみれば、他の人には人当たりよく接していたかもしれない。
あまりに紫野につっけんどんなせいで、そちらの印象が強すぎた。
そんな彼女が連れてきてくれた入院室で、あの柴犬が雛菊を見上げて弱々しくだが、はたりと一度だけしっぽを振った。
「い、今……しっぽを!」
「そうですね。人に怯える様子は少し残ってますが、日常的に酷い虐待をされていた訳ではないようなので、このまま回復したら里親さんに引き渡しても平気でしょう」
「……里親さん、ですか?」
「ご希望なら早めに仰ってくださいね。あのド変態犬王子が里親さんを見つけて来る前に」
ちなみの口調に、辛辣なものが混じった。
「ド変、態……」
「変態でしょう。あれは。見た目で得してるだけで、実は好き嫌いが激しいし、ねちねちしつこい嫌な男ですよ。全く」
やはり紫野にだけは、風当たりがきつい。
もしかして彼女との間に、何かあったのだろうかと勘繰ってしまいそうになる。
(例えば、昔付き合っていたとか……)
二人のことが気になりつつも、雛菊は邪念を振り払い、目の前の柴犬へと集中した。
三角の耳が雛菊へと向けられているので、そっと話しかけた。
「今日は私一人でごめんね。紫野さんはまだお仕事だけど、後で来るからね?」
柴犬はわかったのか、また、はたんとしっぽを振った。
嬉しくなって、ちなみを振り返ると不思議と苦笑いを浮かべていて、雛菊の隣へとしゃがんで言った。
「この子は元の飼い主が女性だったので、男性よりも女性の方が好きみたいですけどね」
「……あんなことをされてもですか?」
ちなみは、やるせなさそうに言った。
「何があったって、可愛がられていた記憶はなくなりません。置き去りにされても、お腹が空いても、この子は飼い主の帰りを待っていたんだと思いますよ。たぶん……今も」
彼女は深く長いため息をついた。
「その飼い主の方が引き取ることはないんですか?」
「……警察から連絡が来て、置き去りにしたことは認めなかったようで、引き取ることで一旦話はついたんですがね。……裏から手を回して邪魔した人間がいまして」
ちなみの口ぶりから、それが紫野であると容易に想像がついた。
雛菊の知らない水面下で、そんなことをしていたらしい。
「まぁ私も、いい里親さんにもらわれた方がこの子のためだとは思いますが」
ちなみがケージの隙間から指を入れて、柴犬の頭をちょいちょいと擽るように撫でた。
(う、羨ましい……!)
羨望の眼差しはすぐに気づかれ、「触りますか?」とケージの扉を開けてくれた。
雛菊は喜色を浮かべておそるおそる手を伸ばして頭に触れた。
柔らかで密に生えた小麦色の被毛が、何とも心地がよくて、頬が緩む。
柴犬も全く嫌がることなく雛菊に頭を摺り寄せてきて、胸がきゅんきゅんとした。
「はぁぁー…可愛い……、抱っこしたい」
「抱っこはだめです」
心情をもらしたせいで、無情にも扉が閉められた。
(あぁ……)
短い触れ合いタイムだったが、指先にまだ感覚が残っている。
思いきりもみくちゃにして撫で回せる日をそっと夢見ていると、楠が顔を覗かせた。
「お前、また来たのか。紫野は?」
「紫野さんはまだ仕事中です。――――あ、そういえば、この間こちらでお会いしたチワワが来店しましたよ」
「チワワ?」
どのチワワかと眉を寄せて記憶を探るように、楠は首を捻った。
漠然とチワワだけでは伝わらないと気づいて、雛菊はバニラだと告げると、彼はちなみと顔を見合わせた。
「あー、バニラか。あの、とにかく狂暴な」
「あのバニラですか……。何をしても噛みますよね。飼い主さんがいないと、特に」
「え?バニラ、噛むんですか……?」
ちっちゃくてもやんちゃで活発そうな感じはしていたが、まさか噛む子だったとは。
紫野が雛菊に触るなと忠告したのは、きっとそのためだ。
何も知らずに、気落ちしていた。
親切で言ってくれていたのに。
「しかし、紫野もまた厄介な客に捕まったな。あのお嬢ちゃん、どう考えても紫野目当てだろ」
「え……?」
「でしょうね。あの男をそう簡単に落とせるとは思いませんが。あれは草食のふりした肉食ですから、追われるより追う方が好みでしょうし」
「まぁな。……そこで動揺してるお前も、紫野狙うなんて心がすり減る真似は、おすすめしないぞ?」
からかい口調で言われ、雛菊はすぐさま否定した。
「まさか!そんな不相応なことは、これっぽっちも!あんなに素敵な紫野さんと、こんな何の取り柄もない残念な塊の私とでは、例え世界に二人だけになったとしても何も起こり得ませんよ。……ただ、紫野さんが誰かと結婚されて、その方がもふもふ堂を手伝うことになれば、私はバイトをクビになるのかと今から気が気でないです……」
紫野の伴侶を差し置いて、トリミングもできない素人を雇っていては儲からない。
せっかく毎日もふもふたちを眺め、時に触り、癒しを得ていたのに、そんな可能性をこれまで想定していなかったことが情けない。
はぁ、と嘆息をこぼすと、柴犬がくいっと首を傾げていた。
「……おい、ちな。俺はどこから突っ込めばいい?」
「いっそ放置が望ましいかと」
「わかった」
雛菊は彼らのひそひそ話に聞き耳を立てることなく、不思議そうな顔をしている柴犬を見つめて心の充電をした。
長々居続けるのは気が引けるので、最後にもう一度撫でさせてもらってから、楠動物病院を後にした。
しかしバニラのことが頭の片隅に引っ掛かり、雛菊はもふもふ堂へと足を伸ばしてしまった。
下校中の制服の少女たちが、可愛い可愛いと黄色い声をあげながら、ガラス窓に張りついている。
さすがにそこへ割り入る勇気はなかった。
でも、ちらっとだけ。そう決めて店の前を通り過ぎた時、店内にいる梓と偶然目が合ってしまった。
数時間前に帰ったはずの人間がここにいては、怪しまれるのは当然で、訝しげな眼差しが痛い。
雛菊はさっと会釈をして、踵を返した。
(紫野さん、噛まれたりしていなといいけれど……)
今さら雛菊が心配することでもないが、気になるものは気になる。
(そうだ。何か差し入れを持ってきて、さりげなく様子を見て来ればいいんだ)
海里に犬が喜ぶ物がいいと言われていたが、何にすればいいのか。
思案しながら商店街を歩いていると、八百屋のおばさんに引き留められた。
「そこの!紫野くんの彼女!」
「いえ、彼女では……」
「栗!安いよ!実も大ぶりで、甘くて、これだけ入ってお得だよ!買ってきな!」
ネットに入ったごろごろとした栗は確かに一粒一粒が大きく、今年は栗ご飯を作っていなかったなと思っている内に、雛菊はレジへと並ばされていた。
しかし大量の栗。独り暮らしには、少々持て余す。
(この栗を栗ご飯にして、撫子たちに持って行こうかな……)
「すみません。犬って、栗ご飯を食べますか?」
雛菊がお金を払いながら問いかけると、おばさんが一瞬きょとんとしてから笑いこけた。
「そんなの彼氏に聞けばいいじゃないの!」
「あの、だから彼氏では……」
雛菊が栗の入った袋とお釣りを手渡されて、後ろに並ぶ人がいたのですごすごとはけた。
(だめだ。何度否定しても、聞く耳を持ってくれない……)
紫野の彼女というポジションに雛菊がいては、本命の彼女ができた時に問題が起こるのではないか。
それだけが雛菊の懸念だ。
栗の袋を携えて再びもふもふ堂を訪れると、見物人はもういなくなっていた。
そしてなぜかトリミング室のブラインドが下りてしまっている。
閉店にはまだ早い。
店内にお客様はいないが、照明はついているので営業中であることは間違いない。
雛菊は躊躇いがちにドアを開けて様子を窺った。
外にはもれていなかったが、入店した途端、トリミング室から唸り声が聞こえてきた。
ぐるる……と、犬が変わったように牙を剥き出しにしたバニラが、首に水色のカラーを装着させられて暴れている姿が雛菊の目に映った。
紫野は真剣な面持ちで、足裏の毛をバリカンで刈っている。それが嫌なのか、上げられた足を引いてバニラはもがく。
トリミング台につけられた棒にもふもふ堂のリードを短く縛りつけ、バニラが逃げたり落ちたりしないようにしてある。
手早く足裏を終えると、バニラは浴槽へと連れていかれた。
雛菊の位置からは覗けないが、ちらちらとカラーが見え隠れしているので、その度に嫌がっているのがわかった。
それでも宥めながらやっていく内に、少しずつだが落ち着きを取り戻していった。
「……気になって来た?」
突然声をかけられて、雛菊ははっと横を見ると、すぐ傍にホテルに宿泊中の犬を連れた梓がいた。
紫野に集中していて、全く気がつかなかった。
「ごめんなさい、勝手に入って」
「別に。西……お姉さんは、吠えたり噛んだりしないから」
冗談なのかがいまいちわかりにくい。
梓は雛菊を捨て犬認識しているせいだろうか。
それとも、比喩表現なのか。
「……媚びもしないしな」
「……?」
「散歩に行ってくる」
入り口付近に突っ立っていた雛菊は、すぐに脇へとずれた。
「あ、梓くん」
「何?」
引き止めると、梓は顔だけ振り返った。
不機嫌そうに見えたので、用件を素早く切り出した。
「犬って栗ご飯を食べるかな?」
「食べると思う。何で?」
雛菊は栗の入った袋を掲げた。
「一人で食べきれなさそうで、撫子とわたあめにおすそわけしようと思ったんだけど……」
だめだったのだろうか。
梓は思案顔をして雛菊をじっと見つめている。
「人間の分には足りない、ってこと?」
「そんなことはないよ。一家族分くらいはあるから」
そう言うと、彼はちらっと紫野を窺い見てから、自宅へと繋がる扉を指差した。
「そこから二階に上がれるから」
そう言い残して、散歩へと出掛けていった。
取り残された雛菊は、バニラを乾かす紫野を横目に、梓が出ていった入り口の扉を眺めながら思った。
(梓くん、栗ご飯を食べたかったとか?)
従順な雛菊は、紫野かバニラを無事終えるのをしっかりと見届けてから、梓の指示に従い二階に行った。
そこで撫子とわたあめが寄り添い眠る姿を目撃し、声なく震えた。
(何て眼福!至福の時を、ありがとう……!)
雛菊は梓に深く感謝をした。
彼らを起こしてしまわないように、とりあえず黙々と栗の皮を剥くところから始めた。
一時間ほどして玄関の開く音がして、ほたるの声が轟いた。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
誰もいないと思っていたのに返事があったせいか、ほたるは驚いて飛び込んできた。しかし雛菊の姿を目に止めると、ほっとした様子で胸に手を当て息をついた。
「びっくりしたー……梓のお母さんではないし、また知らない女の人が入って来たかと思った……」
ほたるはどっと疲れが出たのか、ソファへと深く腰かけ頭をこてんと背凭れへと乗せた。
わたあめは嬉しさで千切れそうなほどしっぽを振って、足元をちょろちょろとしている。
梓のお母さん、という表現も気になったが、もう一つの方が気になった。
「私もほとんど、知らない人だけど……?」
「お姉さんはお兄さんのこ……じゃない、お店のバイトさんだから、全然構わないです。そういう感じではなくて、何て言うんだっけ?……押し掛け女房?みたいな人たちのことです」
「押し掛け女房?」
それはまた大それたことを。壮大に勇気のある人にしか起こせない行為だ。
雛菊は梓に許可をもらわなければ、佐千原家の自宅に一歩でも踏み込む自信はない。
「勝手にご飯を作ってたりー」
雛菊は、どきりとした。
正しく今現在、勝手にご飯を作っている。
しかも栗ご飯以外も、冷蔵庫の中を無断で漁り、手をつけてしまった。
鍋を掻き回すお玉を持つ手が、動揺で震えた。
「撫子を手懐けようとしたり、ね?」
雛菊が再びどきっと心臓が跳ねさせている向こうで、ほたるは撫子へと同意を求めている。
後で密かに撫子に抱きつこうとしていたことを、見抜かれているのだろうか。
「強引な……肉食系?の人ばかりで」
「そんなにたくさん?」
「たくさんではありませんけど、お店に通いつめている人を入れたら、結構かもしれません。お兄さんもそれがわかっているから、自分を狙ってる人には一応接し方を変えているみたいですけど……」
ほたるの言葉で腑に落ちることがあった。
あの笑顔の質の違い。
お客様との間に、一線を引くという意味が込められていたのだ。
お客様は皆、紫野が好きで信頼しているからリピーターになっている。
純粋に愛犬のためにもふもふ堂を選んでいるお客様には本当の笑顔を、そうでないお客様には、店長として営業用の笑顔を。
例え雛菊が彼に恋心を抱いたら、今向けられてる優しい顔も言葉も、変わってしまうのだろうか。
それは想像しただけでとても切なく、寂しい。
しばらくは泣き暮らせそうなほどに。
紫野のことは人として尊敬でき、好ましい人物だと思っている。
この気持ちがいけない方へと膨らむ前に、知れてよかったのかもしれない。
(間違っても、好きにならないようにしないと)
雛菊は固く、心で誓った。