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 病院を出ると、雛菊たちの目の前にチワワが、にゅっと脇から飛び出してきた。

 さっきのチワワだ。

 飼い主である彼女も、もちろんそこにいる。

 紫野に用があるのはその態度から見ても明白で、雛菊はこの場にいてもいいものかと悩んだ。

 追い討ちをかけるように、彼女は二人の間へとさりげなく割り込んでくる。

 紫野は誰に対しても邪険な態度を取らないところが紳士的で尊敬に値する。


(この場合、邪魔なのは私だけれど……)


「看護師さんから聞きました!この近くのペットサロンの人なんですよね!今度うちの子を連れて行ってもいいですかぁ?」


 紫野の腕を組まんばかりの密着度。

 チワワは飼い主である女性が自分を見てくれないので、キャンキャンと吠えて気を引こうとしている。

 紫野は、「ええ、はい」と答えながら名刺を渡しているが、チワワをちらちらと気にかけていた。

 綺麗でスタイルのいい女性よりも、そのペットのチワワ。

 どこまでも徹底している。


「すみません。まだ仕事が残っておりますので、これで失礼します。……行くよ」


「あ、はい」


 目配せされて、雛菊は素直に従った。

 紫野がにこやかに会釈をすると、彼女は笑顔で手を振ったが、雛菊はいない者扱いだった。

 紫野しか見えていないのは仕方がない。

 足早に歩き出した紫野を追いかけて、雛菊は半歩引いたやや隣あたりへと並んだ。


「新規のお客様が増えそうですね」


「今でも手一杯だけれどね。でも、……うん。リピーターになったら……」


 何か懸念でもあるのか、紫野の表情は冴えない。


「きっと、なってくれますよ!私、今日初めて紫野さんがカットをているところを見て、息することも忘れるぐらい、目を奪われましたから」


 雛菊は惜しげもなく褒め称えた。

 きっと紫野ならばこれくらいのことは言われ慣れているだろうと思って。

 彼はじっと雛菊を見つめてから、照れを誤魔化すように肩を竦めて「ありがとう」と言った。

 ほんのりと頰が色づき、浮かない顔が消えて、いつもの穏やかな紫野へと戻った。

 まだ仕事が残っていると言っていたが、もふもふ堂ではなく、雛菊をアパートまで紫野はついて来る。

 薄暗い程度なのに、また送ってくれるみたいだ。


「毎日、申し訳ないですから、ここまででいいです」


 商店街に入ったところでやんわりと断ったが、寂しそうな顔をして彼は言う。


「もしかして、迷惑だった?」


「迷惑だなんて、とんでもない。むしろ迷惑でしょう?」


 これが恋人ならばいいのだが、たかが一従業員なのに、家まで雇い主に送らせては申し訳がたたない。


「迷惑ではないよ。嫌ならやめる」


「嫌だなんてことは……!」


 全くない。紫野との会話は楽しいので、ずっと散歩していたいぐらいだ。

 雛菊が否定すると、紫野はほっとした様子で言った。


「ストーカーみたいで嫌なのかと」


「まさかストーカーだなんて!私にストーカーする奇特な人なんていませんよ」


 紫野があんまりおかしなことを言うものだから、雛菊は思わずくすくすと笑ってしまった。

 ストーカーは綺麗な女性がされるもので、雛菊はせいぜいひったくりに遭うぐらいがいいところだ。


「……これは、過保護にならざるを得ないというか……」


 紫野が何か呟いたが、上手く聞き取れなかった。


「……?」


「こっちの話。……そうだ。買い物はしておく?」


 コンビニのおにぎりで夕飯を済ませてしまおうかと考えていた雛菊は、まだぽつぽつとシャッターが開いている商店街を眺めて、それも有りかと頷いた。

 八百屋に入ると早速、籠を持った紫野が、レジにいたお店のおばさんに話しかけられていた。


「あら、紫野くん久しぶり。もしかして、彼女?」


「彼女はうちの従業員ですよ。恋人は、まだ撫子です」


 紫野はにこやかに否定するも、彼女は一度食いついたら離さない。


「まだ、ねぇ?ただの従業員なら、仲良く買い物なんてしないわよね?」


 今度は買い物客のおばさんへと、同意を求めている。


「あんた、隠してると後で商店街連中にぐちぐち言われるよ?」


 紫野はおばさんたちに痛くもない腹を探られているが、笑って躱している。

 根も葉もない噂が商店街中に広がったら大変だ。

 この状況だけならば誤解されるかもしれないが、相手が雛菊のような冴えない女だとわかれば勘違いもすぐに解けるはず。

 そう思ったのだが、雛菊が口を挟む隙間など、どこをどう探しても見つからなかった。


「今度こそ、上手くいくようにがんばりなさい!」


「そうそう。犬ばかり優先してちゃ、一生結婚できないからね」


 言いたい放題のおばさんたちだが、紫野は嫌そうな顔はしていない。

 いつものこと、という感じなのかもしれない。

 紫野が犬にかまけて彼女を蔑ろにしてこっぴどくフラれたというきわどい情報までもが笑い話にしてしまっている。

 雛菊は、傍ではらはらするだけだ。


「あんたも紫野くんを見捨てるんじゃないよ!」


 雛菊はバシンッと背に活を入れられた。


「は、はい……」


 そう返事をしないと、きっと終わらない。雛菊はそう思った。

 あれだけからかわれていたのに、どことなく機嫌のよい紫野が、叩かれた背中を撫でてくれた。

 おばさんにあれやこれやと言いくるめられて必要のない物を買わされかけたが、そこは紫野が失礼にならないよう断ってくれたので助かった。

 肉屋や魚屋でも似たようなことを言われ続けて、店を後にする度に肩身が狭くなっていく。

 結局、雛菊と紫野の関係が、否定しきれずうやむやになってしまった。


「ごめん。皆、悪気はないんだ」


 増える荷物のほとんどを持ってくれているのに、彼は頭を下げてきた。


「いえ、そんなことはっ……!」


 謝りたいのはこちらだ。

 紫野と釣り合いの取れた人ならまだしも。


「それに、紫野さんの恋人の話を、なるべく聞かないようにはしてたんですが……」


 ほぼ聞いてしまったので、聞かないようにしたとは言えないのだが。


「あれは周知の事実だから、別に構わないよ。随分と昔の話だし」


 あまりにもあっさりとしている。未練はなさそうだ。

 しかしそれ以降、恋人はいないのだろうか。

 世間の女性が、彼を放っておくはずがないようにも思う。

 皆に騒がれるから、もしかしたら関係を隠していたということもありえる。


「若い頃は、人を見る目がなかったんだろうね」


 紫野は懐かしむように、ぽつんと言った。

 雛菊には耳が痛い言葉だ。

 つい数ヶ月最近まで、人を見る目が曇りきっていたのだから。


「今は撫子が恋人役を務めてくれてるけど、いつかはいい伴侶を迎えて、子供を生ませてあげたいかな」


 ちょっとした夢だと、紫野が苦笑して語った。


「お婿さんを迎えるんですか?」


「できればね。いい雄がいれば。……いい雄が」


 黒い紫野が一瞬垣間見えた。

 今のところお眼鏡に適う雄はいなさそうだ。

 撫子は紫野にとって、きっと娘同然なのだろう。

 他の男に、本当は渡したくなさそうな渋い表情をしている。

 そうこうしている間にアパートにつき、紫野はわざわざ荷物を部屋まで運んでくれた。

 ここまでしてもらっているので、お礼を兼ねて部屋へと招いたが、彼は曖昧な顔をしてから、諭すように告げた。


「簡単に男を、部屋に入れない方がいいよ」


 雛菊だって一応、極めて安全な紫野だから招いたのであって、他の人ならば多少なりとは警戒をする。……たぶん。

 無理強いするつもりはなかったので、玄関先でまた明日と微笑んだ紫野にお礼を言うに留めた。

 彼が階段を下りていく足音が聞こえなくなったあたりで見送りをやめ、部屋へと入ると鍵をかけてベランダへと駆けた。

 来た道を戻る紫野の姿を、雛菊はしばらく目に映し続けた。





 一人の寂しい食事を終えたのを見計らったかのように、海里から連絡が来た。


「ねぇちゃん、バイトはどう?」


「どうしたの?そんなことを聞くなんて」


 雛菊は食後のお茶を飲みながら問い返す。


「何か……声が弾んでるから」


(あ、そうかもしれない……)


 塞ぎ込んでいた日々が、たった数日で遠い過去のように感じられる。

 環境の変化が雛菊の心を軽くさせていた。


「例のおと……ごほん。店長って人とは、きっちり公私混同せずに接してるよね?」


「うん。毎日家まで送ってくれること以外は、普通に――」


「…………毎日、送ってもらってる?」


 途端、海里の声が急激に低くなった。

 それからかすかにため息の音。

 いくら親切な紫野とはいえ、やはり他人にそこまで甘えてはいけなかったのだ。

 海里が不快に感じるのは、当然かもしれない。


「……すみません」


「……ああ、うん。……まぁ、わかればいいよ。ねぇちゃんが気兼ねなく頼っていいのは、弟の俺だけだから、他人を煩わせるなよ?」


「……はい」


「ちなみにそれって、完全なる善意?」


「うん」


 善意以外に何があるというのだろうか。

 紫野が雛菊によくしてくれるのは、梓に拾われた途方に暮れた捨て犬だと思われているからだ。


「でも家には絶対にあげるなよ」


「うん。お礼にお茶でもと思ったんだけれど、断られて。簡単に男を部屋に入れない方がいいよ、だって。本当にいい人だよね」


「…………まじか」


「……?」


「ああ、もう!ねぇちゃんは、絶っっ望的に人を見る目がないんだから、迂闊に人を家にあげようとするなよ!」


「絶望的に……」


「むしろ、壊滅的に?」


 海里にそこまて言われては、しばらくは立ち直れそうにない。


「で、でも……送ってもらって何もお返ししないのは、失礼になるでしょう?」


「……だから……に、つけ込……だよ」


 電波状況が悪いのか、海里が低い声で何かを言っているようだが、上手く聞き取れなかった。


「え?何て言ったの?」


「それなら、今度何か差し入れでも持っていったら、って言ったの。犬に」


 犬に、という部分をやたら強調して言った。

 海里は賢いので、なかなか目のつけどころがいい。

 紫野への差し入れだとどこかあざとい印象を受けるが、撫子たちへなら喜んで受け取ってくれそうだ。


「犬用のケーキとかがいいかな?」


「今、そんなのがあるの?」


 両親が動物嫌いでも、雛菊同様、海里も動物好きだった。

 もふもふではないが、金魚を二匹、大きな水槽で飼っている。

 昔雛菊が金魚すくいでとってあげた金魚は、年月をかけて、拳ほどの大きさにまで成長した。

 赤い金魚がデイジーで、黒い金魚がオーシャンだ。


「うん、あるみたい。犬用でも、ちきんとクリームが乗ってて、美味しそうだったよ」


 ペットショップでディスプレイされているのも見たことがあるし、紫野のレシピの中にもあった。


「へぇ……。犬ってケーキ食べるんだ。いいなぁ……。なんか、ねぇちゃんのケーキ食べたくなってきた」


「次は私の誕生日でしょう?それまではお預けです」


 なぜか少し間があり、海里が手探りで確かめるように尋ねてきた。


「それは……誕生日、一緒にお祝いしようってこと?」


「えっ、うん……」


 弟と自分の誕生日を祝うだなんて、考えてみれば寂しすぎたかもしれない。

 海里も忙しいし、姉の誕生日なんて祝う暇があるかどうか……。

 雛菊の感情が沈みきる寸前で、海里がどこか澄ました声音で答えた。


「……どうしてもって言うなら、祝ってあげてもいいけど」


 やっぱり海里は姉思いのいい子だった。

 まだ先の話ではあるが、これで虚しすぎる一人ぼっちの誕生日をしなくて済む。

 一つ年を取ることに関しては、全く嬉しくもないが。

 もしかしたら海里が祝ってくれるのも、今年が最後かもしれない。

 姉とは比べ物にならないくらい、そつのない弟だ。

 あまり続いた彼女はいなかったが、いい子がいれば結婚も早いだろう。


(海里の子供が生まれたら、私は伯母さんか……)


 大人になれば自然と誰かと惹かれ合い結婚できると思っていた自分に教えてあげたい。

 とりあえず既婚者には気をつけろ、と。

 海里と他愛ない近況報告をし終えてから、雛菊は大きく嘆息をもらした。

 それからお茶を飲み干し、ベランダに涼みに出た。

 虫の音が重なり、心地よい響きを奏でている。

 後一つ、物足りなさを感じるのは、人肌などではなく、きっともふもふした生き物なのだろう。




♢♦︎♢♦︎♢♦︎




 仕事の流れだけなら何となく掴めてきた数日後の午前中、動物病院で会ったあのチワワが飛び入りで来店した。

 紫野はトリミング室で、元気に汚れたラブラドールレトリバーのラブを、お風呂でひたすら泡立てている。

 汚れ過ぎていていくらシャンプーを使っても泡立たないのか、顔にはみせないが奮闘している。

 午後から梓がヘルプに入る。カットのない子ならば受け入れてもよいと事前に言われていたので、雛菊は白紙の顧客カルテの個人情報部分の記入をお願いした。

 テーブルに案内すると、彼女は面倒そうにだがチワワを膝へと乗せ、ラインストーンで飾られた綺麗な指先でさらさらとボールペンを走らせた。

 名前の欄にはまるっこい文字で、高瀬結華とある。

 フリガナにはユーカと書かれているが、ユウカではないのかと秘かに悩む。

 略称でもいいのか、後で紫野に訊かなくては。


「担当者って、指名ってできるの?」


 初めてそんな質問を受けたので、雛菊は一瞬戸惑った。


「指名……。午後からアルバイトが入りますが、基本的には店長が全て行っております」


「あの人だよね?」


 ボールペンの先でガラス越しに紫野を差すので、そうであると伝えた。


「ここ何時まで?」


「受付は五時までとなっております。閉店時刻は七時で、それまでにお迎えをお願いしています」


 ふーんと適当に相槌を打ち、頬杖をつく結華。

 チワワはテーブルに前肢を乗せて、よじ登ろうとしていた。

 注意しようと口を開いたタイミングで、結華が言った。


「じゃあ七時に来るから」


「……はい」


 雛菊は愛犬のプロフィール欄をさりげなく一瞥した。

 雄のロングコートチワワの、バニラ。

 クリーム色の毛色をしているからだろうか。


「あなたトリマー?」


「いえ、違いますが」


「だったら担当者を呼んでよ。カットのこととか、説明するのに二度手間になるでしょ?」


 細かなカットの指定がある場合は、紫野へと相談した方がいい。

 しかし……。と、雛菊は、ついにテーブルへと登頂したチワワを眺めて内心首を傾げつつ、紫野へと判断を仰ぐことに決めた。

 あれこれ考えて時間を浪費するくらいなら聞け、というのがもふもふ堂のルールだ。

 トリミング台で首をぶるんぶるん振って水滴を飛ばすラブの、タオルドライをしている紫野へと、お客様の要望を伝えた。

 紫野の耳は雛菊へと傾け、手はがしがしとラブを拭き、五秒ほど思案してから湿ったタオル渡してきた。


「行ってくるから、タオルドライをしておいて。絶対に、台から落とさないように」


 紫野に厳しく言いつけられて、雛菊は台に立つラブのリードをしっかりと手首へと巻きつけ、タオルで濡れている部分をごしごしと拭っていく。

 こうしたトリミングの手伝いは初めてだ。

 見よう見真似で、根気よく水分を吸い取っていく。

 ラブはやはり紫野の方がよかったのか、向こうで接客する彼を見つめている。

 結華は雛菊への態度とは百八十度変えて、にこにこして紫野に話しかけていた。

 紫野も微笑んではいるが、いわゆる営業スマイルだ。

 ここ数日で何度かお目にかかる機会があったが、誰も気づくことはなかった。

 それどころか、皆ぽぉっとして見蕩れていく。

 彼の笑顔は完璧で、普段と微々たる違いなだけなのだが、撫子へ向ける純粋な眼差しを知っているだけに、雛菊には違和感を感じてしまう。

 長々とした話を終えると、紫野がバニラのリードを預り、結華が手を振って帰っていった。

 バニラは置いていかれたことで、ドアが閉まった瞬間から悲痛な声で吠え出し、トリミング室までリードを引いて歩かせてきた紫野はかすかにため息をついた。


「……?」


 小型犬ならばいつもは上段にある犬舎に入れるのだが、紫野は大型犬用の犬舎へとバニラを入らせた。


「リードは取らなくていいんですか?」


 リードの輪っかを金網に縛りつけた紫野は、曖昧に頷いた。


「雛ちゃん、ありがとう。代わるよ」


 スタンドドライヤーをつけてた彼へと、雛菊は場所を譲る。

 トリミング室を出かけたとき、ふいに声をかけられた。


「雛ちゃん」


「はい」


「バニラには、絶対に触らないでね」


 素人には触って欲しくないと言われてしまったのだろうか。

 雛菊は少々傷つきながら頷き、トリミング室を後にした。



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