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Tシャツとジーンズに、カーキ色のロングカーディガンを羽織り、スニーカーを履いた雛菊は、出勤時間の十五分前にもふもふ堂へと到着した。
ガラス窓の向こうにはもうすでに紫野がいて、濡れたトイプードルを乾かしているところだった。
スタンドタイプのドライヤーを使い、右手でプードルを保定し、左手は素早く毛をとかしている。
腱鞘炎になりそうなほど、右手が動いているので、ついつい見入ってしまった。
それは雛菊だけではなく、道路側のガラス窓には、さりげなく女性が張りついている。一人ではなく、なんと三人も。
彼女たちは紫野の姿を、うっとりと見つめて、ほぅと感嘆をもらしていた。
真剣な男性の表情が素敵なのは当然ではあるが、それが紫野だと何割増しにもなり、惹きつけられてしまうのだ。
あの筋の浮き出たしなやかな腕の筋肉から男の色気を感じると、彼女たちは盛り上がっている。
(私は、あの瞳が好きだな……って、何を考えて――)
せっかく早めに着いたというのに、いつの間にか時間が経過してしまっていた。
やる気がないとクビだというのに、これではいけない。
ドアを潜った雛菊は、紫野に挨拶を……と思ったが、忙しそうなので目が合った瞬間にすかさず会釈をしておくに留めた。
キリのいいところまで待っててと、一瞥してきたその目が告げている。
雛菊はとりあえず鞄を隅へと置き、カウンターにある椅子へと腰かけようか迷っていたその時、
――――プルルルルル……。
固定電話が鳴り響き、くせで三コール過ぎる前に受話器を取ってしまった。
「いつもお世話になっております。ま、……もふもふ堂でございます」
危うく前の会社名を言いかけてしまい、雛菊は冷や汗をかく。
「桜町のバロンです。予約をお願いしたんだけど――」
(桜町……?バロン……さん?)
混乱している雛菊をよそに、相手が会話を続けようとしていたので、紫野へと取り次ぐことを瞬時に決めた。
「少々お待ちください。担当の者に代わります」
雛菊は丁重に告げ、保留ボタンを押してトリミング室の扉を開いて顔を覗かせると、
「ドア!すぐに閉めて!」
ぴしゃりと言われて、雛菊は慌てて中へと入った。
後でメモ帳に、ドアはすぐに閉める!と赤ペンで書いておかなくては。
「桜町の、バロンさん?という方がご予約を取りたいそうです。いかがしましょうか?」
雛菊が仕事モードで至って真面目に伝えたのに、紫野は目を瞬いてから、小さく噴き出した。
「……?」
「ううん。……ふふっ。内線に回して。後、カウンターに予約帳があるから持ってきて。……ふふっ」
紫野は何がツボに嵌まったのかくすくす笑い、プードルを片腕で抱っこして、子機へと手を伸ばした。
雛菊はカウンターから、予約帳と記されたファイルを携えて、ドアを素早く潜り抜けるときっちりと閉めて、それを手渡した。
紫野は和やかにお客様と会話をし、相槌を打ちながら口パクで「この子見てて」てプードルを目で示した。
トリミング台の上で大人しくしゃんと立っているプードルだったが、誤って転落してしまわないように細心の注意しながら支えた。
シャンプーを終えてすっかり渇ききった被毛は、柔らかくて滑らかな触り心地だ。
どこにも縮れた毛は見当たらず、ふわふわとした綿毛のよう。
これからカットをするのか、もっさりとしている。
紫野はもう一台のトリミング台に乗せた予約帳に目を落として、お客様と日付の相談をしていた。
だが雛菊がプードルの頭に触れようとしたその瞬間、こちらを見ていなかったはずなのに、紫野が恐ろしい殺気を飛ばしてきた。
びっくりして手を引いた雛菊は、プードルのお腹の辺りに手を添えて、もう二度と余計なことをしないことを心に固く誓った。
「――――では金曜日の十時に、お待ちしております」
子機を置いた紫野は、さっきの射殺さんばかりの眼光などなかったかのように、いつもの穏やかさを称えて言った。
「ありがとう、雛ちゃん。でも……撫でたら被毛がへたるからやめてね。特にプードルでそれをやったら……ね」
(やったら……どうなるの!?)
優しい口調に含まれたぞっとする響きに、雛菊は、『紫野さん地雷ポイントその二』を早急にメモすることにした。
その一の、ドアの開閉についても書かなくては。
プードルを紫野の手が支えたので雛菊は手を離し、メモ帳に、四色ボールペンの赤で目立つように記入した。
「そういえば、桜町のバロンさんって言っていたよね?」
そう訊かれて、雛菊はメモ帳から顔を上げた。
「桜町のバロンだと、お客様が名乗られたので」
何かいけなかったのだろうか。
「あのね、バロンは犬の名前。飼い主の名前じゃなくてそっちで言う人もいるから、気をつけてね」
てっきりどこかの業者か、バロンと言う外国人だと思い違いをしていた雛菊は、羞恥にさっと顔を赤くした。
トリミングサロンなのだから、きちんと考えれば犬の名前だと明白だったというのに。
「でも、しっかりとした電話応対をしてくれたから、教えることが少なくて助かるよ」
紫野にアフターフォローをされたが、できて当たり前のことを褒められても……と、気落ちしながら雛菊はトリミング室を退出した。
紫野が一人で業務をこなしているからか、来客は多くはない。
雛菊は手持ちぶさたでいる訳にもいかないので、掃除道具を見つけ出し、トリミング室に侵入すると、紫野の周囲に溜まった毛玉を一掃した。
間近でシャキシャキと鋏の心地よい音が響いている。
紫野は指先に力を入れている訳ではないのに、右の刃が目で追えないほどの速度で動き、側面を沿ってなだらかに進んでいく。
(綺麗……)
細かな被毛がはらはらとトリミング台から床へと散り、その度にでこぼこだった毛並みが平らになっていく。
コームで被毛を逆立てては、わずかな段差も許さないというように高さが揃えられていく。
腰に下げた使い古された革のシザーケースから、雛菊が見ても何が違うのかわからない鋏を幾度か替えながら。
顔回りは、顎の毛を軽く摘まみ、慎重に鋏を入れていく。
テディベアカットの完成を目前に、プードルがピンク色の舌で鼻先を舐めた。
紫野がふぅと息をかけると、舌を出すのをやめる。
自分がされた訳ではないのに、雛菊はどきりとして、きゅっと箒の柄を抱くように握り締めた。
いい子だと褒めるように紫野は目を細め、顔ぶれの変わった見物客が軒並み胸を撃ち抜かれていた。
間近で見学をしていた雛菊も、例外ではない。
箒を持ったまま、目を離せずにいた。
午後になり、プードルの飼い主が迎えに来たので、雛菊が引き渡しをした。
「ありがとうございました。またどうぞよろしくお願いします」
紫野が隣で深々と頭を下げる。
リボンを両耳につけたぬいぐるみのような可愛らしさとなったプードルは、飼い主との再会に大喜びをして帰っていった。
「やっぱり飼い主さんが一番なんですね」
しみじみと言った雛菊に、紫野も同意する。
「それはそうだよ。――――はい、雛ちゃん」
紫野から手渡された顧客カルテを、五十音順に並んだ棚のファイルへとしまった。
「何か会話の中で気づいたことがあれば、お客様情報欄に書いていいからね。肯定的な言葉でだけど」
何も記入されていない白紙の顧客カルテを一枚取り出した紫野が、カウンターを挟み雛菊の前へとひらりと置いた。
お客様の個人情報欄から、犬種や毛色などの犬の情報欄、健康チェック、カットやサービスの内容、料金明細……などと、まだ多くの項目がある。
「この、特徴と言うのは何を書くんですか?」
紫野が身を乗り出して、覗き込む雛菊へと顔を寄せてきた。
紫野は頓着していないようだが、雛菊には心臓に悪い。
昨夜耳元で囁かれたことが蘇って来ないように平常心を心がけた。
「例えば爪切りが嫌いだとか耳掃除を嫌がるとか、そういう特徴を書いておくと次に来店された時に担当者が自分でなくとも、その点を気をつけて行うことができるよね」
「なるほど」
「トリミングの後に写真を送りますよって言うと、メールアドレスを教えてもらいやすくなるよ」
確かに、メールアドレスを書くのは何となく気が引けても、カット後の愛犬の姿が送られてくるなら、書いてしまうかもしれない。
雛菊は紫野の手が空く時間のみ受付業務の指導を受け、後はひたすらダイレクトメールの宛名書きに勤しみ、終わるとペットホテルに泊まっている犬を散歩させることになった。
その辺りをぐるりと一周回ってくるのが散歩コースらしい。
「リードと首輪は二つつけて散歩してね。お客様から預かっている大切な愛犬に、万が一のことがあってはいけないから」
プレッシャーをかけられて、雛菊の手は震えた。
散歩中に逃げ出すなんてことになれば、謝罪だけでは済まされない。
事故にあったり、連れ拐われでもしたら……と、最悪の事態を想像して青ざめた。
「……今日は僕が行こうか?」
「い、いいえ!平気です!」
マイナスの想像を追い払い、雛菊は首を横に振った。
雛菊の手から伸びた二本のリードの先にいるフレンチブルドッグが、早く行くぞと扉に向かって歩き出す。
昨日も撫子を散歩させたので、どきどきはするが、周囲にしっかりと目を配りつつ、犬から視線を離さなければいい。
トリミングのできない雛菊には、犬と触れ合える機会が少ない。
散歩は今のところ、唯一のチャンスだ。
「何か、気負い過ぎじゃ……」
「行ってきます!」
「……うん。いってらっしゃい」
紫野が心配そうに見つめていることも気づかず、雛菊は袋を携えて店内へと出ると、そのまま入り口のドアを押し開けて出掛けていった。
――――結果から言えば、何事もなかった。
紫野の言う通り、無駄に肩肘が張っていただけだった。
綺麗に掃除された犬舎へと戻すと、紫野は用意していたご飯と水を与えて、空調を確かめて扉を閉めた。
「雛ちゃんの仕事はここまでかな。約束通りにあの子の様子を見てこようか。……ちょっと待ってね」
紫野はトリミング室へと戻ると、使った鋏やコームを消毒して、丁寧にタオルで拭き取ると、腰に下げていたシザーケースを外す。
そのシザーケースを外して、壁のフックへとかけた。
「おまたせ。行こうか」
入り口へとしっかり鍵をかけ、紫野について楠動物病院へと向かった。
紫野は動物病院のドアを押し開けて、雛菊を先に通してくれる。
紳士的な振る舞いを自然と行えるところで、素敵さに磨きがかかる。
紫野に蕩けそうな視線を送るのは、動物看護師の若い女性や、待合室にいたこちらも若い女性。
だが見目麗しい紫野に、見蕩れない看護師の人もいた。彼女は胡散臭そうな目で紫野を見遣っている。
紫野は受付で一切迷うことなく、そちらの女性へと声をかけた。
ネームプレートには、『安城ちなみ』と記されている。
「昨日の子の様子はどうですか?」
彼女はややうんざり顔をして、丁寧に告げた。
「お昼にお伝えした通りですよ。ついでに、朝も」
朝昼と、電話で様子を聞き出していたらしい。
「昼って、もう何時間も前でしょう」
「回復の兆しが見えてきたとお伝えした通りです。もう数時間で急変することはないですから安心なさってください」
それを聞き、雛菊はほっと胸を撫で下ろした。
ぐったりとしていたあの子が、これから元気になっていくのかと思うと、安堵で涙が溢れそうになる。
「会わせて頂けますか?」
「少々お待ちください」
紫野は待合室の三人がけソファの端へと腰を下ろし、雛菊は隣へとかけると、「すみませーん」という甘ったるい声が隣のソファから聞こえてきた。
さっきから紫野を熱っぽく見つめていた女性だ。
ブランドのロゴの入った首輪をつけ、可愛らしい服を着たチワワが、紫野の足元まで歩いてきた。
(紫野さんはこんなにも犬に好かれて、羨ましいな……)
雛菊が羨望の眼差しで見た紫野は、チワワへと柔和で優しい表情を浮かべている。
だが次に女性に向けた微笑みは、雛菊の知らないものだった。
どこが違うのかは説明できないが、どことなく違う。
彼らが当たり障りなく会話をしているところに、ちなみが紫野と雛菊を中へと呼んだ。
話を中断させられた彼女は、不服そうだったが、紫野はやはり奇妙な笑みで会釈をして診察室へと入る。
雛菊も続こうとした一瞬、鋭く睨みつけらたのは、たぶん思い違いではないのだろう。
ドアがスライドして、ゆっくりと閉まりきると、紫野の顔から違和感がするりと抜け落ちた。
「……肩が凝る」
ぼそりとした紫野の呟きに、ちなみも同じトーンで嫌味っぽく答えた。
「営業スマイルなんか見てるこっちの肩が凝るわ」
さっきまでは堅苦しい話し方だったのに、今は旧知の仲のような雰囲気だ。
紫野の笑顔の不可解さの答えを得たが、雛菊はいささか腑に落ちずに首を傾げた。
営業スマイルというくらいなら、仕事中にその笑顔を見せるものだ。しかし今日の業務中に訪れたお客様に対しては、普段通りの笑顔だった。
何かしらの区別が、彼の中にはあるということなのかもしれない。
ちなみが診察室からさらに奥のドアを抜けて、ある一室へと二人を案内してくれた。
いくつも並ぶ犬舎には、胴に包帯を巻かれた子や元気なく伏せている子、逆にしっぽを振って吠える子もいた。
入院中の犬猫たちを眺めて、気持ちが塞いでしまう。
しかし彼らは懸命に生きようとしているのだと自らに言い聞かせ、雛菊は例の柴犬のいる犬舎の前へとついた。
柴犬は首をぺたんと床につけて、臆するようにおどおどと瞳を揺らす。
まだ動く元気はないようだった。
紫野がしゃがみ込み、雛菊も隣にしゃがんだ。
「もう平気だからね」
声をかけると、柴犬は視線を雛菊へと定めた。
(撫でてあげたいけれど……)
柴犬は奥にいるので、手は届かない。
それに、これ以上怯えさせたくはなかった。
わずか数分の面会だったが、よくなっているとこの目で直に確かめることができてよかった。
雛菊はちなみへとお礼を言い、名残惜しげな紫野とその場を後にした。
また明日も来ていいと許可を得たので、雛菊は毎日顔を合わせることで、いつか心を開いてくれればと思った。