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※トリマーさん及び、ペットを飼われている方に不快な表現があります。嫌だと思われる方は、お戻りください。
紫野直筆のレシピには行程が二通りあり、片方は人間用でもう一方は犬用だと雛菊は早々に気がついた。
梓がカボチャ好きなのかと思っていたが、撫子たちの分も加算されてていたらしい。
それでも、カボチャはかなり余ったが。
旬の秋刀魚を、人間用は内蔵を綺麗に取り、犬用はそのままでぶつ切りにして、小さくカットしたカボチャときのこを入れて鍋で煮込んだ。
パラパラとレシピノートを捲ってみたが、簡単な煮込み料理が多かった。
それと食物繊維が残っていると消化できないからという理由つきで、フードプロセッサーがしょっちゅう登場してくる。
人間用の味付けは適量としか書いていない辺り、食にさほどこだわらない質なのだと推察した。
いくら何でも、人間が可哀想な扱いだ。
雛菊は、腕によりをかけて、犬用に負けじと惣菜を拵えた。
「うわぁ……!美味しそう」
食卓に並べた夕食を前に、席についたほたるが歓喜の声を上げ、雛菊はそれだけで顔がほころぶのを感じた。
包丁使いこそ危なっかしかった彼女だが、助手としてはなかなかの働きをしてくれたおかげで、調理時間は大幅に短縮された。
テーブルの横では、撫子とわたあめも行儀よくお座りをして、ご飯をくれるのを今か今かと待ち構えている。
彼らのご飯はすでに冷まし終えていたが、紫野が来るまではお預けなのだとか。
匂いに誘われた訳ではないのだろうが、タイミングよく彼が顔を見せた。
エプロンを勝手に拝借している雛菊に、虚を突かれた表情をしてしばらく穴が開くほど凝視していたが、すぐに状況を把握して言った。
「何か、ごめんね」
「いえ。こちらこそ、勝手にお邪魔してしまって」
紫野はカウンターから撫子とわたあめの皿を取り、二匹の前へと置いた。
「待て」
撫子はしゃきっとして待っているが、わたあめは落ち着かない様子でそわそわとしている。
「………………よし!」
よ、辺りで反応していた二匹の食べ姿を、雛菊はこっそりとスマホで撮影させてもらった。
紫野が席についたので、空いていた椅子に雛菊もかける。
いただきますをして食べ始めた夕食は、梓とほたるには大好評だった。
しかし既婚者だった例の彼のために料理教室に通ったという下地があってのことなので、物悲しくもある。
それでも雛菊は、久しぶりに自分が作った料理を、美味しいと感じることができた。
すぐ近所なので一人で帰れると言った雛菊だったが、紫野はわざわざ家まで送ってくれた。
銭湯に行くついでらしい。
何でも自宅のお風呂が壊れたが、今は直せないのだという。
雛菊みたいな素人を雇えるぐらいには繁盛しているかと思いきや、そうでもないのだとか。
何でも、ご近所に大きなペットサロンがあるらしい。
「今は一人だから送迎サービスも出来なくて。土日なら梓がいるから何とかなるんだけどね……。受験生のほたるちゃんを留守番で働かせるのも悪いから」
「他にトリマーの人を雇おうとは?」
「梓がいれば何とかなるし……。それに、雇ったことはあるけど……。まぁ、色々あって」
紫野は言葉を濁した。
「すぐに辞めてしまったとか?」
「ああ、それはよくあるんじゃないかな。きつい仕事の割りに低賃金で、離職率も高いらしいから。……友人は、先輩たちの動物の扱いの酷さについていけずに、すぐ辞めたって言っていたかな」
「え?」
そんなことあるのだろうか。
動物が好きな人たちの集まりなのに。
「そこが本当に悪辣なところだったのかはわからないよ。でも、早く仕上げないといけないのに、犬が言うことを聞かない。噛みつく。……いけないことだけれど、それで、手を上げる人もいる。飼い主への憤懣を犬にぶつける人とか……」
紫野は、不快そうに眉を寄せている。
たぶんそういう人を、実際に見てきたのだろう。
「それって、飼い主さんからの苦情は?」
「来るでしょう。……気づいていればね」
気づいていなければ、と考えるととても恐い。
もふもふ堂は道路からも中からもよく見渡せる造りになっている。
たぶん、そうでないところもあるのだろう。
中で行われていることが開示されているというのは、飼い主にとっても安心に繋がるのかもしれない。
「見えているからいいって訳ではないよ。無愛想に犬に接してるっていう苦情が来たこともあるし」
「紫野さんが?」
「そう。言い訳をさせてもらえれば、その子が人懐っこい子で、話しかけると喜んで動いてしまうからだったんだ。飼い主さんからしてみれば、愛想が悪くて怒っているように見えてしまったんだろうね。謝罪してその説明もしたけど……」
言わなかったが、なんとなくその飼い主さんは来なくなってしまったのだろう。
すごく、難しいなと雛菊は思う。
どっちも間違っていないから、どうすればよかったかなんて判断がつかなかった。
「暴れる子を押さえつけて保定して、飼い主さんから虐待に見えてしまったこと。毛玉だらけの子で、日々の手入れをお願いしたら、それがお前の仕事だろと罵られるだとか。……飼い主さんには、店を選ぶ権利がある。自分の大切な愛犬を預けるなら、信頼したところに頼むのが一番だよ」
紫野でも、苦情を言われることがあるのだと言うことに、素直に驚いた。
「感情に流されず合理的かつ倫理的に……って、結構難しいことだよね。理想と現実のギャップについていけないと、挫折してしまうんじゃないかな。……どの仕事でも同じだろうけどね」
紫野は独り言のようにもらして、星のない夜空をそっと仰いだ。そして、雛菊を見つめる。
そのまっすぐな瞳に、どきりとしてしまうほどに、彼の眼差しは綺麗だった。
「動物が好きだから、じゃ出来ない仕事。汚れるし、怪我もする。だから無理そうだと思うなら、今からでも辞めていいからね」
まさか仕事を始める前に、こんなことを言われるとは、雛菊も思っていなかった。
トリマーとして雇われる訳ではないのに。
もふもふ堂は彼にとって大切な聖域で、中途半端な覚悟で働くのなら今の内に切り捨てようとしているのだろうか。
例えマイナス面を見せられても、紫野ならばきっと真摯に動物たちへと接していると信じられる。
だったら限りなく理想に近い現実を見ることになるのではないか。
その点で潰れたりなんかしない。
きついとか辛いとか、彼の言う通りどんな仕事でもそうだ。楽な仕事なんて、きっとどこにもない。
「クビにならないよう、励みます」
雛菊がそう告げると、紫野は穏やかな笑みで言った。
「明日からよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
下げていた頭を上げると、紫野は思案顔をしていた。
「ちょっとだけ、見くびってたかな……」
「……?」
「ところで雛ちゃんは、弟がいるんだよね?」
話が突然、あらぬ方へと飛んだ。
弟がいるという話はしていなかったように思うが、雛菊は自分の記憶にあまり自信がない。
知らず知らずの内に口にしていたかもしれないし、履歴書の連絡先の一つを、海里のものにしておいたからかもしれない。
「はい。四つも下なのに、私よりもしっかりとした子で。いつも、残念なねぇちゃんだって、呆れられていて」
「雛ちゃんがおっとりとしているから、しっかりしないといけなかったんだろうね」
紫野がしみじみと言い、雛菊は事実なので反論もできずに肩を竦めた。
「四つ下なら、梓の三つ上か。……ふぅん、そっか」
ならば梓は雛菊がぱっと見で判断するした通りに二十歳なのだろう。
「紫野さんは、おいくつなんですか?」
見た目年齢不詳の紫野は、月の下にいるせいか、妙に艶っぽい笑みを浮かべて、わずかに顔を寄せて雛菊の耳元で囁いた。
「……秘密」
急な色香にあてられてしまいかけた雛菊は、あわあわとして紫野から目を逸らした。
首筋から背中までがぞくぞくとして、胸を押さえていないと心拍数が振り切ってしまいそうだった。
(好きとか恋とかそう言うのではなく、触れてはいけないものに触れてしまった背徳感というか……)
「この反応は、…………ふふ。雛ちゃん、見た目も中身も年相応ではなくて、可愛いね」
雛菊がずっと気にしていることを容易く見抜かれ、あまつさえ指摘までされてしまった。
さほど童顔ではないつもりだが、いつまでたっても垢抜けないせいで、若干若く見られがちだ。
それでも、ほんの少しの誤差なのだ。海里といても、妹に間違われることはない。……はずだ。
その『可愛い』に、幼いという意味が含まれていなければいいのだが。
「例えるなら、またマダニに血を吸われる前に駆除をってことか……」
「……?」
「こっちの話」
また犬のことを考えていたのか、紫野はにこりと微笑んで首を振る。
少々黒さを感じたのは、たぶん気のせいだろう。
「マダニって、ダニですよね。血を吸われても無理やり取ってはいけない、あの」
血を吸ってパンパンに膨らんだマダニの画像を思い出してしまい、ぞわりと全身が震えた。
「そうだね。この世から跡形もなく消え失せてくれたらいいのにね。後、蚊とか」
「……」
虫は、嫌いなのだろうか。オーラが確実に黒い。
雛菊自身も、別に好きではないが。
なぜかダニの話をしながら、シャッターの下りた商店街を通り、駅方面から流れてきた人たちを見送りながらのんびりと歩いていく。
紫野は黙っていても目立つので、男女問わず、彼を眺めていく。
女性からの羨望を向けられると何とも居心地も悪いが、あんな子が、と蔑まれる視線は雛菊も納得いくものなので、自分自身の中で上手く処理することができた。
それに、海里と外を歩く時も、見られることがままあった。
身内の欲目でなく、世間一般では見栄えのいい子なので、髪型や服装に気を使うと、同じ血が通っているのか不思議なくらいにモテるのだ。
雛菊はその真逆。
今も仕事帰りの若い男性数人と目が合いかけたが、すぐにぱっと逸らされてしまった。
恐い顔をしている訳でもないというのに。
いつも落ち込んだところを海里が慰めてくれるので、少々恋しくなってきた。
「……弟さんとは、仲がいいの?」
ちょうど海里を思い浮かべていたところだったので、年甲斐もなく弟離れしていないことが見抜かれたのかと思ってしまい、雛菊は内心焦った。
「いいとは、思ってるんですが……。小さい頃は、それこそ梓くんとほたるちゃんくらいに、仲良しだったんですけれど……」
そこで紫野は、「梓……」と不穏な声音で呟いた。
一人だけ仲間はずれが面白くないのかとも思ったが、むしろ娘を取られた父親みたいな切ない表情を浮かべている。
紫野の年齢はわからずじまいだったが、高校生のほたるとはかなり離れているのは確実だ。
可愛がるのは当然で、雛菊もあんな可愛い妹がいたら、たぶん毎日舞い上がる。
海里に取られたら、拗ねる。
「……うちの二人はあまり参考にならない例外中の例外だからね。それ並みとなると、かなり……」
「いえ、そんなことは。家も、追い出されましたし……」
雛菊は、そこで言い淀んだ。
不倫の末に捨てられた馬鹿な姉を、海里は情けなく思っている。
しかしその話だけは、不思議と紫野にだけは知られたくなかった。
幻滅させたくないと言うのは建前で、本当は嫌われたくないだけかもしれない。
もう過去は変えられないが、手を差し伸べてくれた彼を裏切ることはしない。――――だから、黙っていてもいいだろうか。
「……海里には、いつも迷惑をかけているので」
「そうかな?頼られて、嬉しく思ってるんじゃない?」
「まさか!それはないですよ。誰か他人に頼るぐらいなら、仕方がないから俺がやる、っていう感じでいつも助けてくれる子で」
「独占欲……」
「そうですよね……。私が海里を独占しちゃって、本当に駄目な姉で」
「…………そういう関係ね」
訳知り顏で、紫野は呟く。
「そういう?」
「ううん。こっちの話。――――それじゃあ、また明日」
そう言われて、アパートの前までついていたことを知った。
「あ、ありがとうございます」
「うん。戸締りはしっかりね」
紫野は優しく微笑んで、雛菊がエントランスに入るのを見届けてから、踵を返して夜道を歩いて行った。
家に帰ってからしばらくして、知らないアドレスからメールが入った。
宛名はもふもふ堂であり、内容は明日の出勤時間と服装、それと履歴書に書いたアドレスを仕事の用件でのみ使用する旨が簡潔に記されていた。
(これはあくまで雇用主との関係を崩さないために、一線を引いたってこと……?)
今日は特別に家にあげてもらったけれど、明日からは公私をきっちりとわけるから、分をわきまえろという遠回しな牽制なのかもしれない。
でしゃばってあれこれ料理を作ったけれど、余計なことをしてしまったのだろうか。
落ち込みながら文面に目を通していくと、まだ続きがあった。
『今日はありがとう。ご飯、美味しかったから、犬用にアレンジするので、今度レシピを教えてください』
雛菊は思わず、ふっと笑ってしまった。
自分が作ったご飯を食べながら、そんなことを考えていたのかと。
彼はとことん、動物がお好きなようだ。
紫野さんは、愚痴っているわけではありません。わざとです。