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 病院内におそるおそる入ると、待合室で座る紫野の姿があった。

 その近寄りがたい雰囲気に、戸惑いはしたものの雛菊は隣へとかけた。


「これ、お店の鍵です」


 忘れない内に、手渡しておく。


「……忘れてた。ありがとう、雛ちゃん」


 本気で鍵のことを失念していたようだ。

 紫野は動物が絡むと、それしか見えなくなるのかもしれない。


「あの子は……どうなりましたか?」


「脱水が酷いようだから……」


 苦しげに眉を寄せた紫野は言葉を濁した。

 弱々しい口調だったが、たぶん腹の内は飼い主への憤懣がドロドロと渦巻いている。

 宙を見据える瞳に冷気を感じた。


「…………撫子はどうしたの?」


 雛菊の手元を見て、紫野が怪訝そうに訊いてきた。


「ほたるちゃんとお家に帰って行きました」


「ほたるちゃん……に、会ったの?」


「はい。撫子が彼女の高校まで迎えに行って、そこまで一緒に来ました」


 雛菊は、ほたると別れた狭い十字路を指差した。


「そっか。ごめんね。撫子が満足するまで散歩させられたんでしょう?」


 さすが飼い主と言うべきか、撫子の行動をしっかりと理解しているようだった。

 そうしていると、診察室のドアがスライドし、動物看護師の若い女性が紫野を呼んだ。

 彼は腰をあげ、雛菊は逡巡しながらもドアを潜った。

 しかし救出された犬は、診察台にはいなかった。

 診察室にいたのは、五十代ぐらいの黒ぶち眼鏡をかけた獣医師の先生だ。

 ネームプレートが楠となっている。

 ここは楠動物病院なので、院長なのだと推測した。

 彼がちらっと雛菊を一瞥すと、紫野がすかさず否定した。


「彼女ではありませんよ」


 何が違うのだろうかと思ったが、すぐに雛菊あの子の飼い主だと思われたのだと気がついた。

 楠はそれでも表情を和らげることはなく、険しい顔をしている。


「かなり衰弱している。最善は尽くすが……。紫野。どこから連れて来た」


「三丁目のアパートから。飼い主は引っ越した後で、転居先は不明だけど、名前も勤め先も把握してる。……変わってなければね」


 楠は、「相変わらずキモイな」とぼそりともらした。

 雛菊が首を傾げると、彼はすぐに答えをくれた。


「こいつはこの近隣で飼われているペットの情報を全て把握している、ペットストーカーだ。犬や猫なら、顔を見ただけでどこの家の子か当てられる変態だ」


「やめてくださいよ。人聞きが悪い」


 と言いつつも、紫野は否定はしなかった。


「お前もペットを飼う時は気をつけろよ」


 雛菊は思わず頷いてしまってから、慌てて首を振った。

 ペットストーカーだなんて聞いたことがない。

 根っからの動物好きを、少し拗らせた感じだろうか。


「一応、警察に連絡しておこうか」


 楠がそう言ったが、紫野はあまり気乗りしない顔をしていた。

 これは立派な虐待で、動物愛護法違反だ。

 名前も勤め先もわかっているなら、きっとすぐに飼い主が見つかる。


「でも警察は、飼い主に罰を与えても、被害者は助けてくれないからね……」


 紫野は目線を落としてそう呟いた。

 確かに飼い主に何らかの刑事罰を負わせても、捨てられたあの子は捨てられたまま。何の解決にもならない。

 再び引き取って欲しいとも思わないにしても、根本的な解決法ではないのかもしれない。

 里親がいなければ、あの子はどうなってしまうのだろうか。

 それに、まだ助かるかもわからないのだ。


「……あの子、助かりますよね……?」


 すがるように尋ねると、楠は決定的なことは何も口にすることなく、「最善は尽くす」と答えた。


「また明日来るか?」


 雛菊があまりにも気にする素振りを見せていたからから、そう尋ね返された。


「飼い主じゃなくても、様子を窺いに来ていいんですか?」


「どうせ紫野も来るだろうからな」


「……そうだね。仕事が終わってから、一緒に来ようか」


「はい」


 毎日訪れて励まそうと胸に誓って、雛菊はあの子が無事回復するように祈った。





 紫野に家まで送ってもらった雛菊は、面接先に謝罪の連絡を入れてから、しばらく和室から隣の壁を見つめていた。

 何でもっと早くに気づいてあげられなかったのだろうか。

 昨日の内に救出していれば、その分助かる可能性も高くなっていた。


(それに、辛さを一日でも減らしてあげられたかもしれなかったのに……)


 紫野には、「雛ちゃんのお陰で手遅れになる前に助けられたんだから」と言って慰められたが、もっと早く、幽霊など非科学的な発想をせずに不動産屋に連絡をしていればよかったのだ。

 後はもう、あの子の生命力を信じるしかない。

 ぼんやりとしていると、スマホの着信音がけたたましく鳴り響いた。

 緩慢な動きで鞄を探り、耳にあてると海里の声が聞こえてきた。


「ねぇちゃん?生きてる?」


 第一声がそれだった。

 うん、と頷き、生きていることを伝えると、海里はこれ見よがしに深いため息をついた。


「今日、面接ばっくれたって聞いた。何やってるんだよ」


「面接はもういいよ。バイトが決まったから」


 ペット関係の仕事だと自慢げに言う前に、海里が食い気味に言葉をかぶせてきた。


「どこのバイト?まさかまた、変な男にふらふらついて行ってない?」


 そんなこと一度もしたことがないというのに。

 信用をなくした姉を信じられない気持ちも、わからなくはないが。


「近くのペットサロンだよ。大体、世の中に変な男の人ばかりが溢れている訳じゃないでしょう?」


 言い返すと、海里がしばらく沈黙した。


「海里?」


「…………まじか」


「何が?」


「ねぇちゃんは付け入りやすそうな、ゆるっゆるのパンナコッタみたいな雰囲気してるんだから、もっとちゃんと気をつけろよ」


 海里にはそんな風に見えていただなんて、まるで知らなかった。

 

(海里、パンナコッタ大好物なはずなのに……)


 海里が心配してくれるのはありがたいが、人生で初めて付き合った人間が既婚者というだけでわかるように、そうそう誰かに好かれて付け入られることなんてことはまずない。


「……それで、おかしなことは何もない?」


「おかしなこと?」


「ん、何もないならいい。後、防犯用に玉ねぎとか吊るしておきなよ」


「そこは男性用下着じゃなくて?」


「あはは、冗談だよ。出てく時に俺の買い置きの下着、いくつか持たせただろ。絶対に、毎日干しなよ。……俺は、しばらくそっちには行けないけど、何かあったら連絡して」


 海里は何だかんだ言って、姉思いの優しい子だ。

 昨日のそっけなさは、仕事の疲れからきていたのかもしれない。

 これ以上迷惑をかけず、なるべく頼らないようにしなくては。

 通話を終えると、雛菊は忘れていた海里の下着をベランダへと吊るした。






 それぞれの家庭の夕煙に、雛菊は昔を懐かしみながら八百屋へと赴くと、わたあめを散歩させるほたると再会した。

 半歩遅れて、梓もいる。

 わたあめは覚えていないのか、誰だっけ?という顔で、じっと見上げられてしまった。


「こんばんは」


 雛菊から話しかけると、ほたるはわたあめを抱っこしてほころんだ顔をして言った。


「こんばんは。この子、わたしの愛犬なんです。わたあめ、ご挨拶は?」


 わたあめはほたるの腕の中で、まったりしていてうんともすんとも言わなかった。


「……ほら、梓が勝手に学校になんて連れてくから、人見知りになっちゃった」


 頬を膨らまし、ほたるは愛らしく拗ねる。

 精一杯睨んでいるのだろうが、ただただ可愛いだけだった。


「愛想を振り撒き過ぎて疲れただけだろう。……ほら、もう寝かかってるし」


 梓は呆れながら、わたあめのふわふわの耳をちょんとつつく。

 だがわたあめはすでに船を漕いでいるので、耳をぱたりと動かしただけで、他は無反応だった。

 ほたるのことをお母さんだと思って、安心しているのかもしれない。


「仲良いね」


「えっ!?」


 素直に思ったことを口にすると、ほたるは急に顔を朱に染め、うわずった声をあげた。

 彼女の挙動が急にぎこちなくなり、野菜を物色し始めた梓の方をちらちらと窺っている。

 わたあめとのつもりで発言したのだが、誤解が生じていたらしい。


(でも、二人って兄妹なんじゃ……)


 脳が不純な結論に至る前に、さりげなく訂正をしておくことにした。


「ペットと仲よく散歩なんて憧れるなぁ……」


「あっ、そ、そうですよね!」


 わたわたとするほたるも、動じずにうつらうつらしているわたあめも、揃って可愛らしかった。

 山盛りになったカボチャのざるを抱えた梓が、かなり不審そうにこちらを見つめていたことにも、気づいてないのだろう。


「わたあめはわたしの友達で、家族ですから」


 頬を赤らめたまま、ほたるは愛しげにわたあめの頭へと摺り寄せた。

 ペットとの信頼関係が、とても羨ましく映った。

 あの捨て犬も、彼女みたいな飼い主にあたっていれば、あんなことにはならなかったのに。

 胸がツキリと痛み、しんみりとした気分になってきた。


「ところでお姉さんも、夕食の買い出しですか?」


 海里の冗談に乗って玉ねぎを大量に買い込もうとしていたとは、とても言いづらかった。

 なので曖昧に頷づいて体裁を繕い、夕食の献立になりそうな品物を適当に買うことにした。


「……梓。カボチャそんなにいらないよ……」


 わたあめを抱っこして八百屋の外にいるほたるが、梓へと小さく不満をもらす。

 しかし彼はそれを聞き入れるつもりは一切ないらしく、その他に必要な物をいくつかかごの中に投入してから、さっさとお会計をしてしまった。


(今日の夕飯のおかず、何にしよう)


 雛菊が頭を悩ませていると、突然梓に袋の一つを手渡された。

 何だかわからない内に、彼らと共に帰ることになっていたらしい。


「後は、お魚さん」


 ほたるがそう言い、梓が早くもカボチャを買いすぎたことを後悔した顔で腕に袋をぶら下げて、後をついていく。


「いつもお使いは二人でしているの?」


「いえ、今日はお兄さんがダークサイド……じゃなくて、元気がなさそうだったので、代わりにご飯を作ろうと思って」


 紫野はあの子のことを気にかけているのだろう。

 彼が後悔することなど、何もないはずなのに。


(紫野さんは、優しすぎるのかもしれないな……)


「黒い時の兄貴の飯は、不味いからな……」


 その味を思い出したのか、梓はげんなりとしている。


「私は……お邪魔していいの?」


 人様のお家に上がるのは、どことなく気が引ける。

 だけど梓は、雛菊の顔をじっと眺めてから仕方なさそうに言った。


「……まだ、元気なさそうだから」


 兄弟揃って何て好い人たちなんだろう。

 外見だけではなく中身までいいなんて。

 そんなに優しくされると、涙腺が緩んできてしまう。


「それに何となく、料理上手そうだったから」


「え!?まさかお姉さんに作らせようとしてるの?滅多に来ないお客さんなのに、だめだよ。――――ねぇ、わたあめ?」


「すぴぃ……」


 わたあめは器用に、寝息で返事をした。

 よく人を招く家かと思いきや、そうでもないらしい。

 ただ黙って座っているよりも、雛菊としては何かしている方が居やすい。


「私でよかったら、是非。みんなのお口に合うかは保証がないけども……」


 食事当番を解放された梓は安堵の表情をしている。ほたるも、心なしかほっとしていた。

 二人ともあまり料理は得意ではないようだ。

 魚屋に寄って、それから二人と一匹と共に、雛菊もふもふ堂の二階にある彼らの家へと招かれた。

 玄関に入ると、撫子が軽快な足取りでお出迎えに来てくれ、ほたるがわたあめの足を拭いてから下ろすと、二匹は仲良くリビングへと駆けていった。

 梓とほたるに続き、雛菊も「お邪魔します」と声をかけて最後尾に続く。

 廊下からリビングへと入るとき、どこかの部屋から、紫野の声が聞こえた。

 電話中なのか、はい、や、ええ、といった相槌を何度も打っている。


「お姉さん?」


 ほたるに呼ばれて、雛菊は居間と台所を兼ねたリビングキッチンへと足を進めた。

 部屋自体はあまり広くないが、キッチンが開放的なので窮屈さはない。

 撫子たちがいるためか、床に余分な物はほとんど置かれておらず、掃除のしやすそうな室内だった。

 カウンターのすぐ横に四人がけのダイニングテーブルがあり、居間にはローテーブルを挟むように向かい合ったソファと液晶テレビがある。

 本棚には、本が丁寧に整頓されているが、雑誌類はソファの横に噛み跡だらけで積まれている。

 窓からは夜の帳が下りた静かな商店街が、すぐそこに臨めた。

 ソファに腰を下ろした梓の足元で、寝そべる撫子のしっぽにわたあめがじゃれつくという、何とも愛くるしい光景を繰り広げている。

 撫子も遊んであげているのか、ぱたんぱたんとしっぽを上下させていた。

 冷蔵庫に買ってきた品物を詰め終えたほたるは、制服の上から花柄のエプロンをつけた。

 雛菊も手渡された、シックな黒のエプロンを身につける。


「……ごめんなさい。お兄さんのしかなくて」


 丈が長いと思っていたが、紫野のだったらしい。

 見栄えが悪いだけで、他は不自由がないので、全然構わなかった。

 むしろ勝手に借りたことで紫野への申し訳ない気持ちの方が大きい。

 それから気合を入れたほたるの横で、紫野が作る予定だった今日のメニューのレシピを一読した雛菊は、腕を捲って調理へと取りかかった。



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