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25


 雄一郎との話し合いが上手くいったのか、あれから雛菊は何事もなく平穏な日々を送っていた。

 もふもふ堂で働き、未だに二階に住んでいる。

 紫野との関係も宙に浮いたまま状態だ。

 彼は時折何か言いたげにしているが、雛菊から聞くのも気が引け、結局うやむやになってしまった。

 このままで十分居心地がいいのに、変な期待をしかけた自分を叱咤して、雛菊は台の上で大人しくしている撫子の、乾かし残しがないか冷風で確かめた。

 明日は定休日なので、お出かけ予定でもあるのか、わたあめも綺麗にカットされ、耳にブルーのリボンまでつけておめかししている。


「撫子にもリボンができるとよかったのにね」


 撫子の耳の根本の被毛は短くて、何度つけようと奮闘してもセットペーパーが抜けてしまうのだ。

 残念に思っていると、紫野が提案してきた。


「それなら前胸につけようか」


 彼はわたあめを犬舎へとしまってから、セットペーパーと大型犬用のピンクのリボンの準備してきた。そして何も指示しなくてもしゃんとお座りをした撫子を褒めて、前胸にある骨が出っ張った部分の被毛を少し指で摘まむ。その部分を薄い和紙のようなセットペーパーで包むと、縦方向に四つ折りにした。長細くなったセットペーパーを、今度は二度撫子側へと折り畳んで、最後にリボンについたゴムで括る。

 蝶ネクタイよりは下の位置にあるが、撫子がぐっと乙女らしくなった。


「普段はしないけど、今日は特別な日だからいいよ」


「今日、何かあるんですか?」


「……ふふ。それは夜の、お楽しみ」


 顔をぐっと寄せて耳元で囁かれ、色香にあてられた雛菊は撫子の背中へと隠れた。




 頰の熱を残したまま、いつもより遅い時間に二階へと上がると、驚くことに食卓には豪華な料理がところせましと並ぶ大皿に盛られていた。中央には苺のふんだんに使われたホールケーキまである。

 一緒に上がってきた撫子とわたあめも、目を丸くしていた。


「お兄さん!準備オッケーだよ!」


 ほたるが取り皿を棚から出してきて、梓は冷蔵庫から取り出した手のひらサイズの小さなケーキをカウンターに置いた。

 それがペット用のケーキだとすぐに気がついた雛菊は皆へと尋ねた。


「今日は撫子かわたあめの誕生日?」


「……雛ちゃん。やっぱり自分の誕生日を忘れていた?」


「え?……あ、そういえば」


 すっかりと忘れていた。今日は自分の誕生日だった。

 何と、二十七歳だ。

 ろうそくもきっちり二十七本刺さっているし、チョコのプレートは、『HAPPY BIERTHDAY DAISY』となっている。

 デージー。つまり、雛菊だ。


「お姉さんお誕生日おめでとう!」


「おめでとう」


「おめでとう、雛ちゃん」


 ほたるに合わせて梓と紫野に祝われて、危うく号泣するところだった。


「座って座って」


 ほたるに促されていつもの席へと座ると、紫野がろうそくに火を灯して、梓が部屋の明かりを消した。

 ほたるが率先して誕生日の歌を歌い、わたあめまで遠吠えで合わせ、和やかな雰囲気のまま雛菊はろうそくの火を吹き消した。

 パチパチと拍手の後に部屋は明るくなり、皆へと深々としたお礼を述べた。


「ありがとうございます。まさか誕生日をお祝いしてもらえるなんて思ってもいませんでした」


「サプライズになりましたか?何か遅れてるみたいだけど、後から海里さんも来ます」


「遅れているならちょうどいいね」


 紫野がにこりとして撫子を呼び、何かを指示をする。


「まさかお兄さんが裏で糸を引いて……?」


「うん?何かな、ほたるちゃん」


 ほたるは激しく首を左右に振って、椅子のまま移動し、呆れた様子の梓の陰に身を潜めた。

 気づくと撫子が口に何かをくわえて帰ってきて、雛菊の前でお座りをする。


「受け取ってくれるかな?」


(撫子から誕生日プレゼントがもらえるなんて!)


「はい!ありがとうございます」


 撫子に両手を差し出すと、小箱がぽとりと落とされた。

 よだれつきでも嬉しい。

 パカッと箱を開くと、驚くことにキラリと輝く小さな石がついた指輪が現れた。虹色に光を放つ、透明な宝石だ。紛れもなく、本物の。

 雛菊は絶句して、中途半端な状態で硬直してしまった。

 誕生日プレゼントのはずではなかっただろうか。なぜこんな高価な指輪がここで出てくるのか。

 意識を取り戻した瞬間突き返そうとしたが、紫野が制す方が早かった。


「受け取ってくれるって、言ったよね?」


「い、言いましたけど……」


 まさかこんなに高価なものだとは思わなかったのだ。

 紫野は穏やかさを称えた笑みで、まずほたるを見遣る。


「聞いたよね、ほたるちゃん?」


「お兄さん、それは卑怯……うっ。――――は、はっきりとこの耳で聞きました!」


 今度はびくつくほたるを庇う梓へと、紫野は尋ねる。


「聞いたよね、梓?」


 見つめあった兄弟。先に折れたのは弟だ。


「…………聞いた」


 言質を得た紫野は満足げに撫子に囁く。


「聞いたよね、撫子?」


「わん!」


 何かの遊びだと思ったわたあめも紫野の足へと飛びつく。


「聞いたよね、わたあめ?」


「きゅうんきゅうん」


 紫野は撫子とわたあめにそれぞれご褒美としてケーキを与えた。

 雛菊は目を輝かせてがつがつケーキを食べる二匹を、見る余裕を失っている。


「受け取ってくれる?」


「…………はい」


「それならここにサインをしてね」


 折り畳まれた薄い紙のピンクの枠内に、住所や名前を書く欄がある。何の書類だろうか。

 上部が裏へと折られていて、何かわからない。

 ペンを渡され、従順に記入していると、椅子を倒さんばかりの勢いで急にほたるが立ち上がり叫んだ。


「それ!付録!ピンクの婚姻とど――――んぐっ!」


 紫野が驚くほど俊敏に、ほたるの口へとフォークで掬ったケーキを突っ込んだ。

 兄妹で「あーん」をするなんて、本当に仲のいい兄妹だ。


「新種のトドの話かな?」


「ふぇふふぃほ……」


「口の中にものを入れながらしゃべらないようにね」


「……ふぁい」


「――――雛ちゃん書けた?」


「はい」


 ペンと揃えて手渡した時だった。

 海里が必死の形相でリビングへと飛び込んできた。


「ねぇちゃぁぁぁん――――!!」


 しかし紫野の手にある紙と、雛菊の傍に置かれた指輪の小箱を目にすると、愕然としてその場で膝を突いて頽れた。


「海里!?」


 雛菊は慌てて駆け寄り海里を抱き起こす。外は寒いはずなのに、額にはうっすら汗がにじんでいた。


「……遅、かった……」


「誕生日会はまだ始まったばかりだよ?」


「あああぁぁ……。これまでの……二十三年間の、苦労が……!」


 海里が腕を目元に当てて、本気で泣き始めた。なぜか悔し泣きっぽいが、雛菊は狼狽するしかない。


「よりによって……、よりによって、今までで一番の変質者にっ!」


 目を赤くした海里が、キッと食卓の方を睨む。


「海里さん、ごめんなさい」


「……変質者の兄が、すみません」


「……くぅ!……弟と妹がまともなだけが、救いだ……」


「海里はさっきから、何を言っているの?」


「雛ちゃんは知らなくていいことだよ、きっと」


 雛菊は何とか海里を床から起こさせて、ふらつく身体を支えながら椅子へと座らせた。


「くっ、残業さえなければっ……!仕組んでいやがったな、この野郎……!」


 海里が地を這う声で吐き捨て、おっとり佇む紫野を威嚇する。


「……ふふ。何のことかな」


「絶対そうだ!今日に限って所長に残業を命じられたのが何よりの証拠じゃねぇか!」


 海里が叫び散らしてから頭を抱えてしまった。


「所長さんがどうしたの?」


「うちの所長が、この変質者の父親だった……。ずっと騙されてたんだよ」


「えっ!?所長さんが!?」


 紫野に対する変質者呼ばわりをたしなめることさえ忘れて、雛菊は驚きに声を上げた。


「あの人は、ほぼ他人だから」


 紫野が至極嫌そうに顔をしかめ、梓も関わるまいと同様に目を逸らしている。

 ほたるは知らなかったようで、目を丸くしていた。


「所長に裏切られた……。どうりで変質者なのに経歴が綺麗な訳だよ。裏で細工してたんだ、きっと……。初めから目をつけられてたんだ。くぅ……もうあんな仕事、辞めてやる……」


 海里が弱音を吐くのは初めてのことだ。雛菊はあわてふためいた。


「海里……」


「……ねぇちゃんは、ねぇちゃんだけは、俺を裏切らないよね?」


「うん。裏切らないよ、絶対に」


「だったらその箱を、返品してよ」


 海里がなけなしの気力で指差したのは、紫野からもらった指輪の入った小箱。

 雛菊も頂くには恐れ多いと思っていたので、素直に彼へと返そうとしたのだが、彼の不穏な空気に怖じけづいて、板挟み状態となり、ほたるに眼差しで助けを求めた。

 優しい彼女は、目をつぶって言い切った。


「と、とりあえず、お兄さんは手順を踏むべきかと!」


 そしてわたあめを捕らえて顔を隠す。

 紫野は可愛い妹の意見を尊重し、小箱を手にすると雛菊に指輪が見えるようにして開いた。


「雛ちゃん、結――」


「わんわんわん!」


「結こ……!」


「わんわんわん!」


「くうんくうんくうん!」


 撫子とわたあめの突然の大合奏に、紫野は無言でテーブルへと小箱をおき、何を思ったのか雛菊の後頭部に手を滑らせて一気に引き寄せた。

 刹那、瞳が狼の色に輝く。

 抵抗をしなければという思いは頭に浮かびさえしなかった。吸い寄せられるように勢いに従い、雛菊は彼の胸へと飛び込む。


「「あっ」」


 三人の声が重なった瞬間、唇に紫野の唇が押しつけられていた。

 放心しながらも、一瞬の身体の強張りは驚くほどするりと抜け落ちて、うっとり目を閉じた。

 これは夢なのだろうか。

 身体が熱を帯びて、ぼぅっしてくる。

 胸の鼓動が加速を極めて危うく失神しかけたところで、紫野がもったいをつけながらゆっくりと離れていった。

 呆然とそのひとときを眺めていた彼らも、急速に意識を取り戻す。


「つ、ついに実力行使に!」


「長かったなー……」


「ねぇちゃんが汚された……!」


 しかし雛菊には目の前の紫野しか感じられず、自分を抱きしめたままの彼の目を、まっすぐ見つめて心のままに口にした。


「好きです、紫野さん」


 彼は目を見張り、それから赤らんできた頬ごと隠すように口元を手で覆い、目を逸らした。


「破壊力が……」


(破壊力?……もしかして、今のキスはそういう意味じゃなかった……?)


 勘違いをして調子に乗ってしまったのだろうか。

 あいさつとか親愛とかの意味合いのキスだったのかもしれない。

 勘違いの破壊力がすさまじ過ぎて彼は引いてしまったのだろうか。

 雛菊は泣きそうになるのを堪えて、彼の胸を押して身体を離すと、静かに告げた。


「ごめんなさい。今のは忘れてください。もう二度と言いません」


「…………え?雛ちゃん?何で予期しない方向に勝手に帰結しているの?」


「だーから。それがうちのねぇちゃんなんだって。直球でも伝わらないのが、残念な姉の性質ですからねぇー?」


 頬杖をついて、ケーキをつついてつまみ食いする海里。


「ふてくされてるねー」


「ふてくされてるな」


「蝶よ花よと育てた姉を奪われる気持ちに比べたら、少し気持ちが伝わらないくらいなんてことな――――あ!ねぇちゃんへのプレゼント!」


 唐突に海里が叫んで、リビングを飛び出していった。ドアを開け振り返った一瞬、不敵な笑みが垣間見えた気がしたが、見間違いだろうか。


「雛ちゃん」


 呼ばれて彼を見つめる。

 雛菊の左手を掬った紫野が、真摯な表情で告げた。


「僕も雛ちゃんが好きだよ」


「……本当に?」


「本当に」


 小箱から指輪を取り、薬指へと収める。

 不思議とサイズはぴったりだった。


「初めて会った時、自分のことよりも撫子のことを優先してくれたでしょう?撫子も気に入ったみたいだったし、この人なら僕の理想だと思った。――――雛ちゃん」


 感極まりながら涙を浮かべ、「はい」と答えた。

 ほたると梓が息を飲む。

 雛菊も逸る気持ちを鎮めきれずに優しい彼の瞳を見つめた。


「雛ちゃん。西奈雛菊さん。僕と結こ――」


「きゃうっ!」


「「…………きゃう?」」


 初めて聞く犬の鳴き声に、全員が目を瞬き辺りを見渡した。

 大人しく伏せている撫子でも、ほたるの膝でうとうとしているわたあめでもない。


(どこから……?)


 皆の視線は、少しだけ開いていたドアの隙間へと向けられた。

 そこからひょこんと覗いたのは、黒い鼻先。

 驚き言葉を失う人間たちをよそにリビングに入り込んできたのは、ころころむくむくな茶色い被毛の仔犬だった。

 撫子と、ほたるの膝から降ろしてもらったわたあめが、興味津々で近寄っていく。


「……――待って待って!チビすけ!」


 その後から、海里が仔犬を追いかけて飛び込んできた。

 海里に捕らえられた仔犬は、下ろせというように、じたばたと宙でもがく。


「ちょっと元気がよすぎるから心配だけど……」


 そう呟いた海里は、はい、と雛菊は仔犬を膝に乗せた。


「この子は?」


 海里はとてもいい笑顔で、仔犬の頭をぽんと撫でて言った。


「ねぇちゃんへの、誕生日プレゼント。しかも、シェパードの雄」


 視線を落とす。ふわふわな仔犬が、雛菊の手をがじがじと甘噛みしている。


(……可愛い!可愛すぎる!)


 雛菊は一撃で胸を貫かれた。


「ありがとう海里!」


「間に合わせるのに苦労したよ。所長の奥さんのつてのおかげかな」


「……母さんが選んだなら、いい犬だと思う」


 梓から、お墨付きをもらった。


「シ、シェパードの雄……?――――な、撫子?」


 愕然としている紫野を尻目に、撫子は雛菊の膝にいる仔犬が気になるのか、顔を乗せてきた。

 わたあめもジャンプして、一緒に遊びたいと訴えてくる。


「海里大好き!」


「うっ……!」


 海里が胸を押さえて、その場に片膝を突いた。


「大丈夫!?」


「……うん、大丈夫。いつもの発作。それより、指輪がよだれまみれだよ」


 にやっとした海里に指摘され、雛菊と紫野は「あぁっ……!」と声をあげた。しかし相手が仔犬なだけに叱れない。

 何とか左手は背中に隠すも、今度は自由気ままに、テーブルに置きっぱなしだった例の紙をぱくんとくわえた。


「あぁ……!だめ!そんなもの食べたらお腹を壊す!」


「そっち!?そんなものって……」


「……兄貴だし」


 紫野が端を引っ張ると、仔犬も対抗して顔をぶんぶん振りながらぐいぐい引く。

 これではだめだと作戦を変更した紫野が、仔犬のお腹をくすぐったりしていると、ようやくぺっと吐き出しほっと胸を撫で下ろした。

 それから彼は、そのよだれでふやけた紙が何であったかに気づいたのか、沈黙した。


「……」


 そして食卓がどす黒いオーラに包まれる。

 大丈夫だろうが、雛菊は念のため仔犬を床に下ろして、撫子たちへと預けた。

 三匹は匂いを嗅いであいさつをしながら、犬たちの平和な世界へと入っていく。


「……もう一回、腹を割って話をしようか。海里くん」


「いいですよ。ねぇちゃんの一番を仔犬に取られて、将来的に撫子まで取られる憐れな男の話に付き合ってあげても」


「兄貴もこれで人並みになるといいけど」


「うーん。無理じゃないかなぁ」


 そんな周りのやり取りを聞き流していた雛菊は、仔犬が吐き出し、テーブルに置かれたその紙を破れないように静かに開いていく。

 しかしそのことに気づかない二人の言い争いは当分収まりそうにない。果たして、今夜中に終わるのだろうか。


 なので、雛菊がその紙の真意(プロポーズ)を彼の口から聞かされるのは、もう少し先のことになりそうだった。




END




最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

これで一応完結です!が、あと一話だけ閑話があります。よろしければお付き合いください〜(>人<;)


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