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※可哀想な犬の描写があります。苦手な方はお戻りください。


 

 車が停車したのはこじんまりとした店構えのペットサロンだった。

 こちらも『もふもふ堂』と、看板の文字が豪快に踊っている。

 暖かみのある色の煉瓦の外観に、木を基調とした優しい雰囲気の内装。

 ガラス張りの向こうに臨める白い清潔そうな空間には、トリミング台や大小二つの浴槽、奥行きのある犬舎が六つ。

 やはり、看板だけは異質だった。


「それも、気にしないで」


 定休日の札がかけられたガラス扉の鍵を開けると、紫野は雛菊に中へと入るように促した。

 店内はそれほど広くはなく、レジ台の置かれたカウンター、丸テーブルと椅子が二脚以外、余計なものはほとんど置かれていない。

 テーブルの横には目線の高さにラックがあり、ペット雑誌がいくつか並べられている。

 壁には額に入った料金表がかけられて、季節がらかハロウィンのステッカーに彩られた、カット後の写真がたくさん飾られていた。

 カウンターの向こうにある棚には、いくつものファイルが整頓されて保管されてる。


(顧客名簿とか……?)


 隣のトリミング室とはガラスで仕切られ、飼い主が待っている間にペットの様子が眺められる造りになっていた。

 防犯面にも気を使っているのか、天井の片隅に防犯カメラもつけられている。

 雛菊があちこち見渡していると、カウンター横にあった二つの扉の内一つが開かれ、撫子がその黒い鼻先を現した。


「撫子……?」


 隙間からするりと出てきた撫子は、ふぉんふぉんとしっぽを振り近寄ってくる。

 何て可愛いのだろうか。

 雛菊はしゃがんで一日ぶりの再会に、熱い抱擁を交わした。


「撫子に気に入られたようだね」


「誰にでも人懐っこい子じゃ……?」


「撫子は本能で犬好きかそうでないかを判断しているんだよ。苦手な人の前では、妙にすました顔をしているから、見ているこっちは面白いよ」


 紫野は笑いを堪えながら、撫子の頭をよしよしと撫でした。

 撫子に、犬好きと認めてもらえたのだろうか。

 そのことが嬉しくて、雛菊は頬擦りをすると、べろんと舐められた。


「雛ちゃん。その、履歴書出して」


 べろんべろん攻撃を受けていた雛菊は、意図がわからずに、だが言われた通りに履歴書を取り出すと椅子にかけた彼へと手渡した。

 真剣な顔つきで履歴書に目を通す紫野に、酷い顔で写っている写真を見られているのは正直辛い。

 何となく席につかなければいけない緊迫した空気を感じとり、雛菊は紫野の対面へと腰を下ろした。


「体力はある方?」


「ある方だと……」


「撫子を一人で抱き上げられるくらいに?」


 雛菊は足元で伏せをした撫子を見遣る。


(彼女を抱っこ……できる?でも、させてもらえるなら、抱っこしたいかもしれない)


 きっとこんな機会、二度と巡って来ない。


「やってみても、いいですか?」


 雛菊が聞き返すと、紫野はおかしそうに笑ってから、


「危ないから、靴は脱いで」


 と助言をしてくれた。

 雛菊が危ないからではなく、持ち上げられる撫子を危険に晒さないための言葉だろう。

 指示に従い、履いていたパンプスを脱いで、揃えて置いた。

 上着を椅子の背凭れへとかけて、腕捲りをする。


「撫子さ〜ん。抱っこさせてくださいね〜?」


 その突然の猫なで声に、立ち上がった耳をぴくりとさせて、撫子は警戒した眼差しでおずおずと雛菊を見上げてきた。

 そして何かを企んでいることを見透かし、素早く退避した。


「あ、撫子待って!抱っこするだけだから。ね?抱っこさせて、抱っこしたいっ!」


 本心を垂れ流して、雛菊は撫子の背中を捕まえた。

 撫子は体勢を沈め、四肢に力を込める。次の衝撃へと備えているようだ。


(あ、でも……ここから、どうすればいいんだろう)


 背中に抱きつく雛菊と迷惑そうにしている撫子へと、紫野さんが声をかけた。


「撫子は噛みつかないから、そのまま持ち上げていいよ」


 作法がわからないまま、雛菊は撫子の体を宙に浮かせた。

 だがすぐに撫子が暴れたので、落とさないように床へと返す。

 期待していたのに、何とも短い抱っこタイムだった。

 肩を落とした雛菊が席へと戻ると、紫野は足を組んで履歴書をペンでとんとんと叩いていた。


「経験者じゃないけども……」


「?」


「うちで働く?」


 今、何を言われたのだろうか。

 何度吟味しても、同じ結論に至ってしまう。

 そんなに都合のいいことが――――。


「バイトでいいのなら」


「いっ、いいです!バイトで」


「うち、すごーく薄給だよ?」


「それは、構いません。……けれど、私に務まりますか?」


「頼みたいことは受付業務と雑用、あっても助手とかかな。つまりやる気さえあればなんとかなる仕事だよ。でも、やる気がないなと思った時点で、容赦なくクビを切るから覚悟してね」


 紫野は冗談ではなく、真面目にそう告げた。

 扱うのが物ではなく、生きた動物。

 おそらく少しの油断で、取り返しのつかないことになるのだろう。

 責任をもって働けるだろうか。

 しかし海里の紹介してくれた事務の仕事よりも、こちらの方が、どうしてだか惹かれてしまう。

 どちらも雛菊でなければいけない仕事ではないが、それならば自分が望んで決めた方を選んでもいいはずだ。


「はい」


 雛菊が頷くと、紫野の表情が和らぎ、それからごめんねと謝ってきた。


「そのスーツ」


 指を差されて見下ろすと、撫子の毛まみれになっていた。


「これは……クリーニングに出せば平気ですから」


「クリーニング代出そうか?」


「どのみち出すつもりだったので、平気です」


「わかった。そこにコロコロがあるから、自由に使って」


 カウンターの裏を覗いてみると、確かにピンク色のコロコロが隠されていた。

 気休め程度にスーツの上からコロコロして、毛のついた紙は、紫野が受け取りカウンターの引き出しの下段を開けてそこにしまわれたゴミ箱へと捨てた。


「それじゃあ、撫子の散歩がてら送っていこうか」


 撫子は散歩という単語に鋭く反応して、リードをくわえて紫野の元へと駆け寄った。


「住所は……」


 紫野さんは、私の履歴書に記された住所を見ると、ふいにきゅっと眉根を寄せた。

 やはり何か、いわくがあるのだろうか。


「やっぱり、幽霊が出るんですか……?」


「幽霊……?」


 紫野は、表情のない顔をこちらへと向けた。


「隣の部屋から、カリカリ物音が――」


 雛菊が話しきる前に、紫野ははっとした様子でもう一度履歴書を確認し、瞠目した。

 そして撫子にリードをつけ、店を飛び出していこうとする。

 雛菊は何が何だかわらずに、パンプスを片手に後を追いかけようとして、テーブルに放置された鍵も手に取った。


「紫野さん!鍵!」


「ごめん、頼む!」


 切羽詰まった紫野に言われて、不用心にならないように、雛菊はしっかりと戸締まりをしてから、アパートへと急いだ。





 息を切らしながらアパートに着いた時には、紫野は隣の部屋の前でどす黒いオーラをまとい立っていた。

 少しどころではなく、かなり近寄りがたい。

 なまじ綺麗な顔をしているせいで、迫力が増している。

 彼は苛立った様子で何かを待っていた。

 撫子はしきりに扉の下を前肢でカリカリと引っ掻き、どうにか中へと入ろうとしている。


「紫野さんっ……!一体何が――」


「いやぁ〜すみません!」


 雛菊の声に被せて、背後から鍵束を持った不動産屋のおじさんが間延びした謝罪をしながら現れた。

 瞬間、紫野の綺麗な瞳が、凍りつきそうなほど冷ややかさを宿した。

 雛菊はぞっとして、彼らの様子を一歩引いた位置で見守ることに決めた。


「早く鍵を」


「前の入居者が転出した時に、ちゃんと見回ったんですがねぇ」


 空気を読まずにへらへらするおじさんに対して、紫野は無言で殺気を放ちかけていた。

 穏やかさなど、もうどこにもない。

 鬼だ。鬼が、そこにいる。

 紫野がそこまで怒るほどの何かが隣にあると言うのだろうか。

 扉が開かれると、撫子が俊敏に駆け入り、紫野も険しい面持ちで後を続く。

 雛菊も、恰幅のよいおじさんを押し退けて部屋へと入った。

 家具などは何もない。

 隣の雛菊の部屋と、ちょうど同じ間取りだった。

 狭いキッチンを抜けた先にある洋室のクローゼットの前で、撫子が吠えた。


「わんっ!わんわん!」


 それを受けた紫野がクローゼットに手をかけ、一気に開いた。

 薄暗さの漂うクローゼットの隅で、何か雑巾のような塊が動いた。


「ひっ……」


 雛菊は撫子へと抱きつき、悲鳴がもれた口を押さえた。

 しかし視線はその雑巾のような塊から外せない。

 それが何なのか、雛菊の脳はしっかりと答えを出しているのに、心が否定する。

 それがかすかに壁を、カリッと引っ掻いた。

 それは昨日からしていた、あの音だった。

 その塊が何か、紫野から決定的な言葉が落とされるのが恐ろしかった。

 そこに幽霊がいた方が、たぶん怖くなかった。

 紫野が、クローゼットへと入り込み、その塊を慈しみをもってそっと抱き上げた。

 彼が出てくると、日の光でその姿が露になる。

 彼の腕にいたのは、小さな柴犬だった。サイズから子供か、豆柴かもしれない。

 骨がわずかに浮き上がり、黒い鼻は乾燥し、くたりと四肢を投げ出している。

 辛うじて息がある状態で、上下する胸が痛々しかった。

 遅れてやってきたおじさんも、その犬を目の当たりにすると見事に言葉を失った。

 紫野は彼に一言も残すことなく、雛菊へと撫子のリードを渡して短く言った。


「撫子を頼む」


 動物病院に向かう準備はすでに整えていたのか、紫野と部屋の外へと出るとすでにアパートの前にタクシーが停まっていた。

 雛菊が到着する前に、すでに呼んであったのだろう。

 紫野はその柴犬を抱えてタクシーに乗り込むと、もう一度雛菊に、撫子をしばらく頼むと言って、無理矢理微笑んだ。

 そして雛菊と撫子、不動産屋のおじさんを置いて、動物病院へとタクシーは発車していった。




 後のことは、不動産屋や大家あたりが処理するだろう。

 なので雛菊は、だめもとで撫子へと尋ねた。


「動物病院って、どこかわかる?」


 撫子は耳をぴくぴくとさせて、言葉をきちんと聞き取ってはいたものの、首を傾げたように見つめ返してくるだけだった。

 しかし撫子はひったくり犯を捕まえるほど優れた犬だ。言い方が悪かったかもしれない。


「あっ、じゃあ、紫野さんの後は追える?紫野さんのところ。……わかる?」


 撫子は理解したのか、嬉々として駆け出した。

 初動速度についていけずに、雛菊の腕は肩から外れかけた。

 本気ならば自転車に追いつくくらいの速さなので、たぶん手加減はされている。

 それでもリードを離すまいと、ほとんど引き摺られながら懸命に街を走り抜けた。

 しかしどこまで行っても動物病院はおろか、もふもふ堂にさえ辿り着かない。

 そこでようやく、撫子に散歩させられていたのだと思い至った時には、完全に道に迷っていた。

 昨日引っ越して来たばかりなので、土地勘のない雛菊はもはや息も絶え絶えに、撫子にすがりつくしかなかった。


「な、撫子……お家。ハウス。ひとまず、帰ろう……」


 撫子もたくさん走り回れたことで満足そうな顔をし、舌を出してハッハッと荒い息をしている。


「撫子……」


 雛菊は撫子がお座りをしたどこかの高校の門の前で、途方に暮れた。

 ぞろぞろと下校していく高校生たちを次々見送った撫子は、ある一人の女子高生を発見すると、わんっ!と一度だけ強めに吠えた。

 彼女は撫子に気づくと、びっくりした様子でセーラー服のプリーツスカートを靡かせて駆け寄ってきた。


「な、撫子!?どうして、ここに……?」


 彼女は嬉しげな撫子から、リードをもつ雛菊へとおずおずと視線を上げた。

 彼女の顔にも、雛菊には見覚えがあった。

 梓と一緒に銭湯から帰っていった、あの子だ。


「……確か、ほたるちゃん?」


 確認のために尋ねると、彼女は驚いていて目を丸くした。

 知らない人から名前をあてられたのだから、仕方がない反応だ。

 色々と説明をしている手間はあらかた省き、雛菊は現在の切実な状況を情けなく告げた。


「実は、紫野さんから撫子を預かっていたんだけど、私引っ越して来たばかりで……。ま、迷子になりました……」


「迷子……?」


 ぽつりと呟いたほたるは、笑いも蔑みもせず、ただただ真ん丸な瞳で雛菊を眺めてから、「うちは、こっちです」と道案内を買って出てくれた。

 雛菊は安堵して、恥ずかしながら十歳近く年下の彼女の横へと並んだ。


「あの……ところで、お兄さんはどこに行ったんですか?」


「お兄さん……?紫野さん?」


 こくりとほたるは頷いた。

 仕草が少し、子供っぽくて可愛い。


「動物病院に行ったんだけど、場所がわからなくて」


「動物病院なら……、こっちから行った方が早いかな」


 ほたるは首を傾げつつ、進路変更をした。


「……それで、お姉さんは……誰ですか?」


 そういえば、雛菊は彼女を知っていても、彼女からしたら雛菊は知らないお姉さんだった。


「西奈雛菊です。今日、もふもふ堂でのバイトが決まりました」


「えっ!?」


 ほたるは驚愕の表情を慌てて繕い、誤魔化すように首を振った。


「いえ、何でもないです。お兄さんは、その……動物が絡むと人が変わるから」


 隣の部屋の前に立っていた時点で間違いなく、人が変わっていた。

 二重人格レベルに。


「わたしのことは、何か聞きましたか?」


「まだ、何も」


「そうですか。わたしは、涼暮ほたるです。お兄さんとは異父兄妹で……。今はあのお家に住ませてもらってます」


 少々重たい話になってきてしまった。

 ほたるがこちらを窺いながら言うものだから、それが顕著だった。

 ほたるを観察すればするほど、紫野とよく似ている。

 色素が薄い髪と瞳。

 黒髪の梓だけは、父親似なのかもしれない。

 どちらにしても、美形な三兄妹だった。

 目の保養にはなるが、三人揃うと眩しくて目を開けていられなさそう。


「で、でも!怒ったりすることは本当に、滅多にないですから!」


 雛菊が黙り込んだせいか、ほたるは急いで言い募った。

 しかしその貴重な激怒を、雛菊は計らずも知っている。

 だけどあれは、正当な怒りだ。

 あったこともないあの犬の飼い主に、雛菊でさえふつふつとした憤りがわくほどだった。

 他愛ない会話をして『楠動物病院』という看板が見えてくると、ほたるはそこだと思うと指を差した。

 雛菊はお礼を言うと、彼女は「いえいえ」と笑顔で肩を竦め、先に帰ると撫子を引き取った。


「明日もテストなので」


 下校時刻が早いなとは思っていたが、テスト期間中だったらしい。

 学校なんて遠い過去過ぎて、すっかりと忘れていた。

 ほたるは撫子に「行こっ!」と笑顔で言った後に、明るい独り言をもらした。


「わたあめも待ってるもんね」


 「わたあめは梓くんに連れて行かれてるよ」と、教える間もなく、ほたるは撫子と小走りで駆けていった。



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