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 久しぶりの海里の家で、前のように一つのベッドで眠った。しかし雛菊は少しとはいえ雄一郎の家で寝ており、眠気が訪れる気配は一向になかった。

 目を閉じてじっとしていると、海里のぽつんとした声が暗い部屋に響いた。


「……ねぇちゃん、起きてる」


「うん」


 背中を見せていた海里が、布団の中で回りこちらへと顔を向けた。


「……怒ってる?」


「怒ってないよ。何でそう思うの?」


「だってあいつ……、結局追ってもこなかったし」


 海里が珍しくしおらしいので、雛菊は手を伸ばして撫でるように髪を梳いた。


「それは海里のせいじゃないから。海里に怒ることなんて、何にもないよ」


「……実は結構悪どいことしてても?」


「うん。海里のねぇちゃんは私だけだから」


 雛菊が笑うと海里は枕に顔を伏せてしまった。

 言い方がまずかったのだろうか。肩がぷるぷる震えている。

 寒いのかとやんわり抱きしめると、今度は何やら「くぅ……」押し殺した呻き声のようなものが聞こえてきた。


「……大丈夫?」


「…………大丈夫。たまに起こる、発作だから」


 確か少し前に、心臓を打ったと言っていなかっただろうか。その時の後遺症だったら大変だ。


「病院で詳しく検査してきた方がいいんじゃないかな?」


「この病気は病院では治らないよ。もう一回、生まれ直すところからやり直さないと」


「そんなところから!?」


「大丈夫。ちゃんと、家族愛の拗れたやつで過保護の行き過ぎたやつっていう自覚症状はあるから。日常生活には支障ないし、全っ然問題ない」


「問題ないなら、いいけど……」

 

 雛菊は無意識に握りしめていた柴犬のペンダントを、パジャマの中へとしまった。


「それって、あいつからもらったやつ?」


 海里が目ざとく見つけ、苦々しくペンダントを見据えた。


「うん。可愛いでしょう?お守りにくれたんだよ。いい人だよね」


「贈った人の性格を見事に表してる、とは思う」


「うん。紫野さん、動物好きだから」


「そうじゃなくて。ねぇちゃんはその可愛い外見に騙されて、中に隠されたおぞましい執着心が見えてないってこと。この世に、ねぇちゃんの言う『いい人』ほど信用できないものはないよ」


 どれだけ信用されていないのだろう。悲しくなってきた。


「……あのさ。言わないのはアンフェアだから言うけど、ねぇちゃんの居場所を最初に突き止めたの、あいつなんだよ」


「え?」


「それ、イミテーションの中に、GPSが内蔵されてる」


「えっ!?」


 雛菊は柴犬をもう一度取り出して、顔をまじまじと見つめた。

 確か紫野はこれをお守りにと言ってくれた。つまり、ずっとそばで見守っていてくれたのだ。


「きちんとお礼、言わないと……」


 感謝を噛みしめてきゅっとペンダントを握りしめると、海里がこめかみをぐりぐりと揉んで大袈裟なため息をついた。


「わかってたけど……、何で引かないのかな……」


「引く?」


「あー、もう!気にしなくていいよ。どうせGPSで常に居場所をチェックされてようが、それをいい方にしか捉えないんだから」


「いい方?でも、GPSって子供用の携帯についているのでしょう?私って、そこまで子供だと思われているのかな……」


 何て情けないのだろうか。

 雇い主にGPSを持たされていたなんて。


「…………。とりあえず、ねぇちゃんは、永遠にそのままでいてよ」


「海里……!」


 何ていい子なのだろうか。


「はぁ……。はいはい。よしよし」


 ぽんぽん頭を撫でられる。これではどちらが年上かわからない。

 疲れていたこともあり、海里の温もりに包まれている間に、雛菊は深い安らぎに満ちた眠りへとついた。






 朝、海里は事後処理に向かい、雛菊は電車を乗り継ぎ、いつもの時間にもふもふ堂へとたどり着いた。散々お世話になったので、さすがに無断欠勤はできない。

 とはいえどんな顔をして会えばいいのだろうか。

 躊躇いながら歩道からトリミング室をそっと窺った。

 準備はされているようだが、肝心の紫野はいない。

 店側の方へと視線を流すと、真剣な表情で誰かと話し合いをしているのがちらりと見えた。

 場所を移動し、店の玄関ドアからそっと様子を覗く。

 彼と対面している相手は、結華だった。

 バニラが彼女の傍で元気にちょろちょろしている。

 雛菊は一安心した。やっぱり彼はバニラを見つけてくれていたのだ。

 会話は聞こえてこないが、結華が頭を下げているのが見える。慰めるように紫野が彼女の肩を叩いた。


(あれ……?)


 二人の距離感がぐっと縮まっている気がする。

 呆然と眺めていると、紫野がふとこちらへと目を遣り、瞬いた。

 あ、と思った時には、雛菊は踵を返して来た道を戻っていた。

 バニラの一件で仲良くなったのだろうか。

 二人の姿が目に焼きついて、それを振り切るように駆けていると、突然背後から伸びてきた腕に抱きしめられた。

 その場に縫い止められ、後ろ向きな思考が途切れた。

 振り返って誰なのか確かめなくても、朝からすでに獣臭い人なんてそうそういない。

 そう思ったら、少しだけもやもやしていた気持ちが凪いだ。


「雛ちゃん、ごめん」


 雛菊の肩でしっかりと交差した腕は薄手の仕事着一枚にしか覆われておらず、上着も羽織らず追いかけて来てくれたのがわかった。

 たった一言でも、彼が心から反省しているのが伝わってくる。


「守るって言ったのに、守れなくて、ごめん」


「もういいですよ」


「許してくれる?」


「許すも何も、それが紫野さんですし、撫子とこのペンダントが守ってくれましたから」


 雛菊はコートの上から胸元へと触れた。こつりとペンダントが肌にあたる感触がする。

 微笑んでいると、背中に触れた彼から不自然な動揺が伝わってきた。


「……まさか、それが何か、……聞いた?」


「GPSのことですか?」


「聞いたんだ……」


 紫野がなぜかがくりと項垂れた。


「おかげで助かったので感謝しています」


「……うん。雛ちゃんが世間一般の常識からずれていてよかった」


(世間一般の常識から、ずれて……)


 事実だが、こうもしみじみと言われるとショックが大きい。


「心配した。……すごく」


 紫野の腕に力がこもった。


「心配かけて、ごめんなさい」


 掠れた声で呟くと、耳元に、彼の切実そうな吐息がかかった。


「雛ちゃん。僕は君を愛――」


 その時、車のクラクションが響き、紫野の言葉は綺麗に掻き消された。


「あら、紫野さん。公衆の面前ではしたない」


 黒塗りの車がゆっくりと横に停車し、窓から白いプードルが顔を覗かせる。

 雛菊ははっとして周囲を見渡した。通行人たちが興味津々でこちらを凝視している。

 そして、朝らか恥ずかしげもなく往来で抱き合っていたことを自覚し、沸騰したまま慌てて紫野の腕から抜け出した。

 声の主である常連客、松岡様は、おほほと上品に笑う。


「何ですか紫野さん、その不満げなお顔は。昨日あなたの無茶なお願いを聞いて差し上げたのに、恩をあだで返す気ではありませんね?」


「とんでも、ございません」


 紫野の唇の端が妙にひきっていて、無理やり笑んだような顔になってしまっていたように見えたが、瞬きをするといつもの彼の微笑みがそこにあった。

 今のは、見間違いだろうか。


「もう後五分で開店時間になりますよ。急いで店にお戻りなさい」


(もうそんな時間に!?)


 紫野もしまったというように顔をしかめ、雛菊の腕を引いて店まで走る。

 彼は足が速い。ついていくのがやっとだ。好きな人と手を繋いでいるより、撫子に引きずられている気分だった。

 時間内に駆け込んだ店内には、結華が所在なさげに立っていて、雛菊と目が合うと気まずげにバニラを抱っこした。

 全力で走ったのに息切れもなく涼しい顔をしている紫野は、なぜか彼女の方へと回り、その背中を雛菊の方へと押す。


「彼女に言うことがあるでしょう」


 前のような覇気がない結華に戸惑っていると、バニラが小さく吠えた。


「ほら、バニラもこう言ってますよ」


(ついにバニラの言葉までわかるように……?)


 神妙な顔をした結華は、渋々といった調子で雛菊へと言い放った。


「ごめんなさい」


「え?」


 何に対しての謝罪なのか思い至らない雛菊は、答えを求めて紫野に視線を移した。


「雛ちゃんの居場所をあの人に教えたの、彼女なんだよ」


「え?」


「僕の婚約者を名乗ってね」


「え、……あっ!」


 雄一郎が言っていた昔流行った犬とは、チワワのことだったのだ。

 バニラはくりくりおめめで、俯く結華を見つめている。


「……だって、寄りを戻すかと思って。……とにかく、ごめんなさい。――――これでいいんでしょ!」


 結華は好きなはずの紫野を恨みがましく睨みつけてから、バニラを抱っこしたままヒールを鳴らして店を飛び出していった。

 呆然としていると入れ違いで、松岡様がクリステンと来店した。


「松岡様。いらっしゃいませ」


「くうん」


「ふふ、クリステンも」


 クリステンは満足そうに、ぽふぽふしっぽを振る。

 雛菊も慌てていらっしゃいませと丁寧に頭を下げた。


「昨晩のこと、彼女にお話になったの?」


「……いえ、まだ」


「あなたみたいな人のことを世間では、へたれ、というのですよ」


 松岡様から『へたれ』なんて言葉が出てきたことに驚いた。


「いきなり切羽詰まりった様子で連絡をしてきて。ちょうど息子がいたからよかったものの、不躾だと思わなかったのですか?」


「申し訳なく思っています。だけど他に頼れる人がいませんでした」


「そうでしょうね。急に、藤代雄一郎という人物を疑われない程度に引き留めて欲しいなんて、何事かと思いましたよ」


 彼の名前が松岡様の口から出てきて、雛菊は戸惑った。


「……どういうことですか?」


 なぜ松岡様にそんなお願いをするのだろうか。


「雛ちゃんを助け出すまでの時間稼ぎが必要だったんだよ。彼を君から引き離しておくために。だから、それを松岡様にお願いした」


「松岡様に?」


 やはり理解できずにいると、紫野がくすくすと笑った。


「雛ちゃんは、自分が勤めていた会社の名前も忘れたの?」


 さすがにそこまで記憶力は衰えていない。


「松岡商事株式が……い、しゃ……、ま、松岡?……様?」


 雛菊はさぁっと血の気を引かせて、松岡様へとゆっくりと顔を向けた。

 珍しい名字ではないのでこれまでまったくというほど気にしていなかったが、まさか――――。


「あら、あなたうちの社員さんだったの?ごめんなさいね。驚かせてしまって」


 腰の抜けかけた雛菊を、紫野が背後から支える。

 息子が雄一郎を引き留めた、ということは、専務がその息子であり、松岡様が元会社の社長夫人ということなのではないか。

 社長の顔くらいは知っていたが、まさかの事実に頭が追いつかない。


「息子に調べてもらったら、取引先の人だと言うではありませんか。ですので一芝居打ってもらいました。――――紫野さん。あなたはもうわたくしに、いいえ、クリステンに頭が上がりませんよ」


 紫野が苦笑し、クリステンを恭しく受け取る。


「誠心誠意、今まで以上に尽くさせていただきます」


 クリステンが、よろしいとばかりに紫野の顔をなめ、和やかな雰囲気に雛菊も微笑んだ。





 本日も最後の一匹まで無事引き渡しを終え、毛まみれのトリミング室を二人で掃き掃除しながら、紫野がことの詳細を語った。


「雛ちゃんと彼の寄りを戻させるために、彼女が裏で暗躍していたんだよ」


「暗躍って、居場所を教えただけじゃないんですか?」


「雛ちゃん、彼に睡眠薬を飲まされなかった?」


 そういえば缶コーヒーを飲んだ後、急激な眠気に襲われた。だと言うのに今の今まで何もおかしいと思っていなかった。疲れてて寝てしまったのだと思っていたのだ。


「睡眠薬を渡したのも、そもそも彼が強引な手に出るように唆したのも彼女。雛ちゃんが拐われた時も近くにいて、目を離した隙にバニラが逃げてしまったらしい。愛犬から目を離すなんて、信じられないけどね」


「でも、バニラは無事に帰って来たんですよね?」


「結果的にはね。だけど大通りまで出ていたから、一歩間違えば事故にあっていたかもしれない。一瞬の隙が命取りだということをその場で懇々と言い聞かせて、もう悪いことは二度としないとバニラに誓わせたよ」


 前回の小麦の件でもそうだったが、彼は動物が絡むと人が変わる。

 夜とはいえ大通りであの黒い紫野に長々と説教された日には、恋心なんていう柔なものは簡単に砕け散るだろう。

 結華が憎らしげに紫野を睨みつけたのは、その辺りからきているのかもしれない。


「……雛ちゃんのことは松岡様にもお願いしてあったし、居場所も割れていて、救出の人員にも不足なかったから、……バニラを優先した。……ごめん」


「何度も謝らないでください。無事こうしてここにいるですから」


「実感したいから触れてもいいかな?」


 意味がよくわからないが頷くと、紫野が頬を包むように触れてきた。

 反対の腕はさりげなく雛菊の腰を抱き寄せる。

 近い。全体的に近すぎる。

 身を引こうとする雛菊とそれを阻止する紫野。

 力で敵うはずなく、さらに密着度が増すだけだという結果に終わった。


「もう、わかったんじゃ……?」


「まだだめ。……もう少し」


 彼の狼めいた瞳が煌めいた気がして見蕩れていると、顔の距離がさらに縮まった。


「……雛ちゃん」


 そんなに甘い囁きをされては頭が沸騰して何も考えられなくなってしまう。

 その時だ。視界の隅にある二階へと続くドアが、少しだけ動いた気がした。


(……?)


 少しずつ、開いていっているようだ。

 そちらに背中を向けている紫野には、見えていない。


「雛ちゃん、愛し――」


 紫野が何か言いかけた直後、ドアから梓とほたるがなだれ込んできた。

 そんな二人の背中を、撫子がらんらんと踏みつけて駆けてくる。

 トリミング室のドアを器用に前脚で開けて入ってきた撫子。雛菊は紫野を押しやり抱きしめた。


「ひぃっ!梓!お兄さんが鬼の形相に!」


「ほたる早く!避難!」


 梓がほたるを連れてドアの向こうへと素早く身を隠す。

 雛菊は撫子とひとしきり戯れていると、紫野がドアの方を見据えて呟きをもらした。


「……安いドッグフードでも買って来ようかな。……二人分」



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