23
――――夢を見た。
いつもの食卓だ。
向かいにほたると梓が仲良く並んで座っている。わたあめにこっそりとおこぼれをあげながらほたるが話を盛り上げ、梓が冷静に突っ込む。
斜め前には海里。だめな姉に呆れながらもいつも傍で見守ってくれる。擦り寄ってきた撫子を悔しそうにもふもふして、ますます籠絡されていくその姿を微笑ましく眺めた。
そして隣には、穏やかで優しい紫野。
目が合うと愛しげにこちらを見つめた。
胸がどきどきと高鳴り、顔には熱が宿る。
「好きです、紫野さん……」
想いがあふれて、つい口にしてしまった。
だけど夢だから、きっと何を言っても平気だ。
いつものように穏やかに微笑んだ紫野が、そっと言葉を紡ぐ。
なのに、肝心なところで彼の姿が朧げとなった。
彼は何と答えたのだろう。
そこで夢が途切れてしまったので、わからずじまいだ。
そうして雛菊は現実へと引き戻された。
目を開けるとすぐそこに、白い壁があった。
身体を仰向けると、やはり白い天井。
ゆっくり、さっきとは違う向きに反転すると、室内の様子がよくわかった。
ものが少ない寂しい寝室だ。
まるで借りたばかりの部屋のように殺風景で、人の暮らしている気配がない。
(何でこんなところに?)
記憶を手繰り寄せ、雄一郎と話をしていて、急に眠くなったことを思い出した。
ならばあのまま寝てしまったのだろうか。
そう考えると、ここは彼の部屋かもしれない。
彼の家に行ったことは一度もないので、確信はないが。
(彼は……いない?)
ダブルベッドから起き上がって隣の部屋へと向かう。
ドアを開けた先は、ワックスをかけたようなピカピカのフローリングが広がるリビングだった。
しかしこちらも、必要最低限の家具しか整っていない。キッチンも同じだ。奥さんと別れて、引っ越してきたばかりなのだろうか。
雛菊は歩き回り、玄関で自分のコートがかけられているのを見つけて手に取り、無造作に置かれていた手提げを持って靴を履いた。
何か書き置きをしておいた方がよかったかと思いもしたが、いなければ帰ったとわかるだろう。
紫野たちが心配しているかもしれなので、早く帰らなくてはと思った。
(先に電話しておいた方がいいかもしれない)
そう考えて手提げを探ったのだが、スマホがどこにもない。ひっくり返しても、それらしきものは落ちてこなかった。
きちんと持ってきたはずなのに。
充電をしてもらって、銭湯に行く前に紫野から直接手渡されたのだから、間違いない。
(まさか、落とした……?)
寝てしまった際に鞄の口から落ちたのだろうか。
ならばきっと、雄一郎の車の中に落ちている。
雛菊はとりあえず外へと出ようと、靴に踵をねじり込みながら玄関のノブに手をかけて、押した――――が、開かない。
引く方なのかと引っ張ってみたが、こちらも不正解だったのかびくともしなかった。
「……開かない?」
鍵がかかっているのかと、ドアを上から下までくまなく探したのだが、目に見えてわかるような鍵はついていなかった。
チェーンはあるが、これは外れてぶら下がっている。
もしかして閉じ込められているのだろうか。
雛菊は一旦靴を脱いで室内へと戻った。
固定電話はないだろうかとあちこち探し回ったが、残念ながらなさそうだ。
仕方ないのでベランダから出られないかとカーテンを開いた。しかし見えたのは暗い夜空に小さな街の明かり。何階かは不明だが、高層階にいることは確かだった。
これは雄一郎が帰宅するのを待つしかなさそうだ。
手持ちぶさたな雛菊は、首にかかった柴犬のペンダントに触れた。
小麦みたいに壁をカリカリしたら、誰かが気づいて外から開けてくれないだろうか。
まさか今さら小麦と同じ思いをするなんて。
しかし小麦はもっと歯がゆく辛い思いをしたのだ。少しの間外へ出られないくらい、耐えないと。
そうやって心を落ち着けた雛菊は、時計を探して時間を確かめた。
もう夜ふけだ。銭湯を出てからすでに二時間ほどが経過している。
皆心配しているだろう。
(そういえば、見失ったバニラは、ちゃんと家に帰れたかな……)
本物だったかはわからないが、事故に遭ってないだろうか。
もっとちゃんと追いかけていればと思っていると、かすかに鍵が開けられるような音が響き、雛菊はフローリングで滑りながら慌てて玄関まで駆けた。
後ろ手にドアを閉めた雄一郎は、リビングから飛び出してきた雛菊にさほど驚きもせず、室内へと戻るよう優しい口調で告げた。
「雛。寒いから中に入れ」
躊躇うと手首を掴まれ、抵抗もむなしくソファへと逆戻りした。
「鍵、かけておいてよかったな。また、逃げるつもだっただろう」
「……。皆心配してると思うから、電話をさせてください」
「悪いけど充電がない。後にしてくれ」
脱いだ上着を椅子にかけ、疲れのにじむため息を深々とついた。
「……まいったよ。専務から急に呼び出されて」
雄一郎はネクタイをほどきながら雛菊の隣へと腰を下ろした。
「あれこれ難癖つけられて、調べたけど結局問題なんかなくて、本当にうんざりする」
本社の専務はそんな人だっただろうか。
話したことなどもちろんないが、社長の息子であってもおごったところもなく、穏和で真面目だった印象しかない。
(今はそんなことよりも――)
「ごめんなさい」
突然の謝罪に虚を突かれた雄一郎の顔は、次第に歪んでいった。
それが雛菊の揺るぐことない明確な拒絶であると理解したからだろう。
これ以上すぎた話はしたくないという意思表示が伝わったが、だからといって、それを受け入れてくれるかは別だった。
「……雛のために、妻と別れたんだ。君は責任を取るべきだろう」
「そんなこと、頼んでない」
雄一郎の眦が上がった。
「だったらこれは婚約破棄だ。慰謝料を請求する」
「そんな……」
「こっちは誠意を見せた。だけどお前は何をした?一方的に別れたいと言って逃げた。それが恋人に取る態度か?……これまで雛のためにと我慢したが――」
強い力で押し倒された雛菊は、抗う間もなく両手首を頭の上で固定された。ぎりぎりと軋む手首が痛み顔を強張らせる。
自分にのしかかり拘束する目の前の人物は、本当に昔好きだった彼なのだろうか。それが信じられないほどの豹変ぶりだった。
あの頃は少しばかり横暴なところがあったとしても、暴力的な行為に出たことは一度もなかった。人や動物に手をあげる人だとは少しも思っていなかったのだ。
いつも海里が言っていたように、自分には見る目がないということだった。
「怯えなくていい。大人しくしてれば痛くしないから」
「や、嫌っ!」
身体に手が這わされただけで嫌悪感で吐きそうになった。
雄一郎に押さえつけられた身体で必死にもがくも、大の男が相手だ、びくともしない。
ならば隣近所に聞こえるようにと声を張り上げた。
「誰かっ……!助けて!撫子っ!紫野さ――」
――――パンッ!
彼の名前を呼んだ瞬間だった。
頬に衝撃が走り、雛菊は頭の中が真っ白になった。
一瞬、何が起きたかさえわからなかった。
混乱のまま、無意識に溢れだした涙で視界がにじんでしまい、雄一郎の姿が歪んでぼんやりと見えた。
(殴られた……の?)
熱を宿した頬に、雄一郎が今度はそっと労るように触れてきた。
「大丈夫か?痛むのか?……可哀想に」
彼は自分でやっておきながら、ひどく痛ましそうな声音で囁く。
(この人は、誰?)
そう思ってしまうほど、雛菊の目に映る彼は、知らない人のような顔をしていた。
「そうやって静かにしていればすぐに終わる。そしたら、婚姻届を出しに行こう」
雛菊が薄く口を開くと、彼が首に手を添えてきた。きっと少しでも力を加えれば、簡単に圧迫できる。
抵抗しても無駄だと悟った。
また叫べば、今度は殴られるだけでは済まないかもしれない。
隙を見て逃げるなんていう芸当、できるはずがなかった。
このまま我慢して、彼に何もかもを奪われてしまうのだろうか。最後には、命まで……。
そう考えると震えが止まらなかった。
「雛……愛してる」
彼の顔が近づいてきて、雛菊はぎゅっと目を閉じた。
物語のように颯爽とヒーローが助けに来てくれることなんてこと、あるはずがない――――そう絶望した時だ。
「わん!わんわん!!」
突然リビングのドアが開け放たれ、しなやかな体躯をもつ凛としたジャーマン・シェパードが突入してきた。――――撫子だ。
「撫子!」
撫子はフローリングをものともせず、一目散に駆け抜け雄一郎へと飛びかかると、腕に噛みつき雛菊の上からから引きずり下ろした。
「ぐっ!やめろ、この……!」
犬歯を、突き刺さらない程度にめり込ませた撫子が彼の腕をくわえたまま、前肢で彼の身体を押さえつける。
「よし!撫子!よくやった!」
そう言って飛び込んできたのは、紫野ではなく、驚くことに海里だった。
その後から数人の男女が押しかけてきて、撫子の捕らえる雄一郎を拘束した。
最後に大きく腕を広げながら悠々と現れたのは、五十代ほどの偉丈夫。雛菊も一度だけ会ったことのある、海里の会社の所長だった。
「撫子〜!お前、よくやったなぁ〜。本当に賢いなぁ〜」
撫子がふぉんふぉんしっぽを振って、彼の腕へと嬉しそうに飛び込んだ。彼の顔をぺろぺろとなめ回す撫子に、雛菊はやや圧倒された。
(紫野さん以外に、あんなに懐くなんて……)
軽くショックを受けている雛菊を、所長は撫子といちゃいちゃしながら一瞥し、海里へと鋭く言った。
「海里。姫さん連れて外に出てろ」
「うちのねぇちゃんは姫じゃないですから」
とぶつぶつ文句を言いながら、海里が雛菊の肩を抱いて立ち上がらせる。混乱のままリビングをでようとした時、雄一郎が悲痛な声で叫んだ。
「――――雛!」
思わず足を止めると、海里が「行くよ」と耳打ちしてきた。
わかっている。振り向いたらいけない。
少しでも同情したらきっと、彼はまた同じことを繰り返す。
決別を意味して、雛菊は振り返ることなく、一歩を踏み出した。
身に染みるような寒さに、腕をさすっていると海里が自分の上着を脱いで、雛菊の肩へとかけた。
「ありがとう、海里」
「いいって」
「あの人を警察には――」
つき出さないでと言う前に、海里がすべて承知だというように頷いた。
「わかってる。どうせ警察なんて何の役に立たないし。だけどこれで証拠も十分揃ったから存分に脅……ごほん。紳士的に話し合いで解決するよ。二度とねぇちゃんに近づかないように、今ごろ所長が説得させてると思う」
海里がちらっとマンションを仰いだ。
「ごめんね海里。海里の仕事にまで迷惑かけて。さっきの人たち、同僚の人でしょう?」
「ああ、いいよいいよ。皆いい人たちばかりだから。……所長もさすがに今回は出てこないわけにはいかなかっただろうし」
「所長さんが出てくるのは珍しいの?」
「まぁね。それより、……大丈夫?」
海里が痛々しそうに眉を寄せて、雛菊の左頬へと視線を移す。
すっかりと殴られたことを失念していた雛菊は、平気だと微笑むと、泣きそうにくしゃりと顔を歪めた海里に強く抱きすくめられた。
「無事でよかった……」
「……うん、ごめんね」
そっと海里の背中を撫でる。
「ねぇちゃん」
「うん」
「一緒に引っ越そう?……田舎に」
「……それは」
実家に両親はもういない。だけど集落の人たちは昔のように迎え入れてくれるだろう。
それでも雛菊は、ここにいたいと思った。もふもふ堂に。……紫野の傍に。
「あんなやつのことなんて、放っておきなよ。ねぇちゃんが拐われたのに、助けに来るどころか逃げたチワワ探してるやつなんか」
(やっぱりあれは、バニラだったんだ……)
確証はないが、紫野が探しているならすぐに見つかっただろう。
しかし……、と、雛菊は海里の胸の中でくすりと笑ってしまった。
「どうかした?」
「ううん。……本当に、動物が好きなんだなって思って」
海里は長いため息をついた。
「……ねぇちゃんって、普段梅雨みたいにじめじめした思考してるくせに、変なとこだけ楽観的だよね」
(じめじめ……)
事実なのだが、塩をかけられてへなへなと萎むなめくじの気分になった。
とこまでも駄目な姉だ。
「……好きなの?」
「…………うん」
「犬優先でも?」
「それが紫野さんだから。……少しは、気にして欲しかったけど」
助けに来てくれたのが彼だったのならば、と思わなくはないが、ちゃんと撫子は来てくれた。
「そういえば、撫子は?どうして海里が連れてるの?」
「ああ、それは――」
「――――雛ちゃん!!」
背中に声がかけられた。
その声を聞いただけで、全身が沸騰したように熱くなる。
助けに来てくれなかったのに、恋とは本当にずるいものだ。
ほころんだ気持ちで彼の方へと向こうとした雛菊を、海里が行動で制した。
顔がほどよく引き締まった胸板に押しつけられる。
「今ごろ駆けつけて来て、何の用ですか」
雛菊の頭上で、海里がひどく冷淡に告げた。
(来てくれただけでもよかったのに……)
そう思っていると、彼の申し訳なさそうな謝罪の言葉が背中へと落ちた。
「……ごめん、雛ちゃん」
「いえ――――むぐっ」
答えようとしたらまた、海里の胸に口をふさがれてしまった。
力加減はされている。だが、海里の腕から頑なさを感じて逆らえなかった。
「ねぇちゃんを全力で守れない人には、絶っっ対渡す気はないので」
怒っている海里に引きずられるようにして、雛菊はその場を離れた。
これまで本気で心配をかけ続けたのだ。今は海里といてあげたかった。
一度だけ振り返って見えた紫野は、夜の帳が下りていたせいか、どんな表情をしていたのか、よくわからなかった。




