閑話。
「うーん。余計なことまで話しちゃったかなぁ」
身体がぽかぽかと温まったほたるは、手慣れた仕草でコーヒー牛乳のふたを開けてごくりと飲んだ。
フルーツ牛乳と迷った結果、コーヒー牛乳を選んだけれど正解だった。今日の気分にはほどよい甘味くらいがちょうどいい。
お風呂上がりのコーヒー牛乳がこんなに美味しいと知ったのは銭湯のおかげだ。
(お風呂が直っても、たまには銭湯に来ようかな)
コーヒー牛乳を飲みながら、ほたるはあたりをきょろきょろと見渡した。
「お姉さんは……先に外に行ったのかな?」
脱衣所のどこにもその姿がない。
番台のおばさんに聞くと、さっきふらりと出ていったと教えてもらったので、コーヒー牛乳を飲み干してからほたるものれんを潜って外へと出ることにした。
てっきり店の前で待っていると思ったのに、外の道には人の気配すら見当たらなかった。
(撫子ならすぐに見つけられるのになぁ)
ほたるは犬ではないので雛菊がどこにいってしまったか、皆目見当もつかなかった。
一人で先に帰ってしまうような人なら心配しないのだが、彼女は寒い中がたがた震えながらも無理して待つ損なタイプ。やむおえず先に帰るとしても、一言あるはずなのだ。
「どうした?」
振り向くとのれんを手でかるく払いのけて梓が現れた。
いつもながら湯上がりの気だるげな感じがかっこよく、つい一瞬見蕩れてしまった。
しかし今はそんな場合じゃない。
ほたるはお風呂だけのせいではない、赤くなった頬を手のひらで扇ぎながら答えた。
「お姉さんがどこかに行っちゃったみたいで」
ゆっくり周囲に視線を巡らせた梓が、途端に深刻そうに眉を寄せて、ぽつりと呟く。
「それ、まずくないか?」
「えっ?」
何がまずいのだろうか。
梓は、ほたるにここにいるよう言い聞かせて銭湯の中へと戻った。
兄へ報告しに行ったのだろう。
それから出てくるなり、見える範囲だけでなく角を曲がった先まで雛菊を探し回った。それにしては地面にばかりに注視している気もして、ほたるは追いかけながら説明を求めて問いかけた。
「何をしてるの?」
「何か落ちてないかと思って」
「何かって――」
言いかけたところで、ほたるは側溝に落ちた誰かのスマホを発見した。
「梓!これ……!」
細かな傷がいくつも走っているが、どうやら壊れてはいないようで、問題なく作動した。
ぱっとついた画面からほたるの目に飛び込んで来たのは、撫子とわたあめがご飯をがっついている写真だ。
獰猛な肉食獣のような豪快な食べっぷりに、ほたるは一瞬全てを忘れて呆れてしまった。見てるこっちまで食べられそうな臨場感。
なぜこの写真を選んだのだろうか。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「これ、お姉さんのだよね?」
「逆に他の人のだったら、怖い」
背景がうちのリビングなので、確かにそうなのだけれど。
「普通に落とした訳ないよね?」
「落としそうではあるけど、……色々あった後だし」
そうだった。彼女には兄以外にもストーカーがいたのだ。
実の兄をストーカー呼ばわりしていることはさておき、状況は深刻である。
「もしかして……拐われたの?」
事件なら通報するものの、まだ不注意でスマホを落としただけという可能性も残されている。
「今こそ警察犬の出番なのに」
「撫子はシェパードだけど、訓練された警察犬じゃない。普通の家庭犬」
強いていえば飼い主が特殊な、と梓はつけ加えた。
「わたあめは――」
「無理」
間髪入れずに却下された。
わたあめは撫子のように、コマンド一つで吠えて誰かの話の腰を折ったりたりという芸当はできない。
お座りと待て、しか。
「まず兄貴にこれを見せて、どうするか聞かないと」
周辺を手分けして捜索するにしても、警察に届けるにしても。
梓に続いて銭湯まで駆けていたほたるは、角を曲がろうとした直前、その背中と衝突した。
「梓?何で止まっ――」
梓は難しい顔をして唇に指を当てると、次に曲がり角の先にある銭湯の方へと向けた。
ひょいっと覗くと、兄の後ろ姿があり、その正面にいる女性が切迫詰まった様子で何かを訴えているのが見えた。
「誰?」
「前に兄貴に言い寄ってたお客さん」
偶然会ったから世間話でもしているのだろうか。
それにしては様子がおかしい気もする。
「何を話してるのかな?」
「さぁ……。あ、移動する」
兄は険しい顔つきで女性とどこかへと行こうとしている。
ほたるは梓の制止を無視して彼らめがけて突入を図った。
「お兄さん!」
雛菊のスマホを掲げて走っていく妹を、兄は一度だけ振り返った。
「ごめん!バニラがいなくなったって言うから、詳しいことはまた後で!」
(えーーーー!?)
女性に急かされ駆けていった兄に、ほたるは唖然とした。スマホを持つ腕がだらんと垂れ下がる。
「お姉さんよりも、犬……?」
「兄貴らしいけど」
いつの間にか隣に梓がいた。
梓も呆れた様子で、バニラを探す彼らの後ろ姿を眺めている。
「お兄さん、フラれて当然かも。お姉さんがピンチかもしれないのに」
「だから未だに独身なんだよ、兄貴は」
梓がため息をついて、ほたるからスマホを奪うと、どこかへと電話をかけ始めた。
「どこにかけてるの?」
「海里さん。一応そっちに行ってないかの確認と、こっちの状況説明」
「なるほど」
姉思いの彼ならば、迅速に行動してくれるだろう。
もはやあてにならない佐千原家の長兄よりも、雛菊の実弟こそが頼みの綱だった。
すぐに繋がったので、梓が冷静沈着に現状を伝えると、スマホの向こうから見えるはずのないピリピリとしたオーラが漂ってきた。
これこそが本来の反応だというのに。
通話が終わると、梓がほたるへと話の内容を簡単に説明した。
「すぐこっちに来るらしい。だから後は大人に任せて、二人は帰って待機するように、だって」
「えー……」
「ほら」
不満げにしていると手を握られて、ほたるの心臓は高鳴った。
(お姉さんが誘拐されたかもしれないのに、どきどきしてる場合じゃない!……けど、……どきどきする)
どちらにしてもほたるできることはない。
せめて撫子がいないと追跡もできないし、助手のわたあめくんがいないと名探偵の推理も冴え渡らない。
梓に手を引かれながら、ほたるは仕方なく、事件の核心からフェードアウトしていった。




